即今・当処・自己

マーケティングの世界では、約85%の企業が「動画の重要性が増している」と回答している。

「スマートフォン」の利用率が、10代から40代で90%、50代及び60代でも80%を超えている今、ぼくたちの表現は動画を中心に動いているということだ。

そのスマートフォンで動画がだれでも撮れる時代となり、そのスマートフォンで映画までも撮れる時代になった。
個々の表現の中心が、たった10年そこそこで、文字から写真、イラストなどの静止画となり、動画へと変わってしまった。

SNSを見ても、Facebookの利用率は10代では20%と下がり、動画中心のTikTokの利用率の急成長、YouTubeなど10代から40代で90%の利用率を超えている。

Forrester ResearchのJames McQuivey博士の研究によると、1分間の動画は一般的なWEBページの3600ページ分の情報量になると発表している。

たしかにぼくも、たとえばソフトの使い方をGoogle先生で調べるとき、長いテキストを読むのではなく、まず動画を見て調べている。

昔、ワープロが出てきて、ワープロで原稿を書いていると、いつのまにか原稿用紙に手で原稿が書けなくなっていた。
漢字を書けなくなるというのもあるが、一番の原因は間違いなくリズムである。
頭で考え、その考えが文字になるそのリズムが手で書くリズムから、ワープロで書くリズムへと変換されていたのだ、

そして今、テキストを読んで情報を理解していた頭が、いつのまにか動画でなければ理解しづらい頭になっている。

それは劣化ではなく、自分の中での「伝える」「理解する」といった表現に対するスタンスが変わってしまったのだと思っている。

今、ここでぼくが書いている長々として文章よりも、動画で伝えた方が、遙かに自分の気持ち、表現が伝わるということだ。

2023年は、こういったブログやSNSなど、自分で伝えたい思いなどの表現を、動画に言葉を載せて伝えてみようと考えている。

今回伝えたい言葉は、「即今・当処・自己」という、自分の軸となっている禅の言葉だ。
それをスマートフォンで撮った日々の風景とともに表現してみた。

 

自然が目の前にいつもある

2022年も終わろうとしている。
今年は間違いなく、人類史上大きな変革の中の一年だった。
コロナ、戦争、分断、地球温暖化による災害、格差、貧困、政治、経済…
だれもが生き方を変えなければならない時代。

世の中はデジタル化がエクスポネンシャルに進んでいる。
そしてそのデジタル化はほとんどの人が理解できないまま進んでいる。

今、ぼくは芸大でDXにおいてのマンガコンテンツの研究をやっているわけだが、未だにアナログで作品を作っている自称芸術家の先生たちは、デジタルでは「心」が生まれない的な、トンチンカンなことを言ってくる。

ぼくはアナログを認めていないわけでもなく、そもそも何十年もアナログで作家として作品も創ってきた。
そしてデジタルは道具として、「心」を生み出すために使っている。

たとえば写真。
ぼくは週刊プレイボーイや、月間プレイボーイ、Number、マンガ雑誌でグラビアもプロとして撮ってきている。
フイルム時代、つねに自分の写真のリアルに拘ってきた。
だれもが感じたことだと思うが、撮った写真のたとえば空の色を見て、「あれっ?こんな色だったけ、もっと深い青だったと思うのだが…」などと感じたことがあると思う。
つまり、自分の「心」で感じた色と、写真の色にズレがあるわけだ。

ぼくはフイルム時代、いくつものフイルムを試し、シャッタースピード、露出のデータ管理をして、自分の感じた色をいつも模索していた。
自分が撮った瞬間の、心が感じた、その表現をリアルに見てもらうため。
そう思って写真を撮ってきた。
だが、デジタルという道具を手に入れた瞬間、自分の「心」で感じた、その表現がちゃんとできるようになった。
Photoshopを使い、加工ではなく、「心」で感じたリアルをデジタルで生み出すことができる。

マンガのキャラクターでもそうだ。
デジタルを使うことで、キャラクターと会話することもできる。
プログラミングで、会話の相手の名前をよぶように、「こんにちは太郎さん!元気ですか」などと話させると、聞いた本人は、名前を呼んでくれたと喜びが沸き、キャラクターに対する「心」が生まれてくる。

つまり「心」というものは、相手に押しつけるものではなく、相手の心が生み出されるものだということだ。

デジタルを道具として使うことによって、自分の、そして相手の「心」を感じることのできるにはどうしたらいいか。

ぼくが今、研究している超高齢化時代の、マンガを使ったコミュニケーションの大きなテーマとなっている。

ぼく自身も今、仕事場を東京から自然に囲まれたコテージに移し、そこで仕事をしている。
今日もこのあとオンライン会議なのだが、デジタルによって都会ではなく、自然の中で生活できているというわけだ。

散歩もよくするようになった。
iPhone片手に、季節とともに変わりゆく風景を撮りながら歩いている。
それを動画にして、今の心を形にする。

昨晩、2022年のこの1年散歩で撮ってきた動画、写真を見ているうちにpremiere ProとAftereffectで季節の流れを編集してみた。

デジタルと自然とは、ほとんどの人が対局にあるように思っているが、それは違う。

デジタルによって、自然が目の前にいつもある日々をぼくは今、過ごしている。

宇宙の終わりから見えてくる未来

仕事場でつけていたテレビから、サイエンスの番組が目に入ってきた。
宇宙の終わりについての番組をやっている。

宇宙誕生は138億年前にビッグバンによって生まれ、そこから膨張し続け、今は数億の銀河が存在する姿へと膨張している。
この先、宇宙はどうなっていくかについて、世界の研究者は、「収縮説」と、「減速膨張説」の二つに集約され研究されていた。
だが、2011年にノーベル物理学賞を受賞した、パームムッター教授によって、宇宙「加速膨張説」が証明されている。
宇宙の超新星爆発の光によって距離を測定し、宇宙の膨張スピードを割り出していったということだ。
教授の研究に関心しながら番組に釘付けになっていく。
宇宙はこの先、膨張しつづければどうなるのか?
理論物理学者のコードウェル教授が宇宙の終焉についての研究説を語っている。
理論上の計算によると、宇宙の膨張速度は際限なく速くなっていき、ビッグリップになるという。
ビッグリップとは、無限の膨張によってすべてが引き裂かれるということだ。
銀河はビッグリップによって重力が振り切られ、銀河の形はなくなり、分子や原子までも引き裂かれていくということだ。

その番組を見ながら今の人間もビッグリップに向かっているのではないのだろうかと思ってしまった。
そもそも宇宙は銀河という「渦」の集合体でできている。
人間もDNAという「渦」によって存在している。
つまり宇宙も人間も同じ存在と考えてしまう。

その「渦」の膨張速度が際限なく速まったときビッググリップになってしまう。

人工知能研究の世界的権威であるカーツワイル博士が2005年に「コンピューターが人類の知性を超えるとき」で、2045年に技術的特異点、シンギュラリティに達すると言っている。
日本でも孫正義氏がシンギュラリティという言葉を使ったことから、日本でも2016年あたりからシンギュラリティに関する考えは広まっていった。

ではシンギュラリティとは何なのか?
一般には、「AIが人間を超えるとき」と言われているが、カーツワイルの言う技術的特異点というのは、人間が想像し、その想像を技術により形していくには、当たり前だが莫大な時間が必要として。
だが、テクノロジーにより、人間が想像したものが、想像とほとんど同じに形となっていく成長度の急速な膨張。
ぼくはそれがシンギュラリティと理解している。

学生にも講義でよく話しているのだが、今の時代というのはテクノロジーによって、エクスポネンシャルに成長している。
つまり、たとえば1歩1メートルとして、2歩目は2メートル、3歩目は3メートル。
30歩進めば30メートルなのだが、エクスポネンシャルの計算は1歩目は1メートル、2歩目は2メートル、3歩目は4メートル、4歩目は8メートルとなっていく。
その計算で30歩進めば、月までの距離を進んだことになるのが、エクスポネンシャルのスピードとなる。
たとえば情報量を見れば、この20年で約7000倍になっていっている。

シンギュラリティとは、エクスポネンシャル的に加速をつけて成長していく技術的特異点となる。
それは膨張速度は際限なく速くなっていき、ビッグリップになっていく宇宙と同じような気がしてならない。

今日も自然に包まれた仕事場のまわりを2時間ほど散歩してきた。
自然の中を歩いていると、「開発」によって便利になるということは、はたして人間にとって「成長」なのかと考えてしまう。
テクノロジーによって便利になる世界。
だが、それが人間の幸せと、成長と思い込んで進んできた今。
それは「成長」ではなく、「膨張」なのかもしれない。

宇宙の終わりについての番組を見ながら、そんなことを考えた。

DXはリアルの中から見えてくる

森や田んぼの畦道などを散歩をしながら季節の流れをiPhoneで撮り、そしていろいろなことを考える。
自然に囲まれた場所に引っ越してから、それが日々の生活の大きな時間になっている。

DXの時代というのは、仕事と暮らしが同居する時代だと思っている。
デジタルの時代というと、ほとんどの人がリアルではなく、バーチャルなつながりだと思っているかもしれないが、デジタルな時代だからこそ、人間はリアルがより重要になってきている。

日本人が昭和の時代、人間がロボットのように働き、海外からはエコノミックアニマルと呼ばれ、「24時間働けますか」とテレビからCMが流れる中で、日本は経済大国になっていった。
経済成長が幸せだとだれもが信じ、「根性」という言葉の中でだれもがアリのよう働くことで、テレビ、車、家と幸せの象徴であるモノを手に入れていく。

お金を儲けることが幸せにつながると思い込んでいた時代だから、仕事というものは厳しさの中で働くのが当たり前。それで金がもらえると思い込んでいたのかもしれない。

だからロボットのように日本人は働き、1970年代にはGDP世界2位まで上り詰めている。
だが、ロボットのように働くのは、今は本当のロボットが働くことになってしまった。

作業的な仕事は、テクノロジーによって生まれた機能、サービスによって人間からAIを搭載したロボットへと代替していっている。

人間の仕事は、人間しかできないことが求められている。

それが何かと言えば、それは「想像力」だということだ。
考えてほしい。
AIを生み出していっているのも、人間の想像力を形にしていったからだ。
つまりこの世に存在しなかったものを生み出す根底には人間の想像力がある。

だが日本の教育は想像力を生み出すべく教育ではなく、暗記力を持ってロボットのような人材育成をしたことで、日本にGAFAMやBATHが生まれないどころか、想像力によっての新しいチャレンジをしようとする人材を日本社会は潰していった感がある。
だから今の日本はどんどん時代から、世界から取り残されていっている。

「想像力」を生み出す力を考えたとき、想像力の基盤には必ず「リアル」が存在する。
その「リアル」というのは、暮らしの中でたとえば「楽しい」と感じたリアルな気持ちだ。
その基盤があって、バーチャルが存在しなければ、そこに生命力は存在しない。
存在しないということは、死んだ世界ということだ。

今からの時代、メタバースによって、仮想空間をだれもが生活の中で利用することのなることは間違いない。

つまりそこに生きるということだ。
だから死んだ世界ではなく、生きる世界として「リアル」がとても大事だと感じている。

そう考えると、DXの時代はロボットのように生きるのではなく、人間が人間として生きることを問われている。
デジタル=非人間的ではなく、デジタル=より人間的な生き方。

たとえば写真。
風景を撮って見たとき、「あれ?空はもっと青かったのにな」など、感じることがあるとおもう。
そういった場合、自分が感じた空の青さをPhotoshopによって調整する。
加工と言ったら、リアルを変えると思うかもしれないが、テクノロジーによって、より自分が心で感じたものをリアルにしていくということでもある。

想像も心が生み出すもの。
その心はリアルの中から生まれてくるものだということだ。

まぁ、散歩をしながらそんなことを考えてみた。

「価値」を考える

大学でゼミ生、大学院生と「価値」について議論してみた。

資本主義の資本とは「価値」となる。
その「価値」を決めるのが資本主義では貨幣といっていい。
資本主義はほしいモノを手に入れたいといった、人間の欲望によって経済を発展させ、その媒介手段として貨幣が存在している。

貨幣は本来、ほしいモノを手に入れるための「手段」だったはずが、いつのまにか貨幣を手に入れるが「目的」となり、資本主義は貨幣を持ったものが「価値」がある者と思われるようになっていった。
だが、今はその価値は、まず「モノ」から「情報」に変わっていっている。
アメリカのGAFAMを見ても、中国のBATHを見てもわかると思う。

マンガだって本というモノで読むのではなく、情報としてスマートフォンやタブレットで90%読まれている。
音楽など書籍より7年早く情報として手に入れるコンテンツとなっている。

では資本主義で「目的」となった貨幣は今も「価値」の目的のままなのか?
学生との議論の中でも、お金は必要だが、「価値」ではないという意見が出てくる。

興味深い例を挙げると、「1000万円持っている人と、収入は0だが、SNSで100万人のフォロワーを持つ人とどちらが価値があるか」という質問に対して、ほとんどが100万人のフォロワーに価値があると答えてきた。

たしかに100万人のフォロワーを持つ人は、その数がやりたいことへのビジネスにつながるわけだから、今の時代、「価値」はSNSのフォロワーの方が遙かに魅力を持つ。
まさに「情報」が資本の時代だと、学生たちもそう感じているようだ。

ではその「価値」を追い求めれば「しあわせ」になれるのか?
学生たちとの議論のあと、ずっとそのことが気になりはじめた。

本来、資本主義とは人が「自由」に生きるためのものである。
その資本が「情報」となった今、この先どうなっていくのだろうか…

アメリカの心理学者のバリーシュワルツ氏の言葉がある。
「豊富で複雑な選択肢は、私たちを自由にするのではなく、無力さを感じさせてしまう」

情報の時代、ぼくたちの周りは豊富な選択肢で溢れている。
そこにある「価値」の中でどう生きていけばいいのか…

今日も仕事の合間に写真と動画を撮りながら自然を歩く。
ただそれだけで「しあわせ」を感じる。
自分にとってこの自然はとてつもなく大きな「価値」となっている。

〝ありがとう〟から考える

ありがとうという言葉は、「漢字で〝有ることが難しい〟と書く」と、今、読んでいる本に書いてあった。
たしかに「ありがとう」とは、「自分には有ることが難しい」場面や、作業、仕事においてそれをしてくれた相手に対して「有り難い」と感じている。

そして「ありがとう」という言葉は、言った方も、言われた方も喜びを感じる。

人は「自分はなぜ生きているのか」と考えたとき、その答えとして、「ありがとう」と言われることは大きなひとつであることは間違いない。

生きがいとは、もちろん自分が幸せを感じる生き方であり、それはまわりが自分の行動で幸せと感じてもらえるからこその幸せでもある。

では「幸せと感じる」生き方とはどういう生き方なのか?

たとえば「ありがとう」から考えることがひとつの答えかもしれない。

ぼくは学生に、自分のやりたいことで生きるには、「だれでもできることを、だれにもできないだけやる」ことだと言っている。

才能とはそもそも、野球なら野球、マンガならマンガに、1日24時間、1年365日「そのため」に生きられることだと思っている。
寝ることも、そのために体を休めることであり、食べることも、それをやるために食うことだと根底にそういった意識を持てる生き方。

こうやって息をして生きているのは、そのために生きているという意識を持っていることがつまりは才能であり、そういった生き方をしている人間は必ず人を引きつける。

ここで一番大事なのは、自分にとって「そのこと」とは「好きなこと」ということだ。
当たり前だが、好きでなければ「そのため」だけに生きることなどまずできない。

この10年で間違いなく時代は変わった。
「時代が変わる」ということは、「生き方が変わる」ことであり、それは「働き方が変わる」ということだ。

時代が変わることで戸惑いがあるなら、ここで「ありがとう」を考えてみる。

人は資本主義の中で、経済によって幸せになる考えてきた。
つまり幸せになるためにまず「お金」。そう、金をたくさん持てば幸せになれると働いてきた。
お金を儲けることが主語の生き方だ。

だが、今の時代が変わる中で、「ありがとう」と言える幸せをから「生きがい」を考えてみると面白い。

ありがとうと言われるのは、「求められる」こと。
求められたことに答えられるのは、「好きなこと」であり、好きなことのために生きればそれは「得意なこと」となる。
そしてその得意なことで人のために生きれば「ありがとう」と感謝され「お金になる」。

考えてみると、ぼくが都会に仕事場を持っていたときは、出版社のある都会でなければ収入を得られないと思っていた。
だが時代は変わった。
テクノロジーによって、世界のどこからでも時間と空間を共有する働き方ができる。
ぼくは自然に囲まれた地に仕事場を移してから、お金が主語ではなく、自然が主語となり、その自然の中で仮想空間やテクノロジーを考えるようになり、それがお金に結びつくようになっている。

この日記を書いたら今日も仕事場のまわりの自然の中を散歩してこよう。
そしてスマートフォンで撮った画像を動画にしながら「今」の感じていることを形にする。

これも今の幸せのひとつ。

変化にもっとも適応する

「生き残る種とは、最も強いものではない。 最も知的なものでもない。 それは、変化に最もよく適応したものである」

時代が大きく変わる今、ダーウィンのこの言葉がよく引用される。

この変化に最も適応するというのは、ただ時代の流れの中で生きろというのではない。

社会が激しく変化し、テクノロジーが目まぐるしく進歩する中で生きるということは、つまりは学び続けなければならないということだ。

たとえば坂本龍馬だ。
坂本龍馬は土佐脱藩し、幕府軍艦奉行並・勝海舟に会いに勝海舟の屋敷を訪ねている。
訪ねた目的は、開国論者だった勝海舟を殺すことだったと言われている。
だが、龍馬は勝の広い見識と、卓越した意見に目を見開かされ、その場で弟子にしてほしいと入門を願い出ている。

殺そうとした相手であっても、勝の世界の大きさを知り、時代の流れが見えている凄さに、殺害ではなく、「学び」の欲が龍馬の意識を突き動かしたと、この逸話から感じている。
そしてその後、龍馬は時代を変えることとなる。

この意識こそが「変化にもっとも適応する」ことではないだろうか。

学生と話していると、学ぶ=勉強ととらえているようだが、学ぶというのは、ただ勉強して「知識が身についた」と自己満足に浸ることではない。

学ぶというのは、まず「目的」があり、その「目的」のために何をやるべきか考え、そのやるべきことのためにどうすればいいか、それを実行していくことで形にしていく。
その実行というのはつまりは「研究」である。

ぼくの研究であるマンガ表現の可能性にしても、DXの中で、XRでの表現、メタバースでの活用、そして今からはだれもがアバターを持つことになることで、マンガ表現の可能性は広がっていく。
広がることで、次々と学びの意識が突き動かされる。

日常の表現も、ぼくの中では変わっていっている。
表現や宣伝は10年前までは写真やイラストといった1枚での表現が全体の80%を占めていたが、今は全体の80%以上を動画が占めている。
そういった流れもあり、昨年からSNSやこういったブログはスチール写真ではなく、動画を載せることにした。
「創りつづけることは、学びつづけること」
こうやって日々、スマートフォンで撮ったものを演出し、形にすることで新たな表現のアイデアも浮かんでくる。

これも学び続ける面白さだ。

6月の哀音

父が逝ってしまった。
91歳。
よく生きてくれた。

父が亡くなり「人によって生かされている」ということを感じている。
人は人によって成長し生かされている。
その最初の人とは両親だ。

今の自分が創られていった原点。
亡くなった父の顔を見ていると、忘れてしまっていた父との日々が蘇る。
頭で忘れてしまっていたことを“心”が覚えている。
そう、頭ではなく心…そういった感覚だ。

野球に打ち込んだのは間違いなく、高校野球で活躍した父の影響だ。
山登りも、父に連れられ名山に登った。
今回、父の部屋から大量の写真が出てきた。
いつもカメラを持っていた父。
いつしか自分もいつもカメラを手に写真に夢中になっていた。

高校ぐらいだろうか…父とはあまり口をきかなくなった。
マンガを描き、ギターに夢中になる。
マンガで食べていきたいと、父に将来を聞かれたら答えていた。

父はそんなことで生きていくことなどできないと、もっと現実的になれと言ってくる。
それが嫌だった。
だから中学の頃から、作品を描いてはひとり夜行電車で12時間揺られ東京へ持ち込みに出ていた。

今考えると、父への反発が大きなエネルギーになっていたのだと思う。

東京に出て10年以上家には戻ることがなかった。
その間、父とはずっと口をきいていない。
マンガ、マンガ原作、イラスト、ノンフィクション、エッセイ、コラム、写真と8本の連載を持つようになっても、実家に電話はかけることはあったが、父と話すことはなかった。

10数年ぶりに実家へ戻ったときだ。
ぼくが使っていた部屋の扉を開けると、部屋が雑誌と単行本などで埋まっている。
すべてぼくが書いたものが載った雑誌と単行本だ。
自分でも取っていない、半ページのコラムやエッセイの載った雑誌まで取ってある。
単行本など同じものが3冊も買っている。

「何やってんだよ!」
父に怒った口調で、一部屋雑誌と単行本で埋まった部屋を見て声を上げたのだが、嬉しかった。
父は口では言わなかったが、認めてくれたと思った。

それからもあまり話すことはなかったが、父はパソコンを覚え、18年ほど前から気が向いたらSkypeで連絡を取ってきていた。
たわいのないスポーツの話が中心だ。

亡くなる11日前に父の住む神戸に行き、そのとき細く小さくなった父にLINEでのテレビ電話の仕方を教えた。
すると東京へ戻ってきたぼくのスマートフォンにかかってきている。
それが最後の会話となった。

父が亡くなり「心」のことを考え続けている。
お坊さんが、父は阿弥陀如来になったと言ってお経を上げてくれている。
その阿弥陀如来になった父を見て、みんなは悲しみ泣いている。

それは阿弥陀如来になった父が心を発しているのではなく、それぞれの人たちの心が父を悲しんでいるのだ。

心というものは、つねに自分の中から生まれてくる。

葬式というものは、故人のために行うのではなく、残された人のために、その心の悲しみを鎮めるために行うものだとぼくは思っている。
父の葬儀は、ぼくの中では、母のための葬儀だと思っている。

父が亡くなり、心の中で思いがどんどんと生まれてくることで、父は最後にその「心とは何ぞや」とぼくにとっての答えを教えてくれた。

人は相手の心ではなく、自分の心でその人の存在を確認している。
存在とは、形でもなく、相手の心でもなく、自分の心が生み出している。

そう、自分の心に父がいるということは、父は自分が死ぬまで生きているということなのだ。

今、取り組んでいる研究は、DXにおいて、キャラクターたちにどうやって心を感じてもらうか、それを超高齢化時代の中でのコンテンツ化である。
つまり、心を感じてもらうということは、コンテンツが心を持つのではなく、そのコンテンツによって、それぞれの人たちがどう心を生み出してくれるか。
心の中で生きている存在となってくれるかということだ。

「人によって生かされている」
また父によってひとつ生かされたよ。

ありがとう。

 

夏のはじまり

6月を前にして夏のはじまりのような日々。

仕事場を東京から自然に囲まれた場所に移して1年が過ぎた。
前回、この地に来てから散歩が日課だと、そして次のような言葉を書いた。

自然というのは「今」を教えてくれる。
春の「今」は自然の命が芽生える季節。

禅で使われる仏教用語、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」。
「今、ここで私が生きる」という意味だが、この言葉が自然の中でリアルな軸として感じられる。

こう書いたのだが、もう少し理解してもらうため、少し付け加えておきたい。
「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」というのは自分にとっての答えではない。
ぼくは自分への問いだと思っている。
リアルな軸として、「今、ここで私が生きる」ということを「問い」として生きている。

「問い」があるから自分の答えを探して考える。
自然の中を散歩をしながら考えると、目の前にいくつもの生命が目に入ってくる。
草木、そして花の息吹、自然の中での鳥たちの羽ばたき。
虫や、時にヘビも現れる。

空や、雲、そして風からも生命を感じる。
人が創った神社やお寺も、そこに生命を感じる。

そして自分も自然の一部だと感じることができる。

そこでまた、「自分も自然の一部」とはどういうことなのか。
自分への問いが始まる。

「問い」があるから考える。
そしてまた「問い」が生まれてくる。

こう書くと、「自分さがし」と思われるかもしれないが、それはまったく違う。
「自分さがし」というのはそもそも「目的」探しで、よく、大学に来た学生から
「自分さがしで大学に来た」などという学生がいるが、大学に何をしに来たのか呆れてしまう。
大学というところは、「目的」があるから大学を選び、その「目的」のための「手段」として研究するために来たのではないのか。
だから「研究」の意識がなければ、「問い」は生まれてこない。

「研究」と「哲学」、そして「仏教」は同じ軸から生まれてきた考え方だ。

自分の中で生まれた「問い」に「問い」つづけていくことは、考え抜くということ。
それは「問い」つづけることで、どんどんと余計なものが削がれ、シンプルになることで自然と向き合うことができる。
つまり、「生命」と向き合うことができる。

たとえばジョブズが禅と向き合ったことも、ジョブズが生み出したモノを見ればわかると思う。

デジタルと自然を対局だと言う人がいるが、デジタルはAIも含めあくまで道具でしかない。
自然の中で生きるための生み出した道具。

今、そういったことを自然の中でスマートフォン片手に日課である散歩をしながら、自分の中で問いを繰り返しながら歩いている。