イノベーション

2017年5月31日

あぁ、前回の日記を書いてからもう一ヶ月が過ぎてしまっている。
それも今日、書かなければ2017年の5月に日記を書かなかったことになってしまう。
2005年からHPをつくり、最低でも一ヶ月に一度は日記を書くと決めて12年間それを守ってきた。
12年間つづけてきたもので、今日の「今」書かなければ、12年間がんばった自分に負けた気がするもので、いくつもの〆切を抱えていながらも、その合間にこの日記を書いているのだ。

まず書いておかなければならないのは、6月9日(金)夜7:30~8:33分 NHK総合テレビ(栃木県域)で「トライ ~難病ALSと向き合って~」が放映される。
10月には全国放送の予定だ。

アニメではなく、一枚絵を動かし創ったモーションでの、番組としてのTV放映は世界初だと思う。
それとともに、NHKの1時間番組を、ひとつの大学、文星芸術大学の田中ゼミの在校生、卒業生で制作するなど、東京大学だってできないことをやったと思っている。

この作品は実は実験としての要素を持った番組で、ラジオドラマをモーション化したものである。
つまり、今の時代、ラジオもスマートフォンで聞く時代なわけで、ラジオの可能性についての、ある意味、視聴者への提案だとも思っている。

http://www.nhk.or.jp/utsunomiya/tochilove/try/index.html
「トライ ~難病ALSと向き合って~」

まぁ、その他にも恐ろしい数のいくつものプロジェクトを抱えていて、もう、今年いっぱいのスケジュールが真っ黒になっている状況なのだ。
とはいえ、それが苦痛というわけではない。
毎日、毎日、山ほどの仕事の〆切と打ち合わせに追われているのだが、けっこうワクワクしている。

大学を研究機関と考え、マンガでイノベーションを起こすと決めてから、研究所だけでも「ちばてつやMANGAイノベーション研究所」「T&B(帝京・文星)ラボ」と2つ立ちあげ、ioT,AI,AR,VRなどなど、マンガとサイエンスで産学民でいくつもの制作に取り組んでいる。

あいかわらず、まだまだ発表できないことがたくさんあるのだが、大学という研究機関をつなぎ、もっともっと大きな研究に取り組むべきプロジェクトも動いている。
つまりは、詳しく書けないことばかりの多い研究の中で、いくつものイノベーションな制作をしているということだ。

うむうむ…
日記を書こうと書き始めたというのに、単なる近況報告になってしまった。

「即今・当処・自己」

2017年4月30日

「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」
禅の言葉で、仏教の教えである。
「今、ここで私が生きる」という意味だ。

もう20年ほど前、武術の取材をしているとき、この言葉と出会った。
つねに「今」を考え、そしてその「今」、ここで生きていることを考える。
べつに仏教徒ではないが、仏教のこの言葉を本当に深く、大事にしている。

今、世界がきな臭くなり、その根底には宗教が流れている。
よく考えると、世界宗教のなかで、武力を用いることなく、国境を越えて広まったのは仏教だけだけなのだ。

なぜなのか。答えは「絶対」を生み出す心ではないだろうか。
森羅万象「絶対」はないと思っている。
だが、神を人は「絶対」ととらえる。

仏教のブッダは神ではなく、修行僧なのだ。
修行僧というのは死ぬまで、生きることを修行として、「今」を大事にしなさいと説いている。
「絶対」ではなく、「今」なのだ。

何か敵対しているイスラムとキリストは一神教なわけだから、「絶対」が存在する。
だがその根底は、ユダヤ教が生まれ、キリスト教となりイスラム教となったわけだから、元は同じ「神」から生まれた「絶対」のはずなのだが、違う「絶対」が生まれたことで敵対してしまう。
つまり「神」を、「絶対」と捉えるから、その「絶対」が違う、つまり「神」の違う相手は歪みあってしまうのだ。

だがこうやって考えると、日本というのは実におもしろい。
そもそも日本には神道があり、飛鳥時代に仏教が入ってきたのだが、「宗教」という言葉が生まれたのは明治になってからで、それまでは「宗教」という言葉などなかったのだ。

それまで日本語には、宗門、宗旨、宗派という言葉しかなく、他神を斥けることみなく、日本古来の万の神の対等の神として受け入れてきた、そのひとつとしての仏教だということだ。
そう考えると、日本人の捉えるキリスト感も同じ考えで、クリスマスを宗教観を持って祝っているわけではない。

もともと日本人の考えは、山や森、そこに住むあらゆる生きものも神と捉えてきたわけだから、「今、ここで生きる」。つまり自分の生きている自然の中で「今」を大事に生きなさいということが、ぼくたち日本人に流れている魂だということだ。

そうそう、「自然」という言葉も日本には必用なかった言葉で、ネイチャーの意味である「人が支配」しての「自然」ではなく、人は自然と一体で生きていたわけだから「自然」という観念さえ必用なかったのだ。

江戸時代まで仏教語だった「自然(じねん)」(あるがままの意)を借りてきて訳語としたのが、日本における自然の言葉の語源なのだ。

その自然(じねん)の生き方が「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」だということだ。

 

いやいや大変でした。

2017年3月27日

いやぁ、この3月は大変な目にあってしまった。
Facebook乗っ取りからはじまって、実はiPhone自体を乗っ取られての10日間の格闘を残しておきます。

3月14日にFacebookのアカウントが乗っ取られ、乗っ取った“なりすまし”がメッセージを使って認可している友だちにメッセージを送るところから、この乗っ取り発覚が始まったわけだ
「今、忙しい?」
そのメッセージが来たらまず疑った方がいい。
なりすましのメッセージはこの言葉からはじまり、返事をすると「私のLINEが凍結されてるからそちらの携帯で検証コードメッセージを受け取ってくれる?」と返してくる。
この認証コードを教えてしまったら、LINEが乗っ取られ、すぐにLINEに連絡を入れ、「乗っ取られた」とのことを伝え凍結しなければ、LINEからのいくつかの方法で現金化されて財産を盗まれてしまうということだ。

乗っ取られたFacebookのアカウントはFacebookにメールで相談し、まず使えないように凍結してもらい、Facebookとのメールのやりとりの末、2日間の苦闘で取り返すことができた。

ホットしたのもつかぬま、自分のPCメールアドレスに侵入してアカウントを奪おうとするメールが一斉に何百と届き、Twitterを乗っ取ろうと相手がパスワードを変えようとしてきてのTwitterからセキュリティの認証のメールが届いてくる。
次々と個人に対してサイバー攻撃が仕掛けられてくる。
もうこれはホラー映画の世界である。

Facebookを乗っ取られた時点で、ありとあらゆるセキュリティを強化したこともあり、そのセキュリティの何重にもかけた壁は、このホラーのような攻撃でもどうやら乗り越えられなかったらしく、被害はどうにかせき止められたのだが、これだけつづけて乗っ取りに合うのはおかしなことだ。

これはおかしいと、Facebook・Twitterでログインされている場所を調べると、PC、iPadは自分がログインしている場所なのだが、iPhoneだけがアメリカのPortlandからのログインになっている。

そのログイン場所を消去しても、iPhoneを初期化してもiPhoneのログイン場所はアメリカのPortlandのままだ。

つまりアプリではなくiPhone自体が乗っ取れているということである。
とにかくインターネットでいろいろ調べても、これが的確なものがない。
ありとあらゆる試みで対処したのだが無理で、自分ではどうしようもなくなったことで、iPhoneのキャリアであるSoftBankに行き、もちろんiPhoneのことなのでSoftBankではわからないので、SoftBankからAppleに電話を入れてもらった。
直接、Appleのセキュリティの担当者と話すことで調べてもらい、その後のAppleからの的確な指示をもらい、今のところはどうにかiPhoneのアカウントは取り戻せたようだ。

いくつかの〆切と、大学、イベント、プロジェクトの仕事も山ほど抱えていた上、風邪でスケジュールがすべて遅れていた状態の中での今回の事件。

ただただ大変で疲れた10日間。
それとともに、セキュリティの大事さを知った10日間でした。

sixty

SONY DSC

2017年2月27日

60歳になった。
不思議な感覚なのだ。
60歳の還暦といえば、定年と言われた年齢であり、つまりは老後の生活の歳なはずである。
だがまだまだやらなければならなっことはあるし、やりたいことだって山ほどある。
今は間違いなく20代のころより忙しいし、やりたいことなど、年齢とともに倍々で増えていくばかりでここまで来ている。

40代のときに、「これから書きたいこと」を書き出してみたことがある。
当時、ボクサーを追いかけ、格闘家を追いかけ、琉球武術を追いかけ、中国武術を追いかけ、野球、サッカーなどなど、当時飛び回っていた取材の中から書きたいことを書き出し、まだまだ「書くために」「知るために」やらなければならない取材についても書き出してみたというわけだ。
これを取材して書くには何年かかるだろかと、大まかな年数とともに書き出していくと、40代のそのときで、すべて書くまでに100歳を遙かに超えていた。

考えてみれば、たとえば武術の菩提達摩を調べて書くには3年かかるなどと40代のときに言っていたが、達摩の出生の地、インドのケーララにさえまだ取材に行けていないし、時間だってそのときからもう20年近くも経っている。
それでも頭のかたすみにはそのことがあり、8年前には嵩山少林寺にある、達摩が面壁九年、壁に向かって九年座禅をし続け修行した洞窟にも行ってきている。
そのとき、達摩を調べている中で気になっていた、玄奘三蔵の生家にも行ってきたこともあり、達摩とともに、玄奘のことも書いてみたくなり、現在、調べていることがある。
つまり取材をすればするほど、書きたいものは必ず増えていく法則というものがあるわけだ。
年齢を重ねるということは、やりたいこと、やらなければならないことが無限に膨張しつづける、まぁ、人間の生きる中で「知りたい」「書きたい」という欲求は宇宙のようなものかもしれない。

すると「定年」とは何なのだろうか。
ぼくは、ずっとフリーという立場でやってきたことから、「定年」という観念は持っていない。
そこで考えてみた。
たとえば「稼ぐ」と「貰う」で考えてみる。
「貰う」人は、時給で仕事をしている人だと思っている。
たとえ形になっていなくても、その時間を働ければちゃんと給料でお金が貰える人である。
「稼ぐ」人は、たとえ100時間時間を費やしても、形に出来ていなければ、そこにお金が発生することがない。

つまり極端に言えば、「貰う」人は時給で生きる人であり、「稼ぐ」人は結果でお金を稼いで生きる人だということだ。

そう考えると、定年は「貰う」人の定義であり、「稼ぐ」人にはまったく関係のないことだとも言える。

ともあれ、日本人の寿命は、2007年生まれの、現在10歳のこどもたちにおいては、ついに人口の半数までが100歳まで生きると言われている。
そうなれば、60歳などまだまだ人生の半ばでしかない。

人は死ぬまで「知りたい」と、「成長したい」と生きることが幸せだと思っている。
100歳まで生きるとなれば、経験を元にして、時代のスキルを何度も学びながらの生き方になってくるはずだ。
そのとき大学という場所が、「知りたい」と、「成長したい」の大きな意味を持ってくるはずだ。
40代、50代、60代、70代…100歳で大学で学ぶ時代。

そうなると、大学でもまだまだやらなければならないことがいろいろあるというわけだ。