心を開いて「Yes」と言う

ジョン・レノンの言葉で、20代の頃から大事にしている言葉がある。

「心を開いて「Yes」って言ってごらん
すべてを肯定してみると答えがみつかるもんだよ」
John Lennon

No!と言えば、そこで扉を閉じてしまう。
だが、Yesと言えば、その扉の向こうへと旅をつづけることができる。
その先に素晴らしい出会いがまっているかもしれない。

人は「成功」したいとだれもが思っている。
「成功」するために人は努力をする。
だが、「成功」するものなど、ほんの一握りにすぎない。
では成功しなかった者は不幸なのか?

20代、30代、40代と大好きだったボクシングを、密着して追いかけ、マンガ、ノンフィクション、写真、エッセイ、コラム、イラストと、何作もの作品を書き、何冊もの本も出してきた。
世界チャンピオンになったボクサーも何人かいる。
だが大半は、夢にたどり着けないまま引退していったボクサーたちだ。
では世界チャンピオンになれなかったボクサーは不幸なのか…

ぼくはボクサーたちと付き合うことで、「あぁ、人生とはこういうことか」と見えてきたことがある。
夢に向かって、すべてをボクシングのためだけに生きたボクサーは、たとえ「成功」できなかったとしても、全員、間違いなく生きるにおいて「成長」している。
「死」を感じ闘うということは、「生」を手にするこであり、生きるにおいて見えてくるものが必ずある。

人は命があるかぎり「成長」したいと願っている。
生きることとは、過去でも未来でもなく、今を生きることで「成長」することだと思っている。

「成長」とは、「チャレンジ」でもある。
チャレンジには逆境が必ずある。
だが、思い返してほしい、何においても、逆境に向かって挑んだとき、それが失敗だったとしても、その後の生き方において成長を感じたことがあるはずだ。

 

日本人は「失敗」を悪と見る人が多い。
たとえば、日本の野球を見に行くと、盗塁したとき、アウトになったとき「何やってんだ!」とヤジと罵声が飛ぶ。
だが、メジャーリーグを見に行くと、アウトになったとしても「ナイストライ!」と拍手がわく。

大学にいると、「常識」に縛り付け、「常識」を逸脱すると怒られるといった教育を受けて育ってきた学生が大半だと感じている。
みんな「常識」でいう「いい子」たちだ。
研究とは、今までの「常識」を疑うことから始める、つまりトライなのだが、「常識」の中以外は「No!」と学生たちは扉を閉じてしまう。
つまり失敗を恐れ、萎縮して無難な場所で留まるために、少しでもリスクを感じると、その扉は開けない。

これで面白いのだろうか?
自分の「成長」を自分で阻んでおもしろいのだろうか?

大学もそうだが、日本の社会全体がコンプライアンスという、「常識」のルールで縛り、新しい扉を開けようとしない世の中に、最近少し辟易としている。

ぼくはボクサーの生き方に「生命力」を感じ、その生き方を追いかけ何冊もフィクション、ノンフィクションを書き、写真を撮り、絵も描いてきた。

どう考えたってボクサーは最悪に費用対効果の悪い生き方だ。
だが、「生きる」においては、これほどシンプルな、魅力的な生き方はない。
拳ひとつで、成長するためだけに命を賭け日々を生きる。

残りの人生、ボクサーのように生きよう。
そして「Yes!」と扉を開けつづけよう。

【旅の空 Ⅶ owada】