過去でも未来でもない、「今」を生きるということ

またひとつ歳をとった。
社会でいえば、もう定年を超えている年齢なのだが、フリーで生きている人間にとってはそもそも定年という概念はない。
ここ16年ほどは中心が大学での研究者という立場なのだが、5年前からは専任を辞めて、文星芸術大学だけでなくいくつかの大学に出入りして研究をしている。

3年前からは仕事場を自然のある田舎に移し、週に3日は10キロ以上自然の中を散歩する時間を過ごしている。

このブログでも何度も書いてきたが、この20数年はデジタル技術の中でマンガやキャラクターを使って、マンガの世界だけでなく、観光、医療、教育などで100近いコンテンツをマンガ家仲間、大学のゼミ生、研究者たちと生み出してきた。

とくにここ数年は、インターネットの高速速度によって、動画やXRを使った表現も問題なく配信できるようになり、そして昨年はジェネレティブAIによって時代が一気に変わって行っている。

今まで「常識」だった知識が、AIによっていくつも崩れていっている。
教育の現場では、まだアップデートできていない先生も多く、間違った古い常識を学生に教えているのが教育現場の現状といっていい。

デジタルの現状を話しをすると、よく「AIと人間は違う。人間が作ることによって人間しかできないものになる」的なことをよく言われる。
まったくその通りだが、「本来の〝人間しか出来ない〟の意味をアップデートしていない人は理解出来ていないんだなぁ」と思っている。

そもそも、「人間にしかできない」ではなく、「機械ができることまで人間がやっている」ことに気づいていない。
つまり、わかりやすく言えば、以前人間がやっていた流れ作業を今、ロボットがやっているように、AIでできる作業を、その何百倍の時間をかけて人間がやる必要があるのかということだ。
そんな作業はテクノロジーに任せて、人間には人間しかできないことを考え、そこに時間を使うべきだと言っているのだ。
それが本来の「人間にしかできない」ということである。

スティーブ・ジョブズやツイッターの創業者であるエヴァン・ウィリアムズなど、IT系の成功者たちが「禅」をやってきていることは有名な話である。
ぼくも同じなのだが、AIやメタバースを研究すればするほど、「人間とは」と考え始める。
「禅」の基本は「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」。
つまり、今、ここで私が生きるということだ。
AIが学習するデータは「過去」であり、「未来」を過去のデータから予測をするが、「今」は存在しない。

ならば「人間が人間として〝今〟を生きるということはどういうことなのだろうか」

つまりこれは「生」と「死」に似ていると感じている。
「死」がなければ「生」は感じることができない。

それと同じでAIに関わると深く「人間とは」と考え始めたというわけだ。
「AIと人間は違う。人間が作ることによって人間しかできないものになる」というのは、本来、AIを対比として「人間とは」の哲学を持って出てくる言葉のはずだ。

自然は「今」に生きている。
人間も本来、その「自然」の一部でしかないはずだ。

もともと自然は大好きだったが、自然の中で生きなければと強く思い始めたのはそういうことでもある。

年齢的なこともあるのだが、「しあわせ」とは何かを自然の中で暮らし始めてからよく考えている。
人間は「損得勘定」で道を決めることが多い。
その場合の「損得」はお金が中心になる。
お金はたしかに大切だが、お金のために生きているわけではない。

だがお金があれば、便利なもの、欲しいものが手に入り「しあわせ」だと錯覚する。
それはぼくたちがあまりに「情報」に踊らされているのかもしれない。

「便利」がしあわせの基準ならば、ぼくが子どもの頃お金など使わずに、友人たちと海や山で遊び、ひとつボールがあればいくつものゲームをやっていた、あのころより今は遙かにしあわせのはずだが、あのころの方が「自由」だったと感じている。

「人間とは」を考えることで、「生きるとは何か」につながっていく。
もちろん答えはない。
だが、ぼくたちは「今」を生きている。
インターネットに始まり、AIによってぼくたちの世界はエクスポネンシャルに大きく変化している。
その「今」、「人間として生きる」とはどういうことなのか。

そして「しあわせ」を考える。

【冷暖自治(れいだんじち)】

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