AIから哲学が生まれる

大学の今年度のシラバスを書き終えた。

以前ならば講義科目、制作科目と多少の修正はあるが、基本的には授業計画の方向性は同じものだった。
だが、10年ほど前から毎年のように授業計画が大きく変わっていく。
たとえば、10年前ならば制作においてマンガ、イラストにおいて静止画の表現を中心に研究課題をシラバスに書いていたのだが、スマートフォンの4Gが当たり前となったあたりから、動画中心のシラバスとなっていく。
ソフトで言えば、Photoshop、CLIPSTUDIOに、Aftereffect、premiereを使った研究制作が必要となっていく。
6年前あたりから、3Dが重要となり、blender、unityが加わった。

そして昨年からは、AI時代においての研究制作とは何か、それを意識してシラバスを書くようになっている。
ゼミの学生と昨年、一年間、AIを使いAIでレポートを書かせ、ディスカッションにAIも参加さえ、マンガ、イラスト、動画、音楽とあらゆるところで、AI研究、実験を行ってきた。

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こう書いたら、田中ゼミはデジタルの考えを持ったゼミのように感じるかもしれないが、実は、哲学的思想を考えるゼミと、ボク自身は考えゼミを行っている。

とくにAIを研究しだしてから、「人間とは何か」をゼミ生たちとつねに考え、研究と実験に取り組んでいる。

AIを使えば見えてくるのだが、DALIにしても、 Midjourneyにしても、驚くほどの完成度の高い画像を生成してくる。
今月一般公開されたSoraなど、動画、音楽と、その完成度の高さに本当に驚かされる。

使い続けていると見えてくることなのだが、プロンプトで命令した、当たり前なのだが、想定内の画像を生成してくれる。
それをいくつも作らせ、自分のイメージに近いものを選び、そこからより自分の理想へとカスタマイズしていく。
今、ボク自身もそうやって研究、コンテンツ制作を行いる。

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つまり、AIはあくまで「道具」というスタンスだ。

ビッグデータのデータによって、見事なほどわかりやすくAIは形にしてくるのだが、何度も生成していくうちに、「驚き」から「物足りなさ」を感じるようになってくる。

つまりそこに「自分の物語」が見えないのだ。
自分の物語がないということは、自分だけが生み出せる作品ではないということである。

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ぼくはジェネレティブAIの普及は、作家にとってはとてもいいことだと思っている。
つまり、データによって作られてきた作品、アンケートというマーケティングによって構成されてきた作品はAIがもっとも得意とする分野となってきた。
マンガやイラストにしても、自分の経験と物語からではなく、売れている作品のモノマネやパターンからの作品を描く作家はAIによって消え、その作家しか描けない、経験、物語から生まれてくる作家しか生き残れない時代になってきたからだ。

本来、生き様から作品を生みだしていくのが「作家」であるべきだと思っている。

そういうこともあり、AIを知ることで、AIにはできない、「自分にしか生むことのできない表現とは何か」を考えるところをゼミの軸としている。

前回、この場所で「禅」の話を書き、過去でもなく、未来でもなく、データに存在しない唯一の「今」を生きることが大事と書いている。

考えてみればぼくたちは、「今」を生きている意識を忘れていることに気づかされる。
たとえばAIの話をすると「不安」を口にする人が多い。
自分の仕事がなくなるとか、こんな時代に表現で生きて行けるのだろうかとか…
では、その「不安」とは何なのか。

ぼくは20年近く武術の取材をしてきているもので、その武術の祖である菩提達摩の逸話にその答えらしきものがあるので書いておく。

達摩と、その弟子慧可の話だ。
慧可が達摩大師に「私の心はいつも不安でいっぱいです。どうかこの不安を取り除いてください」と問う。
すると達摩大師は曰く。
「よし、ならば私がその不安とやらを取り除いてあげよう。まず、不安を私の目の前に出しなさい」
慧可は困ってしまった。
そして気づく。
自分の心にある不安には実態がないことに。

つまり不安は「起こってもみないこと」に対して、自分の心が勝手に作りだしたものだということだ。

AIは過去のデータによって、未来を予測する。
だがそれは、答えではないし、AIが作りだしたデータを勝手に想像して、勝手に不安になっているだけにすぎない。

このようにAIを研究するようになってから、人間にとって一番必要なものとは何か。
そして「人間とは何か」という哲学が生まれてきている。

大学で学ぶということは、技術や知識を学ぶのではなく、研究の本質である、自分の答えを求める場所のはずである。
だから学校ではなく、研究機関なのだ。
AIは研究機関であるはずなのに学校になってしまった今の大学に対して、大きな「疑問」を投げかけてくれている。

教授や学生たちはそれをどう受け止めているか。
シラバスを書き終え、思ったことを書いてみた。

今月の自然と言葉の動画

【幸福とは】

過去でも未来でもない、「今」を生きるということ

またひとつ歳をとった。
社会でいえば、もう定年を超えている年齢なのだが、フリーで生きている人間にとってはそもそも定年という概念はない。
ここ16年ほどは中心が大学での研究者という立場なのだが、5年前からは専任を辞めて、文星芸術大学だけでなくいくつかの大学に出入りして研究をしている。

3年前からは仕事場を自然のある田舎に移し、週に3日は10キロ以上自然の中を散歩する時間を過ごしている。

このブログでも何度も書いてきたが、この20数年はデジタル技術の中でマンガやキャラクターを使って、マンガの世界だけでなく、観光、医療、教育などで100近いコンテンツをマンガ家仲間、大学のゼミ生、研究者たちと生み出してきた。

とくにここ数年は、インターネットの高速速度によって、動画やXRを使った表現も問題なく配信できるようになり、そして昨年はジェネレティブAIによって時代が一気に変わって行っている。

今まで「常識」だった知識が、AIによっていくつも崩れていっている。
教育の現場では、まだアップデートできていない先生も多く、間違った古い常識を学生に教えているのが教育現場の現状といっていい。

デジタルの現状を話しをすると、よく「AIと人間は違う。人間が作ることによって人間しかできないものになる」的なことをよく言われる。
まったくその通りだが、「本来の〝人間しか出来ない〟の意味をアップデートしていない人は理解出来ていないんだなぁ」と思っている。

そもそも、「人間にしかできない」ではなく、「機械ができることまで人間がやっている」ことに気づいていない。
つまり、わかりやすく言えば、以前人間がやっていた流れ作業を今、ロボットがやっているように、AIでできる作業を、その何百倍の時間をかけて人間がやる必要があるのかということだ。
そんな作業はテクノロジーに任せて、人間には人間しかできないことを考え、そこに時間を使うべきだと言っているのだ。
それが本来の「人間にしかできない」ということである。

スティーブ・ジョブズやツイッターの創業者であるエヴァン・ウィリアムズなど、IT系の成功者たちが「禅」をやってきていることは有名な話である。
ぼくも同じなのだが、AIやメタバースを研究すればするほど、「人間とは」と考え始める。
「禅」の基本は「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」。
つまり、今、ここで私が生きるということだ。
AIが学習するデータは「過去」であり、「未来」を過去のデータから予測をするが、「今」は存在しない。

ならば「人間が人間として〝今〟を生きるということはどういうことなのだろうか」

つまりこれは「生」と「死」に似ていると感じている。
「死」がなければ「生」は感じることができない。

それと同じでAIに関わると深く「人間とは」と考え始めたというわけだ。
「AIと人間は違う。人間が作ることによって人間しかできないものになる」というのは、本来、AIを対比として「人間とは」の哲学を持って出てくる言葉のはずだ。

自然は「今」に生きている。
人間も本来、その「自然」の一部でしかないはずだ。

もともと自然は大好きだったが、自然の中で生きなければと強く思い始めたのはそういうことでもある。

年齢的なこともあるのだが、「しあわせ」とは何かを自然の中で暮らし始めてからよく考えている。
人間は「損得勘定」で道を決めることが多い。
その場合の「損得」はお金が中心になる。
お金はたしかに大切だが、お金のために生きているわけではない。

だがお金があれば、便利なもの、欲しいものが手に入り「しあわせ」だと錯覚する。
それはぼくたちがあまりに「情報」に踊らされているのかもしれない。

「便利」がしあわせの基準ならば、ぼくが子どもの頃お金など使わずに、友人たちと海や山で遊び、ひとつボールがあればいくつものゲームをやっていた、あのころより今は遙かにしあわせのはずだが、あのころの方が「自由」だったと感じている。

「人間とは」を考えることで、「生きるとは何か」につながっていく。
もちろん答えはない。
だが、ぼくたちは「今」を生きている。
インターネットに始まり、AIによってぼくたちの世界はエクスポネンシャルに大きく変化している。
その「今」、「人間として生きる」とはどういうことなのか。

そして「しあわせ」を考える。

【冷暖自治(れいだんじち)】

ハングリーであれ 愚かであれ

大学での自分のゼミの話を書こうと思う。
先週、田中ゼミ16期の4年生の最後の授業を終えた。

考えてみれば、ちばてつや先生から「大学へ来て、学生といっしょに作品を創らないか」と誘われ19年が過ぎたことになる。
「教える」のではなく、「いっしょに研究する」というのが田中ゼミのスタートだった。

そもそも大学に誘われたのは、21年前にケータイで読む、市販されていないセルシスのEnterpriseの機能を使っての表現で、世界で最初のマンガ表現を制作し、SoftBankとauから配信をしたことだった。

当時は「マンガをケータイで読む者などだれもいない」とか、「それはマンガではない」とか、マンガの常識にはないものを創ったことでだれにも相手にされなかった。
だが、ちば先生や京都精華大学の牧野先生から、「新しい表現は大学で研究したらいい」と、大学での研究が始まったのだ。

大学へ来て、最初のゼミ生と研究としてケータイで読むマンガを創ったところ、文化庁のメディア芸術祭で賞をもらった。

あれから19年、世界でマンガの98%がスマートフォンなどデジタルディバイスで読まれる時代となっている。
あのころ「ケータイでマンガを読む者などいない」と言っていた出版社の人たちが、今は当たり前のようにスマートフォンでマンガを配信している。
常識なんてそんなものだということだ。

大学で研究を始めて2年後の2008年に日本でiPhoneが発売され、スマートフォンによって大きく時代が変わるなか、2011年にiPhoneを生み出したスティーブ・ジョブズが亡くなった。
そのジョブズが2005年に今も語りつがれる伝説のスピーチをスタンフォード大学の卒業式で言っている。
すでに自分の身体が癌に蝕まれていることを、ジョブズは知ってのスピーチだ。
そのスピーチの最後に、ジョブズは「stay hungry、stay foolish(ハングリーであれ 愚かであれ)」と学生たちに向けてメッセージを告げている。

「ハングリーであれ 愚かであれ」とは、ホールアースカタログの最後に書かれた一文である。
この言葉の意味をぼくはこう理解した。

「何もないところから這い上がれ!」
「人が当然だと思っている常識を疑い
自分の意志を信じて生きろ!」

「ハングリーであれ 愚かであれ」は、大学で研究していく上で、ぼくにとってとてつもなく大事な言葉となっていった。

大学に入って教授になったころ、文科省の「マンガ・アニメの人材育成」のプロジェクトに参加することになり、副委員長になった。
マンガ、アニメを教える専門学校、大学のほとんどが参加してのプロジェクトである。
そこで、大学へ来るようになって抱いていた疑問を、参加した専門学校の講師、大学の教授などに聞いてまわった。
「マンガを教えるにあたって、専門学校と大学の違いは何ですか?」
不思議なことに、大学の教授たちから、「研究」という言葉はひとつも出てこなかった。

大学も専門学校も「知識」と「技術」を中心に教えているという。
つまり「常識」を教えていることしかやっていないということだ。

「研究」とは常識を疑うことから始まるとぼくは思っている。
たとえば課題を与え、その答えを導き出す授業は、常識としての答えが出た瞬間、思考停止になってしまう。
本来はそこから考えることで「研究」が始まるはずなのに、その「研究」を拒む授業を大学で行っているということだ。
自分のゼミでは答えを求める課題ではなく、自分にとっての課題をまず考える、そして自分の答えを思考するといった試みで進めてきた。

まだDXという言葉がなかった2010年から、デジタルを使って市や県の行政と組んでデジタルマンガコンテンツを作りはじめ、動画、3D、XR、メタバース、AIなどのテクノロジーの進歩とともに、そのテクノロジーを使って、64ものプロジェクトをプロとして仕事としてゼミで制作してきた。

その中にはNHKの総合テレビの1時間番組をモーションアニメで創った作品や、医学大学の教科書、宇都宮美術館と組んで、バーチャル美術館、また、今では宇都宮の大きなイベントとなった、「とちてれ☆アニメフェスタ!」などもある。

また11年前からは、宇都宮にある帝京大学、宇都宮大学と共同研究を始め、いっしょにゼミをやったり、コンテンツ制作も行っている。

海外でもぼくは、中国の南京電媒南広学院大学というメディアの大学の名誉教授になっていることから、2017年から中国でも授業を行っている。(コロナで渡航できなくなった2020年以降はオンラインになっている)

昨年、2023年はAIによって、時代が大きく変わって行く始まりの年となった。
10年前からAIはキャラクターを使ってのディープラーニングの研究をしていたぼくにとっても、2022年11月のChatGPTの登場は驚き以外なかった。
2000年以降、Internetによって世の中はまったく変わってしまったのだが、ChatGPTの登場はそれ以上に間違いなく世の中を変えることになる。

教育も大きく変わらなければならない。
Internetが出てきた時点で、「知識を教えるため」の大学ではなく、「考え方を教える大学」でなければならないと考えてきた。
そもそも常識としての知識は、検索し、またYouTubeを見れば最新の技術と知識がいくらでも公開されている。
そしてAIによって、「考え方」そのものが変わってきた。
大学で学ぶにとって、今のジェネレティブAIにおける世の中で一番必要なのは、「人間しかできない創造」
つまりリアルであり、人間ひとりひとりが自分しかできないこととは何かを考える。
それはまさに学ぶことにおいて、「研究」が重要になってくるということだ。

ジョブズはスタンフォード大学でのスピーチで、実はそのリアルの重要性をメッセージとして語っている。

「将来を見据えて点と点を繋ぐことなどできません。過去を振り返ったときに初めて点と点が繋がるわけです。ですから、私たちは将来どこかでその点が繋がると信じなければなりません。直感、運命、人生、カーマ、なんであれ、何かを信じる必要があります。私はこの生き方で後悔をしたことは一度もありません、自分の人生を大きく変えてくれたと思っています」

このメッセージは、将来を見据えるのではなく、まず自分がやりたいと思うことをとことんをやる。
その「点」の数がすべて経験となる。
そしてそのバラバラと思っていた経験の「点」が、将来必ずつながり、その経験の「点」がつながることで生まれたものは、自分にしかできないオンリーワンとなる。
そういうメッセージだと理解している。

これも田中ゼミにおける軸となっている考え方だ。

そしてもうひとつ、田中ゼミでつねにみんなに伝えている言葉がある。

「枯れた技術の水平思考」

任天堂にいた横井軍平さんの言葉であり哲学である。
枯れた技術というのは、何度も修正を繰り返し、安定した技術であり値段も下がっているもの。それを水平思考して新しいものを生み出していくということだ。

たとえば田中ゼミではマンガやキャラクターを、マンガ関係の世界で表現するだけではなく、観光、医療、福祉などなど、新しいテクノロジーと組み合わせ、新しいコンテンツを生み出していく。

この考え方はまさに今の時代、DXの根底となる言葉である。

田中ゼミで創ってきたコンテンツは、実はこの「枯れた技術の水平思考」の考えるもとで生みだしてきた。

たとえば、NHKで1時間のモーションアニメを制作したのは、NHKのラジオドラマの可能性をNHKのディレクターとディスカッションしたところから始まっている。
ラジオは今や、スマートフォンのアプリでみんな聞いている。
ということは、スマートフォンを使って見るラジオドラマは作れないかということから始まった。
NHKだけに有名な役者が声を入れてのラジオドラマに、アニメーションの10分の1ほどの予算で動画ができるモーションで制作したというわけである。

このようにこれからは、「枯れた技術の水平思考」の哲学を持って考えれば、マンガは冊子だけで読むものだけではなく、あらゆるディバイスでの表現、観光、福祉、医療、教育、エンタメ…あらゆる場所においてコンテンツを生み出すことができる。

DXの時代においては、表現法もXR、プロジェクションマッピング、そしてAIと、頭で想像したものがコンテンツ化できる時代になってきた。

「知識ではなく思考力を生み出すための教育」。
つまり今は「研究」の時代だと思っている。

ともあれこの19年間、ゼミで試行錯誤しながらもやってきた。

おもしろいものでこの歳になると、大学で研究をやりながら、自分の生きてきた「点」がつながってくるのを感じている。

高校までの野球部の経験、ミュージシャン、マンガ家、illustrator、フォトグラファー、ノンフィクション作家、マンガ原作者、コラミスト、エッセイスト…

AIを使いながら、音楽を生み出し、動画を制作し、仮想空間を生み出していく。
すべての研究において自分のこれまでの「点」がそこにある。

美術大学においては、こういった研究ゼミは「非常識」なゼミだと見られると思うがそれでいい。
時代は変わって行く。

田中ゼミ16期の4年生に最後に伝えた言葉はもちろんこの言葉である。

「stay hungry、stay foolish(ハングリーであれ 愚かであれ)」

 

 

【ハングリーであれ 愚かであれ】

あけましておめでとうございます!2024

2024年
大きく時代が変わっていく。
「知識」ではなく、「考え方」が求められる時代。
AI時代だからこそ、創造力、感性が重要になるという視点で生きなければならない。

AIは機械(テクノロジー)だ。
「知識」はテクノロジーによってデータ化される。

だからデータにできない視点。
人間は想像し、生み出す力を持っている。

人間が人間として生きる時代のはじまり
テクノロジーという道具を使って、人間は間違いなく変化していく。

 

2023年の終わりに

2023年は新しい時代のはじまりだった。。
まわりではあまりピンときてない感はあるが、世界は間違いなく、2023年から大きく変わって行く。

ぼくが週刊少年ジャンプで連載していた1988年は、ジャンプの発売日の月曜に電車に乗れば、大げさではなく8割近い乗客がジャンプを読みながら座っていた。
それが2000年代になると、乗客はケータイ電話を見るようになり、iPhoneが生まれた2007年から一気にスマートフォンが普及しはじめ、今では電車の8割がスマートフォンをいじっている。

いや、電車の中だけではなく、生活そのものがスマートフォンなしでは生きられないインフラとなっている。

Windows95が世に出たころから、電車の中でジャンプを読んでいたあの時代とは、まったく違う時代になっているというわけだ。

これほど時代が変わったにもかかわらず、Windows95で世界中でインターネットが普及し始めた中、日本の96年の普及率は3.3%と日本はインターネットの時代に乗り遅れ、1988年は世界の時価総額トップ50に日本企業は32社入っていたのが、2020年にはトヨタが40位後半に1社入るだけとなっている。
日本の経済が低迷し、失われた30年というのは、まさにインターネットによって、「情報」の時代と変わったというのに、「このままでいい」「ものつくり日本を変えるな」と、過去の考えにしがみつき変化を否定したことだと思っている。

日本でなぜGAFAMが生まれてこなかったのか。
時代を変えた、AppleのジョブズはSONYを手本としたというのに、日本の「このままでいい」という国全体の空気が、時代の変化に対応できなかった思っている。

そして今年、ジェネレティブAIによって、ぼくたちの生活は一変しようとしている。
ぼくたちのあらゆることに、AIがサポートしてくれることになる。

仕事も教育も遊びも、そして創造においても何かやろうと考えたとき、ジェネレティブAIはあらゆる分野で対応できる、人間にとって最高のパートナーとなることが、研究すればするほど見えてくる。

つまり、今までの「常識」がまったく変わってしまう時代に入ったというわけだ。

大学で言えば、「知識」を学ぶ場所ではなくなっている。
一番必要なのは間違いなく「思考力」である。
課題にしても、「必要なのはあたえられた課題を解決するのではなく、課題を見つける力」が必要となっていく。

つまり、人間のやるべきことは「覚える」ではなく、「研究」ではないだろうか。
大学はまさに、本来の「研究機関」としての場になるべきだと思っている。

大学は「学校」ではダメだということだ。
だが、「学校」という「知識を学ぶ」という常識が、大学の中での活動に大きな壁となることは予想できる。
インターネットの時と同じ、変わりたくない地位にしがみつく者たちが、古い常識を押しつけて、新しいものを否定し時代を止めてしまう。
そういう人たちは、AIを研究することなく、「人間をダメにする」とか、「恐ろしい」とか、それこそ知識なしで否定してくる。

日本が失われた30年をまた繰り返すのか、それとも変化することで新しい時代を生み出すことができるのか…

今、ぼくたちは大きなターニングポイントに立っているというわけだ。

2023年の終わりに

答えのない答え

暑く長い夏が終わり、自然の中の仕事場のまわりを散歩すると錦秋の風景が広がっている。
もう2023年もあと一ヶ月で終わりなのだが、今年は間違いなく人類の歴史が大きく変わる始まりの年となった。

今日もゼミ生、研究室に尋ねてきたDX関係の企業の人とも話していたのだが、世界がインターネットで時代が大きく変わった以上に、今、AIによって時代はエクスポネンシャルに進化していっている。

ジェネラティブAIであるChatGPT-3.5が昨年11月に一般ユーザー向けにリリースされ、今年3月にGPT-4.0が発表されたときから、時代が一気に動き出したといった感がある。

同時に画像ジェネラティブAIである Midjourneyが昨年の夏、ファインアートコンテストで、デジタルアーツ部門の1位を獲得したニュースに驚かされ、今では画像ジェネラティブAIをDALL-Eを使ってのMicrosoftのイメージクリエーター、そしてAdobeのPhotoshop、illustratorで画像生成も普通に使うようになっている。
この先、Adobeのソフトで、動画、3Dとプロンプトの指示で制作できるようになるということだ。
またぼく自身、音楽AIのsoundrawで3月から普通に仕事でも使うなど、すでにジェネラティブAIは表現のコンテンツの中でも、1年も経たずして仕事の道具として当たり前に使うようになっている。

こういった話をすると、非人間的な時代になっていくといった話をする人が多いのだが、それはまったく逆である。
今、人間はAIによって、「人間が人間らしく生きるにはどうしたらいいか」を問われる時代になっていっているのだ。

つまりぼくたちは、機械によってできるような「作業」を、そのテンプレートに従ってやっていたというわけである。
だからぼくらは教育の中で、テンプレートとしての「答え」を教えられてきたのである。
そもそも「答え」など、まず一つなわけがないし、時代とともに答えなど変化するものだ。

5~6年前だっただろうか、大学で「答えなどない、自分で考えろ」と学生に言っていたところ、学生から大学へ、「田中先生は答えを教えてくれません。職場放棄で給料泥棒だと思います」という投書があり、大学から呼び出されたことがあった。

そのとき思ったのだが、学生も大学も、答えがなければ不安で耐えられなくなるらしい。

だがAI時代になれば、「テンプレート」上の答えが常識としたならば、AIがはじき出すものが「正しい答え」ということになる。
要するにその答えを実行するのに人間など必要なくなるのだ。
だが本来、答えなどひとつではなく、時代とともに新しい答え、新しい常識を生み出すのが、つまりは人間ということになると思っている。

今まで「答え」を見つけたら思考停止してしまう教育をやっていたから、だれもがひとつの「答え」を求めることが正解と思っていたことで、「答えがない」などというと、職場放棄などと言われてしまったわけだ。

本来、人間というのは「考える」ことで新しいものを生み出してきた。
それがいつしか、新しい答えではなく、今までの答えの中で知識を振りかざすものがエリートと呼ばれ、想像力のないままに権力を持つ地位に就いてきている。

それが、AIによって、今までの知識としての答えなどAIの方が遙かに優秀だという時代がやってきたというわけだ。

今から人間が生み出す「答え」とは何なのか。
それは人間が人間として生きることを問われていると思っている。

AIが問いかけてくれた「人間」とは何か?

仕事場を自然の中に引っ越してから2年半、変わりゆく風景の中を歩きながら、一瞬、一瞬変化していく自然がその「答えのない答え」を教えてくれていると感じている。

 

【動けば変わる】

 

旅の始まり

大学での恩師の三浦久先生に久しぶりに会いにいってきた。
三浦先生はミュージシャンと大学の教授をやりながら、ふるさとの長野県の辰野町で35年以上前から、ライブハウスをやっている。

そのライブハウス「オーリアッド」で、やはり三浦先生を恩師としている「あのねのね」の清水国明さん、原田伸郎さんが、あのねのね50周年全国ライブツアーの中に、三浦先生のライブハウスもツアーに入れたのだ。
過去には武道館でもライブをやったこともあり、このツアーも全国のホールを回っているあのねのねの二人が、たった50人しか入らないライブハウスでのライブをなぜ入れたのか。

あのねのねの二人は、ライブで「自分たちは三浦先生によって、今の活動の原点がある」といった話を語り、50周年ライブツアーは三浦先生のライブハウスで歌うのが、一番の目的だったとも語った。
そう、人には、自分の人生が動き始める大事な出会いというものがある。

実はぼくも、大学で三浦先生に出会ったことによって、当時、大人気だったあのねのねもいた、インタースペースKIYOTOレコードという事務所を紹介され、その事務所でミュージシャンとして活動していた時期がある。
当時、週刊少年ジャンプで賞をもらい、マンガ家になろうとしていたときに、突然ミュージシャンとしてプロの世界に足を踏み入れることになったというわけだ。
18歳の春である。

事務所には、河島英五さん、やしきたかじんさん、笑福亭鶴瓶さん、タンポポ、ナック、そして三浦先生など多くのアーチストが所属していた。

あのねのねとは一時期行動を共にし、河島英五さんとは全国ツアーをいっしょに回るなど、今考えると、とてつもなく大きな経験をさせてもらった。

テレビの世界、ラジオの世界、映画の世界、イベントの世界など、あのねのねや河島英五さんといっしょに仕事をさせてもらえたおかげで、メディアにおいてプロのトップで活躍する人たちと何人も出会い、十代にして「プロの凄さとプロ意識」というものを目のあたりにすることになった。

※当時のミュージシャン時代の話は、旧HPの「あの頃ミュージシャンだった思い出」に書いています。
http://2002.seiichi-tnk.com/music.html
〝あの頃ミュージシャンだったような思い出〟

ミュージシャンとして活躍できなかったこともあり、三浦先生は今も、「田中くんの人生を狂わせてしまった」と言ってくるのだが、それはまったく違う。

ミュージシャンでは活躍できなかったとはいえ、その後のマンガ家、原作者、作家、ノンフィクション作家、ジャーナリスト、フォトグラファー、ディレクター、プロデュサー、研究家、大学教授など、自分が表現したいことで自由に生きてこれているのは、間違いなく、三浦先生との出会いがスタートだと思っている。
活躍できなかった音楽にしても、コロナ前までは年に何度かライブもやってきたし、今も曲を作っている。
動画制作などの仕事で、シンセやPCでの作曲をし、そして今はAIを使って曲作りを続けている。
(いつもこの場所に載せている動画も、曲はAIを使って作曲している)

ニーチェの言葉に、「生きるべき理由を知っている人は、そこにいたる方法も探し出す」
というのがあるが、「そこにいたる方法」には必ずきっかけがある。
そのきっかけを三浦先生に与えてもらったことは間違いない。

よく人生を旅に喩えることがある。
ぼくも自分の書いてきた本の中で、旅の喩えは何度か書いてきた覚えがある。

人生に立ち向かっていく中で、どんな自分になれるのか、どんな人と出会えるのか、それこそが旅であり、人生の本質だからだ。

旅の始まりは、だれもが無名で、何者でもない存在からスタートする。
その旅が何者かになろうとするときに、間違いなく出会いがある。

今回、オーリアッドで先生からのリクエストで17歳のときにつくり、先生との出会いのきっかけとなった「季節風」という曲を久しぶりに歌った。

そして先生から昨日メールが届いた。
「大学のプレハブの小屋の中で初めて聞いたときの感動が蘇りました」

そうだった。
プレハブの教室の中で、ぼくは人の前で初めてこの歌を歌い、旅が始まったのだ。

 

久しぶりに歌った「季節風」

 

自然の中で暮らし始め、今月作った言葉の動画
「すべては途中でのできごと」

 

本当のしあわせとは…

日課の田舎道を散歩しながら最近よく考える。
「しあわせ」とは何だろう。


ぼくの研究とコンテンツ創りはデジタルが中心だ。
XRを使ってメタバースなどバーチャルな世界を表現し、今年に入ってからはAIを使っての創作、研究が自分の中でも加速している。

今まで数日かかっていたことがカスタマイズしても数時間でできてしまう。
「便利」ということでは、テクノロジーでとてつもなく「便利」な世の中になってきた。

だが、「便利」と「しあわせ」は違う。

子どもの頃、ロボットマンガを読みながら、「便利」なロボットがいてくれたら「しあわせ」なのにと思っていた。
だが、子どもの頃から、時代は数段便利な世の中になったのに、「しあわせ」とは思えない。

そんな「しあわせ」とは何かを考えているとき、スティーブ・ジョブズの有名な言葉を思い出した。

未来を見て、点を結ぶことはできない。
過去を振り返って点を結ぶだけだ。
だから、いつかどうにかして点は結ばれると信じなければならない。

ぼくはいろいろなことをやってきた。
プロとしてだけでも、ミュージシャン、マンガ家、マンガ原作者、イラストレーター、ジャーナリスト、スポーツジャーナリスト、ノンフィクションライター、フォトグラファー、デジタルアートディレクター、プロデュサー、デジタル研究者、大学教授などなど…
とにかくやりたいことをやっていたら、プロと言われるようになっていた。

そのプロとしての根底にはいつも学生たちに言っている
「だれにでもできることを、だれにでもできないだけやる」
ただそれだけだ。

その歩みの中でジョブズの言う「点」を作ってきた。
創ってきた作品とともに、何人もの人と出会い、いくつもの景色と出会い、いろいろな世界を知り、その数だけの「点」ができてきた。

そして気づけば、その過去にできてきた「点」がつながり、今の創作が生まれてきている。

もしかしたら「しあわせ」というのは、形あるものではなく、ひとつひとつの「点」に夢中になり、そこで感じていた「瞬間」なのかもしれない。

自然を歩きながら、「ぼくはしあわせなのか?」と思うのではなく、自然の中で、雲の流れ、花の揺らぎ、緑の匂いを感じ、「気持ちがいい」と感じているその一瞬。
まさに、今の「点」の感じることができているのかということ。
それが「しあわせ」なのかもしれない。

この文章を書いている今、ふと、ぼくが大好きな美術館のことが頭に浮かんできた。
瀬戸内海の小さな島、豊島にある美術館。
豊島美術館

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ここには絵や彫刻といった作品はいっさい飾られていない。
ただ大きな穴が空いた空間があるだけだ。
その穴から空が見え、海の風が入ってくる。
波の音と、木々のざわめく音。
床には、雨のとき入ってきた水滴が、美術館の中で舞う風によって自由に動いている。

ひとつひとつが、その一瞬にしか感じられない、見ることのできない宇宙。
そこへ行けば何時間も宇宙の中で漂ってしまっている。

来週、ゼミ生とともに帝京大学、宇都宮美術館との共同研究で進めているバーチャル美術館の記者会見があるのだが、「便利」なテクノロジーの話でななく、「しあわせ」を感じることのできるプラットホームにこの美術館をしていきたい…
そういった話でもしようかと「今」思った。

 

君はひとりじゃない

卒業生のアップデートとしての大学

今、15年前に自分のゼミにいた卒業生の作家のKに仕事を頼み、いっしょに行政から依頼のマンガ制作と、動画制作を行っている。
Kは在学中からプロとして活躍し、卒業してからは週刊少年ジャンプで連載を行なうなど活躍しているプロのマンガ家である。

今回、Kが今、ぼくが行っている地域行政のコンテンツ制作に加わってくれたのは、「仕事」以上に「学び」の目的があったからだ。

Kはプロの世界で仕事をしながら、不安を抱いていたという。
時代が大きく変わる中で、「このままでいいのか?」という不安である。

マンガは冊子で読むものから、世界では98%がスマートフォン・タブレットで読むものに変わり、来年度の2024年度から小学校の教科書改訂に合わせてデジタル教科書を全国で本格導入することになっている。
つまり表現において、紙ではなく、デジタルの世界が中心となっていく。
作家として生きるにおいて、新しい表現がどんどん生まれてきている世界で、今までのやり方では取り残されていくという不安。

そして「ジェネレーティブAI 」によって、AIでマンガも制作できる時代に入ってきた。
ジャンプ+から、マンガ制作サポートAI「Comic-Copilot」(コミコパ)、漫画制作サービス「World Maker」が生まれてきている。

ぼくは両方使ってみたが、まったくマンガの描けないものでも、マンガが制作できるし、ChatGPTを活用しているだけあって、プロンプトによって、完成度の高いストーリーを組み立ててくれる。
2年でパラメータ数が1000倍と増えていっているChatGPTを考えれば、2~3年もすれば、こういったジェネレーティブAIによってマンガが描けなくても今のプロレベルの作品が作られることになるだろう。

現代はVUCK(ブーカ)の時代だと言われている。
「VUCA(ブーカ)」とは、ビジネス環境や市場、組織、個人などあらゆるものを取り巻く環境が変化し、将来の予測が困難になっている状況を意味する、「Volatility:変動性」「Uncertainty:不確実性」「Complexity:複雑性」「Ambiguity:曖昧性」の頭文字から来ている。

そのVUCKの時代の中で自分はマンガ家として生きて行けるのだろうかと、Kは不安になり、Kが相談してきたことから、大学で学ぶこともかねてKと今回の仕事をやってみることになったのだ。

ぼくのゼミはここ10年ほど前から、帝京大学や筑波大学、宇都宮大学、中国の南京電媒学院大学などとも共同研究をして、デジタルによってマンガの可能性の研究とコンテンツ制作をやってきている。
ゼミで制作したコンテンツは、70作品以上で、NHKの1時間動画番組も制作してきた。

もちろんAI研究も10年前からやってきている。
面白いもので、AI研究をすればするほど、創作において「人間の可能性」を考えるようになってきた。
AIにできることは、AIを道具として使い、人間にしかできない創作を考え、コンテンツ化を考える。

ここでも何度も書いてきたが、人間が人間として生み出すものは「リアル」だと思っている。
そのリアルの表現としてぼくは自然をつねに考えてきた。

空も木々も、海も山も、「今」しか存在しない。
(1秒先には空の雲ひとつ見ても変化している)
そこから生まれる感情は、「今」であり、「過去」でも「未来」でもない。

「今」を感じた感情は、「過去」である情報のビッグデータからは生まれることはない。

ぼくがここで日課の散歩をしながらiPhoneで撮ったものをAIを道具として使い、言葉の動画として載せているのも、今しか創ることのできない、人間が人間として生み出すことのできる表現の実験でもある。

ゼミでゼミ生といつも話しているのは、人間にしかできない創造を考える。
その創造を表現するために、ペイントソフト、3Dソフト、動画ソフト、音楽ソフト、AIを道具として使い、自分にしか創れない表現を形にする。

そういったことをいつも学生たちと議論し、学生たちも考え自分の「リアル」を表現してきている。

実はKは、そのリアルを持ってプロのマンガ家になったゼミ生である。
15年前、ぼくのゼミにいるころから、ぼくがノンフィクション作家でもあったことから、現場を見せ、Kにはとにかく徹底的に取材をやらせて作品を作らせた。
つまり、リアルに見て感じたところから作品を生み出しプロとなっていったのだ。

Kの創った作品は、大学時代に創った作品も、まずビッグデータでは創れない自分だけのリアルから生まれた作品だった。
これは今の時代においても、いや、今の時代だからこそより必要な作家だと、Kからは感じている。

不安の要因は、今の時代の中で表現するための知識だと思っている。
当たり前だが、時代とともにディバイスが発達し、表現の80%以上を占めている動画は創れなければ、20%以下の狭い世界でしか表現できない。3Dを覚えればメタバースの世界などバーチャルな世界でも自分の作品で表現できる。
作家として表現の世界が増えれば、それだけ生きていくプラットホームが増えていく。

もちろん、AIに表現できないものは、マンガを含めアナログ表現でもいくつもある。
だが、アナログ表現で生きていけるのは、間違いなく希有な才能を持った天才を感じる作家でなければ難しいこともたしかだ。
そこで生きられるのは、ほんの一握りしかいない。
創ることで成長する世界において、創ることで生きていけないとなると、創らなくなり、才能は涸れていく。

Kと話をしていると何時間も議論が始まる。
制作についての表現の仕方、それを表現するための技術、そして大学での研究から見えてきている未来など、とにかく止まらない。
お互いこれが実に楽しい。

卒業生がこうやってまた大学にやってきて、お互いプロとして新しい表現コンテンツを制作していく。
Kもプロとして活躍する中、アップデートをするために大学に来て制作する。

今回のKとの創作は考えてみると、今からの大学においてとても必要なことかもしれない。

「今」を生きている3度目の夏

仕事場を自然に囲まれた田舎に移して3度目の夏。
iPhoneで写真や動画を撮りながらの散歩が日課となっている。

散歩コースも大きく分けて3つの10キロコースに固まってきた。
都会のように道がたくさんあるわけでないので、車や人がいない農道を歩くとなると、だいたい決まったコースになってくる。
だが、その同じコースに、毎回驚きと発見がある。
田畑の変化もあるし、遠くに見える山々も毎日違う顔を見せてくる。
いろいろな花との出会いも毎回ある。

カモや鶴、キジの子どもが親を追って歩いていたと思ったら、季節の流れとともに大空に向かって羽ばたいている。

自然の中にいると、すべてが生きていることを感じさせてくれる。
過去でも未来でもなく、生きているのは「今」だということを感じさせてくれる。

つまり同じ道を歩いても、その道は「今」しか出会えない出会いだということだ。

自然の中で蘇ってくる。
子どものころの自然の中で遊んだ記憶。
思い出などではない。
この自然の中で生きていたことを身体が思い出させてくれるのだ。

目で見えているものは忘れてしまうけど 心で見た記憶はいつまでも胸に残る。

都会の中では偏見に捕らわれ、妄想に捕らわれたこともあった。
ときに世辞に乗せられ 欲に引きずられたりもした。
つまりは狭い世界のちっぽけな人間になってしまっていた。

面白いもので、大学でDXコンテンツを研究し、制作するほど自然に惹かれていく。

特にここで何度も書いてきたChatGPT-3.5が2022年11月に一般ユーザー向けにリリースされ、2023年3月にChatGPT-4が発表されてからは恐ろしほど時代が加速している。

ChatGPT-4のパラメータ数は1兆以上と言われ、今も機械学習によってAIは成長し人間のやっていること、やってきたことを次々と簡単にやってのけてしまう。

それは決して悪いことでは無く、テクノロジーにできることはテクノロジーに任せればいいという考えはずっと変わってはいない。
ただテクノロジーに頼るのでは無く、テクノロジーを「道具」として使えばいいだけのことだ。

 

AIが進化することで、「人間とは何か」ということを深く考えるようになった。
たとえばAIで音楽を創るとき、AIに向かっていくつものイメージを伝えて行く。
AIはそのイメージで、幾通りものパターンの曲をプレゼンしてくる。
何十曲、ときには何百曲のAIの創った曲を聴きながら、ぼくの方のイメージも膨らんでくる。
リズム、メロディーがイメージと重なったとき、「これだ」と感じた曲を下地として、そこからカスタマイズしていく。
音楽ソフトを使い、楽器も選びその曲にどんどんと沸いてきたイメージを重ねていく。

つまりAIを道具として使うことはこういうことだと思っている。

そして、AIを道具として使って行くと、テクノロジーとはまったく逆の、「人間にしかできないものは何か?」を考え始める。

同じ道を歩いても、その道は「今」しか出会えない出会いだと自然が教えてくれる。

心で見た記憶、心で聴いた記憶、心で感じた感触…
それは、過去でも未来でもない、「今」が教えてくれる。

自然を前に、「今」を生きている3度目の夏。

 

今月の自然の中を歩いて創った言葉の動画
「不幸の源」