大学での自分のゼミの話を書こうと思う。
先週、田中ゼミ16期の4年生の最後の授業を終えた。
考えてみれば、ちばてつや先生から「大学へ来て、学生といっしょに作品を創らないか」と誘われ19年が過ぎたことになる。
「教える」のではなく、「いっしょに研究する」というのが田中ゼミのスタートだった。
そもそも大学に誘われたのは、21年前にケータイで読む、市販されていないセルシスのEnterpriseの機能を使っての表現で、世界で最初のマンガ表現を制作し、SoftBankとauから配信をしたことだった。
当時は「マンガをケータイで読む者などだれもいない」とか、「それはマンガではない」とか、マンガの常識にはないものを創ったことでだれにも相手にされなかった。
だが、ちば先生や京都精華大学の牧野先生から、「新しい表現は大学で研究したらいい」と、大学での研究が始まったのだ。
大学へ来て、最初のゼミ生と研究としてケータイで読むマンガを創ったところ、文化庁のメディア芸術祭で賞をもらった。
あれから19年、世界でマンガの98%がスマートフォンなどデジタルディバイスで読まれる時代となっている。
あのころ「ケータイでマンガを読む者などいない」と言っていた出版社の人たちが、今は当たり前のようにスマートフォンでマンガを配信している。
常識なんてそんなものだということだ。
大学で研究を始めて2年後の2008年に日本でiPhoneが発売され、スマートフォンによって大きく時代が変わるなか、2011年にiPhoneを生み出したスティーブ・ジョブズが亡くなった。
そのジョブズが2005年に今も語りつがれる伝説のスピーチをスタンフォード大学の卒業式で言っている。
すでに自分の身体が癌に蝕まれていることを、ジョブズは知ってのスピーチだ。
そのスピーチの最後に、ジョブズは「stay hungry、stay foolish(ハングリーであれ 愚かであれ)」と学生たちに向けてメッセージを告げている。
「ハングリーであれ 愚かであれ」とは、ホールアースカタログの最後に書かれた一文である。
この言葉の意味をぼくはこう理解した。
「何もないところから這い上がれ!」
「人が当然だと思っている常識を疑い
自分の意志を信じて生きろ!」
「ハングリーであれ 愚かであれ」は、大学で研究していく上で、ぼくにとってとてつもなく大事な言葉となっていった。
大学に入って教授になったころ、文科省の「マンガ・アニメの人材育成」のプロジェクトに参加することになり、副委員長になった。
マンガ、アニメを教える専門学校、大学のほとんどが参加してのプロジェクトである。
そこで、大学へ来るようになって抱いていた疑問を、参加した専門学校の講師、大学の教授などに聞いてまわった。
「マンガを教えるにあたって、専門学校と大学の違いは何ですか?」
不思議なことに、大学の教授たちから、「研究」という言葉はひとつも出てこなかった。
大学も専門学校も「知識」と「技術」を中心に教えているという。
つまり「常識」を教えていることしかやっていないということだ。
「研究」とは常識を疑うことから始まるとぼくは思っている。
たとえば課題を与え、その答えを導き出す授業は、常識としての答えが出た瞬間、思考停止になってしまう。
本来はそこから考えることで「研究」が始まるはずなのに、その「研究」を拒む授業を大学で行っているということだ。
自分のゼミでは答えを求める課題ではなく、自分にとっての課題をまず考える、そして自分の答えを思考するといった試みで進めてきた。
まだDXという言葉がなかった2010年から、デジタルを使って市や県の行政と組んでデジタルマンガコンテンツを作りはじめ、動画、3D、XR、メタバース、AIなどのテクノロジーの進歩とともに、そのテクノロジーを使って、64ものプロジェクトをプロとして仕事としてゼミで制作してきた。
その中にはNHKの総合テレビの1時間番組をモーションアニメで創った作品や、医学大学の教科書、宇都宮美術館と組んで、バーチャル美術館、また、今では宇都宮の大きなイベントとなった、「とちてれ☆アニメフェスタ!」などもある。
また11年前からは、宇都宮にある帝京大学、宇都宮大学と共同研究を始め、いっしょにゼミをやったり、コンテンツ制作も行っている。
海外でもぼくは、中国の南京電媒南広学院大学というメディアの大学の名誉教授になっていることから、2017年から中国でも授業を行っている。(コロナで渡航できなくなった2020年以降はオンラインになっている)
昨年、2023年はAIによって、時代が大きく変わって行く始まりの年となった。
10年前からAIはキャラクターを使ってのディープラーニングの研究をしていたぼくにとっても、2022年11月のChatGPTの登場は驚き以外なかった。
2000年以降、Internetによって世の中はまったく変わってしまったのだが、ChatGPTの登場はそれ以上に間違いなく世の中を変えることになる。
教育も大きく変わらなければならない。
Internetが出てきた時点で、「知識を教えるため」の大学ではなく、「考え方を教える大学」でなければならないと考えてきた。
そもそも常識としての知識は、検索し、またYouTubeを見れば最新の技術と知識がいくらでも公開されている。
そしてAIによって、「考え方」そのものが変わってきた。
大学で学ぶにとって、今のジェネレティブAIにおける世の中で一番必要なのは、「人間しかできない創造」。
つまりリアルであり、人間ひとりひとりが自分しかできないこととは何かを考える。
それはまさに学ぶことにおいて、「研究」が重要になってくるということだ。
ジョブズはスタンフォード大学でのスピーチで、実はそのリアルの重要性をメッセージとして語っている。
「将来を見据えて点と点を繋ぐことなどできません。過去を振り返ったときに初めて点と点が繋がるわけです。ですから、私たちは将来どこかでその点が繋がると信じなければなりません。直感、運命、人生、カーマ、なんであれ、何かを信じる必要があります。私はこの生き方で後悔をしたことは一度もありません、自分の人生を大きく変えてくれたと思っています」
このメッセージは、将来を見据えるのではなく、まず自分がやりたいと思うことをとことんをやる。
その「点」の数がすべて経験となる。
そしてそのバラバラと思っていた経験の「点」が、将来必ずつながり、その経験の「点」がつながることで生まれたものは、自分にしかできないオンリーワンとなる。
そういうメッセージだと理解している。
これも田中ゼミにおける軸となっている考え方だ。
そしてもうひとつ、田中ゼミでつねにみんなに伝えている言葉がある。
「枯れた技術の水平思考」
任天堂にいた横井軍平さんの言葉であり哲学である。
枯れた技術というのは、何度も修正を繰り返し、安定した技術であり値段も下がっているもの。それを水平思考して新しいものを生み出していくということだ。
たとえば田中ゼミではマンガやキャラクターを、マンガ関係の世界で表現するだけではなく、観光、医療、福祉などなど、新しいテクノロジーと組み合わせ、新しいコンテンツを生み出していく。
この考え方はまさに今の時代、DXの根底となる言葉である。
田中ゼミで創ってきたコンテンツは、実はこの「枯れた技術の水平思考」の考えるもとで生みだしてきた。
たとえば、NHKで1時間のモーションアニメを制作したのは、NHKのラジオドラマの可能性をNHKのディレクターとディスカッションしたところから始まっている。
ラジオは今や、スマートフォンのアプリでみんな聞いている。
ということは、スマートフォンを使って見るラジオドラマは作れないかということから始まった。
NHKだけに有名な役者が声を入れてのラジオドラマに、アニメーションの10分の1ほどの予算で動画ができるモーションで制作したというわけである。
このようにこれからは、「枯れた技術の水平思考」の哲学を持って考えれば、マンガは冊子だけで読むものだけではなく、あらゆるディバイスでの表現、観光、福祉、医療、教育、エンタメ…あらゆる場所においてコンテンツを生み出すことができる。
DXの時代においては、表現法もXR、プロジェクションマッピング、そしてAIと、頭で想像したものがコンテンツ化できる時代になってきた。
「知識ではなく思考力を生み出すための教育」。
つまり今は「研究」の時代だと思っている。
ともあれこの19年間、ゼミで試行錯誤しながらもやってきた。
おもしろいものでこの歳になると、大学で研究をやりながら、自分の生きてきた「点」がつながってくるのを感じている。
高校までの野球部の経験、ミュージシャン、マンガ家、illustrator、フォトグラファー、ノンフィクション作家、マンガ原作者、コラミスト、エッセイスト…
AIを使いながら、音楽を生み出し、動画を制作し、仮想空間を生み出していく。
すべての研究において自分のこれまでの「点」がそこにある。
美術大学においては、こういった研究ゼミは「非常識」なゼミだと見られると思うがそれでいい。
時代は変わって行く。
田中ゼミ16期の4年生に最後に伝えた言葉はもちろんこの言葉である。
「stay hungry、stay foolish(ハングリーであれ 愚かであれ)」
【ハングリーであれ 愚かであれ】