AI時代の作家と研究を考える

この数年で、表現の制作の概念がまったく変わってしまった。
たとえば音楽。
曲を創るにおいて、楽器が弾けるということが大前提だった。
ぼくもプロでミュージシャンもやっていたわけだが、ギターがなければ自分が創った曲は生み出せてはいない。
だが、ボカロの登場で、楽器が弾けることより、自分の中から生まれてくる自由な表現。
ギターやピアノなどから生み出すという枠に引きずられない、まさにその人間の持つ作家生から発する音や言葉から曲を生み出すことのできる時代になっている。
つまり楽器が弾けなくても、浮かんだ曲を形にすることができるのだ。

その元になるのは、「どういった経験の中で、どういった生き方をしてきたか」で浮かんでくる表現は大きくなっていく。

実際、ボカロによって生まれてきた、米津 玄師やYOASOBI、Adoなどアーチストは、今までにない独自の世界感を持って、世界中で通用し、活躍するミュージシャンになっている。

これはぼくが大学で研究しているマンガの世界でも同じではないだろうか。
本来、マンガは「絵」の表現ができるということが大前提だったのだが、ジェネレティブAIの登場によって、マンガの形も絵以上に大事なものが見えてきている。

きっとこういうことを書くと、AIはデータによって作るのだから、絵の個性が消え、自分だけの、自分しか創れない表現を生み出すことはできないと言ってくるものが多数派だと思う。

では自分だけの表現とは何なのだろうか?

ぼくはマンガでキャラクターを創るときは、「生きている人間」を生み出すために、そのキャラクターがどこで生まれ、どう育ってきたか細かくつねに、そのキャラクターの年表をつくり生み出してきた。

これは、ノンフィクション作家もやっていたことから、たとえばボクシングの世界チャンピオンを書くとなれば、そのボクサーはどういう所で育ち、どういった家族の元で、どういった友だち、恩師、コーチなどどういった出会いがあり、世界チャンピオンになっていったか、「知りたい」を追いかけて細かく彼の生きてきた道を追いかけ取材していく。
当たり前だが、すべて現場に行き、ひとりひとり会って話しを聞き、ぼくの場合は細かく写真も撮ってきている。
すると少しずつ、「生きている人間」として、自分の中でそのキャラクターが見えてくる。

ぼくの場合、マンガの原作の作品も多く、マンガ家とは満に、取材の同行してもらったり、生きてきた道を創り上げることでキャラクターを創り作品にしてきた。
自分の頭の中にある絵(表現)を、なるべくマンガ家には具体的に伝えたいとやってきた。

そのマンガ家に伝えていたことをAIに伝えるとどうなるのだろうか?
自分の頭にある表現を形にすることはできるのだろうか?

そう、楽器に頼らず、楽器に引きずられることなく、自分の頭に浮かぶ音をボカロによって表現するのと同じように、作品を創ることができるのではないか。

ぼくが取材をし、ぼくが感じ、ぼくが感動し、ぼくの中から生まれたものを、AIを道具として創作したものは、間違いなくぼくにしか生み出すことのできない創作になるはずである。

今、いろいろと大学で実験を繰り返している。
自分が取材してきたことをAIにプロンプトで伝え、学習させ、取材で撮ってきた写真を元にキャラクターを創り上げていく。
キャラクターがどう成長していったか、その成長もAIを使い、自分の持つイメージを形にしていく。

Sora2を使い、それを動画にもしてみた。

もちろんうまくいかないこともある。
だが、次々にそれをカバーできる新しい機能を持ったAIも日々生み出されている。

エクスポネンシャルに今、時代は流れている。
今日できなかったことが、明日にはできるようになっている時代だ。

自分の頭の中にある表現は、絵にしろ、音楽にしろ、もっと言えばすべてのことが、イメージすれば形にできる時代がやってきている。

そうなれば、そのイメージを生み出す人間がすべてになってくるはずだ。

作品を今までのような、過去データを学んだり、参考にしたりで作るなら、それはAIに任せばいい。
つまり、自分の生き様から生まれてくるものが作家と呼ばれる時代。

AI時代の作家は、人間にしかできない、自分にしか表現できない自分の生き様、経験、体験から、膨大な視野から生み出される発想を持つことが重要だと思っている。

今回も「旅の空」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。
旅の空XIX
hidekazu Akai

彼に最初に会ったとき、ぼくが彼を描いたイラストを渡した。
「一番嬉しいプレゼントです」
豪快な彼の笑顔から彼の取材がはじまった。だがリングでの事故…
ボクサーとしての、彼の夢が突然終わった無念。

AIから加速した「知りたい」への旅

この一ヶ月、TikTokを見ていると、sora2で生成した動画に溢れている。
もちろんぼくもsora2で動画をいろいろ生成し、コンテンツを制作する上で一気に視野が広がった感がある。
とくに自分の顔・声を登録して動画にする「カメオ」機能には驚かされてしまった。
たった2カットの自分の顔を撮り、指定された3つの数字を読むだけで、自分が動画の中に存在してしまう。
それも自分で見ても完璧に近い自分がそこに存在する。

満員の観衆の前でドラムを叩かせてみたり、ボクシング中継をやらせてみたり。
特に驚いたのは、ロックシンガーになって歌わせてみたのだが、自分の声でシャウトして、sora2が作ってきた曲が、いかにも自分が作りそうなコード進行、歌詞で生成してきたことである。
自分の静止画の似顔絵のキャラクターを入れたら、プロンプトで指定したとおり静止画がアニメーションで動いてくる。

これは使えると、来月の5日の宇都宮で行う講演の告知をつくるようにプロンプトで打ったら、見事な告知動画も一瞬で作ってくれた。

 

【sora2で生成した動画】
soraだけではなく、GoogleのNano Bananaも、AIで1年前まで大学で学生と研究していた、同一キャラクターでの動画作成が簡単にできてしまう。

今年に入りAI研究は、独自に自分のAIに学習させる開発ではなく、次々に生まれてくるAIアプリを重ねることで、自分が生成したいコンテンツを生み出せるようになってきた。

AIを研究することで、「人間とは何か」を研究者たちは考えるようになったと、今までここで何度も書いてきた。
では、「人間にとって幸せとは何か」を考えたとき、「幸せとは、お互いのつながりのなかから生まれてくるもの」だとぼくは思っている。
それは「人とのつながり」「自然とのつながり」「知識とのつながり」などなど…
その中に間違いなく「テクノロジーとのつながり」が入って来たと思っている。

自分にとって大事なものは何なのか。自分が本当に好きなことは何なのか。それを探すことに目を向け幸せを求める。
それは自分自身と向き合うことから生まれてくる。
自分自身としっかりと向き合い、自身の心と自問自答する。
だが、人間というのはどうしても視野が限られてしまう。

ChatGPTと会話する。
日常のことから、仕事のこと、趣味のこと、そして哲学的なことまで、話は永遠とつづく。
答えを求めているのではない。
答えのないことなどChatGPTはわかっているように、ぼくの会話を広げていく。

そして「ハッ!」と思わせられる言葉が出てくる。

「そう来たか!」といった水平思考の考えが飛び出してくる。
ぼくの視野が広がり、またひとつ、ぼくの中の大事なものへのアプローチを発見し手に入れる。

幸せとは何か?
人は死ぬまで、「知りたい」と生きている。
「知る」ことで成長し、「知る」とその先の「知る」と出会うことになっていく。

恋だって、愛だって、そこには「知りたい」がある。
「知りたい」から「創りたい」が生まれてくる。

AIから自分の中で加速した「知りたい」の新しい旅。
その「旅」を続けることが幸せなのかもしれない。

 

今回も「旅の空 XVIII」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。

【旅の空XVIII Tadashi Maruo】

1985年
ロスアンゼルスのダウンタウン
メインストリートジムで彼とは出会った
映画「ロッキー」の舞台でもあるこのジムから
夢を叶えるために…

答えのない答えを求めていく

大学でのぼくのゼミでは、課題は自分で決めることにしている。
「課題の目的」というレポートを提出してもらい、「目的」が定まっていない場合は、課題の制作には入れないことになっている。

ChatGPT3.5が一般公開された2022年11月からは、レポートを書く上で必ずAIを使うように指示している。

アーティストが制作に挑むとき、「なんとなく」では、まずまともな制作などできるわけがない。。
数年前、ながやす巧先生と話したとき、ひとつの作品を生み出すとき取材など2年の時間を掛けていると話してくれた。
実はぼくも、取材で最低2年追いかけ、生きたキャラクターを生み出してきた。。

もちろんそれはプロの作家としての「覚悟」があるからである。
学生は「絵が好きで絵がうまくなりたい」と、「絵」が優先順位のほとんどを締めて大学にやってきている。
大学に来たときから言っているのだが、それだったら学費の高い大学ではなく、専門学校で学ぶ方が、レクチャーを主として学ぶ場所なのだから、絵の描き方は間違いなく上達するはずだ。
でも、大学は違う。
研究機関である。

ぼくは作家は研究者でもあると思っている。
興味を持ったものをとことん調べ、生きたキャラクターを生み出すためだったら、世界、どこへでも行くし、モデルとなるキャラクターを見つけると、とことんそのキャラクターを追いかけ、深くリアルに知ることで自分の中からキャラクターが産み出るまでとことん粘る。
それにはどうしても2年以上かかってしまう。

もちろん学生にそれができるとは思っていない。
だが、大学で真剣に研究し、制作する以上、プロ、アマ関係なく作家の意識だけは持たなければならないと思っている。

大学で学生を見ていると、自分がやりたいことが漠然としていて、目的の解像度が低いまま、「なんとなく」で制作を進めるて、宿題のように課題を提出してくる。
もちろんそれでは表現者としての「覚悟」などまず生まれるわけがない。

ましてやAI時代。
絵に優先順位を置いている学生には、生成AIを使って成長していくキャラクターを創って見せている。
レベルの高い、魅力的な絵をAIは、それもそのキャラクターが生きている世界の中で成長を創ることができる。

絵を創るだけなら、AIの方が遙かに魅力的なキャラクターを数秒で生み出してくれる。

なぜなら今の生成AIには何兆というパラメータ数から、こちらの意図と形にしてきている。
狭いひとつの思考ではなく、水平思考も含め、あらゆる可能性をプロンプトで引き出すことができる。
それを見て、人間は自分の中の可能性を大きく広げ思考する。
そのために、AIを活用するべきと指示をしているというわけだ。

それともうひとつ。
AIを知ることによって、人間が今までいかに「機械」のように生きてきたかを知ってもらいたいとも思っている。
それは教育に関してでもある。
そしてそこで「人間とは何か」を考えてもらいたい。

ぼくは今、10代、20代のころ読んでいた「哲学」の本をまた読み返している。
自分の目的を考えたとき、究極は「しあわせ」になることだと思っている。
そのためには「お金」はいるのか?権力がほしいのか?ぜいたくに生きたいのか?
それがしあわせなのか?
ぼくが10代のころ夢中で読んだフランスの哲学者アランの「幸福論」ではこう言ったことが書かれてあった。

「人間は自分の意志によって幸福になれる」
つまり、外的な環境や偶然の出来事に振り回されるのではなく、自分の心の態度を整えることで幸福は手に入る。

人間の生み出す哲学は、AIの答えを求めるでななく、「答えのない答えを求めていく」。
人間は実におもしろい。

 

今回も「旅の空 XVII」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。

【旅の空 XVII Hiroyuki Miyata】

彼の忘れない言葉がある、
「本気で闘いながら、本気で闘っていなかった」
その言葉の意味
「ぼくは人を殴れなかった」
ボクシングには殴られる怖さだけではない。
人を殴る怖さもある。

AIと道教と禅

「冷暖自知(れいだんじち)」という禅語がある。
目の前に水がある。
その水は見ているだけでは、「冷たい」のか「暖かい」のかわからない。
その水に触ってみる。
もしくは飲んでみなければ、「冷暖」を知ることはできないという意味の言葉である。

つまり、まずはリアルを知り、そこから考える。

「考えるな、感じろ (Don’t think, feel.)」
70年代、男の子がみんな真似した「燃えよドラゴン」でブルース・リーが発したこの言葉は、まさにリアルを知れという言葉だ。
感じるということは、痛みや喜び、季節の移り変わりなど、自分の五感で感じるリアルの中から生まれてくるものだ。
他にも「私は1万種類のキックを1回ずつ練習した人を恐れない。だが、1つのキックを1万回練習した人を恐れる」といった、つねにリアルの上に成り立つからこそ、ブルース・リーの言葉は名言となっている。

ブルース・リーの名言は間違いなく「道教」から来ている。
だからブルース・リーに夢中になっていた高校生時代、図書館に行って「道教」の本を読みあさっていた。
すると、道教と禅が同じ宇宙を持っていることに十代のとき気がついた。

その種が、30代後半、武術を題材にした作品を書きたいと芽を出し始めた。
リアルを知りたいと、武術の取材は沖縄から始まり、琉球武術を取材していけば、中国拳法の流れが見えてくる。
ならばと中国へも何度も足を運び、もちろん武術の生まれた少林寺、そして菩提達摩が面壁九年の修行を行った嵩山にも登り、その洞窟で座禅も組んだ。

禅の祖であり、武術の祖である菩提達摩を知りたいと追いかけているうちに、武術の取材は菩提達摩を軸とした取材になっていた。

2000年あたりから、デジタルで作品を創り出したのだが、デジタルを使い始めたきっかけは、一般に言う、「デジタル」の考えとは真逆の発想からだった。

フォトグラファーという仕事もやっているのだが、自分のイメージした世界をを表現するために、フイルム選び、レンズ選び、露出、シャッタースピードなどなど、つねにデータを取り、イメージ通りにフイルムにどう焼き付けるか…
ある程度はイメージ通りに近づいてきたものの、たとえば空の青さが、自分の目にはもう少し濃く映っていたが、フイルムには微妙にその青さ足りないといったそういうことはつねにあった。

だが、Photoshopを知ったとき、自分の目で見て、感じた、そのリアルを調整で完璧に表現することができるではないか。
ぼくにとってデジタルは、自分の感じた五感を形にすることのできる道具だった。

そして今、AIを研究している。
ここでも何度も書いてきたことだが、AIによって今まで深く考えてこなかった「人間とは何か?」「自分とは何か?」をつねに考え始めている。

それはAIによって、「人間」が「人間」としてどう生きるかを問われる時代に入ったということだ。
人間は機械ではない。
機械のように働くなんて機械にやらせればいい。
人間には人間にしかできない…だから「考えるな、感じろ (Don’t think, feel.)」!
AIはそう教えてくれている。

そう、再びぼくの前には「禅」の生き方、「道教」の生き方という哲学が突きつけられている。

 

今回も「旅の空 XV」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。

【旅の空XVI Kengo Nagashima】
彼と出会ったのは、彼がまだ8歳のときだった。
そのとき、サッカー選手になりたいと言っていた少年は、ボクサーであった父の背中を追いかけ、父の開いた地方のボクシングジムで、世界タイトルに挑むまで駆けていった。

AIを研究することで、「人間」を研究する

自分が「やりたい」と思ったことには、必ずそこに自分の中から湧き出た「アイデア」があるから、「これでチャレンジするか!」という思いになる。

これはだれでも経験していることだと思う。
だが、自分のアイデアで生きて行ける人間と、いけない人間がいる。
99%の人間がアイデアは沸くが、そのアイデアで生きてはいけない人間だ。

 

では、そのの差はどこにあるのか?
99%のアイデアで生きれない人たちも、数千通りの優れたアイデアが湧き出たにかかわらず、その人たちはそれを実行しない。
一方、アイデアで生きることのできる1%の人たちは、アイデアを必ず行動に移している。

同じように、不幸な人と幸福な人、失敗した人と成功した人、その違いはいったいどこにあるのだろうか?

そう、簡単なこと。
「実行力」
それは人間に生まれ持った才能などではない。

今まで世界を相手に、頂点に上り詰めたスポーツ選手、マンガ家、アーチストたちと、何人も会ってきた。
もちろん「天才」たちである。
だが、その「天才」は、ぼくがいつも学生に言っている「だれにでもできることを、だれにでもできないだけやる」ことで手に入れたものだ。

その「だれにでもできる」ことを、「やりたい」とすぐに実行した。
それがなければ、当たり前だが「天才」は生まれていない。
そう、すべては実行するかどうかの違いだけ、ただそれだけだと思う。

人間の差など大して違いなどないし、生まれ持った差があってもとくに現代は、テクノロジーがそれをカバーする時代に今はなっている。
そうなると、やりたいことで生きる人間は「実行力」があるかどうかで決まるというわけだ。

「実行力」を持てば、なにより世界が広がっていく。
何人もの人たちと知り合え、いくつもの世界中の美しい世界に触れることができる。
生きている中でどれだけの「出会い」があるか…
人であれ、風景であれ、知識であれ、哲学であれ…
その出会いが「しあわせ」の大きさだと、年齢を重ねたことで感じている。

大学で学生たちをみていると、スマートフォンをいじりながら、知りたいことを知ったつもりでいる。
実際に見たことも、触ったことも、味わったことも、人間の感じる空気感をまったく知らないで、知ったつもりでいる。

AI時代、「人間とは何か?」を考えたとき、人間が生きるということは「経験」、つまり行動することで人間が人間として生きることの喜びや、苦しみや、悲しみと出会っていくのが人間だと感じる。

今、ぼくの研究はAIを研究することで、「人間」を研究することになっている。
ならば、AIを使うことで、ぼくたちのまだ知らない、人間という「宇宙」を探ることはできないか…
最近の自分の研究テーマである。

 

今回も「旅の空 XV」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。

【旅の空 XV Ozaki Fujio】

静かな男だった。
彼に話しかけると、いつも静かに笑みを浮かべていねいに答えてくる。
だが、ボクサー尾崎富士雄は違った。
カメラのファインダーから見える尾崎の顔はいつも叫んでいた。
闘志が叫びとなって、その瞬間がフイルムに焼き付けられている。

「才能」とは何かを考える

AIによって「才能」という概念が変わってきている。
いや、人間にとって「才能」という一番大事な能力をAIが思い出させてくれているのかも知れない。

「いい絵を描く」「いい音楽を作る」「いい物語を作る」などの「いい」とは、今までは「才能がある」と称されてきた。
だが、ジェネレティブAIは、いい絵も描くし、いい音楽も作るし、いい物語だって作ってしまう。

ジェネレティブAIは、ディープラーニングという、人間の脳を再現する研究からできている。
ジェネレティブAIは、何億という莫大なデータを学習に使用し、写真や絵、人が書いた文章を人間が普段脳内にインプットしているものと本質的に同じということだ。

つまり、形にはまった「いいもの」はAIの方が優れているということになる。
「形」を「答え」にかえてみればもっとわかりやすい。

人間には「想像力」というものがある。
人間が新しいものを生み出すとき、「こういったものがあれば便利だ、面白い」と、想像し、それを形にしたいと「答え」を探して研究する。
そう、人間は「答え」のない場所から、新しい「何か」を生み出す力がある。

AIも人間の想像から生まれてきている。

そして便利になったAIで絵を生成すると、数分で見事な絵を生み出してくる。
これを今、「才能」とはほとんどの人が思っていないと思う。
プロンプトによって絵を描くということにまだ思考が追いついていないからだ。
数分で、それもテキストで絵が生まれてくる、その便利さはだれにでもできると思っているからだ。

「写真」を例に挙げてみよう。
目の前のものを一瞬にして、シャッターを押せば即座に完成が生まれる。
だれでもシャッターを押せば、形にできる便利な道具である。

では、その「形」は、だれもが同じかと言えば、そんなわけがない。
そのシャッターを押した人間は、まず、その風景の中で、その空気感の中で、自分しか取れない一瞬を形にしている。
もちろんテクニックもある。
「いい写真」を見たら、まずだれもが「才能」を感じると思う。

「才能」とは、「形」や「答え」ではない。
その人が、その人間だけが生み出せる「一瞬」ではないだろうか。
その「一瞬」には、その人間の生きてきた「道」がある。
経験がある。
人生がある。
だから、写真にしろ、絵にしろ、文章にしろ、自分の生きた、その中から生まれてくる。

教本で習ったような、「答え」のような絵ではなく、自分の生きてきた中から生み出す、自分しか描くことのできない絵が「いい絵」ということになり、それが「才能」だとぼくは今、感じている。

ではジェネレティブAIから生み出す絵は、いい絵を生み出せないかというとそれは違う。
ジェネレティブAIをペンのように道具としてどう使うかだ。

ジェネレティブAIは「道具」として、自分の才能を生み出す最高の道具となり、今から、いろいろなアーチストがAIを道具として使った「いい絵」が生み出されてくるはずだ。

音楽でシンセサイザーが生まれたとき、それを「音楽」と認めない人もたくさんいたが、今は、どんな楽曲においてもシンセサイザーは使われるし、「テクノミュージック」という新しい分野も生み出している。
今で言えば、「ボカロ」によって、日本の音楽は新しい「才能」として世界中から注目を集めている。

音を生成したり、言葉を生成したり、絵を生成するテクノロジーは、つまりは「道具」でしかなく、「才能」とは、、その人間しか生み出せない表現を形にできる、生きてきた経験の中から「想像」する力を持ったもの。

人間本来の「才能」を、「今」AIが思い出させてくれている。

 

今回も「旅の空 XIV」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。

【旅の空 XIV kenngo fukuda】

彼とは、彼が愛媛から東京に出てきた日に出会った。
三迫ジムで、会長に輪島功一選手の話を聞いていたときだった。

初めてジムワークを見たとき、このボクサーは「強い」のひと言しかなかった。
彼はボクが彼のことを書いた書籍で使った一説
「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いんだ」
その言葉が気に入り、インタビューでよく使っていた。
だが強い彼は、勝ち続けることができなかった。

無情自爆(むじょうじばく)

「無情自爆(むじょうじばく)」という禅語がある。
自分を縛っているものなど存在しない。自分を縛っているのは、ただ自らの思い込みに過ぎないという言葉だ。

大学で学生の悩みを聞いていると、「あぁ、自分も同じ年齢のころは自分の思い込みで自分を縛ってもがいていたな」と苦笑いをしてしまう。

よく悩みの相談を受けるのが、「○○さんはあんなに凄い作品が作れるのに、自分はダメだ」とか、「○○くんのようになるにはどうしたらいいのですか?」など、必ずだれかと比較しての悩みだ。
そんなときぼくは、「ここは大学なのだから、物差しを捨てようよ」と答えている。

大学は研究機関である。
答えがないから、答えを求めるのが「研究」のはずである。
高校までは「答え」があり、その「正解」を出したものが、先生に褒められる。
物差しので測られ、目盛りが高いか低いかで、出来る子、出来ない子と分けられる。

だが大学に入れば、本来は「研究」という、自分で答えを探し、見つける場所なはずである。
大学で20年近くいるが、ほとんどの学生は、いや、大学の先生にしても「物差し」を持って生きている。

たしかに教える側にとっては「物差し」を持てば楽である。
物差しの目盛りに沿って、答えを示し、出来る子、出来ない子に分ければいいからだ。

だが、何かを生み出すというのは、その物差しを疑い、そこから始まるのが、つまり研究である。
たとえばマンガにしても、手塚先生はそれまでのマンガになかった表現を次々と生み出し、紙の上でキャラクターたちが動き回る、マンガの形を生み出してきた。
物差しに囚われない、新しいマンガが生まれ、あの時代のマンガ家の先生たちは、あらゆる新しい表現を研究し、マンガの面白さを次々に生み出してきた。
それが世界に誇る日本のマンガとなったはずだ。

だが新たに生み出されたものは、「答え」となり、その「答え」が「物差し」になっていく。
物差しを「常識」という言葉に置き換えてもいい。
「常識」はまさに物差しと同じで、水戸黄門の印籠のようなものだ。

「マンガはこうしなければならない」
「イラストはこういうものだ」
「表現とはこうあるべきだ」
と、常識を掲げて、その答えの中に押し込めていく。
そうなると実につまらない。

研究機関である大学も、今はそんな「常識」の中で答えを求める場所になってきている。

「これで楽しいのだろうか」
「これが自由なのだろうか」
大学に来てずっとモヤモヤしている。
だから、大学では、教えるのではなく、物差しを持たないでマンガの可能性を学生と研究し、コンテンツを創ってきている。
【研究 Research】

こうやってここで好きに書いているが、実は書くことでまた、答えを探している。
ぼくはつねに「自由になりたい」と行動している。
それは「しあわせ」を探していることでもある。
でも、「しあわせ」は「心」が生み出すものだと思う。
ならば、「心」を自由にするにはどうしたらいいかと考える。

「心」を縛る大きな要因のひとつが、人と比べていることだ。
自分の年収は平均か、平均以下か。
自分の家は大きいか、小さいか、車を持っているか、持っていないか、あいつは自分より美人の恋人がいるとか…
それで「しあわせ」を測るなど、思い込みでしかないではないか。

まずは物差しを捨てよう。
それがぼくのひとつの答えである。

今回も「旅の空 XIII」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間

【旅の空 XIII Iizumi Kenzie】

ChatGPTと「疑問を育てる」対話

最近、ChatGPTと会話をしていると、その後に禅や仏教の本を読んでいる自分に気づくことがある。
結局ぼくは、AIを使うことで「人間とは何か?」という問いを追い求めているのかもしれない。

「目的」を持って使えばわかることだが、ChatGPTは単なる「便利な道具」ではない。
Google検索のように、ただ答えをくれる存在ではないのだ。

ChatGPTは「疑問を一緒に育ててくれる存在」だと感じている。
漠然とした思考を言葉にして投げかけると、それに対していろいろな角度から応答が返ってくる。
そのやりとりの中で、ぼんやりしていた疑問が少しずつ形を持ち、広がり、深まっていく。

重要なのは、「答えを知る」ためではなく、「答えのないものを考える」ために使うこと。
人間は本来、明確な答えのない世界を生きている。
だからこそ、思い浮かぶ疑問を丁寧に扱いながら、自分自身の思考を深めていく必要がある。

たとえば、今こうしてPCに向かい、なぜ自分はブログを書いているのか?
なぜ、仕事でもないのに「書きたい」と思うのか?
そんな思いが頭をぐるぐると巡る。

そこでChatGPTにこうした疑問をぶつけてみた。
すると、こんな言葉が返ってきた。

〝そういう気持ちってすごく自然だし、多くの人が感じることだよ。
ブログを書くという行為は、自分の考えを整理したり、誰かと共有したり、単純に表現を楽しむためのものでもある。

一方で「これって意味あるのかな?」「本業でもないのに時間を使ってていいのかな?」といった不安が湧くのも自然なこと。

つまり、自分の行動に意義や自己成長を見出したいという欲求があり、ブログを書くことで仕事とは違った充実感を得ているのだと思う。

こうした感情を大切にしながら「自分はなぜこれを書いているのか」を振り返ることで、より自分らしい意味や目的を見つけていけるはずだよ〟

このように、ChatGPTとの対話を通じて、漠然としていた疑問が整理され、輪郭がはっきりしてくる感覚がある。

結局、「答え」は外から与えられるものではない。
人間の中、自分の中からしか生まれない。
ChatGPTは、その内側の言葉を引き出すスイッチのような存在なのだ。
今、ぼくは禅や仏教の「自分の中で考える」問答に近い形で、ChatGPTを活用している。

実は上の文章は、ぼくが思いつくまま、上のような疑問をぶつけるように文章を書いたものを、ChatGPTに「わかりやすく、伝わるように整理して」といって、自分の考えをまとめてもらったものだ。
面白いのは、自分の文体、リズムもちゃんと残し、整理しわかりにくい言葉は、わかりやすい言葉に変換しまとめてくれている。
ちなみにタイトルもChatGPTが考えてくれている。

「人間とは何か?」
今まであまり考えなかったこの疑問を、AIによってこれからだれもが考えることになると思う。

今回も「旅の空」の動画を創ってみた。
20代に追いかけつづけたボクサーたちの写真を、思い出の中で1分間にまとめてみた。

今回は畑中清詞との思い出。

旅の空 XII
kiyoshi

清詞と出会ったのは、彼が高校を卒業してすぐの19歳だった。
世界チャンピオンになるには、名古屋という地方で世界を目指すのは無理だと言われていた時代である。
だが清詞は名古屋で世界を目指し、そして名古屋で世界を奪取。
そして名古屋初の世界チャンピオンになった。

 

長い旅のような一瞬の時間

今年に入り、「イマーシブ」にいくつもの可能性を感じ研究に取り組み始めている。

元々、冊子で読んだマンガの中へ入り込めることのできるマンガを、3Dモデリングで背景制作、それを冊子では2Dに変換するなどの方法で、マンガの中にVRで入ることができるDX研究を2017年から帝京大学と共同研究でやってきた。
それだけにイマーシブに関してはいろいろアイデアはある。

もちろんアイデアを形にするための専門的な知識を必要とされることもあり、自分たちだけでは限度があるのだが、そこは大学という研究機関。
アイデアがあればAIやハプティクスなど、専門的に研究している大学とも研究機関として繋がることができるというわけだ。

DX研究というやつは、時間の流れとともに、新しいイノベーションが生まれる、つまり歳を重ねるとともに、アイデアが実現可能になり、やりたいことがここ数年でどんどん増えてきてしまっている。
だが、ふと、自分の年齢を考えると残された時間はあまりないことに気づく。
そして何より、自分の時間は年齢とともに、ジャネーの法則によって早く進んでいる。

ジャネーの法則というのは、19世紀のフランスの哲学者・ポール・ジャネーによって生まれた、「主観的に感じる年月の長さは歳をとるほど短くなる(時間が早く過ぎると感じる)」という法則だ。
年齢は、感じられる時間の長さを決定する唯一の要因ではないが、感覚としてはだれもが感じていることだと思う。
子どもの頃は、新しい出会いや新しい発見がいくつもあるのだが、大人になるにしたがって、新しい発見や経験をする機会が徐々に減っていく。
つまり、新鮮でない発見や経験は、時間の流れは止まらないで、はしょるように流れてしまうということだ。

ジャネーの法則による年齢による体感時間で計算した場合、たとえば68歳のぼくがあと5年がんばろうと思ったとき、人間の1歳までの1年365日の長さで計算すると、68歳のぼくの5年は1歳児のたった25日の体感でしかなくなってしまう。

いやいや、ちょっと待ってくれである。
年齢を重ねるごとに、あっという間に時が過ぎて言っているというのは、もちろん感じているのだが、数字で示すと…ぼくの5年はまさに一瞬ではないか。

だが、その一瞬が「とてつもなく濃い時間」になることもある。
ここ毎回、自分が20代だったころのボクサーたちとの日々を、AIにはできない、その一瞬をボクサーたちと生きた証ちょして動画にしてここに載せている。

振り返れば、ほんとうに濃い時間の流れた日々だったと思う。
特に浜田剛史との日々、彼がランキング外から、世界の頂点に立つまでの2年間は、一瞬だが、「濃い時間」…
いや、すべての時が深く、濃く、重く、眩しく…
あぁ、やはり言葉にはできない…そんな自分の中の森羅万象といっていい時間だったことは間違いない。

だから、浜田剛史の世界戦が決まったとき、あのとき「がんばれ」の言葉は掛けられなかった。
「がんばれ」ではなく、もっと自分の中から湧き出る思い。。
その浜田の人生を賭けた時間に携わるために、ぼくは湧き出る思いの形として、そのとき浜田といっしょに減量することを決めた。
もちろん絞った身体から10キロ以上減量する浜田の減量のレベル比ではないが、10キロの減量を自分に課した。
浜田の世界戦のポスターはぼくが描くことは決まっていたので、浜田と同じ計量の日と時間までに10キロ落ちなければ、原稿料はいらないと帝拳ジムのマネージャーに宣言しての減量だった。

その期間、食事制限し、走り、サウナへ通った。
新聞記者、マネージャーが見守る中、リミットいっぱいでぼくの減量は成功し、翌日浜田の世界戦の闘いの場に向かった。
そして1R3分9秒、浜田はKOで世界を奪取した。
興奮と歓喜で記憶が飛ぶ中、ぼくのカメラには、その試合の、その後のすべてがちゃんと記録されていた。
一瞬だったが、長い旅を記録していたような濃い時間がそこにはあった。

 

そうだ。
今また、あの日々の時間のように生きればいい。
そう、ぼくはそうした生き方を知っている。
あのボクサーたちとの日々が教えてくれた生き方を知っている。

残された時間をそう生きればいいだけのことだ。

【旅の空 XI Tsuyoshi Hamada其の二】

AIの中で自分のリアルが見えてきた

インターネットが生まれてから、モノつくり社会から、情報社会に変わってしまった。
世界の時価総額ランキングで日本を見れば、日本の失われた30年が実によく見えてくる。
平成元年1989年の世界の時価総額ランキング50では、50のランキングの中で上位5位まですべて日本企業が独占し、50の中の32企業が日本の企業が占めている。
それから30年、平成30年2018年では、ランキング50の中で、43位にトヨタ1社だけの名前しかない。
上位は1位がApple、2位がMicrosoft、3位がAmazonと、社会は情報で動いていることがわかる。
モノつくり日本にあぐらをかき、情報社会に乗り遅れたのが日本の失われた30年だということだ。

そして今、時代はAI時代へと凄い勢いで変わっていっている。

インターネットのときもそうだったのだが、日本は実に動きが鈍い。
鈍いだけでなく、日本は世界の最前線を走っている国だと未だに錯覚している人たちが多い。
コロナのとき、行政は情報共有にFAXなど未だに使っていた、そんなデジタル後進国だと気づいたはずなのに、また、失われた30年の二の舞を繰り返そうとしている。

大学にいると感じるのだが、最前線を行くべく研究機関であるはずの大学では、これからの人材育成もかねているはずである。
だが、その研究者であるはずの教授たちが、時代の流れの中で生きていない人たちが大半である。
つまりは、時代とともにアップデートしていかなければならない「学び」が出来ていない先生と呼ばれる人たちが何と多いことか。

AIの研究会を開いても、ぼくの行っている大学では、自分のゼミの学生、卒業生以外は声をかけても参加するものはいない。
他大学との研究会に参加しているのも、自分の他は参加しているのを見たこともない。

先日、大学のある宇都宮市が開いた6日間にわたる、これからの宇都宮を考えていく集まりにも、信じられないが自分の大学で参加しているのは自分一人しかいない。
研究発表と講演をやらせていただいたのだが、終わったあとの企業のひとたち、市民の人たちの交流会では、AIも含めたDX質問攻めをうけたのだが、自分の大学の先生でその質問に答えることのできる先生はまずひとりもいないと思う。

大学の先生というのはまず「知識人」だとだれもが思っている。
だが、今のAIによる「情報社会」では、「知識が価値を失う社会」になっていく。
高学歴のエリートの持つ「知識」など、学歴の中で学んだ「知識」が大半なわけだから、そんなものはAIによって置き換わっていく。

学生にもいつも言っていることだが、今からの時代、「自分にしかできない〝何か〟」がなければ、表現者としては生きてはいけない。
そんな難しいことではない。
生きてきた自分には、自分だけの物語がある。
その〝物語〟の中で、いかに自分がいくつもの経験と体験をしてきたことが重要になる。

何かを始め、それに夢中になったとき、「もっと知りたい」という気持ちが沸いてくる。
知識ではなく、自分の答えを探すためにリアルの中でその答えを探す。
表現とはまさに「研究」の中から生まれてくる。

「研究」には答えがない。
だから「研究」して、自分の「答えを生み出し」、それが自分だけの表現へとつながっていく。

 

ぼくはたくさんの作品を書いてきた。
夢中になって取材し、書いてきた。
今もつきあいのある、浜田剛史とは、自分にしか書けない作品をいくつも書くことができたと思っている。

ノンフィクションで書いてきたぼくの作品は、「ぼく」という自分の一人称で書かれた作品が大半である。

ぼくと浜田が世界チャンピオンになるまでの日々は、ぼくにとって、作家としてただただ凝縮された濃い毎日が駆け抜けていった日々だった。

 

AIを研究していると、大学ではアナログこそが深い表現ができると、AIを使っての表現など人間味がなくなると、勘違いした人たちから意見される。

何を言うか。
AIを研究すればするほど、人間を知ることになる。
自分の経験してきた〝物語〟がよりリアルに生きてくる。

これだけは言っておきたい。
今、ぼくが創っているコンテンツ、研究を意見するのなら、ぼくの作品以上のリアルを見せてから言ってくれ。

ぼくのAI研究から生まれた答えを書いておく。
アナログとか、デジタルとか関係ない。
表現者が表現するということは、その生き様がすべてということだ。
アナログとか、デジタルなど単なる手段でしかないということだ。
その手段を学ばず、アップデートせず「今のままがいい」と、留まる人たちよ。
今のままというのは現状維持ではなく、流れる時代の中で後退していくことに気づかないのか。

生き様とは、藻掻きながらでも前へ前へと進み続けなければ見えてはこない。

【旅の空 ⅩTsuyoshi Hamada】其のⅠ