考えてみれば、2005年に、ケータイ電話でマンガを読むことなどなかった時代に、ケータイの機能を使ってのマンガを制作し、SoftBank、auで配信したときから、自分にとってのDXが始まっている。
もちろんDXなんて言葉などなかった時代である。
そのときに、文星芸術大学、京都精華大学から誘われ、大学でのデジタルマンガ研究の道を歩み始めている。
デジタルでのいくつものコンテンツを作ってきた。
モーション動画から、3D、AR、VR…
エクスポネンシャルな時代の流れの中で、今はXR、メタバースでのコンテンツの研究、制作をやっている。
メディア芸術祭、デジタルキャンパスマッチなど大きな賞もいくつかいただいた。
NHKの総合テレビの50分の番組も、実験的に作らせてもらった。
帝京大学、宇都宮大学などとも共同研究も10年以上やってきている。
コロナの関係で3年近く行けていないが、中国の南京電媒南広学院大学では「MANGAイノベーション」の研究所も持たせてもらっている。
最近ではDXコンテンツを研究、制作していることから、大学、行政、民間から講演など声もかけてもらっている。
そこで感じることは、だれもがDXの時代にどうしたらいいのか「わからない」と迷っているようだ。
そもそもDXとは、IT技術を持って生活をより良いものへと変革させる概念で、つまり「デジタル知識を持って想像しコンテンツ化する」ということだ。
ではどう想像したらいいのか、そこに答えがないからどうしたらいいのかわからない人たちがたくさんいるようだ。
ぼくは最近、DXの話をするとき、DXの本質について、この二つの話をするようにしている。
ひとつは、携帯ゲームの父と言われている、任天堂の横井軍平氏の哲学。
「枯れた技術の水平思考」
「枯れた技術」とは、悪い意味ではなく、すでに広く使われて、バグなどの不具合も出し尽くして安定して使える技術。
「水平思考」とは”今まで無かった使い道を考える”ことである。
つまり、画期的な新しい技術ではなく、だれもがあたりまえと思っている技術を、別の分野に流用し、まったく違う価値観を探り当てるといったことである。
そしてもうひとつは、2005年、スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式に招かれたときに伝えた言葉。
「未来を見て、点を結ぶことはできない。
過去を振り返って点を結ぶだけだ。
だから、いつかどうにかして点は結ばれると信じなければならない」
この二つの言葉は、「枯れた技術の水平思考」が90年代、ジョブズの言葉は2005年とDX時代の遙かに昔の言葉である。
だが、このふたつの言葉は、まさにDXの本質を突いた言葉でもある。
もっと言えば人間の本質を突いた言葉かも知れない。
人は自分の「枠」の中で生きてきた。
大きく言えば国境であり、大学で言えば、学部である。
昨年、東京工業大学と東京医科歯科大学の統合がニュースになったが、医学とテクノロジーは今は線で結ばれるなど常識になってきている。
だが、枠に捕らわれている人は、医学部と工学部が「なぜ?」と疑問を抱くらしい。
今まで点という「枠」の中のものは、線で結ばれ、それをまた水平思考で新しい発想が生まれてくる。
「枠」を取り払った思考がぼくはDXだと考えている。
ふと、ぼくがミュージシャンだった時代、いっしょにコンサートツアーさせてもらった、河島英五さんの「てんびんばかり」の一節を思い出した。
うちの子犬は とても臆病で
ひとりでは街を歩けない
首輪を付けると とても自由だ
ぼくを神様だと思っている。
DXの時代において、首輪を付けられることが自由だとまだ思っている人が、この日本にはまだまだ多いのかも知れない。
今回は学生たちにいつも言っている、「誰にでもできることを、だれにでもできないだけやる」を言葉の動画にしたので載せておきます。