ちばてつや先生からの幸甚の言葉

昨年末から動画生成AIのsoraが使えるようになり、いろいろためしている。
最初はプロンプトで生成する映画の作品のような動画に驚いていたのだが、やはり、DALL-Eやミッドジャーニー、fireflyで画像生成をするのと同じで、プロンプトで出てきただけの動画には飽きてしまう。

これはAI全般に言えることなのだが、AIをどう使うのか「目的」を持たなければAIを使う意味はさしてないということだ。

だが目的を持てば、AIは最高のアシスタントとなってくれる。

ChatGPTも最初は「検索」のために使っていたのだが、今は自分の原稿や論文をチェックしてもらったり、アイデア出しのとき相談相手になってもらったり、留学生や海外の人との会話では同時通訳もやってもらっている。
今度、中国の大学での講義のとき、ChatGPTを使って通訳なしで講義してみようとも考えている。
仕事以外でも、出身地の広島弁をしゃべらせ、好きな野球やボクシングの話し相手にもなってもらっている。
ChatGPTは、ぼくにとって日常のいたるところで、会話できるパートナーと今はなっているというわけだ。

こうやって毎日、AIをパートナーとして使っていると、これも何度もここで書いてきたことだが、「人間とは何か?」「自分とは何か?」を深く考えるようになる。

つまり、AIにはできない、自分しかできないことがあり、その上での制作上、データによって可能な「作業」はAIに任せ、自分は、自分から生まれてくる「創作」だけに時間を費やすことができる、自分しかできない創作ができるわけだ。

考えてみれば、これまで人間は、本来人間にしかできないことは何かなど考えずに、働くことは「作業」することだと、機械のように働かされてきた。
今まで、産業革命が起こるたびに、ブルーカラーの人たちが、機械によって仕事(作業)を奪われるのは、知的じゃないからだとホワイトカラーの人たちは笑っていたが、知識がデータとなった今、ホワイトカラーの人たちもAIによって仕事(作業)を奪われている。

知識を持った人、勉強のための暗記力の優れた人間がエリートともてはやされる時代は終わり、思考力を持った「創作」できるものが求められる新しい時代がやってきた。

2022年の11月にChatGPTが一般公開され、今ではパラメータ数も1兆を超えたことで、人間ひとりひとりが、自分にしかできないこととは何か、それを考えなければ、自分を見失ってしまうことになってしまう時代が始まっている。

その「自分とは何か?」とは、自分が生きてきた「物語」の中にある。
人は当たり前だが、それぞれが自分の生きてきた「物語」の道を歩いている。

ぼくは「自分とは何か?」と問われると、間違いなく自分の生きてきている「物語」の創作のはじまりは「あしたのジョー」だと答える。
ミュージシャン、マンガ家、マンガ原作者、作家、フォトグラファー、大学教授、研究者などなどと、自分の肩書きは仕事の数だけ出てくるが、自分のこうした創作ののアイデンティティは間違いなく「あしたのジョー」からすべて始まっている。

11歳のとき、週刊少年マガジンで「あしたのジョー」が始まったときから、自分の人生の羅針盤となった旅が始まった。

あしたのジョーに夢中になったボクは、本当のボクシング界に矢吹ジョーを探し、ボクシングマガジンを隅から隅まで読みあさった。
少年院あがりのボクサー、バズソー山辺にジョーを重ね、ボクシングマガジンに似顔絵を投稿し掲載されたのが、初めての雑誌掲載。
ボクシングマガジンの中の豊島正直にもジョーを重ねて夢中になった。
後にボクシングマガジンでは28年間連載をさせてもらっている。

音楽でもジョーから触発されて曲をつくった。
マンガはもちろん、小学校のときから、あしたのジョーを手本にマンガを描いている。
プロになってからも、いつもあしたのジョーを追いかけていた。
沢木耕太郎の「一瞬の夏」を読んだとき、そのリアルに惹かれボクサーたちを追いかけはじめた。

浜田剛史と出会った。
ジャッカル丸山と出会った。
畑中清詞と出会った。
尾崎富士雄と出会った。
大橋秀行と出会った。
福田健吾と出会った。
飯泉健二と出会った。
赤井英和と出会った。
大和田正春と出会った。
長島健吾と出会った。
マイク・タイソンと出会った。
他にも数え切れないボクサーたちと出会った。
デュラン、ハーンズ、ハグラー、レナード、カマチョ、カオサイなど、海外のチャンピオンたちとも出会うことができた。
それをマンガで、ノンフィクションで、イラストで、写真で形にしてきた。

そんな中でちばてつや先生とも出会った。

1997年、ぼくが40歳のときに書いた著作「拳雄たちの戦場」に、ちばてつや先生がすいせんの言葉を贈ってくれた。
自分にとって夢のような言葉が書かれていた。

「この一冊のさわりだけでも読んでいたら、「あしたのジョー」もっとさらに豊富なキャラクターに彩られ、もっと人間味のあふれた作品になっていたのではないか…と、今更ながらではあるが残念でならない」

自分が生きてきた道の途中、自分が目指し、憧れ、夢中になり、自分の中から生まれてきたすべてに感謝できた瞬間だった。
あしたのジョーに、自分の創作が触れることができた…そんな言葉だった。

そしてこのとき気づいたことがある。
あしたのジョーになぜあんなに夢中になったのか。
そのジョーから何人ものボクサーやスポーツ選手、武術家と出会い、そしてまた夢中になって今も創作をつづけているのか?
ちばてつや先生から感じる静かな空気感は何なのか。
あのとき出した答えは、「生命力」だった。

そして「今」。
「人間とは何か?」
「自分とは何か?」

AIを研究すればするほど、人間の持つ、自分が生きている「生命力」の凄さに惹かれていく。

【ちばてつや先生からの幸甚の言葉】

人は経験によって物語を紡ぐ

2024年がまもなく終わる。
あっという間の一年だった。
歳を重ねると。「ジャネーの法則」によって、一年が年齢とともにどんどん早くなっていくと感じてしまう。
それは「経験」を重ねることで、ひとつひとつが新しい発見ではなくなり、記憶に残る時間の刻みが年齢とともに少なくなっていき、過ぎ去るように時間を感じてしまうということだ。

そんな年齢とともに刻まれる経験が少なくなった2024年を振り返ったとき、自分にとっての新しい経験は何だったのかと考えると、この場所でも何度も取り上げてきた「AI」を考える一年だったように思う。

AIがエクスポネンシャルに次々と新しいものを生み出すことに驚き、自分の研究にAIをどう利用するか、さまざまなAI研究家と議論してきた一年でもあった。

それと同時に、AIを研究すればするほど、「人間とは何か?」という疑問に直面する。

これは研究家も含めてだが、「AI」が生み出すものを「目的」と捉えて、「すべてを与えてもらえる」「これがあれば人生バラ色」や、逆に「忌避」や「畏怖」を感じてしまっている人たちが実に多いと感じている。

だが、人間が生み出したAIはあくまで「道具」である。
「人間とは何か?」と考えたとき、人間が生み出す形あるものは、人間にとって「目的」を達成するための道具としての「手段」でしかないのではないか。

突き詰めた「目的」とは、つまりは「しあわせ」になることである。
その「しあわせ」は、当たり前だが、人によってまったく違う。
そのしあわせになるための「手段」としての道具のひとつが「AI」という道具。

たとえば「AI」を「お金」にたとえてみれば、少しは言っていることを理解してもらえるかもしれない。
「お金」は、人間が「しあわせ」になるための便利なやりとりするために生まれた「手段」としての、道具のはずである。
だが、「お金」が目的となってしまった人間が、お金が存在した瞬間から湧き出てくるのも人間なのかもしれない。
「手段」が「目的」となったとき、それは「しあわせ」ではなく「欲望」となってしまう。
つまり「目的」が「欲望」ということになってしまう。

AIにも同じだと感じている。
AIはあくまで、人間がしあわせになるための「道具」としての「手段」のはずなのだが…その道具をどう使えばいいか、何に使うのがしあわせか想像力がないことで、それがお金と同じで、それを持てばしあわせになれると思い込んでいるのかもしれない。

話を元に戻すが、個ではなく、総のデータによるAIと対比して、「人間とは何か?」と考えたとき、人間はひとりひとりはデータではなく生きてきた経験による「物語」を持っている。
つまり、生まれて、いくつもの「経験」を積んで「今」があるということだ。

今年の夏、母が亡くなったとき、母の生きてきた「物語」を考えた。
そのとき感じたのは、自分にとっての母の物語は、自分が経験してきた母との物語だということだ。

つまり、「物語」とは、人間が生きているということは、「経験」の積み重ねが生きているということではないか。

そう考えたとき、自分の経験を掘り起こしてみようと考えた2024年でもあった。

幸運なことに、作家として、マンガ家として、フォトグラファーとして、ミュージシャンとしてなど生きてきたことで、自分の「経験」を表現する形あるものが自分の物語の中に残っている。

中でも自分にとって、ボクサーたちとの出会いは、自分が生きてきた、「経験」してきた、自分にしか表現することのできない大事な生きてきた「命の時間」が間違いなくある。

そんなことを新しい発見として考えてきた、2024年は、時間のあるときに何千、いや、何万枚の倉庫の奥に保管していたフイルムを取りだし、一枚一枚を見返しながら、フイルムスキャンでデータ化していっている。

今、日本至上、いや、世界の歴代ボクサーとして間違いなく伝説となる井上尚弥のジムの会長でもある大橋秀行。
150年にひとりと言われた天才ボクサーとして、ボクシング界に現れた大橋が世界チャンピオンになるまでを追いかけた日々。
天才を演じるため、努力を見せない努力家だった大橋。
大きな挫折が、あの世界を手にしたときの叫びとなった大橋。

そんなボクサーを見てきた経験による「命の時間」を2024年の最後の日記で紡ぐんでみた。

【旅の空Ⅸ Ohhashi】

ジャッカルとの日

大学のゼミで、ゼミ生に「締め切りを守る必要性、それは表現者として生きて行くための信頼」という話をしていたときだ。
学生から、「プロとしてやってきている先生は、今までいくつの締め切りをやってきたのですか」という質問をうけた。
そういえば数えたことなどなかったが、作品の連載の数から、思い出すかぎり書き出してみると、1128本の締め切りをこなして来ている。
1回きりのイラストやコラム的なものは思い出せないものがいくつかあるが、とりあえず1128本という数字が出た。
もちろんカンズメやギリギリの印刷所で書いて入稿したことは何度かあるものの、締め切りを落としたことは1度もない。

考えてみれば40年以上プロとして作家をやってきたわけだから、まぁ、これだけの締め切り数だけの作品を書いてきたわけだ。
自分の作品はノンフィクションが多いのだが、フィクションにしても自分で経験しての取材から生まれている。

ノンフィクションの原稿は、ほとんどというか、すべて「ボク」という主語で書いてきている。
つまり、書いてきたものは、つねに自分の生きている「今」から生まれてきたものばかりで、AIには創れない作品を書いてきたことになる。

これからの作家は、「自分しか生み出せないもの」でなければ、作家として生きていけない時代だと、そしてそれは「いいことだ」と、作家でAI研究もしていることもありいろいろな場所で話している。

自分の作品を読み返すと、ボクという主語で書いてきているというのもあるが、どの作品も思念を押し出す表現で書いてきている。

スポーツ選手を追いかけ、2年、3年、長くなると10年以上見続け、ときにはトレーニングに参加させてもらったり、プライベートで旅をしたこともある。
そういった長いつきあいの中から、スポーツである以上、勝負という勝ち負けを書くことになる。
ただの勝ち負けではない。
人生を賭けた勝ち負けがそこにある。
だからうれし涙を流し、悔し涙を流す。
選手はもちろん流すが、書き手であるボクもいつも涙を流してきた。

その涙こそに、人間が生きてきている人生の真実があるのかもしれない。
データで作ったもの、中途半端なもの、ビジネスライフで取り組んだものでは、まず涙など流すことはない。
涙を流すということは、そのためだけに生き、そのためだけに人生のすべてを賭けた時間の中で濃密な日々があったからだ。

「16フィートの真夏」という作品がある。
ジャッカル丸山というボクサーを追いかけ、そのボクサーの生きている意味と覚悟を見せられ、そこから生まれたすべてを、叩きつけた作品だ。

当時、ジャッカルの試合が一番面白いとチケットは即完売、その命のやりとりのような闘いにボクシングファンを唸らせ、ボクもその一人でジャッカルを書きたいと追い続けた。
そんな中惜しまれながら、ジャッカルは引退を決め、引退式の開催も決まり、何より彼女と結婚も決まった。
その彼女の実家の経営する料亭も任されることになり、これ以上ない幸せがボクサー引退後に待っているはずだった。
だが、ジャッカルは引退を撤回し、そのすべてを捨てて世界1位のボクサーに挑むために復活のリングに上がった。
なんてボクサーなんだ。

勝てば世界戦が待っている。
負ければすべての道が閉ざされる。
結果は、ジャッカルのパンチを恐れた世界1位のボクサーが攻めることなく足を使われ、ドローという結果に終わった。
負けたのなら納得がいく。
だがドローという結果で、ジャッカルのすべてを賭けた道が閉ざされた。

試合が終わり、控え室でひとりポツンと座っているジャッカルにボクは声を掛けることができなかった。
ボクのの中で、やるせない悔し涙が流れた。

あのときは、すべてを賭けた時間に空しさを感じていたが、そうではない。
ジャッカルが本当に自分のすべてを賭けて挑んだ時間。
そしてその時間の中で生きられた、時間があった。

あの時間にこそ、ジャッカルも、ボクも「生きている」という、あまりに濃い時間があった日。
それが人間にとっての、生命を持つものの「幸せ」なのかも知れない。

その幸せの時間こそが、AI時代において、AIでは作ることのできない、人間としての生き方ではないかと、今の自分は思っている。

【旅の空Ⅷ ジャッカル】

心を開いて「Yes」と言う

ジョン・レノンの言葉で、20代の頃から大事にしている言葉がある。

「心を開いて「Yes」って言ってごらん
すべてを肯定してみると答えがみつかるもんだよ」
John Lennon

No!と言えば、そこで扉を閉じてしまう。
だが、Yesと言えば、その扉の向こうへと旅をつづけることができる。
その先に素晴らしい出会いがまっているかもしれない。

人は「成功」したいとだれもが思っている。
「成功」するために人は努力をする。
だが、「成功」するものなど、ほんの一握りにすぎない。
では成功しなかった者は不幸なのか?

20代、30代、40代と大好きだったボクシングを、密着して追いかけ、マンガ、ノンフィクション、写真、エッセイ、コラム、イラストと、何作もの作品を書き、何冊もの本も出してきた。
世界チャンピオンになったボクサーも何人かいる。
だが大半は、夢にたどり着けないまま引退していったボクサーたちだ。
では世界チャンピオンになれなかったボクサーは不幸なのか…

ぼくはボクサーたちと付き合うことで、「あぁ、人生とはこういうことか」と見えてきたことがある。
夢に向かって、すべてをボクシングのためだけに生きたボクサーは、たとえ「成功」できなかったとしても、全員、間違いなく生きるにおいて「成長」している。
「死」を感じ闘うということは、「生」を手にするこであり、生きるにおいて見えてくるものが必ずある。

人は命があるかぎり「成長」したいと願っている。
生きることとは、過去でも未来でもなく、今を生きることで「成長」することだと思っている。

「成長」とは、「チャレンジ」でもある。
チャレンジには逆境が必ずある。
だが、思い返してほしい、何においても、逆境に向かって挑んだとき、それが失敗だったとしても、その後の生き方において成長を感じたことがあるはずだ。

 

日本人は「失敗」を悪と見る人が多い。
たとえば、日本の野球を見に行くと、盗塁したとき、アウトになったとき「何やってんだ!」とヤジと罵声が飛ぶ。
だが、メジャーリーグを見に行くと、アウトになったとしても「ナイストライ!」と拍手がわく。

大学にいると、「常識」に縛り付け、「常識」を逸脱すると怒られるといった教育を受けて育ってきた学生が大半だと感じている。
みんな「常識」でいう「いい子」たちだ。
研究とは、今までの「常識」を疑うことから始める、つまりトライなのだが、「常識」の中以外は「No!」と学生たちは扉を閉じてしまう。
つまり失敗を恐れ、萎縮して無難な場所で留まるために、少しでもリスクを感じると、その扉は開けない。

これで面白いのだろうか?
自分の「成長」を自分で阻んでおもしろいのだろうか?

大学もそうだが、日本の社会全体がコンプライアンスという、「常識」のルールで縛り、新しい扉を開けようとしない世の中に、最近少し辟易としている。

ぼくはボクサーの生き方に「生命力」を感じ、その生き方を追いかけ何冊もフィクション、ノンフィクションを書き、写真を撮り、絵も描いてきた。

どう考えたってボクサーは最悪に費用対効果の悪い生き方だ。
だが、「生きる」においては、これほどシンプルな、魅力的な生き方はない。
拳ひとつで、成長するためだけに命を賭け日々を生きる。

残りの人生、ボクサーのように生きよう。
そして「Yes!」と扉を開けつづけよう。

【旅の空 Ⅶ owada】

アメリカの拳、そしてフイルムに残された旅の彷徨

フィルムを整理している。
一万本近いポジフイルム、白黒フイルム、ネガフイルムが倉庫部屋に眠っている。
フイルムで撮っていたのは、2004年までだ。
デジタルカメラがフイルムカメラの出荷台数を抜いたのが2002年だから、当時はフイルムカメラに拘って写真を撮っていたということだ。
いや、長くフイルムカメラで撮ってきた、そのデータと経験が無駄になりそうで、デジタルでなく、フイルムにしがみついていたのかもしれない。

だがわかっていた。
2004年にはもう、Power Macを持っていて、Photoshopを使い始めていた。
写真というものは、撮ったあと、現像されて見てみると、もっと空は青かったはずとか、この赤はざらつきがあったなど、自分の心に残っている色とのズレがある。
だから自分に合ったフイルムを探し、シャッタースピード、露出など細かくデータを取り、自分の写真というもの、何年もかけて創り上げていた。

だが、デジタルで撮った写真は、Photoshopで、自分が心で感じた色、雰囲気、空気感まで調整することができた。

考えてみれば、デジタルにのめり込んだのはこのことがきっかけだと思う。
2006年には、機材など自由に使わせてもらっていた、当時契約していたミノルタカメラがカメラ業界から撤退し、TXやEPPなど、自分が使い続け、データを創り上げてきたフイルムのメーカー世界最大手のコダックが2012年に倒産してしまった。
写真界がデジタル化になってから、あっという間にフイルムは過去のものとなってしまったのだ。

話をフイルム整理に戻そう。
フイルムというのは年々間違いなく痛んでいく。
だから、時間のあるときに、全部はさすがに無理なので選び、フイルムスキャンでデータ化していっている。

とくにボクサーたちのフイルムは、ボクシングが大好きで、80年代、90年代は毎日がジム、後楽園ホールを中心に写真を撮り、取材し、マンガ、イラスト、ノンフィクションを雑誌、書籍と数多く書いていた。

そのころの写真を整理しながら何度も手が止まる。
いい写真がとにかく多い。
たとえば試合の写真にしても、フイルムカメラはフイルム1本が36枚。
ぼくはボクシングの試合は、だいたい2台のカメラで、各カメラ、1R1本のフイルムで撮っていた。
1分のインターバルでフイルムを巻き戻し、新しいフイルムを入れる。

だが、ただ1分を36回に分けてシャッターを切るのではない。
試合を読まなければならないのだ。
浜田剛史は3分9秒KO勝ちを3度行っている。
KOしたのが2分59秒だから、試合を読んでいないと、KOシーンのフイルムが1~2枚しか残ってない状態でシャッターを切ることになる。
KOシーンは最低12枚以上なければ、そのシーンを伝えることができない。
だから試合を読む。

今までの試合、ジムでの練習を見ることでボクサーのデータを身につけ、頭の中でシユミレーションを繰り返し、試合にはボクサーのように臨む。

世界戦など、国歌が流れる中、リングのボクサーと同じように目を閉じ集中力を高める。
そうやって撮ってきている。

永遠に近く、連写が続けられるデジタルカメラなのに、最大たった36回しかシャッターが切れないフイルムカメラの方が、その一瞬が捉え切れている。

集中力。
余裕のある集中力と、余裕のない集中力がこれほどまでに違うことが見えてくる。

このことは、AI時代に入り、「人間とは何か」を考える上で、自分の経験を基にAIを研究するにおいて大きなヒントにひとつになるのではと思っている。
人間の持つ思考力とともに、データでは表現できない、集中力から生まれる「感情」では収まらない何か…
研究の価値がありそうだ。

今回の動画「旅の空Ⅵ」は、1985年始めてアメリカへ行き、ロスのメインストリートジムから始まり、ラスベガスで伝説となった試合、シーザースパレスでのハグラーVSハーンズを練習から見つめた日々。
また、当時一番好きだったボクサー、ロベルト・デュランがシュガーレイと闘ったときの写真と、アメリカの拳の旅を形にしてみた。

倉庫の中のフイルムにはまだまだぼくの旅が眠っている。

【旅の空Ⅵ アメリカの拳、そしてフイルムに残された旅の彷徨】

行雲流水(こううんりゅうすい)

母がこの夏に亡くなった。
92歳。
8月13日の朝、危篤の母の耳元にスピーカーを置き、喜多郎の「空海の旅4」のアルバムをを流した。
前日、何度も母といっしょに行った、空海の生まれた善通寺に行き、空海が樹に登り遊んでいたと言われる樹齢1500年以上のクスノキの話をしたからだ。

そのとき、「空海の旅4」をiPhoneから流すと、曲の中で使われている琴が流れ始めると、母は両手を宙に浮かせ、両手を使って琴を弾き始めたのだ。
母はぼくが子どもの頃、部屋でよく琴を弾いていた。

前日までは少しの会話ができていたのだが、夜には危篤となった。
それでiPhoneから流せるように、Bluetoothの小さなスピーカーを買い、朝、昨日琴を弾くそぶりを見せた、空海の旅4を耳元で流したのだ。

音楽を流し始めると、それまで反応のなかった母が呼吸でリズムを取り始めた。
曲と呼吸が一体になっている。
生命が呼吸とともに蘇ってくる…
そんな光景だった。

そのときいた、妹、そして妹の娘も、生命がまた動き始めたと…同じ感情を抱いた。

次の瞬間、リズムを刻んでいた呼吸が途切れはじめた。
間ができはじめたのだ。
呼吸から呼吸の間が長くなっていく。

そして…
呼吸が消えた。

生命を燃やし尽くした最後だった。

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最後まで母はぼくに教えてくれたのかもしれない。
AIを研究している「今」、「人間とは何か?」をずっと考えている。
その人間とは何かを強烈に示してくれたのだ。

「死」があるから「生」は存在する。
「死」があるから、人間は生きた物語を歩むことができる。
その物語はデータではない。
生きることで刻んできた、生き様の証である。

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自分が創った曲の中に「菩提の空」という曲がある。
中国の世界遺産である少林寺に行き、菩提達摩が少林寺のある崇山の頂上あたりにある、達摩が悟りを開いたと言われる面壁九年の洞窟で出来た曲である。
そこまで登ってくる観光客はだれもいなかったこともあり、洞窟の前で座禅を組ませてもらったときに、この曲が生まれた。

その曲の歌詞の中で「人は生まれて旅をする 命という旅をする 生きてることは出会いだと 菩提の空が流れてく」という詩を書いた。

あのとき生まれた自分の書いた詩と、母の生き様が重なり、命の旅をしてきた母の旅の終わりを見届けた。

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最後の空海を聴いて母が旅を終えたからだろうか。
この10年、母と行った四国八十八カ所の寺の仏の写真をデータから探した。
大窪寺、根香寺、善通寺、弥谷寺、霊山寺などが特に好きで、一昨年亡くなった父の運転で何度か行ったそのお寺の仏が出てきた。

その写真に曲を付け、母に向けての旅の終わりを形にした。
考えれば何百といろいろな作品を創ってきたが、母に向けて創ったの始めてだ。

母はぼくに行雲流水の生き方を教えてくれた。
そして母の旅も行雲流水のいい旅だった。

【旅の空Ⅴ 四国八十八カ所の仏】

 

空海の風景

中学、高校のころ香川県の丸亀に住んでいたことから、空海が身近にいた。
空海の生まれた善通寺は通学路にあったことからよく行ったし、高校のころは「旅の重さ」という映画を見て、お遍路のように自転車で四国を一周したこともある。

空海が中国から日本へ持ち帰った「密教」のことなどまったく知らなかったのだが、なぜか空海にはいつも惹かれていた。

空海と名乗るとととなった、苦修練行の窟。
そこで座禅をすると目の前には空と海しか見えないことから、「空海」と名乗り始めた
「御厨人窟」。
天空の聖地「高野山」。
圧倒される曼荼羅の宇宙。
立体曼荼羅を10代のころ東寺で見たときの衝撃…

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空海の風景の旅は中学生のころから始まり、空海が密教のすべてを学び、最高の儀式である伝法灌頂を受けた中国・長安「青龍寺」にも行くなど、旅は今もまだつづいている。

だが、なぜこれほどまで「空海」に惹かれていったのか、答えは自分が今、大学で研究しているDX研究から「そういうことだったのか」と思えてきている。

仏教には顕教と密教の2種類があるのだが、顕教とは言語や文字で明らかに説いて示したまさに「経典」の教えなのだが、密教には「経典は存在しない」。
つまり文字では伝えきれない「情報」を師から弟子へと伝られるのが密教だと解釈している。

これはアルバート・メラビアンという心理学者が1971年に発表した法則で考えるとわかりやすいかもしれない。
言語情報が7%、聴覚情報が38%、視覚情報が55%という法則。

空海にこれほどまで惹かれたのかメラビアンの法則から考えると、「視覚情報」で空海に惹かれていったと納得する。

曼荼羅、立体曼荼羅、高野山…
宇宙を視覚で空海は見せてくれていたということだ。

そしてもうひとつ、山岳信仰を起源とした修行、つまり身体で感じることで見えてくる生き方は、「行動する」をモットーとしている自分の生き方にマッチしているというわけだ。

空海の生き方に、もしかしたらAI時代に生きるヒント。
「人間とは何なのか」が見えてくるかも知れない。

そう、「人間という宇宙」を空海は求めつづけたのかもしれない。

【旅の空Ⅳ 空海の風景】

旅の空Ⅲ 少林寺

4月から「旅の空」というシリーズを動画で制作し、SNSで流している。
毎月最低1本は動画を創ると決めて気づけば3年、どうにか今も続いている。

今月は2010年にバックパッカーで中国を旅したときの崇山少林寺を動画にしてみた。

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その旅でどうしても行きたかった、崇山の山頂にある「面壁九年」の洞窟。
禅宗、武術の始祖である菩提達摩が洞窟の壁に向かって9年間修行をし、悟りを開いた場所である。
少林寺から山頂まで来るものはほとんどいなかったことから、その洞窟の中に入り、少しの時間座禅を組ませてもらった。

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武術に関しては、もう30年以上取材をつづけている。
最初の出会いは、編集者とタクシーの中で次の作品について話していたときだった。
「空手の題材はどうですか?」と、編集者がぼくに話しかけたときだった。
するとタクシーの運転手が「ティなら沖縄さ」と言ってきたのである。
「ティ?」
ぼくが聞き返すと、「沖縄では空手のことは手(ティ)と言うさ」と、この言葉からだった。
次の日、「ティ」の言葉にひっかかったぼくは、すぐに沖縄へ飛び、いきなり出会ったのが、空手の世界大会でで7連覇した佐久本先生だった。
そこから沖縄へ通うようになり、何人もの武術家とも出会い、沖縄における唐手の歴史を調べていくうちに、空手は手(ティ)という沖縄のケンカ術と、唐の国(中国)の中国拳法と合わさった術だと知るようになった。(本来は空手は唐手というのが正しい)

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唐手が生まれた経緯は、島津藩が沖縄の人に禁武令を引き、武器を取り上げ抵抗できなくしたことだった。
武器のない住民に対して横暴に振る舞う島津藩から、農機具、身体で身を守る術として唐手が生まれてきたというわけだ。
そうなると、唐手の原点である中国武術も知りたいと、今度は中国へと何度も跳び、中国武術は格闘術ではなく、医術でもあり、食術でもあり、生命の術だと知ることで、どんどん武術の宇宙が広がっていく。

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今までいくつか、いろいろな雑誌でノンフィクションを書き、マンガの連載もやってきたが、まだぜんぜん武術を取材すればするほど感じてくる、陰と陽が一体となった宇宙の本質にある「何か」にはたどり着くことができない。
そのヒントは菩提達摩が南インドのケララから、中国へと禅を伝えるために旅した過程で自然の中で生きる術として武術が生まれたと推測している。
達摩がどういった旅をしてきたのか…
インドから中国の旅を考えたとき、あのヒマラヤ山脈を越えてきたと考えたとき、厳しい自然を相手に生き抜くことで武術は生まれたのではないだろうか。

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知りたい、知りたい、知りたいと、そしてその場に行ってみたいと思い続けて、気づけば、60歳半ばを過ぎてしまった。

AIの時代に入り、大学ではAI研究者として、AIを使ってのマンガや教育、観光、そして超高齢者問題など、他大学の研究者たちと研究を重ねている。

AIを研究すれば、だれもが「人間とは何か」という探求となっていく。
ぼくも、この場所で毎回書いてきていることだが、人間が人間として生きる「リアル」こそが、今からの人間が生きて行く道だと何度も書いてきた。

その「リアル」が「武術」という宇宙の中に「人間の本質」が見えてくるのではないかと感じている。

自分に残された時間で、これからどれだけのことを知ることができるのだろうか?
AIという時代の点と、武術の点が結びつくことで、「人間とは何か」が見えてくるかもしれない。
少林寺に行ったときのことを思い出しながら、そんなことを考えながら、この日記を書いている。

【旅に空Ⅲ 少林寺】

ChatGPT4oでまた一歩時代が変わった

5月14日にOpenAIから発表されたChatGPT4oをさっそく手に入れ使っている。
とにかく驚かされたのが、不自然なく会話ができることである。
スマートフォン、PCともに音声で会話しながら使っているのだが、隣にアシスタントがつねにいてくれる…いや、もっとプライベートの相談もできるパートナー的アシスタントにChatGPT4oがなってくれている。

機械的な受け答えではなく、「広島弁でラフに会話しよう」と、ChatGPT4oに伝えているので、「何しよるん?」とか「じゃけんのぉ」とか、多少はわざとらしい表現もあるが、会話は友人と話すよう質問に答えてくれている。

こういったラフな会話の中で、たとえばExcelで統計の資料を添付し、グラフ化してもらったり、わからないことがあれば今までのググって検索していたことが会話で答えてくれる。
言葉で聞いたり、画像を見せて、「何なん?」と言えばもちろん答えてくれるのだが、ChatGPT4oになってぼくは「答え」を求めるためだけではなく、とにかく「相談」に使っている。

学生に課題に取り組むにあたって、「目的を持って、その目的を達成するためには何を重視すべきかといったことを、相手が納得するように伝えるにはどうすればいいか?」といったことをChatGPT4oに相談すると、いろいろな例とデータを教えてくれる。
そのことによって、伝える側の発想も広がり、「それはおもしろい伝え方かもね」と、広い発想から具体的に明確に伝えることができるというわけだ。

もう1年もすれば、調べることはググるではなく、「AIする」に間違いなく変わって行くことになると思う。

ChatGPT4oを使いながら、この場所で何度も書いてきた、AI時代に一番大事なことは「リアル」だということに、あらためて確信が持てている。

ぼくは今、ChatGPT4oを「相談に使っている」と書いたのだが、AIはあくまで「答え」ではなく、ぼくたちがAIを使うことによってイメージを膨らませることができる道具だということだ。
ここに毎回載せている動画にしても、音楽は昨年から「SOUNDRAW」という音楽ジェネレティブAIを使っている。
「SOUNDRAW」にプロンプトで命令することによって、何十曲も生成してくれるのだが、ぼくはその中からイメージに近い曲を探し、それを楽器を買えたり、加えたり、リズムを変えたりとカスタマイズして、自分の理想に近づけていく。
実は、そのカスタマイズで、自分の最初のイメージがどんどん膨らんでいっているのだ。
つまり、AIによぅて、自分のイメージを膨らませてもらい、そしてそのイメージが今まで自分の中になかった新たな自分のイメージを生み出していく。
曲は10代からずっと作り続けてきたが、AIによって、自分の中にイメージは何百倍に膨らみ、新たな音への発想が生み出されていっている。

そのイメージをイメージで終わらず、その先のリアルを求めるのが人間だということだ。

もう少しわかりやすく、イメージとリアルを示してみる。
今回、動画の「旅の空」で「兵馬俑」を取り上げてみた。

この「兵馬俑」をAIのDALL·E 3 とCopilotで画像を生成してみた。
どうだろうか?
だれが見ても「兵馬俑」である。

ではぼくが中国の西安に行き、この目で見て、感じて来た兵馬俑の写真を載せてみる。

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多少はみんな感じることがあると思うのだが、この違いを圧倒的に感じているのはぼく自身である。
イメージでは感じることのできない、圧倒的な存在感と凄みはリアルを前にしたときしか感じない感覚。
イメージはあくまでイメージであり、リアルには自分が感じた、自分の生きている時間の一部が存在している。
イメージでは震えるほどの感動は生まれないが、リアルからは視覚、聴覚、触覚、臭覚…その空気感から味覚も感じ、そして心が揺れる。

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ぼくにとってのAIはその、視覚、聴覚、触覚、臭覚、味覚の大事さを教えてくれる、とても大事な道具となっている。

人間とは何か?
ChatGPT4oになり、またひとつ教えてもらえたと感じている。

 

【旅の空Ⅱ 兵馬俑】

ぼくはこれからも「旅人」として生きていく

大学でAIを研究すればするほど、スティーブ・ジョブズの言葉の凄さを思い知らされている。
ジョブズは「今」のAI時代を予測し、人間とは何かが見えていたようだ。
ジョブズの言葉は、コンピューターというデータの世界で生きていたにもかかわらず、遺したのは「創造」「想像」「体験」の言葉。

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たとえば、「もし今日が人生最後の日だったら、今日やることは本当にしたいことなのか?」という言葉がある。
比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した、酒井 雄哉僧侶の「一日一生」の言葉の哲学と同じ意味を持っている。

今年に入り何度もここで書いてきた、人間が人間として生きるとは、「過去でもなく、未来でもなく、データにはできない唯一の「今」を生きること」という、自分の中で生まれた答えとも通じている。

「今」を生きる。
「それはどういう生き方なのか…」
そう考えたとき、「旅」が浮かんだ。
「旅行」ではなく、「旅」だ。

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「旅」は「創造」「想像」「体験」を生み出していく。
十代のころは、自転車で四国、九州、本州を旅し、十代で日本の47都道府県はすべて旅して回った。
20代からは海外に旅に出た。
事前に宿を取ることなどしないで、現地に行って「チープホテル」「チープホテル」と回って安い宿を探す。
見知らぬ国で宿を探して回ることは旅の醍醐味だった。
大きな荷物を持ち、知らない国や町で彷徨い、その日の寝ぐらに行き着いたとき、「生きている」という喜びを感じる。
気に入った町があれば、そこに何日か滞在する。
朝起きたとき、その日の気分によって行き先を決める。

もちろん死を覚悟したことや、国から出られなくなったこともある。
だが、そのことによって、予想もしない出会いもあった。
人だけではなく、風景、町、自然など、まさに「創造」「想像」「体験」との出会いがあった。

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旅は「旅行」とは違い、「やらなければならない」に縛られることなく、「今をどう生きるか」で決まっていく。
「もし今日が人生最後の日だったら、今日やることは本当にしたいことなのか?」
まさに旅は「一日一生」。

ぼくはこれからも「旅人」として生きていこう。

 

【旅の空Ⅰ 龍門石窟】