2020年 夏。

2020-7-31

もうすぐ8月…
本来なら9月の新学期から海外の大学で、テクノロジーとマンガを組み合わせた「デジタルマンガ学部」をスタートし研究を始める予定だった。
だが新型コロナのパンデミックによって、予定が大きく変わっていっている。

もちろんまだまだ今の新型コロナの状況では、世界のどこであろうと渡航は厳しく、当たり前だがまずはスケジュール自体が未定の状態だ。

だがそれ以上に、従来進めてきていた授業・研究計画自体が大幅に変わっていっている。
いや、教育・研究も含め、社会生活のすべてのことに対して、考え方そのものが変わってきている。

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もうだれもが気づいているし、だれもが生き残るために考え始めてはいるはずだ。
「もう、もとの場所には戻れない」
そのことはわかっている。
ならどうすればいいか…
それが見えてないことでだれもが不安を感じている。

仕事にしろ、教育にしろ、エンターテインメントや、観光、介護などなど、とにかく社会のすべては人間はコミュニケーションによって成り立ってきた。

そのコミュニケーションが、「近づくことで深める」から、「距離を持って深める」に変わってきている。
握手をする。
ハグをする。
テーブルを挟んで激論をする…
感情を伝えるために用いてきたコミュニケーションの行為が、「恐怖」の感情を生み出す行為となっているのが、これからの世界だ。

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ではそもそもコミュニケーションとは何なのか。

まず一番に、コミュニケーションで使うのは言葉と文字が浮かぶと思う。
そう考えたとき気づいたことがある。

世界で使われている言語は7000語と言われている。
つまり、英語なら英語圏が中心、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語など、コミュニケーションの言葉と文字は、世界でいくつにも分かれてしまう。
だが、世界において29億人、212カ国で使われている文字がある。
世界中が共通できる記号文字だ。

そう、スマートフォンの「絵文字」である。
もともとは日本のiモードの文字セットから生まれた「感情」の表現方である。

つまりだれにでもわかる「記号」として生まれたわけだが、文字では伝わらない「感情」を絵文字は伝えてくれている。

言葉で言えば、言葉だけで通じない、握手やハグ的な、距離を縮めるコミュニケーション表現を絵文字にはあるということだ。

ぼくは、マンガというのは「記号」で成り立っていると思っている。
キャラクターが感情を伝えるには、生きた感情を伝える記号化ができているからこそ、読者はキャラクターから感情を生み出している。

3年前から、きっとこの場所でも書いた覚えがあるのだが、講演・講義など、海外も含めいろいろな場所で、日本の一番の問題は2025年問題だと話してきた。
つまりベビーブームといわれた団塊の世代が75歳を超え、日本人の4人に1人が75歳以上になるという、世界に先駆けて日本は超高齢化国家に突入する。
超高齢化問題の、一番の問題として「孤独」がある。
コミュニケーションのつながりが、人は老人になるにつれ少なくなっていく。

2025年問題の団塊の世代はつまりは、マンガ世代の始まりでもある。
そこでAI、AR、VRなどテクノロジーを使って、マンガで、キャラクターでコミュニケーションを取れる形はできないかと考えてきた。
3年前からのARを使っての、那須の「プロジェクト9b」や、さくら市の「嶋子とさくらの姫プロジェクト」など、その流れの中でのコンテンツだ。

そして新型コロナのパンデミックである。
今まで考えてきたことが、これからのコミュニケーションとしての、「近づくことで深める」から、「距離を持って深める」という形で使えることができる。

時代はここ一年でデジタル時代から、スマート時代に大きく変化してきている。
リアルとバーチャルに分けられていたLIFFEスタイルが、リアルとバーチャルの融合の中でのLIFFE、スマート時代を形成しはじめている。

今、ぼくたちは「戻る」ではなく、「進む」の中で生きていく意識をもたなければならない。
2020年 夏。

リアルの上にテクノロジーは存在する

2020-6-30

腰を痛めたので、先週は大学の授業を東京の仕事場からオンラインですべて進めてみた。
ゼミ・講義・blenderの3Dレクチャー・Aftereffectレクチャーすべてさしたる問題もなく、逆にデータの受け渡し、また画面を共有して作品アドバイスなど、大学で直接やりとりするより効率よく授業が進められる利点もわかってきた。

もちろん、教室や研究室でリアルなやりとりをしていた「習慣」が、パンデミックで一転しているわけだから、「今までのように」とはいかないこともいくつもある。

おもしろいもので、少し前、車のCMで、矢沢永吉が言っていた「2種類の人間がいる。 やりたいことやっちゃう人と、やらない人」というのがあった。

まさにその通りで、生活習慣が変わったとき、「やっちゃう人」と「やらない人」というので生き方が大きく変わっていく。

「やらない人」というのは、「今を考えない人」ととらえればわかりやすいかもしれない。
「やっちゃう人」というのは、今まで通りができないなら、補充ではなく、根本から発想を変えてみようと、創造としての「今を考える人」である。

考えるということは、必ず「想像」から始まる。
「こんなことができないだろうか?」
その想像が、研究となり新しい時代を生み出していく。

最近のニュースを見ていると、人間というのは窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、新しい想像からのコンテンツを生み出し、生きるためのイノベーションが次々と生み出されていっている。

たとえば、昨年の夏、中国の普通の公園にまで置いてあった自動販売機で老人が、顔認証で、ただボタンを押すだけで飲み物など買っていたことに驚いたのだが、今は、顔認証と視線だけで、触れるという行動なしに認識してしまうコンテンツが生み出されている。

つまり自分の視線が、パソコンでいうポイントになり、すべての空間がディスプレイという発想だ。
そう考えると、新しい想像がどんどん湧いてくる。

ここ二年ほど、今考えていることに取り入れたいと注目している技術に、hapticsという感触表現があり、味覚もバーチャルで表現できる研究が進んでいる。
5Gになって可能性が出てきたと思っていたのだが、今の流れの中で、それも近くコンテンツ化されていくと感じている。
オンラインで、同じ味覚のものを食べ合い、触れあって飲み会だってできるということだ。

今回のパンデミックによって、2045年に来ると言われているシンギュラリティ自体がもっと早く、自分が生きているうちに、その時代を体感できるかもしれない。
シンギュラリティは、AIが人間を超えるなどと言われているが、そうではなく、人間が想像したものが、一瞬にしてコンテンツ化される時代とぼくは解釈している。

こういったことを書くと、大学の授業などもそうだが、人は対面し、同じ空間というリアルが心を生むものだと、デジタルは血が通ってないなど、今まで散々言われてきているのだが、実はリアルとテクノロジーは同じ方向を向いているのだと何度も言ってきている。

テクノロジー・イコール・リアルを、「常識」として刷り込まれてしまっているのか、デジタルでコンテンツを創ると、必ず「心」が通っていないといったことを言ってくる人たちがいる。

たとえば奈良の大仏は天平の疫病大流行(天然痘)によって、当時の日本の総人口の25–35パーセントにあたる、100万–150万人が感染により死亡したとき、社会不安を取り除き、国を安定させるために造られたものだ。
大仏を造るというのは、当時最高のテクノロジーによって造られたものであり、人々は「心」を生み出し、心の支えとなり、今もあの大きな大仏の前に立つと敬虔の念を抱くはずである。

つまりは、「心」を生むのはひとりひとりの人なのだ。
仏像なら、彫り師はもちろん「心」を込めて創るが、それを拝む人の「心」は、拝む人それぞれが「心」を生み出している。

テクノロジーは、技術であるとともに、表現として、つまりは想像を実現するための道具として考えれば、創る側の「心」とともに、見る側の「心」を生み出すことができるのではないだろうか。

時代の中で「心」を伝える。
時代が変われば、人はその時代に合わせて、新しい「心」の表現を考え、生み出していく。

奈良の大仏によって、どれだけの人の「心」が助けられただろうか。
テクノロジーはバーチャルではなく、リアルの上でテクノロジーは存在する。
そういうことだと思う。

※写真は、中国、南京牛首山文化旅游区にある、釈迦の骨が納められているという、最新のテクノロジーで創られた禅寺。仏陀の歴史が巨大な空間で繰り広げられ、地下の大空間は曼荼羅の宇宙がある。テクノロジーによって仏陀を伝えている。

唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である。

2020-5-27

コロナウイルス(COVID-19)で見えてきたことがいくつもある。

日本のバブルが弾けた1991年から、すでに29年間になるが、その間「このままでいい」という意識が日本全体の中でずっと続いていたと感じている。

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バブルだった1990年の日本のGDPはアメリカに次いで世界2位。
3位のドイツのGDPの2倍の額があり、テクノロジーを含め、すべての面で日本はだれもが世界トップの経済力を持っていると思っていたし、事実そうだったと思う。
バブルが弾けたあとも、日本人の意識の中に、日本はまだまだ世界のトップだと思い込み、「このままでいい」と、変化を嫌い、変化のないままで今まで来てしまったと今、感じている。

「このままでいい」というのは、“維持”することではなく、“後退”することだと、大半の日本人はわかっていなかったのではないだろうか。
世界が発展していく中で、「こにまま」でいることは、当たり前だがどんどんと後退していくことに気づかないことに…いや、変化することを嫌う国民性が、気づかないふりをしていたのかもしれない。

事実、OECD(経済協力開発機構)加盟国47国の、将来性の指標において、日本はつねに最下位争いをしているのだが、それが国民の中で話題に上ることさえなかったと思う。

世界的な経済学者のジャック・アタリ氏が指摘していたのだが、「日本は人口が減少し続けているため、ひとりあたりのGDPが増加している」「つまり、ゼロ成長、あるいはマイナス成長だとしても、ひとりあたりのGDPは増加している」
「それが日本の現実を見えなくしてしまっている」と言っている。

きっとパンデミック前なら、ジャック・アタリ氏のこの言葉など気にもとめなかったと思う。
だが、今回のパンデミックによって、リアルに現実を日本人のだれもが目にすることになたというわけだ。

コロナというリアルの中で、中国、台湾、韓国、ベトナムなど、テクノロジーによって対策が進んでいく。
生活の中のテクノロジーに関しても、電子マネーや、最近日本の飲食店でもニュースになってきている、店の注文も個人のスマートフォンから注文するなど、そんなものはアジアにおいても数年前から当たり前になっているシステムだ。

「このままでいい」が、知らないうちに日本の成長を止めてしまっていたと思う。

だが、今回のパンデミックによって、日本人の意識を変えることに10年以上かかると思っていたことが、たった数ヶ月で起こってしまった。
現金しか信じないといっていた日本人が、触れることで感染が広がる現金のリスクによって、「現金は危険だ、電子マネーなら安全だ」と、あっというまに、電子マネーが当たり前になってきている。
生きるためにどうしなければならないか、「このままでいい」などとは言ってられなくなったのだ。

ウイズコロナももちろんだが、経済もまったく新しいアイデアが必要となっている。

1ヶ月前にここで書いた、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏の言った「今とは異なる世界に住むことになる」という言葉は、もうすでに現実のものとなり動き出している。

その世界がどちらに動くか…
グローバル化で動いていた世界が、また再び、新しいグローバル化した地球人を生み出していくか、「アメリカンファースト」といったように、自分さえよければいいという、個々が内向き動き出すか。
1789年のフランス革命から考えたとして、100年後、200年後の地球がどうなっているかなど考える余裕のないままここまで来た、民衆主義、資本主義の考えででいいのだろうか…
ぼくらは本当に、「このままでいい」ではなく「これからどうしまければならないか」本気で考えなければならない時代に、いきなり、そう、いきなり突きつけられた現実の前にいるように思う。

ぼくも日々考えている。
本来ならグローバルに研究ははじまっていたはずなのだが、日本から身動きがとれないままでいる。
「今」「ここで」できることとともに、今から変わって行く世界の中で、新しい生き方を考え続けているし、研究自体もウイズコロナが「目的」においての軸となってきている。

そう考えるとダーウィンのこの言葉に辿り着く。

「最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるのでもない。唯一生き残ることが出来るのは、変化できる者である」

ゼミ生へのメール

2020年4月29日

コロナウイルス(COVID-19)によって、ゼミはまだスタートを切れないままです。
大学の授業開始は、連休明け11日から始める予定となっていますが、まだまだ厳しい状態だと思います。(世界基準に合わせて9月入学、始業も検討されていますが…)

田中の方も当初の予定では、今、中国の南広学院の研究室でデジタルコンテンツ開発の研究を進めているはずなのですが、パンデミックによる緊急事態措置STAY HOMEで、文星芸術大学の研究室に閉じ籠もりひとり仕事をしながら人と会わない日々をおくっています。

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世界の状況を見ていると、「今からどうなっていくのか」、「どう生きていけばいいのか」などだれもが不安を抱いていると思います。

生きていくには「想像」が必要です。
「想像」があって、その「想像」の先には「目的」があり、その「目的を創造」することで、人は「今」を生きられるのです。

田中は毎年、ゼミの最初、新しいゼミ生に「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」、(「今、ここで私が生きる」)という禅の教えの言葉を必ず伝えるようにしています。

「今」があって未来はあります。
未来を創造し、そのために「今」何をすべきか。
「今」があって過去もあります。
過去があって「今」ここに自分が存在するからです。

だから「今」を生きることで考えるということです。

田中は「今」不安を感じているときは、「想像する力を得よう」と考えます。
「想像」というのは、「知識」があって、はじめて「想像」できるものだと思います。

たとえばギターを弾きたいのならば、6本の弦は、6弦からE.A.D.G.B.E(ミシソエラミ)の音にチューニングしなければならないという知識がなければ、ギターから生み出す「想像」はできません。

今回のパンデミックも、このあと世界はどうなっていくのか「知識」がないことで、想像できなく、ただただ不安に駆られてしまいます。

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最近、NHKのEテレ、BS1でおもしろい番組がいくつか放映されました。
「緊急対談 パンデミックが変える世界 〜海外の知性が語る展望〜」「緊急対談 パンデミックが変える世界 ユヴァル・ノア・ハラリとの60分」「グローバル経済 複雑性への挑戦」などです。
今、世界が注目する、哲学者、経済学者、歴史学者たちの「知識」が見られる番組でした。

今、世界の知性は、このパンデミックをどう見ているか。

先進国はGDPの70%はサービス業が占めているという2020年の世界経済。
巨大化するGAFA資本主義と、存在感を増す中国社会主義市場経済、膨大なデータの争いの中で起こった今回のパンデミック。

世界が今、注目している歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、「新型コロナの嵐はやがて過ぎ去り、人類は生き残るだろう」
「しかしその時私たちは、今とは異なる世界に住むことになる」
そう言っています。

たしかにそれは想像できます。
今回のパンデミックによって、国際政治学者のイアン・ブレマーは「ハイテク企業の力が大きくなり、実店舗型の企業が倒産するでしょう」と言っているとおり、GAFAの資本主義と、中国社会主義市場経済の中心BATHは存在感を増し、世界の格差はより大きなものとなっていくことは間違いないでしょう。

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哲学者のマルクス・ガブリエルは「自由主義の終焉」と言っています。

経済学者で思想家のジャック・アタリの考えがガブリエルの言葉の意味を示しています。
「安全か自由かと言う選択肢があれば、人は必ず自由ではなく安全を選びます」
「それは強い政府が必要とされることを意味します」

アタリはそう言って、こう付け加えている。
「しかし強い政府と民主主義は両立しうるものです」

つまり独裁ではなく、新しい自由主義というものが生まれるというのです。
一方的な監視社会ではなく、双方による監視社会…
諸刃の剣ではあるが実に興味深い。

また歴史学者のニーアル・ファーガソンは、今回の世界中の経済危機を、2008年のリーマンショックと比べる学者が多い中、こう言っています。
「リーマンショックは金融危機でした。世界中の銀行が大幅な資本不足で、バランスシート上に不良資産を度々持っていました」
「今回は金融危機ではありません」
「財政的症状を持つ公衆衛生の危機です」

実際の物理的な交流や、人々の移動は今後減っていくことでの中での経済をどう立て直すかです。

今のグローバル社会の中だからこそ起こった、想像を絶する拡大を見せることになった危機、ある意味人類の今までの方向性をまったく変えてしまわなければならないことが今、世界では起こっているのかもしれません。

ではどうすればいいか…
ハラリやガブリエル、ファーガソンのような、世界を代表する「そのことで生きる」人たちの知性を知ることで、「知識」を得て、今の自分は、今の生きているこの場所で、来るべく世界を「想像」し、そのために「今」「何」ができるのか、「想像」し、考え、それを形にしていくことが大切です。

「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」です。

今、ぼくたち、私たちに起こっているパンデミックは、他人事ではなく、自分にリアルに降りかかっている現実です。
今、リアルに立っているこの場所で想像するには、今、自分の周りで起こっているリアルを「知識」として身体に入れなければ「想像」はできないはずです。

ましてや、この大学は芸術大学というアーチストを目指す、つまりは「想像」することで表現し、形にしたいとみんなは思って大学に来たはずです。

田中はゼミ生たちに常々、「哲学を持って生きろ」と言ってきています。

「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」
その言葉を自分の中で推敲し、考え、想像し、形として生み出していく。
今、生み出せるものは、今しか生み出せないものです。

大学はまだ立ち入ることはできませんが、今、やるべきことを「想像」してください。

田中ゼミの研究室から、「今」、ゼミ生たちに伝えたいことのメールです。

パンデミックとなったコロナウイルス(COVID-19)

2020-3-27

一ヶ月前の日記で、コロナウイルス(COVID-19)はもうパンデミックになっているかも知れないと書いたのだが、あれから一ヶ月で世界中の各国で危機的なオーバーシュートが起ころうとしている。
関東に外出自粛宣言が出たあとも、渋谷や原宿の映像をニュースで見ていると、世界中で行われているロックダウンの風景とあまりの違いにため息しかでない。
このままでは日本もexponentialに感染者は増えオーバーシュートに間違いなくなってしまう。
前回、人は「想像」できなくなっている。そしてすべてが“人ごと”となっていると書いたのだが、今回のコロナウイルス(COVID-19)という“リアル”を前にしても、しょせん人ごとと考えている国なのかと思ってしまう。

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今、ぼくは大学の研究室に閉じこもっている。
スケジュール表を見ると、本来なら中国の南広学院のアニメ学科3年の制作授業と、9月の新学期からの学科設立の準備、そしてメディア関係との研究メンバーとの相談など、ビッシリスケジュール表には書かれているのだが、今回の件ですべてがキャンセルとなっている。

だが、中国と日本の大学の授業をやっていくにあたって、苦肉の策として、昨年から遠隔授業、eラーニングなどの、オンライン授業の準備を進めてきた。
今もその授業用の資料作りで研究室に閉じこもって作業をしているわけなのだが、4月からそれがそうとう大事なシステムとなりそうだ。

日本は本当に、オンライン授業に関しては遅れているし、eラーニングなどの話をしても、大学側には相手にされず、日本の大学では自分のゼミ中心に専攻だけで使える形にしかできなかったが、皮肉なもので、ここに来てその重要性が大学側にわかってもらえつつある。
つまり、それが何なのかすらわからないで、ただお金の面だけで反対されていたということだ。
そういった意味では今回がきっかけで、オンラインに関しては日本も少しは前に進むかもしれない。

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コロナウイルス(COVID-19)の脅威の前では、ホント人間は小さな存在だと認識させられる。
人類は紀元前からウイルスの脅威と闘ってきた。
19世紀後半までは、その対処法すらわからなく、それをひもといたサイエンスが、テクノロジーが闘いの鍵となって生き延びてきた。

話は元にもどるが、やはり人は「考え」「想像」し、「創造」することでこの地球に存在できてきたわけだ。
だから「考え」「想像」しなければならない。
「人ごと」ではなく「考え」「想像」しなければならない。

「考え」「想像」すれば、自分が、ひとりひとりが今、何をすべきかがわかるはずである。

大げさではなく、パンデミックとなった今回のコロナウイルス(COVID-19)は、人類すべてが試されているように感じている。

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コロナウイルス(COVID-19)で見えてきている

2020-2-28

日本中が、いや世界中がコロナウイルス(COVID-19)で大変なことになっている。
もうパンデミックといっていいかもしれない。

4月から本格的に中国に渡り、中国の大学を中心にスマートシティに向けてのマンガとテクノロジーの研究に入る予定だったが、その予定がまったくたたなくなっている。

自分の身にもリアルに起こってきていることなのだが、これからの、とくに日本の経済は3月以降どうなっていくのか、考えると恐ろしくなってくる。

今、時代はどうなっているのか、また世界はどううごいているのか、今回の件で今まで見えなかった、またごまかし見えないようにしてきたことが、政治に無関心だった人たちにも見えてきている。

日本政治のあまりの危機意識の低さと“人ごと”な場当たり感。
人の命がかかった中での、原発と同じで利権争い。
医療システムの危機への、やはり利権とからむ対応の遅さ。
経済における中国への依存度の大きさなどなど…

それとともに、人が「想像」できなくなってきている危機感を感じている。

たとえばマスクだ。
今回のマスク騒動を、1973年の中東戦争を背景に原油価格の高騰による、トイレットペーパー騒動を思い浮かべる人が多いのだが、まったく違う。
トイレットペーパーは自分の手では作れないが、マスクなど1分もあれば作れてしまう。
だいたいネットを開けば作り方などすぐにわかるはずだ。
100円ショップにいくと、マスクはまったくないが、マスクを簡単に作ることのできるガーゼや三角巾、ゴムやペーパータオルは、以前と変わらない状態で売られている。
それでもマスクは不足し、ネット上で値段は何倍にも高騰している。
なぜ、なぜ、なぜ…ほとんどの人は、マスクはマスクを買わなければと思っていることに驚く。
なければ作る。
その想像すらないのだろうか…

大学でぼくのやっている制作授業で、どんな表現を使ってもかまわないので「伝える」をテーマに「自由に創れ」といったら、ほとんどの学生が「何をつくっていいのかわからない」と不満を漏らしてきた。

つまり彼らにとっての自由とは、テンプレートを示さなければ、自由がわからない。テンプレートに従うことが、つまりそこで自由を放棄しているという想像すらできないようだ。

ぼくが18歳のときに出会った、河島英五さんが“てんびんばかり”という曲の中で、こう詩っている。

うちの子犬はとても臆病で
ひとりでは街を歩けない
首輪をつけると
とても自由だ
ぼくを神様だと思ってるんだろう

まさに時代とともに人を骨抜きにしていった自由のゆがみを英五さんは70年代に詩っていた。
首輪を付けた自由には、想像のかけらもない。
自由とは想像だということすら考えない時代に今はなってしまっている…

ぼくは学生に、「ぜったいはこの世にはない」。
だがたったひとつだけ「ぜったい」はある。
その「ぜったい」とは、生きているものは「必ず死ぬ」。
そう言ってきている。

だが生きるということは、「死」があるから存在する。
「死」がなければ、「生」は存在しないことになってしまう。

それと同じで「自由」は、本来ならば「縛り」つまり、首輪を付けられる束縛があるから、そこから解放されたいと自由を求める。
だが、今は解放されたいではなく、首輪を付けてもらいたいと、首輪を付けられなければ不安でしょうがないと、自ら首輪を求めている。
そう考えたとき、今の時代、特に日本には「自由」が存在しないのかもしれない。

話は少しそれてしまったが、言いたいのは、つまりは今の時代に一番必要な「想像力」が消えていく世の中になってしまっているということである。

今からの時代。
AIの時代は、AIに使われる人間と、AIを使う人間に分かれると思っている。
AIを使う人間とは、「想像」する人間のことである。

「想像」する人間は考える。
「想像」とは「知識」があって始めて「想像」できる。
だから「考える」。

今回のコロナウイルスを考えたとき、中国が金融、流通覇権で、アメリカとの覇権争いで武器としているブロックチェーンで、今回のような危機が再び起ころうとしたとき、ブロックチェーンがこのまま進めば、ウイルスにしても初動で簡単に封じ込めると想像できる。
そう考えると、中国の進めている「一帯一路」は、5Gなどのテクノロジーとともに、ブロックチェーンは単なる金融覇権だけでなく、世界を大きく変える凄さと怖さを感じてしまう。

それに対して日本は、あまりにも想像力のない国になっているのではないだろうか…

コロナウイルス(COVID-19)の今回の件を見ていると、あまりに場当たり的で、後付けの対策、まさに今の想像力のない政治そのままの流れで日本の危機を招いてきている。

今まで「人ごと」だった国民も、やっと日本の現状に気づきはじめるのではないだろうか。

想像が時代を変える

2020-1-31

2020年に入ってもう、1ヶ月が経とうとしている。
日々とにかく忙しいというか、まさに時代の流れと同じでエクスポネンシャル的にやることが増えていっている。

3月いっぱいで文星芸術大学の専任を辞めさせてもらい、特任教授としては残るが、9月から中国南京の南広学院でマンガとテクノロジーを研究し、コンテンツ化、そしてビジネスに結びつける学科を立ち上げる。
そういったことから4月からは月の3分の2は中国ということで現在準備をしているのだが、今、中国は新型コロナウイルスで、春節後で進めていた中国での打ち合わせ、契約など遅れることになりそうだ。

文星芸大の方も、大学で受け持っていた授業、講義に加え、昨年よりアニマルアート、今年からマンガアニメーションなど新しい授業を増やしてきたこともあり、昨年より今まで受け持っていた授業などサポートしてもらえる先生を探して、東京へ戻ったときには飛び回っている。

大学で学び研究するマンガは、雑誌に掲載されるマンガだけではない。
今からは、すでに大学のある栃木の那須、さくら市でスタートしている「プロジェクト9b」や「嶋子とさくらの姫プロジェクト」といったARを使って、キャラクターがスマートフォン上で観光案内やスタンプラリーをしてくれるシステム。
昨年、ゼミ生が創った3Dモデリングで描いたマンガの中に、VRで入ることのできるシステム。
とくにこれからは、Wi-Fi6や5Gによって、すべてがIoTとつながる、街全体がスマートシティとなるシステムにもマンガのキャラクターを使ってのコンテンツがどんどん生まれてくることになる。

http://www.project9b.com/
プロジェクト9b

https://www.tochigiji.or.jp/spot/19035/
嶋子とさくらの姫プロジェクト

今年、中国の研究所で研究を進めて行きたいのが、ハプティクス(触覚技術)だ。
キャラクターと握手やハグができるとともに、衝撃や振動などの体感もコンテンツの表現として創れると考えている。
すでにいろいろな研究者が進めている五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)すべてがバーチャルリアリティとしてマンガ、キャラクターと組み合わせることで、まったく新しいコンテンツを生み出すことができるそういったアイデアもある。

ちなみにそういったものは論文で書いて、シークレットで発表している。
(でなければ海外の大学で設備の整った研究室など与えられるわけないのだが)
ここに書いている日記を論文と解釈して「論文としておかしい」と言ってきたものがいるが、インターネット上にこんな形でシークレットな論文は発表するわけはないので、ここで書いていることは、あくまで自分の日記としての考えである。

この日記で何度も今、時代がいかに変わってきているか、大学はその時代の中で何をすべきか書いてきたが、テクノロジーの観点ではなく、「資本主義」の観点から見た方がわかりやすいかもしれない。

マルクスは「資本論」の中で、「お金がお金を生むシステムがつづく以上、資本家階級と労働者階級はいつまでも立場が逆転しない」と書いているが、インターネットの登場で、そのシステムは完全に変わってしまったことに気づかなくてはならない。
資本者階級はは「資本」を持っていて、つまりは大きなお金を資本として持たなければ
資本家にはなれず、資本を持たない労働者は労働者から抜け出せないという、「持つ者」「持たざる者」で、資本家階級と労働者階級は80年代あたりまでは分けられていた。
たとえば労働者(マンガ家)は、資本家(出版社)の下で働くことでお金がお金を生むシステムの常識という形である。

だが、インターネットは資本がなくても、いや、資本などそもそも必要なくても成功できる世界を創ってしまったのである。

では何が必要なのか。
たどり着く答えは、人間の考える力だと思っている。

イノベーションを起こせるのは、考える力によって、常識(ビッグデータ)の外を想像し、それをコンテンツ化できる人間しかいない。

その想像が時代を変える。
そう、想像とは研究だということだ。

日本の大学で学生を見ていると、「起業」を考える学生がいかに少ないことか。
今、世の中が変わってきているにも関わらず、「安定」を求め、それこそ過去の遺跡とかした資本家の元に行けばまだ安定だと勘違いしている。

今年、自分の周りは大きく変化する。
もちろん不安だし、楽しみでもある。
中心に立てば立つほど、「結果」を求められることもわかっている。
プレッシャーをいかに楽しめるか、プレッシャーがあるということは、それだけ大きな挑戦なわけなのだから、やりがいのある時間を生きるということでもある。

考える。考える。考える。
想像する。想像する。想像する。

そしてぼくはこの一年、創造する。

喜迎新春

あけましておめでとうございます!

今年の年賀状は、追い求めている 菩提達摩の言葉を書きました。

すべての人が、道を知っている。
わずかな人だけ、道を歩いている。

2020年は、ブログで書いてきた通り、そのわずかな人だけの道を歩きます。

 

生命力の強さ

2019-12-31

2019年が終わろうとしている。
とにかく忙しい一年だった。
今年を振り返れば、忙しさの根底に、新しい、とてつもなくパワーを必要とする次ぎの段階への準備の1年だったように思う。

段階というのは、ぼくはテンションとよんでいるのだが、「今、生きていると感じる」べく意識の高さの場所である。

それは20代のころ、スポーツを取材しているとき感じたことだ。

取材をしていて、たとえばボクシングの世界チャンピオン、マラソンを2時間10分以内で走る選手、100㍍を10秒を切る選手、無酸素でチョモランマに登頂した登山家、世界を7度制した空手家、150キロを超えるボールを投げる投手…

そういった人間が到達できる限界の場所で闘い、限界を超えた高い意識で生きてきたスポーツ選手は、会った瞬間から「尊敬」しかない。
そして問答無用で憧れる。
だから話を聞きたいと思う。
だから書きたいと思う。

その感情、いや、もっと人間のもつ、だれもが持っているグツグツと身体の細胞がざわつく生命が根底で求めている感覚。
それは何なのか…
ぼくはそれを「生命力の強さ」という言葉で20代のころエッセイなどで書いた。

そう、人は生命力の強さを持つものと対峙すると、ただそれだけで尊敬と憧れを持って細胞がざわつきはじめるのだ。
同じ生命として、その強い生命を手に入れたものには憧れる。

それはスポーツ選手に限ったことではない。
作家だって同じだし、ミュージシャン、役者、組織の中で働く、サラリーマンだって、“その場所”に到達したものからは「生命力の強さ」を感じる。

その「生命力の強さ」というのは、高い意識を持ち上りつづけていく中で、「生きている」存在を、生きている意味を感じ始めたとき、生み出てくる「生きている感触」だと思っている。

「16フィートの真夏」という本を書いたとき、その主人公であるジャッカル丸山選手を現役から引退まで何年にわたって取材した。
目が見えなくなっても、拳が使えなくなっても、ボクシング協会から引退勧告されても、リングで闘うことだけを望み、引退させられたあとも、リングで闘いたいとずっとずっとこだわり続けていた。
「ここしか生きている感覚を持てない」

彼はリングに上がれなくなったときから、リング以外では生きている感覚を持てないことにもがいていた。
ボクシングは生死のやりとりである。
リングに上がるときは、ボクサーは「死」をつねに覚悟する。

そこで闘ってきたボクサーは、その「死」を覚悟した高いテンションの中でしか、「生きている感覚」を感じなくなってしまう。
死のない日常には生がない。
死があるから、生が輝くのだ。

そう、命を賭けて闘うものは、死がリアルでなければ生を感じなくなってしまう階段を上ってしまったのだ。

本当は人は本来そのことには気づいている。
人は必ず死ぬ。
いや、生命は必ず死を迎えることがわかっている。
だが、ほとんどの人はそれを見ないふりをして生きている。
本気で生きたら、テンションの階段を上らなければならなくなるからだ。
このままでいい…

だが、生命は必ず死を迎えるのだ。
ならば「生」を感じるためには、とことん生きると決めたならば、テンションの階段を上っていくしかないはずなのだ。
その階段を一段上れば、もう、今まで生きた場所では「生きている感覚」を得られなくなるのはわかっている。

もちろん、上り続けるのは「苦」が無限に続いていく。
「このままでいい」と階段を上るのを辞めるもの、あきらめるものもがきっとこの世の大半だと思う。

だが人は「生」を求めて、とことん「自分の限界の生」を求めて生きる生き物だと思っている。
人は「苦」を乗り越えて手にする「生」は、乗り越えた「苦」の大きさだけ、「生」の喜びを感じることを知っている。
だから階段を上りつづける。
だから「人生」なのだ。

2019年は、次ぎの段階の階段を上るために生きてきた1年だった。
その階段の舞台となるであろう、この1年の走ってきた中国でのことは、このブログでも書いてきた。

ちばてつや先生の元でやってきた大学は、2020年は専任という立場を離れることにした。
もちろん今からも、特任教授の立場で、ちば先生の元でもやっていく。
自由に動き、ある意味フリーの研究家として、作家としてやっていくために、年末も、大学での引き継ぐ人材、eラーニングなど、世界中どこからでも遠隔で講義できるシステムを駆使して、ちば先生には迷惑をかけないよう、来年度抜けても大丈夫なようにしておかなければならなく動いている。

さぁ、どこまで階段を翔けあがっていけるか。
自分の「生命力の強さ」はどれだけのものなのか。

覚悟はできている。

しあわせとは

2019-11-29

前回のというか、一月前のブログで「目の回るような忙しさが日々つづいている」と書いたのだが、間違いなく忙しさが加速している。

日本と中国の行ったり来たりの日々には慣れてきたのだが、両方の大学で新たなカリキュラムの形を、また学部、コースなどなど立ち上げようとしているもので、通常の仕事、講義、授業に加えて、会議、会議がとにかく機関銃のように連射で跳んできている。

会議の途中で、「次の会議があるもので」と、分単位のスケジュールで大学の中、大学の外ととにかく飛び回っている。
研究室に戻っても、日本の大学にいない間の講義、授業は休講にしないと決めてるもので、学生たちにやるべきこと、参考レポートと制作しなければならない。
やるべきこと、考えるべきこと、自分の考えなどを書き、画像を添えて作っているのだが、「もうこれは、教師なしでの講義教材」だと、自分でも感心しながら学生に渡すデータをひとつひとつを仕上げていっている。
何か最近は哲学的なことばかり書いているような気もするのだが…

まぁ、来年は研究と学部立ち上げで、中国南京の南広学院大学での時間がが半分以上になるもので、さすがに身体がもたないと、引き継ぎとともに、もう何年もやってきたイベント、地域とのコンテンツ制作を、「すみませんが」と断っていっている。
それでも「どうにか少しでもいいからつづけてほしい」と頼まれれば、最後には「できる範囲で」と答えてしまっている自分がいる。

いや、頼まれるということは、本当に「しあわせ」なことなのだ。
いつだったか読んだ本の中に、たしか三つの「しあわせ」というのが書いてあった。
記憶でしかないので正確ではないと思うのだが、その三つとは「してもらうしあわせ」「できるしあわせ」「してあげるしあわせ」だったと思う。

そう、生まれたときは、親やたくさんの人たちから「してもらうしあわせ」を受け取ってきた。
ものごころがつくと、自転車に乗れた。ギターが弾けるようになった。曲が作れた。マンガが作れたなどなど、「できるしあわせ」が自分の中に湧き出てきた。
そして、「できるしあわせ」によって、そのことで喜んでもらえることができたとき、「してあげるしあわせ」というものを少しずつ感じ始めていた。

歳を取るごとに、その「してあげるしあわせ」が、人が求めてくれるしあわせが、頼ってくれるしあわせが、自分のしていることで、成長していくしあわせが、いつしか生きがいになっていると感じている。

たしかに忙しい。
たしかに身体には限界がある。
たしかに「きつい」と感じる日々がある。
たしかに「苦しい」と立ち止まりたいと思うこともある。

でも、それが「生きているしあわせ」だと本当に思っている。

さぁ、もうひと踏ん張り雑用を済ませたら、宇都宮の大学から東京へ帰るか。

明後日には中国の大学のキャンパスの中にいる。