AIから哲学が生まれる

大学の今年度のシラバスを書き終えた。

以前ならば講義科目、制作科目と多少の修正はあるが、基本的には授業計画の方向性は同じものだった。
だが、10年ほど前から毎年のように授業計画が大きく変わっていく。
たとえば、10年前ならば制作においてマンガ、イラストにおいて静止画の表現を中心に研究課題をシラバスに書いていたのだが、スマートフォンの4Gが当たり前となったあたりから、動画中心のシラバスとなっていく。
ソフトで言えば、Photoshop、CLIPSTUDIOに、Aftereffect、premiereを使った研究制作が必要となっていく。
6年前あたりから、3Dが重要となり、blender、unityが加わった。

そして昨年からは、AI時代においての研究制作とは何か、それを意識してシラバスを書くようになっている。
ゼミの学生と昨年、一年間、AIを使いAIでレポートを書かせ、ディスカッションにAIも参加さえ、マンガ、イラスト、動画、音楽とあらゆるところで、AI研究、実験を行ってきた。

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こう書いたら、田中ゼミはデジタルの考えを持ったゼミのように感じるかもしれないが、実は、哲学的思想を考えるゼミと、ボク自身は考えゼミを行っている。

とくにAIを研究しだしてから、「人間とは何か」をゼミ生たちとつねに考え、研究と実験に取り組んでいる。

AIを使えば見えてくるのだが、DALIにしても、 Midjourneyにしても、驚くほどの完成度の高い画像を生成してくる。
今月一般公開されたSoraなど、動画、音楽と、その完成度の高さに本当に驚かされる。

使い続けていると見えてくることなのだが、プロンプトで命令した、当たり前なのだが、想定内の画像を生成してくれる。
それをいくつも作らせ、自分のイメージに近いものを選び、そこからより自分の理想へとカスタマイズしていく。
今、ボク自身もそうやって研究、コンテンツ制作を行いる。

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つまり、AIはあくまで「道具」というスタンスだ。

ビッグデータのデータによって、見事なほどわかりやすくAIは形にしてくるのだが、何度も生成していくうちに、「驚き」から「物足りなさ」を感じるようになってくる。

つまりそこに「自分の物語」が見えないのだ。
自分の物語がないということは、自分だけが生み出せる作品ではないということである。

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ぼくはジェネレティブAIの普及は、作家にとってはとてもいいことだと思っている。
つまり、データによって作られてきた作品、アンケートというマーケティングによって構成されてきた作品はAIがもっとも得意とする分野となってきた。
マンガやイラストにしても、自分の経験と物語からではなく、売れている作品のモノマネやパターンからの作品を描く作家はAIによって消え、その作家しか描けない、経験、物語から生まれてくる作家しか生き残れない時代になってきたからだ。

本来、生き様から作品を生みだしていくのが「作家」であるべきだと思っている。

そういうこともあり、AIを知ることで、AIにはできない、「自分にしか生むことのできない表現とは何か」を考えるところをゼミの軸としている。

前回、この場所で「禅」の話を書き、過去でもなく、未来でもなく、データに存在しない唯一の「今」を生きることが大事と書いている。

考えてみればぼくたちは、「今」を生きている意識を忘れていることに気づかされる。
たとえばAIの話をすると「不安」を口にする人が多い。
自分の仕事がなくなるとか、こんな時代に表現で生きて行けるのだろうかとか…
では、その「不安」とは何なのか。

ぼくは20年近く武術の取材をしてきているもので、その武術の祖である菩提達摩の逸話にその答えらしきものがあるので書いておく。

達摩と、その弟子慧可の話だ。
慧可が達摩大師に「私の心はいつも不安でいっぱいです。どうかこの不安を取り除いてください」と問う。
すると達摩大師は曰く。
「よし、ならば私がその不安とやらを取り除いてあげよう。まず、不安を私の目の前に出しなさい」
慧可は困ってしまった。
そして気づく。
自分の心にある不安には実態がないことに。

つまり不安は「起こってもみないこと」に対して、自分の心が勝手に作りだしたものだということだ。

AIは過去のデータによって、未来を予測する。
だがそれは、答えではないし、AIが作りだしたデータを勝手に想像して、勝手に不安になっているだけにすぎない。

このようにAIを研究するようになってから、人間にとって一番必要なものとは何か。
そして「人間とは何か」という哲学が生まれてきている。

大学で学ぶということは、技術や知識を学ぶのではなく、研究の本質である、自分の答えを求める場所のはずである。
だから学校ではなく、研究機関なのだ。
AIは研究機関であるはずなのに学校になってしまった今の大学に対して、大きな「疑問」を投げかけてくれている。

教授や学生たちはそれをどう受け止めているか。
シラバスを書き終え、思ったことを書いてみた。

今月の自然と言葉の動画

【幸福とは】

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