自然の中で生きる

6月の初旬に仕事場を東京の都会の街中から、自然に囲まれた地へ移した。
ずっと考えてきたことだ。

自然の中で生きたいというのは、詩人であり随筆家…いや、ぼくにとってはタオイストとしての哲学を感じる作家である加島祥造のような生き方にあこがれていたこともある。

加島祥造は67歳のとき伊那谷に移住し、道教の自然の宇宙に生きるといった考えの道(タオ)に包まれた中で、92歳で亡くなるまでを過ごしている。
加島祥造の本にこういった言葉がある。

この暮らしがとても気に入ってるんだ。理由は簡単だ、楽しいからさ。毎日たくさんの驚きや発見がある。遠くに見える山々は毎日違う姿を見せてくれる。道ばたの草花や木々の姿、夕焼けの色、鳥や虫の声、風。そういったひとつひとつにびっくりする。もちろんここに住む前にだって、自然に触れて「きれいだな」「素晴らしいな」と感じたことはたくさんある。でも、じっさいに住んで、心と身体で実感するのは、それとは違う。自然からうける感動というのは、何度味わってもまったく薄まらない。それどころか、もっともっと強く心に響いてくる。

そう、行くではなく、そこに身を置くが大事なんだ。
ぼくは自然が好きだからと、いつも海、山、川、森と、旅の中で自分の好きな場所を見つけ、気に入った場所には何度も足を運んできた。

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好きだからそこへ行く。
それはなぜか?
仕事も好きだから、ミュージシャン、マンガ家、作家、フォトグラファー、大学教授とやってきている。
その「好き」というのはいったいどういうことなのか?

加島祥造の言葉がそのヒントを与えてくれた。

好きなことをしていれば、次ぎの「好きなこと」を見つける力が湧いてくるということだ。世間ではよく子供や若い人に「自分の好きなことを見つけてそれに向かって進みなさい」という。しかし、私が言いたいのは、それとはちょっと違う。どこが違うかと言うと、世間が「自分の好きなことに向かって進め」というとき、それは将来のことを言っている。

「好き」なことは遠くのほうにあって、そこへ向かって歩いて行くための目標になってしまっている。でも本当の「好き」は、「今、このとき」の感情だ。「今」したいと思うことを、「今」する。「好きなことをする」ことの本来の姿だ。

本当の「好き」は、「今、このとき」の感情。
まさにその通りだと思う。

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もう20年以上も前から武術に興味を持ち、知りたいという「好き」で、沖縄、中国と何人もの武術家に取材させてもらった。
そして武術は「禅」だと感じた。
中国禅宗の開祖である菩提達摩が少林寺武術の創始なのだが、武術を取材すればするほど技、思想と武術に留まらず禅の宇宙が繋がっていく。

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つまり、「好き」が次の「好きなこと」を生み出し、自分の「好き」なものへの、自分の答えへと導かれていく。
その導きの答えとは、道(タオ)という哲学に足を踏み入れることではないだろうか。
答えというのは、森羅万象すべて「明確でない」ということを知るということだと言うことだ。
仏教、禅、そして道教とすべては「哲学」として自分の中でうごめき始める。

仏教の教え、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」、「今、ここで私が生きる」とは、自然が好きだからと自然を求めて行くのではない。

自然の中に住み、移りゆく今を心と身体で実感する。
自然はその一瞬、一瞬に二度と同じ匂い、同じ光、同じ風、同じ音…同じものは存在しないことを教えてくれる。

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そしてこの地を選んだ一番の要因に、自分の中で宇宙を感じる場所がある。

山岳の渓で、自然の脅威に果てることなく、1000年以上も生き続けている「千本桂」。
その樹はぼくにとってのタオだと感じている。

変化は成長となる

Nさんからイラストを頼まれた。
ここのところ、イラストの仕事は受けていないので断るつもりでいたが、そのイラストというのが、古賀稔彦さんの名前のついた少年少女柔道大会に向けての古賀さんのイラストだった。

古賀さんとはいくつもの想い出がある。
仕事はもちろんのこと、プライベートでも飲みに行くなど、古賀さんはぼくにとって濃い時間を過ごさせてもらった尊敬の人である。
それを知ってNさんが頼んできたイラストだ。
もちろん断るわけにはいかない。

描きながら、古賀さんとのことがいくつも思い出されてきた。

その中のひとつ。
古賀さの一本背負いは、当たり前だが世界一である。
だがその世界一というのは到達ではないと、古賀さんは話してくれた。
たとえばバルセロナで金メダルを取った次の瞬間、すでに自分は世界一ではないというのだ。
もともと柔道は、相手の予期せぬ技をかけることで、相手のバランスを崩して倒す闘いだ。
だが、近代柔道はテクノロジーによって、出す技はビデオに撮られ研究される。
一本背負いで勝って世界一になったからといって、その次の瞬間は、その一本背負いは研究され、世界一の技ではなくなっている。

世界一を目指すということは、勝った次の瞬間、この技は研究され、次はこう攻めてくるということをこちらも研究しつづける。
そして、その攻めを崩す一本背負いをつねに新たに生み出していく。
その繰り返しで進化していくことが、世界一を目指すということだと。

もう20年前に古賀さんが話してくれたことだ。

 

古賀さんの言葉はまさに、チャールズ・ロバート・ダーウィンの言葉と同じことを言っていたのだと今更に思う。

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残ることが出来るのは、
変化できる者である。

今、ぼくらはすごいスピードでの変化を目のあたりにしている。
もちろん新型コロナの影響は大きい。

だが、考えてみれば、20年前に古賀さんが言ったように、何かを成し遂げようとするということは、「到達」ではない。
成し遂げた瞬間に、それは過去のものとなる。

だからいくつになっても走りつづけていく。
変化は成長となる。


「古賀さん、一生成長」なんだよね。
何か古賀さんを描きながら、古賀さんがあのとき伝えようとしてくれた大事な言葉、思い出したよ。
ありがとう!古賀稔彦さん!