空気感

2019-5-31

もうずいぶん前から。
そう、20年以上前ぐらいから感じていることがある。

海外に行き、日本に帰ってくるといつも感じる空気感だ。
とくにアジアのタイやベトナム、中国などから帰ってきたとき、ドンヨリとした空気感を感じてしまう。
アジアへ行けばいつも喧噪の渦が舞っている。
その渦巻く空気感は、人間が生きているといった「生命」の空気感だ。
それが日本ではあまり感じない。
電車の中、街の中…喧噪感はなく、だれもが静かにスマートフォンに黙って目をやっている。
スーツを着ている人が多いせいか、「灰色」の空気感だ。

今年に入って、毎月中国に行っている。
大学での人材育成と研究で、南京の伝媒南広学院でマンガ学部を立ち上げることになり、その準備期間としての授業と、北京、上海、香港、深センといった場所で、メディア、情報、テクノロジーの世界最前線で研究をしている研究家たちとのチーム設立を目的としている。

中国はどんどん変わっていっている。
1986年に最初に中国に行ったときは、街には自転車が溢れ、人々は人民服に身をつつんでいた。
そのときは、瀋陽、撫順、広州と行ったのだが、それぞれの街が、それぞれの生活臭に包まれ、まさに街の喧騒と生活臭、黄砂の舞が記憶の中で強烈に刻まれている。

2008年、北京オリンピックまでは、中国はその強烈な街の個性が空気感となり記憶に刻まれていたが、北京オリンピックによる急速な開発が進むにつれて、その空気感は消え、街の臭いというものが、どの街も同じになっていった。

30年前、成田からロスに飛んだとき、成田もロスも同じ臭いと空気感しかなかったが、それが、今は、中国でも感じている。
開発で便利になるということは、世界全体が同じ便利さを追い求め、同じ空気感になってしまうということなんだろう。

だが、だがだ。
その同じ空気感の中で、日本はこれほどまでにドンヨリとした生命の力を感じない国になってしまっているのだろうか。

日本と中国の大学で学生たちを見ていると、その空気感の違いが見えてくる。
大学というところは、学校ではなく、研究機関であるわけなので、あたりまえだが、「目的」を持って来る場所のはずである。
だが、日本人学生の大半は「なんとなく」という、さしたる目的を持たないまま。
たとえばマンガなら、「マンガ家になれたらいいな」程度の「なんとなく」で大学に来ているようにみえる。
そもそも今、商業誌などで描くマンガ家になりたいのなら、大学に来る必要などない。表現者に一番必要なのは、経験なわけだから、大学に学費をはらうのなら、その金で世界中を歩き、人とは違う経験をした方がいいと個人的には思っている。

この間、中国での授業で「この大学で学ぶことによる将来の目的」を聞いてみた。
すると大半が、「将来は今学んでいることで起業したい」と答えてきた。
10年後の「起業」のために、「今」「何をやるべきか」という、「目的」と「手段」を持って授業を受けにきている。
大学を卒業したあと、大学院にしろ、就職にしろ、それは「目的」のための「手段」と考え、今を生きている。

同じ質問を日本でしたところ、「目的」ではなく、漠然とした夢を語ってくる。
そのために「今」何のために課題を勉強しているか、「課題」自体が、「手段」ではなく、単位をとるための「目的」になっている、そんな学生があまりにも多い。

人が生きるということは、「思考する力」が必要となってくる。
世の中には答えなどまずない。
時代の流れとともに常識も当たり前だがどんどん変わっていく。

勉強ができるという人間は、つまりは常識の中での「正解」が答えられただけのことであり、それはテンプレートの中での勉強ができるだけのことだ。
だが、生きるということは、まず正解などない。
考えて、考えて、自分の答えを自ら導き出すしかないないということだ。

大学は「答えを学ぶ」場所ではなく、「考え方を学ぶ」場所でなければならない。

そう考えると、日本のドンヨリとした空気感は、経済の流れはもちろんあるが、日本においての「教育」が、みんな同じ答えの中で、将来の「目的」のための「今」ではなく、テンプレートの答えのない社会で戸惑い、なんとなく「今」を生きている、そんな空気感なのかもしれない。