2020-8-27
ジョン・レノンの言葉が浮かんできた。
「心を開いて「Yes」って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えがみつかるもんだ」
この言葉はずっと自分の勇気だった。
迷ったとき、必ずこの言葉を思い出し「Yes!」と一歩踏み出した。
「No!」と言えば、すべてはそこで終わってしまう。
「Yes!」と言えば、まだ先の可能性に繋がっていく。
自分には関係ないと、「No!」と言ってしまった瞬間、ひとつの貴重な経験を失ってしまう。
人生は、動くことに無駄はない。
後悔があるとすれば、「やらなかった」ことに対してだけだ。
だから「Yes!」と言うことから始める人生を歩んできた。
今、新型コロナで世の中がひどく閉塞感に包まれている。
「No!」から始まることで、あらゆることが分断を招いている。
分断は差別を生み、格差の広がる社会が広がっていく。
なぜ人は「No!」と自信を持って言えるのか?
簡単なに言えば、それが自分の「常識」だから、自分の「常識」とは違う「常識」を持ったものには「No!」を突きつける。
この「常識」というものをなぜ疑わないのか?
これは教育の面においても、その「常識」に、先生も生徒も、そして学生も縛られきっている。
高校まではよしとしよう。
高校までな「知識」を学ぶ場所なわけだから、「地球は丸い」と教われば、ほとんどの先生たちだって見たことがないのに「丸い」を答えとする。
「常識」だからだ。
だが本来は違う。
「常識を疑うか?」と聞かれれば、「Yes!」と、「常識だから」で終えないで、自分が納得するまで答えを求め研究する。
「なぜ地球は丸いのか」を、自分の意思で求める旅にでる。
大学とはそういうところのはずだ。
だから大学は学校の勉強ではなく、研究することで自分の答えを求める場所でなければならない。
だが、日本の大学のほとんどは学校であり、そこにいる学生たちは生徒として「常識」の答えを求めて学校に通っている意識でしかない。
ここ何年も言ってきていることがある。
大学は本来、「哲学」を持って研究する場所だと。
哲学は常識に縛られない。
哲学の基本は、「答え」は存在しない。
その答えを求めて考えることにある。
少し余談だが、ぼくは武術をもう20年以上取材してきている。
武術を取材すればするほど「仏教」に行き着いてしまう。
仏教の理想は「とらわれないこと」。
その森羅万象を求めて、一生修行の道を歩く。
仏教はまさに「哲学」と同じ、「哲学」を求めるとは「とらわれないこと」ではないだろうか。
新型コロナは世界のパンデミックを起こし、だれもが「No!」から始まっている。
だが考えてみる。
なぜ2000年に入って、SARS、MERS、新型コロナと次々に、人間にウイルス感染が起こっているのか。
そのことで人間は、生きるには何が大事か考え始めている。
自然破壊など大きなものから、身近でいえばたとえばマスク。
マスクは「うつらないため」と「うつさないため」にある。
ひとりだけマスクをしていても、まわりがしなければ感染のリスクは広がっていく。
人は他人が健康であることが、自分の健康につながる。
つまり、まわりが幸福であることが、自分が幸福になるということだ。
人はコミュニケーションの中で生きることで幸せを感じることを、今回のパンデミックの中でだれもが感じているはずだ。
「No!」と言えば、分断が始まる。
「Yes!」と言えば、人は自分の置かれた「今」を考える。
答えのない「今」を考える。
「哲学」を考える。