力づくで抑え込む権力と、力づくでない権力

SONY DSC

ロシア軍のウクライナ侵攻のニュースがテレビから流れている。
戦争への憤り。

考えてみる。
争いというやつは、結局は「権力」闘争から来ている。
人の持つ「支配という欲」。

戦争は権力者が力づくで抑え込んでいくことで始まる。

だがフランスの哲学者フーコーは「近代以降の“力づくでない権力”が、人々をより徹底的に支配するようになった」と言った。

たしかに日本人のぼくらはすでに戦後長い年月をかけて“力づくでない権力”によって骨抜きにされてしまっていると感じている。

戦争はぜったいの悪。
だから見えやすいし、憤りを感じる。

“力づくでない権力”は、ジワジワと内から浸食していく。

ジワジワとくるから憤りも爆発しない。
飼い慣らされるように、あきらめから抵抗力を奪い、そして無関心に導いていく。
権力者にとって、無関心が一番の成功となる。

戦争は支配する権力。
だが権力を持つ政治に無関心の人たちは、すでに権力に支配されている人たちだと…

権力の目的が支配なら、テレビの前で戦場のニュースを見ているぼくたちも、戦場と同じ場所に立っているのではないだろうか…

ロシア軍のウクライナ侵攻に憤りを感じながら考える。

月9ドラマ「ミステリと言う勿れ」久能整の哲学的言葉が面白い

月9ドラマ「ミステリと言う勿れ」が面白い。
菅田将暉演じる主人公、久能整が持論を語る言葉に引き込まれる。

久能整の周り、そして視聴者は、つまりは常識人で、久能整は言ってみれば、常識にとらわれないで自分の考えを語っている。
それは答えではないのだが、常識を鵜呑みにするのではなく、「なぜ?」かは始まる考えた言葉がそこにある。

ぼくの周りもほとんどがそうなのだが、常識というやつは、みんなそれが答えだと思っている。
そもそも常識というものは、時代や、社会、国や宗教、政治などなどそれぞれの形の中で存在するわけだから、立場の違いで、「正」と「誤」はまったく違うものになってしまうもののはずである。

だから常識を疑う。
久能整の言葉はそこから生まれた言葉だから面白い。

そうやって考えると久能整の言葉はつまりは「哲学」である。

SONY DSC

では哲学とは何ぞや?
ソクラテスは哲学とは「人生をよくいきるために知を愛す」と言っている。
その言葉について古代ギリシャ語で「フィロソフィア」といい、日本では明治時代に西周によって「哲学」と日本語に訳されたものだ。
つまりは、哲学とは「人生においての知」を考えることである。

たとえば日本のことわざで、「出る杭は打たれる」というのがある。
何か、いかにも日本人的で嫌なことわざだが、このことわざを聞くたびに、モヤモヤしたものがある。
きっとこれを答えだと思っている常識人は、「まさにそうだな」で終わるのかもしれないが、ぼくにはすごく中途半端な言葉だと感じてしまう。

「じゃぁ、出ない杭はどうなるんだ?」と、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と問い詰めたくなる。
そして考えたとき、自分の中での答えが生まれてくる。

「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」

常識だからではなく、自分が納得する答えにモヤモヤが消える。

そう考えていくと、身のまわりに常識と言われるものでモヤモヤした言葉がたくさんあることに気づく。

学校で「君はここが不特異だから、ここを勉強しなさい」と言うが、不特異なことは、つまり自分が好きではなく夢中になれないことである。
特異なことは、いつまででもやっていられる大好きなことだから自然と特異となっている。
なのに、才能を伸ばすために特異なことを「もっとがんばれ!」ではなく、不特異なことををやらせて、抜きんでた才能を育てるではなく、平均的な人間をつくっていく。
まさに、「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」といった平均的な人間をつくることを「よし」とするわけだ。

「寝る間を惜しんでがんばれ!」も同じでモヤモヤである。
好きなことをやれば、「寝る間を惜しんで」ではなく、「寝る間を忘れて」でなければおかしい。
まわりの人とは違う抜きんでた才能は、まず夢中になれるほど好きでなければできるものではない。
「寝る間を惜しんで」は、好き、嫌い関係なく、やらなければならないからがんばるということだ。
才能は使命感ではなく、好きだからがんばるものだと思っている。

「寝る間を忘れて夢中になる」
だからだれよりもその才能が伸びていく。

SONY DSC

こうやって周りを見渡し考えれば、モヤモヤすることだらけだ。
だから考える。
森羅万象答えなど存在しないのだから、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と考えて、自分が納得できる答えを探す。

常識人から見ると、「ミステリと言う勿れ」の久能整のような人間は、「めんどくさい」と映るのだろうが、久能整のように「哲学」を持った生き方は間違いなくおもしろい。

 

あけましておめでとうございます!

2022年 あけましておめでとうございます!
昨年、仕事場を自然の感じる場所に引っ越しました。
人間も自然の一部と感じる日々。
ふと、マハトマ・ガンジーの言葉が浮かびました。
「明日、死ぬかのように生きろ!永遠に生きるかのように学べ!」

枯れた技術の水平思考

テレビから「枯れた技術の水平思考」という言葉が流れてきた。
落合陽一が自分の番組でその言葉を言っている。

「枯れた技術の水平思考」というのは、任天堂で『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わった、「携帯ゲームの父」と言われる横井軍平氏の言葉である。
その「枯れた技術」というのは、最前線ではなく、すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになることで、何度も試行錯誤を繰り返すことによって熟した技術ということだ。
「水平思考」というのは、既存の技術を既存の商品とは異なる使い方をするということで、「枯れた技術の水平思考」とは、熟した技術を持ってまったく新しい発想でコンテンツを生み出していくということになる。

ぼくが30代のころの名言なわけだから、四半世紀前のその言葉が耳に入ってきたとき、「あっ!」と、気づきを感じた。
よく言う、「下りてくる」という感覚だ。

この数年、自分がやろうとしていることをうまく伝えられないモヤモヤ。
そのモヤモヤが、「枯れた技術の水平思考」という言葉で「そうか!」と見えてきた。

今、DXにおいて、マンガという発想を持って、XRやメタバースなどと組み合わせることで、観光、福祉、教育などあらゆる分野でコミュニケーションツールを生み出すことができると、つまり「水平思考」の考えを持って取り組んでいる。

マンガとテクノロジーの話をすると、まず最新のテクノロジーにだれもが目を向ける。
マンガはあくまで新しいテクノロジーを生かすためのコミュニケーションツールでしかない。

だがそれは違う。
日本人にとってマンガは特別のものなのだ。
つまり日本人にとってマンガはまさに「枯れた技術」なのだ。

戦後、ディズニーのようなアニメを創りたかった手塚治虫先生だが、貧乏だった日本にはそんな制作予算を出してくれるところなどない。
そこで、わら半紙のような安い紙に、黒の墨汁で、紙の上でキャラクターが動き回る、日本独自のマンガが手塚先生によって生まれていく。
そしてちばてつや先生、石ノ森章太郎先生、さいとうたかを先生…今のマンガに至るあらゆるマンガ家の先生が、紙の上で躍動する表現を研究し、実験し、日本マンガ独自の表現を生み出していった。
マンガは戦後の日本から生まれた中で、世界に誇る最大のコンテンツであることは間違いない。
そのマンガとともに、日本人は子供のころから、当たり前のように育ってきているのだ。

勉強したわけではなく、日本人は熟したマンガ環境の中で、だれもが生きたキャラクターと出会い、生き様の中で影響を受けたマンガのキャラクターを感じている。

SONY DSC

SONY DSC

ぼくたちの生きてきた環境…マンガは日本人のだれもが持っている「枯れた技術」として心に持っている。
紙に描いたキャラクターに生命を宿らすことのできる「枯れた技術」だ。

そう考えていくと、「枯れた技術」とは、人間が生きていく中でトライ&エラーを繰り返し、特別のものではなく、自然に存在するモノとなっていくことではないだろうか?

SONY DSC

SONY DSC

あぁ、こうやって今年最後の日記を書いているうちに、来年に向けてのテーマがまたひとつ見えてきている。
特別な存在としての人間ではなく、自然の一部としての人間として「水平思考」を持って考える。
そう、2022年はより哲学に生きていく。

知らないこととの出会いがあるから、生きていることを実感することができる

知らないこととの出会いがあるから、生きていることを実感することができる。

人生の先行きなんて、いつでもわからない。
先行きがわからないから面白いのではない。
予測できる人生なんてそもそもつまらないのだ。

だから目の前に現れた出会いは、ジョン・レノンが言ったように「Yes!」と答える。
「Yes!」は出会いで、「No!」は遮断。
だから「Yes!」と答えることで、知らない世界との出会いがいくつも生まれてくる。

仕事は出会いから始まるものだ。
Yes!と答えることで、マンガ家、劇画原作者、ミュージシャン、イラストレーター、ノンフィクション作家、フォトグラファー、エッセイスト、プロデューサー、ディレクター、大学教授、デジタルクリエーター…
プロとして目指したのではなく、「Yes!」の出会いを真剣に取り組み楽しむことで、プロとして扱われるようになった。

SONY DSC

今はマンガのキャラクターという、コミュニケーションコンテンツを使って、DXにおけるXRやAIといった機能によっての、超高齢者社会においての新しい形のコミュニケーションなどを研究している。
Facebook社が、metaに社名を変えたことで、俄然注目を浴びてきたメタバースといった、リアルとバーチャルにおいてのコミュニケーションコンテンツのプラットホームが次々に生まれてきている。
そのことで、アバター化、キャラクター化することで、仮想空間の中を通してリアルなコミュニケーションを生み出すことができると、この10年言ってきたことが、やっと周りに理解してもらえつつある。

SONY DSC

振り返ると、人生において音楽、ミュージシャン、マンガ家、大学教授と、何かバラバラな道を歩んできているようだったが、実はすべてが繋がってきた。
マンガ、イラスト、音楽、写真、取材力、大学における研究と、コンテンツを生み出せる知識と出会いによる人脈。

それがあったからこそ、「今」がリアルとして存在している。
よくだれもが言うことだが、人生において「やってきた」ことに無駄はないということだ。

SONY DSC

だがパンデミックによって、「Yes」の行動に足止めを食らった。
2年前から研究の拠点を海外の大学に移す予定がストップしている。
今日11月29日も日本でも新規の入国を原則停止が表明された。
まだまだ世界を自由に動くことができない。

自分の人生の残りの時間を考えると、「Yes」と言いながら進めない時間に苛立ちも感じた。
だが、人生は予測できないからこそ面白いとあらためて感じている。

自分がやろうとしていたことが、日本では補助金など予算を中心にわかってもらえないと感じて、賛同してくれる海外に目を向けたのだが…パンデミックが、動かない日本を動かしたのだ。

このパンデミックの二年間で、デジタルの意識が日本で一気に変わった。
電子マネー、オンライン教育、オンライン会議などなどが当たり前になり、DXによるイノベーションの理解が凄い速度ど動き出している。
まるで第二次世界大戦の終戦時、昨日まで正義と言われたものが悪となるように、形のあるモノしか信じなかった人たちが、スマートフォンで生活のやりとりを当たり前のように始めるようになっている。

オンライン授業、オンライン会議などのコミュニケーションはもう、2~3年もすればメタバース上でアバターとしてのやりとりが当たり前になるだろう。
リアルの世界と、バーチャルの世界、どちらも自分の世界とだれもが認識しはじめるはずだ。

こんなに現状の変化を嫌う日本の社会が動くとは予想もしなかったことだ。
だから今、パンデミックが収まるまではこの日本でできることを今は進めることができると感じている。

SONY DSC

この日本においても、変化によっての知らないこととの出会いが、生きていることを実感できる土壌がパンデミックによって動き出している。

リアルとバーチャルの時代

Facebookが社名を「Meta」に変更し、SNSからメタバースに注力する企業として動き出した。
ソフトバンクもネイバーが手を組んで、メタバース事業を拡張するというニュースが流れてきている。
実はこれは、今からの新しい社会が生まれていくべく、その始まりとなる歴史的なニュースだと感じている。

SONY DSC

ここ数年間、特に南京電媒学院大学とつながりを持ってからは、マンガのキャラクターによる、バーチャルコミュニケーション研究、コンテンツ制作がライフワークになってきている。

そのライフワークの課題は、もう目の前に来ている2025年問題である超高齢化社会をどうするか…つまり超高齢者のコミュニケーションの新しい形である。

マンガのキャラクターや、自分がキャラクター化したアバターによって仮想現実の中でのコミュニケーションを考えたとき、フォノグラムとメタバースがキーワードだと考えてきた。

そのメタバースにFacebookが社名を変えてまで動いたことで、一気に加速をつけることは間違いない。

SONY DSC

このコロナ過の中で、バーチャルイベントがいくつも生まれ、オンライン会議もworkroomsなどメタバースのプラットホームが使われるようになってきている。
https://www.oculus.com/workrooms/?locale=ja_JP 

workrooms

富士フイルムビジネスイノベーションのCMで、秘境の森を探検している人たちの前に、
ひとりでオフィスを構える男が現れるなどのシリーズがある。
https://www.youtube.com/watch?v=yoouFDHqmq4

つまりこういった、メタバースの世界では、秘境の自然の中と、自分のオフィスという、バーチャルとリアルが一体となった、二つの世界で生きることのできる時代が訪れるということである。

ひとりの人間が、いくつもの世界を持つことが生活の一部となるということは、そこには数々のビジネスが生まれてくるとともに、生命とは何かということを考えるきっかけになるのではないかと思っている。

SONY DSC

ぼくは自然のある場所にリアルを求めて、今年の6月に仕事場を移した。
そして都会とは、バーチャルでつなげればいいと思っている。

いや、もしかしたら都会で生きるということは、そこに生命を感じるには自然が乏しく、それで息苦しかったのではないかと、自然の中に住みだして感じている。
そう、都会のリアルはバーチャルのようなものだったのかもしれない。

ともあれ、これからメタバースのプラットホームが次々と生まれてくる中で、リアルとバーチャル。生命とテクノロジーをどう使い、どう生きるかは、ひとりひとりの考えと生き方しだいということだ。

平衡 バランス

時代が変わるというのは、きっとこういうことなのだろう。

コロナ過が日常となった今、パンデミック前の日常とは違うものになってしまった。
つまり、今、コロナが消えてしまったとしても、ぼくはテレワークはより便利なシステムとして使い続けるし、Amazonなどのオンラインショップも、モノだけではなく、システムを利用する「コト」をつなぐ新しいオンラインショップとしても使い続けることになっていくと思う。

たとえばiPhoneが生まれ、世界中の人がスマートフォンをプラットホームに使い始め、あらゆることが、この小さな箱(ディバイス)で繋ぐことができる時代の変化は10年だった。

たった10年でぼくたちの生活が変わったこと自体、驚きだが、コロナはたった2年で世界を生活を変えてしまったのだ。

そう、デジタル化が世界中で凄い勢いで進んでいる。
前回の日記で書いたのだが、時代は「モノ」から、「コト」を必要とする時代へと間違いなく変化している。
バーチャルの中に、リアルが存在するということだ。

世界はGAFAやBATHが世界を動かし、DXの波を中心に格差が大きく生まれてきている。
そしてコロナによって、その格差は勢いを増している。
時代を創る人と、時代に使われる人が生む格差だ。

今、ぼくたちは時代の大きな岐路に立っている。

人間がここまで発展してきたのは、間違いなく資本主義だと思っている。
だが、その資本主義によって今回のコロナは生まれてきた。
温暖化による異常気象も資本主義によって生まれてきたものだ。

資本主義を進めることで発展という号令をもとに環境破壊による温暖化が起こり、コロナも異常気象もそこから生まれてきたものだ。

もしかしたら今回のパンデミックは地球に住む人間への警告かもしれない。

SONY DSC

もう15年以上前のことだが、武術の取材で中国の武術家を訪ねたとき言われたことがある。
「少林拳は陽。太極拳は陰。このふたつを極めることが達人の道」
「陽だけではダメ。陰だけでもダメ」
「陰陽一体にならなければならない」
「森羅万象すべては陰と陽のバランスでできている」
「人はバランスを崩せば病気になる」
「今、地球はバランスを崩し病気になっている」

資本主義は発展という環境破壊によって、今の時代を創ってきた。
それは自然のバランスを崩すことで手に入れてきた世界だと思う。

バランスを崩し、病気になっている地球の病気をどう治すか。
自然エネルギーなど環境破壊をすることなく、人はどう時代をつくっていくか。

デジタルによって環境破壊をすることなく、そう、モノを作るのではなく、コトによってリアルをどう生み出せていくか。

コロナによって今を考えさせられている。

 

DX(デジタルトランスフォーメーション/Digital Transformation)の時代

DX(デジタルトランスフォーメーション/Digital Transformation)の時代にどう生きるか。
この夏休み、他大学との合同特別授業で学生たちに投げかけ、話し合っている。

マンガは「心」を生み出す表現コンテンツと考えることで、マンガの可能性が無限に広がっていくということ。
その大学での研究、地域・民間・メディアで制作したコンテンツを見せながら、マンガはDXの中でどういったイノベーションが起こせるかを学生たちと考える。

マンガというコンテンツ自体、紙からデジタルへの移行の「デジタイゼーション」が起こり、世界で読まれるマンガの90%はスマートフォンを中心としたデジタルデバイスになっている現実。
そしてデジタルによって、新しい表現が広がることで、「デジタライゼーション」として、マンガは読むだけではなく、XRやAIによって存在するリアリティコンテンツとして新しいコンテンツが生み出されてきている。。

今、ぼくが関わっている「プロジェクト9b」「嶋子とさくらの姫プロジェクト」などARを使ったコンテンツを学生に見せながらDXの話をしているわけだが、この長くつづくコロナでDXへの考えは一気に加速したと感じている。
そう、ちゃんと聞く学生が間違いなく増えているということだ。

5年前に予測したデジタル化していく世界の流れは間違いなく、3年は縮まっている。
デジタル化することで、モノの時代から事(コト)の時代へと変わってしまった。
マンガも本というモノから、スマートフォンで見る事(コト)へ変わっていった。

その事(コト)とは何なのか?
答えはすぐに出る。
情報だ。

その情報を辿ると1998年に発売されたMicrosoft Windows 98が加速の始まりだと見えてくる。

2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算したところ、12EB(エクサバイト)。
次の2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量12EBを超えたと発表している。
そして2007年には10年前と比べて情報量が410倍になっていると発表され、2018年からの統計はないが、1年単位でのエクスポネンシャルしたと計算してみると、1999年までに人間が30万年かけて蓄積してきた情報量の68000倍に2020年にはなっていたことになる。

そう情報の加速はインターネットだ。

インターネットによって、情報を発信するメディアは個人が中心になり、スマートフォンはまさに個人情報メディアのプラットホームとなって情報の渦が起きている。

そして5Gによって情報量の加速はますます止まらない。
その情報量がDXの中で新しい事(コト)のコンテンツを生み出していく。

何か書いているうちに、普段の講義のような文章になってしまったが、ぼくたちが今、DX社会で生きるということは、現実としてこういった情報の中で生きるということだ。

 

TOKYO2020で見えてきたことと感じたこと

オリンピックが始まった。
パンデミックの中でのオリンピックということもあり、複雑な思いはだれもが抱いていると思う。
とはいえ、「そのために生きてきた」選手たちの、とてつもなく濃い時間を、オリンピックの一瞬に凝縮した闘いには、やはり心を振るわせてしまう。

その選手たちの凄さを「伝える」のが間違いなくテクノロジーだと思っている。

1924年のパリ大会でラジオが始まり、そして1936年のベルリン大会からのテレビによって、オリンピックは世界中の人たちが見ることのできる大会となっていっている。
前回のリオデジャネイロ五輪で世界で36億人が見たと言われている。

そうテレビというテクノロジーによってオリンピックは、世界中に感動を与える大会と
なったということだ。

そしてTOKYO2020。
2018年の平昌オリンピックで、5Gによる「伝える」の一方的ではなく、自分の目的で自由に選手を応援できるアプリなど。また自由視点カメラによるライブVR、ドローン、e-sportsと、新しい形のスポーツ観戦が体験でき、新しい「伝える」の表現が始まった。それだけに、TOKYO2020は間違いなく、世界最新のテクノロジーによって、新しい「伝える」を生み出してくるオリンピックになると思っていた。

だが、まず開会式で165億をかけた演出ということで、どんな凄い演出を見せてくれるのかと期待していたところ、テクノロジーを使った演出はドローンぐらいしかない。
それもドローンで映像を組み立てる見せ方は、すでに平昌オリンピックの開会式でも行われていたし、海外のイベントでもよく見られる、新しい驚くような表現などではない。

NTTや、CanonなどでXRの新しい表現が研究されていただけに、そういう技術はなぜ使わないのだろうと思ってしまう。

コロナ過で無観客のオリンピックだけに、裏を返せばテクノロジーを使って、現場にいなくても、現場以上のリアルを感じ、自分も参加できる新しい時代のスポーツ観戦を表現できるオリンピックが創れたはずだ。

57年前、1964年の東京オリンピックにしても、市川崑監督の映画、デザイナーの亀倉雄策氏のポスターを見たらわかるように、オリンピックは新しい表現にクリエーターは挑んでいる。
つまりオリンピックはクリエーターにとっても、新しい表現で世界を驚かせる、そういった「場」でもあったはずだ。

今、XRのエクスポテンシャルな進化によってイメージを形にできる時代である。
なぜそういった新たな表現を生み出すクリエーターを選ばなかったのか?

今回の開会式を巡るゴタゴタで、クリエーターの世界において、大きなお金の動く場所は、権力と利権とコネによって動いていく様が実によく見えてきた。

まぁ、それだけにオリンピックで闘う選手たちの、実力で勝ち取ったものが評価される純粋な世界だと思うことができる。
だからぼくたちは感動する。

ぼくはスポーツの作品を数多く書いてきた。
とことん取材して書いてきた。
たとえば、100メートルで10秒を切る選手。たとえば160キロのボールを投げる選手。たとえば150キロのパンチを繰り出す選手。
もちろん、そのためにどれだけのことをやってきたかという尊敬もある。
だが、もっと単純に、その選手が目の前に立っただけでぼくは尊敬の念を純粋に抱き、感情が湧き出てくる。

なぜなのか…
20代のときの本の中でぼくは書いている。
「人は生命力の強さに尊敬を抱く」

そう、世界の頂点を目指して、そのためだけに生きてきた選手の集まるオリンピック。
生命力の強さの塊がそこにある。

だが、生命力の強さはスポーツだけではない。
オリンピックにおいて、メディアにおいてテクノロジーを使って伝える側も、技術だけではなく、生命力を持って表現に挑まなければならない。

見る側が感嘆するような表現を、伝える側からも見せてほしい。

そんなことを思いながら、TOKYO2020を毎日テレビの前で見ている。

自然の中で生きる

6月の初旬に仕事場を東京の都会の街中から、自然に囲まれた地へ移した。
ずっと考えてきたことだ。

自然の中で生きたいというのは、詩人であり随筆家…いや、ぼくにとってはタオイストとしての哲学を感じる作家である加島祥造のような生き方にあこがれていたこともある。

加島祥造は67歳のとき伊那谷に移住し、道教の自然の宇宙に生きるといった考えの道(タオ)に包まれた中で、92歳で亡くなるまでを過ごしている。
加島祥造の本にこういった言葉がある。

この暮らしがとても気に入ってるんだ。理由は簡単だ、楽しいからさ。毎日たくさんの驚きや発見がある。遠くに見える山々は毎日違う姿を見せてくれる。道ばたの草花や木々の姿、夕焼けの色、鳥や虫の声、風。そういったひとつひとつにびっくりする。もちろんここに住む前にだって、自然に触れて「きれいだな」「素晴らしいな」と感じたことはたくさんある。でも、じっさいに住んで、心と身体で実感するのは、それとは違う。自然からうける感動というのは、何度味わってもまったく薄まらない。それどころか、もっともっと強く心に響いてくる。

そう、行くではなく、そこに身を置くが大事なんだ。
ぼくは自然が好きだからと、いつも海、山、川、森と、旅の中で自分の好きな場所を見つけ、気に入った場所には何度も足を運んできた。

SONY DSC

好きだからそこへ行く。
それはなぜか?
仕事も好きだから、ミュージシャン、マンガ家、作家、フォトグラファー、大学教授とやってきている。
その「好き」というのはいったいどういうことなのか?

加島祥造の言葉がそのヒントを与えてくれた。

好きなことをしていれば、次ぎの「好きなこと」を見つける力が湧いてくるということだ。世間ではよく子供や若い人に「自分の好きなことを見つけてそれに向かって進みなさい」という。しかし、私が言いたいのは、それとはちょっと違う。どこが違うかと言うと、世間が「自分の好きなことに向かって進め」というとき、それは将来のことを言っている。

「好き」なことは遠くのほうにあって、そこへ向かって歩いて行くための目標になってしまっている。でも本当の「好き」は、「今、このとき」の感情だ。「今」したいと思うことを、「今」する。「好きなことをする」ことの本来の姿だ。

本当の「好き」は、「今、このとき」の感情。
まさにその通りだと思う。

SONY DSC

もう20年以上も前から武術に興味を持ち、知りたいという「好き」で、沖縄、中国と何人もの武術家に取材させてもらった。
そして武術は「禅」だと感じた。
中国禅宗の開祖である菩提達摩が少林寺武術の創始なのだが、武術を取材すればするほど技、思想と武術に留まらず禅の宇宙が繋がっていく。

SONY DSC

つまり、「好き」が次の「好きなこと」を生み出し、自分の「好き」なものへの、自分の答えへと導かれていく。
その導きの答えとは、道(タオ)という哲学に足を踏み入れることではないだろうか。
答えというのは、森羅万象すべて「明確でない」ということを知るということだと言うことだ。
仏教、禅、そして道教とすべては「哲学」として自分の中でうごめき始める。

仏教の教え、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」、「今、ここで私が生きる」とは、自然が好きだからと自然を求めて行くのではない。

自然の中に住み、移りゆく今を心と身体で実感する。
自然はその一瞬、一瞬に二度と同じ匂い、同じ光、同じ風、同じ音…同じものは存在しないことを教えてくれる。

SONY DSC

そしてこの地を選んだ一番の要因に、自分の中で宇宙を感じる場所がある。

山岳の渓で、自然の脅威に果てることなく、1000年以上も生き続けている「千本桂」。
その樹はぼくにとってのタオだと感じている。