TOKYO2020で見えてきたことと感じたこと

オリンピックが始まった。
パンデミックの中でのオリンピックということもあり、複雑な思いはだれもが抱いていると思う。
とはいえ、「そのために生きてきた」選手たちの、とてつもなく濃い時間を、オリンピックの一瞬に凝縮した闘いには、やはり心を振るわせてしまう。

その選手たちの凄さを「伝える」のが間違いなくテクノロジーだと思っている。

1924年のパリ大会でラジオが始まり、そして1936年のベルリン大会からのテレビによって、オリンピックは世界中の人たちが見ることのできる大会となっていっている。
前回のリオデジャネイロ五輪で世界で36億人が見たと言われている。

そうテレビというテクノロジーによってオリンピックは、世界中に感動を与える大会と
なったということだ。

そしてTOKYO2020。
2018年の平昌オリンピックで、5Gによる「伝える」の一方的ではなく、自分の目的で自由に選手を応援できるアプリなど。また自由視点カメラによるライブVR、ドローン、e-sportsと、新しい形のスポーツ観戦が体験でき、新しい「伝える」の表現が始まった。それだけに、TOKYO2020は間違いなく、世界最新のテクノロジーによって、新しい「伝える」を生み出してくるオリンピックになると思っていた。

だが、まず開会式で165億をかけた演出ということで、どんな凄い演出を見せてくれるのかと期待していたところ、テクノロジーを使った演出はドローンぐらいしかない。
それもドローンで映像を組み立てる見せ方は、すでに平昌オリンピックの開会式でも行われていたし、海外のイベントでもよく見られる、新しい驚くような表現などではない。

NTTや、CanonなどでXRの新しい表現が研究されていただけに、そういう技術はなぜ使わないのだろうと思ってしまう。

コロナ過で無観客のオリンピックだけに、裏を返せばテクノロジーを使って、現場にいなくても、現場以上のリアルを感じ、自分も参加できる新しい時代のスポーツ観戦を表現できるオリンピックが創れたはずだ。

57年前、1964年の東京オリンピックにしても、市川崑監督の映画、デザイナーの亀倉雄策氏のポスターを見たらわかるように、オリンピックは新しい表現にクリエーターは挑んでいる。
つまりオリンピックはクリエーターにとっても、新しい表現で世界を驚かせる、そういった「場」でもあったはずだ。

今、XRのエクスポテンシャルな進化によってイメージを形にできる時代である。
なぜそういった新たな表現を生み出すクリエーターを選ばなかったのか?

今回の開会式を巡るゴタゴタで、クリエーターの世界において、大きなお金の動く場所は、権力と利権とコネによって動いていく様が実によく見えてきた。

まぁ、それだけにオリンピックで闘う選手たちの、実力で勝ち取ったものが評価される純粋な世界だと思うことができる。
だからぼくたちは感動する。

ぼくはスポーツの作品を数多く書いてきた。
とことん取材して書いてきた。
たとえば、100メートルで10秒を切る選手。たとえば160キロのボールを投げる選手。たとえば150キロのパンチを繰り出す選手。
もちろん、そのためにどれだけのことをやってきたかという尊敬もある。
だが、もっと単純に、その選手が目の前に立っただけでぼくは尊敬の念を純粋に抱き、感情が湧き出てくる。

なぜなのか…
20代のときの本の中でぼくは書いている。
「人は生命力の強さに尊敬を抱く」

そう、世界の頂点を目指して、そのためだけに生きてきた選手の集まるオリンピック。
生命力の強さの塊がそこにある。

だが、生命力の強さはスポーツだけではない。
オリンピックにおいて、メディアにおいてテクノロジーを使って伝える側も、技術だけではなく、生命力を持って表現に挑まなければならない。

見る側が感嘆するような表現を、伝える側からも見せてほしい。

そんなことを思いながら、TOKYO2020を毎日テレビの前で見ている。