マンガ革命

2019年1月31日

2007年に、ちばてつや先生に誘われて大学でマンガを研究するようになったとき、最初に掲げたのが「マンガ革命」という言葉だった。
大学の研究室の入口に、ドン!と張り出し、今も「マンガ革命」の紙は貼られている。

なぜあのとき、「マンガ革命」の文字を書き、研究室の入口に張ったのか。
当時、auとSoftBankのケータイ発信で、「クリコミ」(当時のケータイは、クリックして画面移動していたので、クリックして読むコミックという意味)という、世界で初めてのケータイで見るために創ったマンガ配信をやっていたことで、必死に尖っていたのかもしれない。
当時、まぁ、だれもがケータイでマンガを読めるなんてこと事態知らないし、そもそもマンガは冊子で読むものだという「常識」によって、「ケータイで読むマンガなど邪道」と、いろいろ批判を受けていたことに対する反発だったのかもしれない。

ケータイでマンガを創るということは、冊子ではできなかった表現、スクロールや、場面転換のエフェクトに絵を載せ動かしたり、パラパラマンガの方式で表現が切り替わる効果を作ったり、バイブ機能や、音も使えるなど、新しい表現が、マンガができると確信していたことから、「マンガ革命」などと尖った言葉を研究室の扉に張ったのだと思う。

だが言葉というのは、人間をその方向に向かわせていく。

今ではというか、たった10年でマンガは、冊子で読んでいる人より、スマートフォンやタブレットで読む人が上回っている。
それどころか、スマートフォンをコントローラーとして、IoT、AR、VR、AI、を使い、繋ぐことであらゆる表現とともに、あらゆる分野でのマンガの可能性がどんどん広がっていっている。

大学での研究も、工学部、理工学部、医学部など、他の大学との共同研究も進め、マンガの可能性を探っている。

「革命」という言葉は、ぼくたちのイメージの象徴はゲバラであり、権力を持つ体制に対して、自由を求めて変革するために戦うスローガンとしての言葉となっている。
いや、もっと広い意味をこの言葉は持っているな。
“常識”を時代とともに変えていく。
「今のまま」でいることは、後退でしかない時代。
時代の中で走り続けることが、自分の中でつねに“革命”を起こしていると、この言葉を捉えてもいいかもしれない。

そういう意味では、大学ではずっと革命を起こしつづけている。

尖って大学に入ってきたこともあって、大学の現状にはいつもため息ばかり。
学生も教員も、大学を“研究機関”としてではなく、高校の延長、つまり“研究機関”ではなく、学校として見ているものが大半をしめているように感じているからだ。
大学でどれだけの教員が本気で研究しているのだろうか…
時代はエクスポネンシャルに動いているのに、何十年も同じ講義をやっているなど、本来はありえないのだ。
それも本来なら時代の最先端でなければならない、大学が完全に時代に取り残されているように感じている。

そういったことから、ちばてつや先生と2016年に【ちばてつやMANGAイノベーション研究所】を立ちあげ、大学を変えなければならないと、ここ5年本気で動いてきたことが、時代のタイミングもあるのだが一気に動いてきている。

自分の大学で言えば、今年度から「アニマルアート」という学科をつくり、来年度からはアニメーション、マンガ英語と学科を立ち上げる。
他大学とも、共同授業は3年前からいくつか形にしてきていて、今は共同学部設立の話しを文科省にも繋げて進めている。
医学大学とは、マンガセラピーの研究も始める。

海外でも、中国のメディアの大学で今年からマンガ学科を立ちあげ、春から毎月一週間ほど滞在しながら、中国の大学にも共同研究を進めて行く予定だ。

そのすべての進行、カリキュラム、教員などの人材捜しとひとりでやっているもので、とにかく時間が足りない。
これ以外に大学の授業に、学生たちと進めているいくつかの仕事(今日も2本〆切がある)と、冷静に考えれば物理的にありえない仕事量を抱えている。

だいたい、今の仕事量を人に話すと、だれもが驚いてしまうのだが、先日、電子機器のワコムに中国の大学のことと、アニメーションの立ちあげで相談にいったとき、Yさんが「ありえないな」と笑いながら言ったあと、「でも、たのしそうだね」と言ってきた。

実はそうなのだ。
10代のころから、自分の中のものさしがある。
「できる、できないではなく、やりたいか、やりたくないかで決める」

そう、「やりたいからやっている」のだ。
そしてそれが「革命」になれば実におもしろいではないか。