夏の大学にて

2018年8月26日

大学は夏休みに入っているのだが、あいかわらず大学の研究室で仕事をしている。
まぁ、日曜日の今日など誰もいない大学なもので、実に静かな環境の中で、自分のペースで抱えている仕事を進めることができている。

夏休みといっても、特別授業は開講している。
(まぁ、選択授業なので、目的を持って大学に来ている意識の高い学生以外は来ない授業なのだが、予想通りというか、文星芸術大学は2名、帝京大学は13名と少ない)

今、ちょうど、帝京大学理工学部と共同授業で、デジタルマンガ制作において、基本ソフトとなる、CLIPSTUDIO、Photoshop、Unity、blenderを覚えることで、ペイント、加工、モーション、3D、VRの基礎の基礎を帝京大学の佐々木先生とやっている。

もちろん授業をやりながら、前回のブログで書いたが、ゼミ生のKくんを中心に、冊子のマンガを基本に、そのマンガの中の世界にバーチャルで入ることができるVRを使っての研究と制作。
3Dモデリングを2Dにしたとき、いかに手で描いた感を持ったリアルな表現法。
そしてマンガのキャラクター、身につけているアクセサリーなどを3Dプリンターによって立体化することでいかにグッズ化していけるかなどなど、新しいマンガというか、マンガの可能性を「形」として見せられるように、研究、制作もやっている。

こうやってデジタル研究でやっていることを書くと、テクノロジーを使っての表現は、どこか機械的で冷たいといったイメージを持つかもしれない。
だが実際は逆なのだ。

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デジタルで表現しようとすれば、自然の凄さが、いかに凄いかが見えてくる。
人工知能を勉強すればするほど、人間がいかに凄いかが見えてくる。
またそれとともに、空間の概念、時間の概念といった物理にも興味を持つことで、相対性理論や、量子力学を知りたいと。
つまり今、生きているすべての宇宙を、知りたいという欲求が生まれてくる。
当たり前のことだが、この宇宙のすべてのものは原子でできている。
そう、海も森も草木も山といった自然も、ぼくたち人間も、人工知能やスマートフォンだって原子でできている。
ぼくらは普通に今、スマートフォンを使っているのだが、そこには量子力学や相対性理論がなければ生まれてこなかったというわけだ。

世の中ではAIが人間を超えるなどと言われているが、よく考えてほしい。
AIができるのは、ビッグデータの中での精度の向上である。
そこには、ビッグデータの中で一番高い精度に向かって、ディープラーニングならば、自己学習を繰り返すことで精度を向上させるというプログラミングだ。

もちろんこういったデータの中での高精度ならば、AIはとっくに人間を超えていると言えると思う。
だが、人間はデータ処理の中で生きているのだろうか。

これは間違いなく違う。
人間とAIでは目的がまったく違う。

人間は「生きる」という生命としての目的がある。
その「目的」があるからこそ、「心」という感情が人間にはある。

その「心」があるから、人間は「想像」し「創造」する。
もちろん、その中で生まれたのが、テクノロジーであり、その中のひとつがAIということ。
つまり、AIは人間の創造した便利な道具だということだ。
その道具(テクノロジー)を使って、マンガを育てていく。

日本の大学というところは、「こうしなさい」と言われた課題をちゃんとあげると、「優秀」と言われている。
言われたことを、そのままやっていけば、大学に限らず、幼稚園から「優秀」と言われる教育の中で子どもたちは育っていっている。

言われたことを、そのままやっている生き方は、実は楽な生き方なのだ。
そんな教育にだれもが慣らされ、そんな「こうしなさい」の「答え」を出せる人間が優秀とされてきた。
だが、インターネットやAIによって、世の中は完全に変わってということだ。

AIによって職が奪われるなどと叫んでいる人たちは、いわゆるその「優秀」な子どもたちだ。
その優秀とは、極端に言うと、エリートのホワイトカラーの人間たちだ。
エリートと言われてきた「こうしなさい」の「答え」を出せる人間では生きられなくなった今、大学は本当に変わらなければならない。
本当の「優秀」とはどういうことなのか。
大学は学校ではなく、研究機関である。
研究にはまず答えはない。
答えがないから、研究するのだ。

テクノロジーが凄い勢いで発達していく中、大学において教えるのは「こうしなさい」という押しつけの常識の中での答えではない。
常識の答えなど、Googleで検索すればすべて教えてくれる。

テクノロジーの時代だからこそ、「人間はどう生きるべきか」が今、問われている。

アイデアを形にすると見えてくるものがある

2018-7-31

アイデアを形にすると見えてくるものがある。

想像だけでは見えなかったものが、形にすることで「存在」として、想像では予想もしなかった効果が生まれたり、逆にもっと研究すべき課題も見えてくる。

先月、帝京大学の佐々木研究室と、文星芸術大学の田中研究室で研究、制作したVRマンガは、いろいろな人に見てもらったことでいくつかの課題が見えてきた。

それとともに、マンガというものの新しい可能性も次々に出てきている。

VRの中だけでマンガを展開すると、たしかにマンガの世界に自分が入り込めるもので、どんどんゲームに近づいていってしまう。
だが、今度はマンガ視線で考えると、マンガの表現が無限に広がっていく。

たとえば、「あしたのジョー」のマンガを読んだあとに、泪橋の上に立つことができたらどうだろうか。
ドヤ街が目の前に広がり、橋の下では丹下ジムからサンドバックを叩く音が聞こえてくる。
空は真っ赤な夕焼けで広がっている。
VRで制作すれば、自分自身がその世界に、泪橋に立つ自分が存在することができる。

つまりVRを使えば、読んだばかりのマンガの世界に入り込むことができるというわけだ。
マンガという世界があればこそ、その世界に立てるだけで嬉しくなってくる世界を創ることができる。

また創り手にとっても、3Dのモデリングでマンガを創れば、自分の描くマンガの背景として自由に使えるし、作者の絵の中にVRで入ることができる。
3Dのモデリングは、キャラクターやアクセサリーもモデリングを創ることで3Dプリンターで、マンガ家の絵からフィギュアやアクセサリーだって簡単に制作することができる。

今、そうやってマンガを制作しているゼミ生がいるのだが、ブレンダーで3Dのモデリングを創り、線画化してから、構図を決め2D化したあとCLIPSTUDIOで線画抽出と手描きの線を加えることで、アナログで描いたような背景に仕上がってきている。
まったく見事な、3Dのモデリングから背景を創ったとは思えない、アナログタッチの背景も創れている。
いやいや、ゼミ生のKくんからは教えられる。

このブログで何度も紹介しているマンガでのモーション、ARシステム、今やっているVR、そして研究をつづけているAIと、形を創ることでリアルにマンガの可能性が無限大に広がってきている。

まぁ、こういったことをやっていると、「それはマンガではない」「マンガとは読者のリズムで、見開き効果、めくり効果を持って存在するもの」といった、「マンガとは!」といったマンガ論を語る人が必ず現れる。
だが、創り手が「これはマンガです」といったら、それが新しいマンガでいいと思っている。

そもそも「何々とは!」と語る人は、存在する形にこだわり、概念と常識で、その形に留めようとする人たちだ。(自分にとってその方が都合がいい人たち)
つまり、形の外のものは認めたくない人たちである。

それでは成長はない。
それどころか、時代は成長し変わっていくわけだから、「留まる」は現状維持ではなく「後退」だとわかっていない人たちかもしれない。

マンガを創るということは、表現することに他ならない。
その表現がテクノロジーによって、新しい表現ができるのならば、新しい、だれも見たことのない、感じたことのない新しい表現を生める「今」にぼくたちは生きている。

そう、作家としてこんなワクワクすることはないではないか。