「今」を生きている3度目の夏

仕事場を自然に囲まれた田舎に移して3度目の夏。
iPhoneで写真や動画を撮りながらの散歩が日課となっている。

散歩コースも大きく分けて3つの10キロコースに固まってきた。
都会のように道がたくさんあるわけでないので、車や人がいない農道を歩くとなると、だいたい決まったコースになってくる。
だが、その同じコースに、毎回驚きと発見がある。
田畑の変化もあるし、遠くに見える山々も毎日違う顔を見せてくる。
いろいろな花との出会いも毎回ある。

カモや鶴、キジの子どもが親を追って歩いていたと思ったら、季節の流れとともに大空に向かって羽ばたいている。

自然の中にいると、すべてが生きていることを感じさせてくれる。
過去でも未来でもなく、生きているのは「今」だということを感じさせてくれる。

つまり同じ道を歩いても、その道は「今」しか出会えない出会いだということだ。

自然の中で蘇ってくる。
子どものころの自然の中で遊んだ記憶。
思い出などではない。
この自然の中で生きていたことを身体が思い出させてくれるのだ。

目で見えているものは忘れてしまうけど 心で見た記憶はいつまでも胸に残る。

都会の中では偏見に捕らわれ、妄想に捕らわれたこともあった。
ときに世辞に乗せられ 欲に引きずられたりもした。
つまりは狭い世界のちっぽけな人間になってしまっていた。

面白いもので、大学でDXコンテンツを研究し、制作するほど自然に惹かれていく。

特にここで何度も書いてきたChatGPT-3.5が2022年11月に一般ユーザー向けにリリースされ、2023年3月にChatGPT-4が発表されてからは恐ろしほど時代が加速している。

ChatGPT-4のパラメータ数は1兆以上と言われ、今も機械学習によってAIは成長し人間のやっていること、やってきたことを次々と簡単にやってのけてしまう。

それは決して悪いことでは無く、テクノロジーにできることはテクノロジーに任せればいいという考えはずっと変わってはいない。
ただテクノロジーに頼るのでは無く、テクノロジーを「道具」として使えばいいだけのことだ。

 

AIが進化することで、「人間とは何か」ということを深く考えるようになった。
たとえばAIで音楽を創るとき、AIに向かっていくつものイメージを伝えて行く。
AIはそのイメージで、幾通りものパターンの曲をプレゼンしてくる。
何十曲、ときには何百曲のAIの創った曲を聴きながら、ぼくの方のイメージも膨らんでくる。
リズム、メロディーがイメージと重なったとき、「これだ」と感じた曲を下地として、そこからカスタマイズしていく。
音楽ソフトを使い、楽器も選びその曲にどんどんと沸いてきたイメージを重ねていく。

つまりAIを道具として使うことはこういうことだと思っている。

そして、AIを道具として使って行くと、テクノロジーとはまったく逆の、「人間にしかできないものは何か?」を考え始める。

同じ道を歩いても、その道は「今」しか出会えない出会いだと自然が教えてくれる。

心で見た記憶、心で聴いた記憶、心で感じた感触…
それは、過去でも未来でもない、「今」が教えてくれる。

自然を前に、「今」を生きている3度目の夏。

 

今月の自然の中を歩いて創った言葉の動画
「不幸の源」

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