「価値」を考える

大学でゼミ生、大学院生と「価値」について議論してみた。

資本主義の資本とは「価値」となる。
その「価値」を決めるのが資本主義では貨幣といっていい。
資本主義はほしいモノを手に入れたいといった、人間の欲望によって経済を発展させ、その媒介手段として貨幣が存在している。

貨幣は本来、ほしいモノを手に入れるための「手段」だったはずが、いつのまにか貨幣を手に入れるが「目的」となり、資本主義は貨幣を持ったものが「価値」がある者と思われるようになっていった。
だが、今はその価値は、まず「モノ」から「情報」に変わっていっている。
アメリカのGAFAMを見ても、中国のBATHを見てもわかると思う。

マンガだって本というモノで読むのではなく、情報としてスマートフォンやタブレットで90%読まれている。
音楽など書籍より7年早く情報として手に入れるコンテンツとなっている。

では資本主義で「目的」となった貨幣は今も「価値」の目的のままなのか?
学生との議論の中でも、お金は必要だが、「価値」ではないという意見が出てくる。

興味深い例を挙げると、「1000万円持っている人と、収入は0だが、SNSで100万人のフォロワーを持つ人とどちらが価値があるか」という質問に対して、ほとんどが100万人のフォロワーに価値があると答えてきた。

たしかに100万人のフォロワーを持つ人は、その数がやりたいことへのビジネスにつながるわけだから、今の時代、「価値」はSNSのフォロワーの方が遙かに魅力を持つ。
まさに「情報」が資本の時代だと、学生たちもそう感じているようだ。

ではその「価値」を追い求めれば「しあわせ」になれるのか?
学生たちとの議論のあと、ずっとそのことが気になりはじめた。

本来、資本主義とは人が「自由」に生きるためのものである。
その資本が「情報」となった今、この先どうなっていくのだろうか…

アメリカの心理学者のバリーシュワルツ氏の言葉がある。
「豊富で複雑な選択肢は、私たちを自由にするのではなく、無力さを感じさせてしまう」

情報の時代、ぼくたちの周りは豊富な選択肢で溢れている。
そこにある「価値」の中でどう生きていけばいいのか…

今日も仕事の合間に写真と動画を撮りながら自然を歩く。
ただそれだけで「しあわせ」を感じる。
自分にとってこの自然はとてつもなく大きな「価値」となっている。