安楽椅子を買った。あまりに楽で思想がわかない

2021-4-29

 

今年もゴールデンウィークのこの時期に、緊急事態宣言が発令された。
前回の緊急事態解除からの世界の状況、流れから見てこうなることはわかっていたと思う。

そう、「想像」すればだれにでも予測できたはずである。
だがエビデンスが見えてこないことで「想像」の目的があいまいになり、まん延防止にしろ、緊急事態宣言にしろ漠然としか捉えられなくなっている。

 

ぼくは大学では学生に、知識がなければ想像できないと語っている。
当たり前だが、どんなことだって知識がなければ想像は生まれない。

知識のない想像は、たんなる思いつきでしかない。

緊急事態宣言においての知識とは、科学的根拠に基づいた根拠である。
単なる数字が減ってきたからというのではなく、だれもが知りたいのはその数字のエビデンスだ。
それも目先ではなく、「こうなった場合はこうしていく」「なぜならこういうことだから」と、エビデンスによっていくつかのプランが出てこなければおかしい。

エビデンスを持ったプランを示してもらえれば、数字にリアリティが生まれ、ひとりひとりが「目的」を持って取り組むことができる。

最初のPCR検査にしても、クラスターつぶしが不可能になった時点で、なぜPCR検査を増やさないのか何の説明もないまま、どこに向かって、何をやろうとしているのかまったくエビデンスが見えてこないままでここまで来てしまっている。

日本人特有の曖昧にして、だれも責任を取らないシステムの中でその場しのぎ、だれもが人ごとのように時間だけが流れどんどんと最悪な道を歩んでいる。

今回のコロナで「あぁ…」と感じていることがある。
エビデンスが示されず、考えること、想像することができないではなく、考えること、想像することができなくなっている人間が増えているのかもしれない。

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大学で以前学生から大学側にぼくへのクレームがあった。
「田中先生は何事も考えろと、自分の頭で答えを考えろと、いつも答えを教えてくれない」
「学生に答えを教えないで考えろというのは、教師として職場放棄です。給料泥棒です」と、そういったクレームの投書だった。
ちなみに、その学生(いや、大学生の認識のないので学生ではなく生徒だな)は、自分の受け持つ生徒ではないのだが、他の先生の授業のように、教壇に立ち授業をするのではなく、研究室や、他の大学に行って学生たちと研究・制作をする田中ゼミは授業ではないと見ていたらしい。
そもそもゼミは研究であって、授業なのではないことすらわかっていない。

つまり大学とは考えるや、想像するでなく、教える側は問題の答えをちゃんと示さなければならないと考えているということだ。
それは大学を研究機関ではなく、答えを教えてくれる学校だと思っているからだろう。

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研究というのは、答えを自分で見つけ出すものであるから、検索しても出てこない。
検索して、自分の出した答えが出てくれば、それが自分の研究であり答えだということだ。
そしてそれが新しい常識として認められていく。

答えのあるテンプレートの上での教育で育った生徒は、学生にはなれず、大学に入っても生徒のままで考える力、想像する力を持たぬまま何の疑問もなく卒業していく。

今の状況も、考えないから、エビデンスを示さない政治に対して無関心だし、このままいけばどうなっていくのか想像できない人で溢れているこが今の日本かも知れない。

高校生のころに読んだ本で、どういった本に書かれたことだったのかも思い出せなく正確ではないかもしれないが、こういった言葉を思い出した。

“安楽椅子を買った。あまりに楽で思想がわかない”

安楽椅子とは、つまりは考えなくてもいい答えのあるテンプレートだということだ。

だが、今回の命のかかったパンデミックのテンプレートにない事態になったとき、考える力と想像する力がいかに必要か…日本人がそのことに気づくチャンスなのかもしれない。