2020年 夏。

2020-7-31

もうすぐ8月…
本来なら9月の新学期から海外の大学で、テクノロジーとマンガを組み合わせた「デジタルマンガ学部」をスタートし研究を始める予定だった。
だが新型コロナのパンデミックによって、予定が大きく変わっていっている。

もちろんまだまだ今の新型コロナの状況では、世界のどこであろうと渡航は厳しく、当たり前だがまずはスケジュール自体が未定の状態だ。

だがそれ以上に、従来進めてきていた授業・研究計画自体が大幅に変わっていっている。
いや、教育・研究も含め、社会生活のすべてのことに対して、考え方そのものが変わってきている。

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もうだれもが気づいているし、だれもが生き残るために考え始めてはいるはずだ。
「もう、もとの場所には戻れない」
そのことはわかっている。
ならどうすればいいか…
それが見えてないことでだれもが不安を感じている。

仕事にしろ、教育にしろ、エンターテインメントや、観光、介護などなど、とにかく社会のすべては人間はコミュニケーションによって成り立ってきた。

そのコミュニケーションが、「近づくことで深める」から、「距離を持って深める」に変わってきている。
握手をする。
ハグをする。
テーブルを挟んで激論をする…
感情を伝えるために用いてきたコミュニケーションの行為が、「恐怖」の感情を生み出す行為となっているのが、これからの世界だ。

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ではそもそもコミュニケーションとは何なのか。

まず一番に、コミュニケーションで使うのは言葉と文字が浮かぶと思う。
そう考えたとき気づいたことがある。

世界で使われている言語は7000語と言われている。
つまり、英語なら英語圏が中心、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語など、コミュニケーションの言葉と文字は、世界でいくつにも分かれてしまう。
だが、世界において29億人、212カ国で使われている文字がある。
世界中が共通できる記号文字だ。

そう、スマートフォンの「絵文字」である。
もともとは日本のiモードの文字セットから生まれた「感情」の表現方である。

つまりだれにでもわかる「記号」として生まれたわけだが、文字では伝わらない「感情」を絵文字は伝えてくれている。

言葉で言えば、言葉だけで通じない、握手やハグ的な、距離を縮めるコミュニケーション表現を絵文字にはあるということだ。

ぼくは、マンガというのは「記号」で成り立っていると思っている。
キャラクターが感情を伝えるには、生きた感情を伝える記号化ができているからこそ、読者はキャラクターから感情を生み出している。

3年前から、きっとこの場所でも書いた覚えがあるのだが、講演・講義など、海外も含めいろいろな場所で、日本の一番の問題は2025年問題だと話してきた。
つまりベビーブームといわれた団塊の世代が75歳を超え、日本人の4人に1人が75歳以上になるという、世界に先駆けて日本は超高齢化国家に突入する。
超高齢化問題の、一番の問題として「孤独」がある。
コミュニケーションのつながりが、人は老人になるにつれ少なくなっていく。

2025年問題の団塊の世代はつまりは、マンガ世代の始まりでもある。
そこでAI、AR、VRなどテクノロジーを使って、マンガで、キャラクターでコミュニケーションを取れる形はできないかと考えてきた。
3年前からのARを使っての、那須の「プロジェクト9b」や、さくら市の「嶋子とさくらの姫プロジェクト」など、その流れの中でのコンテンツだ。

そして新型コロナのパンデミックである。
今まで考えてきたことが、これからのコミュニケーションとしての、「近づくことで深める」から、「距離を持って深める」という形で使えることができる。

時代はここ一年でデジタル時代から、スマート時代に大きく変化してきている。
リアルとバーチャルに分けられていたLIFFEスタイルが、リアルとバーチャルの融合の中でのLIFFE、スマート時代を形成しはじめている。

今、ぼくたちは「戻る」ではなく、「進む」の中で生きていく意識をもたなければならない。
2020年 夏。

リアルの上にテクノロジーは存在する

2020-6-30

腰を痛めたので、先週は大学の授業を東京の仕事場からオンラインですべて進めてみた。
ゼミ・講義・blenderの3Dレクチャー・Aftereffectレクチャーすべてさしたる問題もなく、逆にデータの受け渡し、また画面を共有して作品アドバイスなど、大学で直接やりとりするより効率よく授業が進められる利点もわかってきた。

もちろん、教室や研究室でリアルなやりとりをしていた「習慣」が、パンデミックで一転しているわけだから、「今までのように」とはいかないこともいくつもある。

おもしろいもので、少し前、車のCMで、矢沢永吉が言っていた「2種類の人間がいる。 やりたいことやっちゃう人と、やらない人」というのがあった。

まさにその通りで、生活習慣が変わったとき、「やっちゃう人」と「やらない人」というので生き方が大きく変わっていく。

「やらない人」というのは、「今を考えない人」ととらえればわかりやすいかもしれない。
「やっちゃう人」というのは、今まで通りができないなら、補充ではなく、根本から発想を変えてみようと、創造としての「今を考える人」である。

考えるということは、必ず「想像」から始まる。
「こんなことができないだろうか?」
その想像が、研究となり新しい時代を生み出していく。

最近のニュースを見ていると、人間というのは窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、新しい想像からのコンテンツを生み出し、生きるためのイノベーションが次々と生み出されていっている。

たとえば、昨年の夏、中国の普通の公園にまで置いてあった自動販売機で老人が、顔認証で、ただボタンを押すだけで飲み物など買っていたことに驚いたのだが、今は、顔認証と視線だけで、触れるという行動なしに認識してしまうコンテンツが生み出されている。

つまり自分の視線が、パソコンでいうポイントになり、すべての空間がディスプレイという発想だ。
そう考えると、新しい想像がどんどん湧いてくる。

ここ二年ほど、今考えていることに取り入れたいと注目している技術に、hapticsという感触表現があり、味覚もバーチャルで表現できる研究が進んでいる。
5Gになって可能性が出てきたと思っていたのだが、今の流れの中で、それも近くコンテンツ化されていくと感じている。
オンラインで、同じ味覚のものを食べ合い、触れあって飲み会だってできるということだ。

今回のパンデミックによって、2045年に来ると言われているシンギュラリティ自体がもっと早く、自分が生きているうちに、その時代を体感できるかもしれない。
シンギュラリティは、AIが人間を超えるなどと言われているが、そうではなく、人間が想像したものが、一瞬にしてコンテンツ化される時代とぼくは解釈している。

こういったことを書くと、大学の授業などもそうだが、人は対面し、同じ空間というリアルが心を生むものだと、デジタルは血が通ってないなど、今まで散々言われてきているのだが、実はリアルとテクノロジーは同じ方向を向いているのだと何度も言ってきている。

テクノロジー・イコール・リアルを、「常識」として刷り込まれてしまっているのか、デジタルでコンテンツを創ると、必ず「心」が通っていないといったことを言ってくる人たちがいる。

たとえば奈良の大仏は天平の疫病大流行(天然痘)によって、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとき、社会不安を取り除き、国を安定させるために造られたものだ。
大仏を造るというのは、当時最高のテクノロジーによって造られたものであり、人々は「心」を生み出し、心の支えとなり、今もあの大きな大仏の前に立つと敬虔の念を抱くはずである。

つまりは、「心」を生むのはひとりひとりの人なのだ。
仏像なら、彫り師はもちろん「心」を込めて創るが、それを拝む人の「心」は、拝む人それぞれが「心」を生み出している。

テクノロジーは、技術であるとともに、表現として、つまりは想像を実現するための道具として考えれば、創る側の「心」とともに、見る側の「心」を生み出すことができるのではないだろうか。

時代の中で「心」を伝える。
時代が変われば、人はその時代に合わせて、新しい「心」の表現を考え、生み出していく。

奈良の大仏によって、どれだけの人の「心」が助けられただろうか。
テクノロジーはバーチャルではなく、リアルの上でテクノロジーは存在する。
そういうことだと思う。

※写真は、中国、南京牛首山文化旅游区にある、釈迦の骨が納められているという、最新のテクノロジーで創られた禅寺。仏陀の歴史が巨大な空間で繰り広げられ、地下の大空間は曼荼羅の宇宙がある。テクノロジーによって仏陀を伝えている。