大学を変える

2018年3月28日

大学は春休みなのだが、毎日研究室で仕事に追われる日々がつづいている。

そうそう、まもなく(4月)、那須の自然の中で「PROJECT 9b」がスタートする。

http://www.project9b.com/

いにしえより、那須に伝わる「九尾狐」の伝説をモチーフに、アーチストの姫川明輝先生がアートディレクターとして、キャラクターたちを生み出し、そのキャラクターたちが那須の自然の中で様々なものを生み出していくという壮大なプロジェクトである。

まずは那須の刊行スポット9ヵ所で、その地に住むキャラクターたちがスマートフォンを通して、AR「拡張現実」のシステムで表れ、その地の云われを語り伝えてくれる。
(英語・中国語にも対応)
下のスポットで、姫川先生の生み出したキャラクターたちの出会えることになっている。

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① 殺生石
② 那須温泉
③ 駒止の滝
④ 那須平成の森
⑤ 茶臼岳
⑥ 八幡つつじ
⑦ 遊行柳
⑧ 黒田原
⑨ 東山道
この地に訪ねていかなければ出会えないキャラクターたちなので、ぜひ訪ねてきてもらいたい。
(まだスタート前(シークレット)なので、9ヵ所のキャラクターの絵を見せることができないが、とにかくワクワクしてくるキャラクターたちなのだ)

こういったコンテンツ制作の他に、もうひとつ、ここ何度かこの場所で書いてきているのだが、「大学」というものを本気で変えたいと動いている。

世界は今、AGFA(Amazon Google Facebook Apple)+M(Microsoft)の5つのIT企業が世界を動かしている。
では、AGFA+Mがどういった企業かと言えば、その中心を成すのは間違いなく「研究」だということだ。
M&Aによって、世界の「研究」はAGFA+Mに集中し、その「研究」がコンテンツを生み出している。

そう考えたとき、大学とは本来「研究機関」として存在している場所である。
実際、AI、VR、AR、3Dプリンターなどなど、大学で研究している教授たちはたくさんいる。
そういった大学の研究者とともに、マンガを使うことで「研究」からコンテンツを生み出していきたいと考えている。
つまり大学の中で、「研究」を「コンテンツ」化できるということを形にして示していきたいというわけだ。

今、その体制作りをしているところなのだが、来年度から生徒募集をはじめる、今まで大学では存在しなかったコースを新設することにしている。(絵を描くためにはデッサン、骨格を知るだけではなく、生物学や歴史も学び、そしてそれをどうコンテンツ化するか、経済学も学ぶとともにリアルに体験もできるコースにしたいと思っている)
それとともに、いくつかの大学と共同授業もしていこうと考えている。

昨年、帝京大学理工学部とは、ゼミとしてではあるのだが、相互単位の授業を始めている。
それをもっといくつもの大学と行なうべく、この春もいろいろな他大学の関係者に会っている。

ぼくのいる文星芸術大学というのが美術大学なのだが、今の時代、教育もioTのように、ありとあらゆるものが繋がる時代になっていて、そこで生きることによって、無限に可能性を広げることができると考えている。
工学部、農学部、経済学部、理学部、教養学部、医学部…あらゆる学部で知識を得ることで、コンテンツは生まれてくるはずである。

こう書くと、あらゆるものと繋がることと、コンテンツを生み出すのはまったく別のことではないかと言われてしまうのだが、いやいや、すべては繋がるのである。

ぼくたちが何かを生み出すとき、まず何をするだろうか。
そう、まず「想像」するところから始まるはずだ。
では、いきなり、AIを使ってマンガを創れと言われたとき、AIのシステムを知らなければ、まず「想像」できないと思う。
つまり、「想像」とは「知識」とい「実践」の上に成り立っているということだ。

工学部で講義を受け、「知識」を得たとき、その工学部で得た知識を元に「想像」が生まれ、その想像を元に「研究」がはじまり、そこからコンテンツが生まれてくるということだ。

では人間にとって「便利」なものを生み出すのが「研究」かと言えば、それはぼくの中ではまた違ってくる。

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文星芸術大学のある栃木に来て、本当によかったと思うのは自然の中で生きられるということである。
では自然とは何かと問われると、ぼくは生きて行くのに一番大事なものと答えている。
自然がなければ人は死ぬと思っている。
そして自然は、人には生み出せないものだとも思っている。

今、ぼくはテクノロジーを使ったコンテンツを生み出していることから、デジタルに生きていると思われているのだが、ぼくの中のテクノロジーは「便利」を求めるものではない。

自然と一体化した「こころ」を伝えることができないかと考えている。

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たとえば仏像であり、道ばたに置かれている石仏のような存在をテクノロジーで生み出せないかと考えているわけだ。

いや、このあたりになると、まだ頭の中で整理できていない考えなので、うまく伝えることができないが、テクノロジーは便利を追い求めている流れの中で、マンガを軸に置くことで自然とともに生きる「こころ」を創造していきたいというのが、つまりは追い求めている「研究」だと言いたいのだが、それは言葉で書いてもたしかに伝わらないかもしれない。

とにかく創って見て、感じてもらうしかないということだ。

大学とは、研究とは、答えのないものを自分で考え、自分で答えを求め、そして自分の出した答えを形にする場所。
そして何度も失敗し、失敗が見えることで少しずつ成長していく。
その繰り返しの中から、新しいイノベーションが生まれてくると思っている。

そう、大学を本来の研究機関としてのそういう場所に変えたいと本気で動いている日々でもあるというわけだ。

唯一生き残るのは、変化できる者である

 

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2018年2月28日

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である

進化論のダーウィンのもっとも有名な言葉だ。

前回、「シンギュラリティに向けて、大学はどう変わり、学ぶべきか」といったことをここで書いたのだが、エクスポネンシャルに進化している現在、AIに仕事が奪われるとか、シンギュラリティがやってくるとか、そういったことが言いたかったわけではない。

そこに向かってテクノロジーが進化し、時代が変わっているということを、まず知らなければならないと書いたつもりである。
知らなければ、まず変化できないからだ。

だが、どうもうまく伝わらない。
大学の教授たちからも、大学を変えるにしても「まずはベーシック」といった言葉が返ってくる。
学生にしても、時代は今のまま続くと考えているのか、マンガを描くということに対して、印刷物の冊子で描くのがマンガであり、その表現でこれからも生きていけると思っている。

暴論と言われるかもしれないが、どう考えても今の形では、出版社は今後10年、とても存続できるとは思えない。
今の形のマンガはなくならないとは思うが、まず、今の形では食ってはいけない世界になることは間違いない。(今でもすでに30年前より原稿料は下がっているなど、生きてはいけない世界ではあるが)
マンガは表現であり、マンガを創るものは作家のはずだ。
作家というのは、表現者であるわけで、表現者というのは、新しいテクノロジーが生まれれば、媒体の中で、そこでできる表現法の中で、新しい表現を生み出したいと考えるのではないだろうか。
もちろん、冊子という媒体の中で、だれも表現したことのない表現を生み出すことも作家である。
だが、今のマーケティングされた雑誌の世界では、本当に新しい表現などなかなか生み出すことのできない世界になっている。
変化できなければ、新しい変化によって淘汰されていくのが時代である。

たとえば写真がそうだ。
ぼくもプロとしてプレイボーイやNumberなどでスポーツのグラビアも撮っていた。
使うフイルムはコダックである。
当時、プロ契約していたミノルタのレンズとコダックの相性が実によかったこともある。
そして何より世界一の写真フイルムメーカーである。
その世界一が、計算機メーカーのカシオがQV-10という、一般で使われ初めたデジタルカメラを発表して、たった17年でコダックは倒産してしまう。

デジタルカメラを世界で最初に開発したのは、実はコダックだったのだが、カメラはフイルムという既成概念んい縛られ時代の変化の中で消えていくことになる。

考えてみれば、そのデジタルカメラは今、スマートフォンの中に取り込まれてしまっている。
電話機、ICレコーダー、ゲーム機、テレビ、CD・DVDプレーヤー…
10年前、それぞれが個別で持っていたはずのものが、アプリとなって、それもだれでも買える値段、もしくは無料で高性能の万能機械としてスマートフォンの中でだれもが使っている。

与えられるものに対して、意識もなくだれもが変化しているのかもしれない。
だが、自分のやっていることが変化することに対しては、なぜかみんな既成概念に縛られ変化を拒もうとする。
自分がこれまで積み上げてきた実績が、変化によって変わってしまうことを認めようとしないのかもしれない。

だが時代はエクスポネンシャルに動いている。

「唯一生き残るのは、変化できる者である」なのだ。

3年ほど前、ちばてつや先生に、「なぜ学生たちは、時代が変わっていることに直視して勉強しないのですかね」「こんなチャンスな時代に生きているのに」と話したことがある。
するとちば先生はニコニコしながら、「みんなが田中先生みたいに勉強して行動したら、田中先生の商売、あがったりになっちゃうね」と言ってくれた。

「あぁ、そうだ」と、たしかにそうなのだ。
それ以来、既成概念に縛られ、変化を拒もうとする人たちに出会うと、「この人たちのおかげで、商売になってます」と、そう思うことにしている(笑)

ちばてつやMANGAイノベーション研究所として取り組んでいるプロジェクトのひとつ、「9bプロジェクト」の、4月スタートに向けての、予告ホームページがスタートしています。

http://www.project9b.com/
アートディレクターの姫川明輝先生が、続々とすごいキャラクターを生み出してくれています。楽しみに!

シンギュラリティに向けて、大学はどう変わり、どう学ぶか

 

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2018年1月31日

シンギュラリティという言葉は2016年後半あたりからよく耳にしてきたと思います。
日本での注目されはじめたきっかけは、SoftBankの孫正義氏が「シンギュラリティがやってくる中で、もう少しやり残したことがあるという欲が出てきた」と、シンギュラリティがSoftBankの社長続投の理由として述べたことからはじまったと思います。

もともとこの「シンギュラリティ」という言葉が出てきたのは、現代のエジソンといわれる発明家であり未来学者、AI(人工知能)の世界的権威であるレイ・カーツワイルが2005年に発表した著作からです。
その著書の中でカーツワイル氏は、技術的特異点(シンギュラリティ)によって、テクノロジーが地球全人類の知能を超える、人類の進化速度が無限大の到達点に達するといっています。
それが今よくいわれている、カーツワイルが予言した「2045年問題」です。

ですが、「AIが人類の頭脳を追い越すのがシンギュラリティ」と一般では思われていますが、ジェネティックス革命(遺伝学)、ナノテクノロジー革命(ナノとは10億分の1を表す単位。つまり原子、分子レベルで物質を扱う)、ロボティックス革命(人間よりすぐれたロボットが生まれてくる)の3つ、「G・N・R」革命を中心に、あらゆるものが進化していく先にあるのがシンギュラリティだということです。
もちろん、その中心となるのは「AI」であることもたしかです。

つまりそういった「G・N・R」などあらゆるテクノロジーというものが、人類の進化速度が無限大の到達点に達し、今、想像もできない世界がやってくる、それがシンギュラリティの2045年問題だと思っています。

そうなればどうなるのか。
カーツワイルもわからないと言っています。
そう、シンギュラリティとは、宇宙物理学の分野で言えば、ブラックホールの中に、理論的な計算では重力の大きさが無限大になる「特異点」という、だれも想像できない世界に到達するということなのです。

もちろんこれはあくまで予言ですが、実際にカーツワイルが言った「特異点」に向かってのスピードで世の中は動いています。
たとえば「ヒトゲノム計画」(人間の遺伝子情報配列の解析)です。
15年で完了すると進められた解析プロジェクトは、7年間で1%しか解析できていなかったことにもかかわらず、カーツワイルは「もう半分以上終わっている」と指摘しています。
そしてその指摘のとおり、15年で解析は完了しています。
1%でも分かれば、その先はあっという間に到達していくスピードこそがシンギュラリティの流れです。

もっと身近な例を挙げると、スマートフォンがあります。
スマートフォンが広まるきっかけはiPhoneですが、iPhoneはまだ生まれてから10年しかたっていません。
ですが、世の中の大半は、スマートフォンなしでは生きてゆけないと言うぐらい、スマートフォンに依存した世界に変わってしまいました。

つまり、10年前とはまったく違う世界に今はなっているという現実が、スマートフォンひとつで起こっているということです。

その成長は、いままでのような進歩率、1,2,3,4,5…という成長ではなくなっています。
インテル社の創業者のひとりであるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文で「ムーアの法則」という、「トランジスタの集積度は18ヶ月ごとに倍になる」という説を唱えたのですが、今、まさに時代は「指数関数的」に成長しているというのが、だれもが実感していると思います。
指数関数の成長、つまりエクスポネンシャルの成長と言われていますが、1,2,4,8,16,32…と成長しているのが今の時代です。

これがシンギュラリティの「2045年問題」の核心だと思っています。

これを情報で置き換えたとき、わかりやすい研究結果があります。
2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算したところ、12EB(エクサバイト)。
次の2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量12EBを超えたと発表しています。
そして2007年には10年前と比べて情報量が410倍になっていると発表されています。
2018年の今は統計はないのですが、1年単位でのエクスポネンシャルで計算してみると、1999年までに人間が30万年かけて蓄積してきた情報量の17000倍になっているのが、今だということです。

ここまで書けばわかってくると思いますが、インターネットというものが、エクスポネンシャルによって世界を変えているとともに、大学の教える側も、学ぶ側も変わらなければならない、そこを考えなければ大学などまったく意味がないのが現状です。

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ここで「大学で学ぶとは何か」。
少し考えてください。
まず今の時代で考えれば、“調べる”、“知る”はGoogleで検索したら何でも出てきます。
レクチャーなど、ほとんどGoogleで検索で教えることなどありません。
では、技術を「見せる」。「見て覚える」はどうなのか。
世界で一流の人たちの創作が画像、ムービーでYouTubeなどでいくらでも学ぶことができます。
では講義はどうなのか。
MOOC(大規模オープンオンライン講座)で、ハーバード大学だろうと、東京大学だろうと、教授たちの講義は無料で聞くことができます。

ではお金を払ってまで、(自分に投資する)大学へ来る意味は何なのか。
大学はまず、学校ではないはずです。
研究機関だからこそ、専門学校ではなく、大学と呼ばれているはずです。
きっとインターネットによってエクスポネンシャルがはじまる前は、大学は「学校」の延長として、「教えてもらえている」ということで、かろうじて、「お金がとれた」かもしれません。(学校の延長と捉えた時点で無駄金ですが)
まぁ、簡単に情報が手に入らなかったので、情報がお金になったというだけのことです。
ですが、今は学生たちの手の中にはスマートフォンがあるのです。

そんな時代に大学で学ぶとはどういうことか。
そう考えると、答えはまず専門学校のような大学では、そこに「投資」(今から生きるために学費と時間を費やす)する意味などなということです。

人間は必ず死にます。
だから時間は「命」です。
その命の時間を無駄にするだけです。
経済学では、時間は「資源」ととらえていますが、たしかに時間は大きな可能性を秘めた資源とも捉えることができます。

では今、大学で学ぶとはどういうことなのか?
自分の命の時間に、お金を投資して大学に行く意味は何なのか。

もちろんそれはすべての人によって答えは違ってきます。
だからまず考えてください。
そこを考えなければ、命の時間とお金を捨ててしまうだけの無駄なことになってしまいます。(なんとなくの人間は、なんとなく生まれて、なんとなく生きて、なんとなく死んでいく一生をおくるだけです)

ぼくはこう考えています。
まずは、今の時代に大学で学ぶ第一の意味は、本来の研究機関としての大学に戻るべく「研究」です。
そして「実践としての教育」です。

研究とは、この世にないものを生み出す、つまりGoogle、YouTubeで検索では出てこないイノベーションです。
また「実践としての教育」とは、「今」「ここ」の教育です。
文星芸術大学ならば、宇都宮という「ここ」で、「今」生きていることでできる教育になると思います。

当たり前ですが、「今」「ここ」で生きている教育は、「今」「ここ」で生きる以外、学ぶことのできない教育のはずです。

教える側でも同じです。
ぼくは文星芸術大学へ来たとき考えました。
最初はマンガは東京が中心ということもあり、東京を見てマンガを創っていました。
ですが、「この大学に自分がいる意味」は、東京を見ているのなら、宇都宮にいる意味などないということです。
東京を見ているなら、東京にいればいいだけのことです。
それで宇都宮へ来ているのなら、自分がここで生きてる存在、意味は「何」なのか。

そう考えたとき答えは簡単に出ました。
「プラットホームを栃木(ここ)に自分で創ればいい」
そう、今の時代、だれにでも、どこにでもプラットホームが「個人」で世界に向けて発信できる環境が備わっている時代なんです。

考えてください。
今、時代はどう動いているのか、「今、自分はどんな時代に生きているのか」考えることが必要です。

世界はGoogle、Apple、Facebook、Amazonが大きな意味を持って「今」を動かしています。
一昔のように、車の企業は車を作り、電化製品の企業は電気製品をつくり、印刷の企業は印刷をするという時代ではなくなりました。

世界を変えるべくイノベーションを起こしているGoogle、Apple、Facebook、Amazonは何なのかと一言で言えば、「研究機関」です。
コンテンツを生み出すことのできる研究機関です。

大学も同じだとぼくは考えています。
大学という研究機関で、マンガという研究をコンテンツ化できる武器を持って、新たな表現を開拓していける場所です。
マンガでイノベーションを起こすのが、大学でマンガを研究するということだと思います。

ここ数年、帝京大学の理工学部とはいっしょに制作してきています。
宇都宮大学とも、新しい研究にはいっています。

今年から新たに、文星芸術大学、宇都宮共和大学、作新学院大学、帝京大学宇都宮キャンパス、宇都宮大学の5大学の連携を進めています。
産官学の連携を考えるということは、まさに「今」「ここ」で学ぶことに繋がるはずです。
そして大学が繋がることで、「研究」をそこからどう始めるかが重要になってきます。

きっと今回の連携に対して、ぜんぜん違う分野の大学が連携して何が(研究)できるとみんなは思うかもしれません。
ですが、シンギュラリティに向かってエクスポネンシャルに成長していくことを考えたとき、違う分野の研究機関が集まり「研究」するというのはとてつもなく必要な時代になっているということです。

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わかりやすい例として、昨年、2017年に興味深いことがありました。

そのひとつ、将棋の佐藤名人が電王戦においてAIのボナンザに第一局、第二局と完璧に負けてしまいます。
ちなみにボナンザは、囲碁の世界チャンピオンを破ったGoogleの「アルファー碁」のディープラーニング(深層学習)のAIではなく、機械学習のAIに名人は負けたのです。

この対局の二戦目に面白い場面がありました。
佐藤名人が優位にススメ、佐藤名人はここで、将棋の世界では常識の鉄壁の守備の陣形、「穴熊」という囲いを用いました。
その対決を見ていたすべてのプロの棋士たちが「完璧」と頷いたとき、ボナンザはこの穴熊囲いを易々と破ってしまったのです。
つまりAIが将棋の常識を破ったことになります。

佐藤名人は敗者の弁で「自分の将棋のどこが悪かったのかわからない」と感想を述べていますが、このあとの佐藤名人の打ち方が変わったと言われています。
今までの将棋の常識にとらわれない打ち方。
ここに、大学が今やるべきヒントが隠れているのではないでしょうか。

それは想像でしかないのですが、佐藤名人は、将棋が将棋に縛られていた「常識」という呪文から、AIに負けたことで解き放たれたのではないのかと、将棋をまったく知らないぼくですがそう感じました。

つまり、将棋界の常識が、AIという、今までなかった常識に縛られない学習をしてきた機械によって、将棋の可能性を新たに無限に広げてくれたのだということです。

それともうひとつは、昨年メジャーリーグで世界一に輝いた、ヒューストン・アストロズの革命です。
球団創設以来、一度も優勝のないアストロズが2011年にヒューストンの実業家のジム・クレインによって買収されます。
ヤンキースの総額年俸の3分の1にも満たない、金も力もない球団をどうやって強いチームにしていくか。
クレインはGMに大手コンサルティング会社「マッキンゼー・アンド・カンパニー」のエリートであったジェフ・ルーノウを抜擢します。
そのルーノウは球団にあらゆる分野の専門家を招き入れました。
エンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家などです。
それまでの野球界は、コーチやスタッフといったら、まず野球経験者で固めるのが常識でした。
ですが、まったく野球とは関係ないエンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家などをスタッフとして入れていったのです。

そのことによってアストロズだけではなく、メジャーリーグのベースボール自体が変わっていったのです。
それまでベースボールのバッティングはダウンスイング、もしくはレベルスイングでまず転がせ。フライは打ち上げるなというのが、これはメジャーだけでなくベースボールの常識でした。
ぼくも高校まで野球部だったのですが、ずっと「ボールを打ち上げるな、ボールを叩きつけろ!」と教わりました。
これは世界中のベースボールが何十年も言い続けてきていた「常識」です。

ですがアストロズは「フライボール革命」というものをメジャーリーグに起こします。
ゴロを打つのではなく、フライを打った方が打つことすべての確率が上がると、エンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家データによってはじき出されたのです。
バットのスイングする角度までも選手に支持し、そのことで結果が出、結果が出ることで、選手たちは、野球界の外の人間であったエンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家のデータに本気で取り組みはじめたのです。
すると、年間で400本以上もメジャーのホームラン記録が伸びるなど、数々のメジャー記録が生まれ、すべてのメジャーリーガーたちに対して革命が起きたということです。
もちろんバッティングだけではなく、投手もデータを分析し、デビュー以来1勝もできずに戦力外になった、コリン・マークヒュー投手をアストロズは、3年連続2桁勝利の投手へと育てあげます。
マークヒュー投手のカーブの回転数が、通常2000/分回転なのに対して、2500/分回転のカーブが投げられることを分析し、メジャーで勝てる投手に変えたのです。

フライボール革命も、マークヒュー投手も、きっと今までの常識にとらわれた野球界では生まれなかったイノベーションだと思います。

こうやって将棋やスポーツに目を向けただけでも、イノベーションを起こすには、その世界で凝り固まった場所では起きないということです。

マンガならマンガに縛られない、サイエンスや経済、医学、スポーツ学と取り組むことでの化学変化が、新しいイノベーションを起こすきっかけとなるはずです。

もちろんただ組むだけでは何も生まれてきません。

シンギュラリティに向けて、サイエンスと組むなら何がしたいか。AIと組めば何ができる。VRと組めば何ができる。ホログラムなら、プロジェクションマッピングならといくらでも発想が湧いてきます。

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田中研究室ではすでにいくつか始めているプロジェクトもあり、特に那須観光協会と進めているプロジェクトは4月には実際に形としてスタートすることもあり、連日、急ピッチで制作している段階です。

また昨日、宇都宮大学の先端光工学で世界から注目を集めている、長谷川智士准教授たちと新しい研究をしていきたいと話しています。
長谷川研究室は、フェムト秒レーザーを用いて,金属や半導体,誘電体の3次元サブミクロン構造を高精度に加工して,屈折率・反射率・摩擦・撥水性等を制御することで,材料に新規な機能性を付加する研究を行っているチームです。

フェムト秒レーザーを使い、水の中に、泡をpixel化することで、新しい表現が生まれてくるはずだと、田中は考えています。

つまり大学にとって、ここに書いてきたように、シンギュラリティに向けて、今からの大学はとてつもなく重要な場所となっていくはずです。

そこで「何」をすべきか。
「シンギュラリティに向けて大学はどう変わるり、どう学ぶか」

そういうことです。

体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない

2018年1月1日

あけましておめでとうございます。

正月早々PCの前に座って仕事を始めている。

「禅」の考えとは「ひとり悟る教え」である。
「なるほど、わかった」と会得するのは、他人ではなく自分。
そのためには、自分自らが行動しなければならないと「禅」は教えてくれる。

昨年はよく動いた。
「禅」のその考えを根底によく動いた。
そして見えてきたものがある。
「なるほど、わかった」と見えてきたものがある。

今、未来サイエンス研究で脳の持つデータもダウンロードでき、脳とインターネット、AIを結びつけ、老いても身体はサイボーグとして生かすことで、人間が無限に生きられる時代が来ると言われている。
そのことに対して「凄い」と思った。
人間はとんでもない領域に入ってきたと、これがシンギュラリティということなのかと思ったのだが…
だが、「それは本当に生きていることになるのだろうか?」という疑問。

生きているというのは、身体と脳、両方が生きていることで、「生命」と言えるのではないだろうか。

アインシュタインもこう言っている。
「体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない」

そう考えたとき、「生命」とは自然の上に成り立っているということだ。

今、自然の中で、その自然を感じることのできる、デジタル表現を、自然を壊すことなく大自然の中でできないかと考えている。

いや、もう何年も前から考えていたことが、形として動き出したということだ。

それが2018年。
がんばらなければならない一年だ。

世の中の常識にとらわれると、それがあたかも自分の信念で有るかのように誤解する

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2017年12月24日

あぁ、もう2017年もあと一週間になってしまった。

それにしてもよく仕事をした一年だった。
今も日曜日でだれもいない研究室で、溜まった仕事をとにかく一つずつこなしていっている。
いや、とにかく、〆切というやつが決まっているものだけでつねに20個以上は抱えていて、「それが終わったら進めます」と、控えている〆切、プロジェクトは今、いくつあるかわからない状態だ。

かといってこんな24時間仕事のような毎日が苦痛かというと、変な話し、仕事をしていないと不安はたしかにあるのだが、今やっている仕事ひとつひとつが面白くて、それで寝る間も忘れて取り組めていることもたしかだ。

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ここのブログで「大学とは」など、持論をいくつか書いてきたのだが、信念を持って動けば形になってくる。
だれも相手にしてくれなかったことが、いつのまにかプロジェクトとして動き始めているものが、今年、いくつもあった。

15年ほど前、そう、まだスマートフォンなどなかった時代、ケータイで見る、ケータイの機能を生かしたマンガを、世界ではじめて創作した。

まぁ、ケータイなもので、スクロールではなく、クリックして画面転換をしていくとともに、デジタルならではの見せ方をするマンガとして、「クリックコミック」略して、「クリコミ」と名付け制作した。
だが、そのとき、出版社など周りから言われたのが、「マンガは本で読むもの、ケータイでマンガを読む時代が来たら、東京中、素っ裸で逆立ちして歩いてやるよ」だった。

それからスマートフォンが生まれ、マンガどころか、この地球上のモノと繋がる、コントローラーとしてのケータイ(スマートフォン)の今がある。
まぁ、マンガをケータイ(スマートフォン)で読む人の方が紙媒体より間違いなく多くなったのだから、あのときの編集者には、ぜひとも東京中、素っ裸で逆立ちして歩いてもらいたいものだ。

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マンガは紙媒体で読むものから、本の他にタブレット、スマートフォンで読むだけではなくなった。
今、進めている、那須の観光地をキャラクターがARシステムで案内し、キャラクターと空間の中で遊べる、この取り組みも、ぼくにとっては間違いなくマンガだ。

作家のアンソニー・ロビンズがこう言っている。
「世の中の常識にとらわれると、それがあたかも自分の信念で有るかのように誤解してしまう」
「多くの人が不可能と言えば、それを真実と思い込んでしまう。すると実際には壁を乗り越える力があっても、実力を発揮できない」
「ところが、誰かがそれを実現すると、先入観が取り払われると、不可能という信念が、可能という信念に変わり、人々の連鎖的な行動につながっていくのだ」

まったくその通りだと思う。

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2017年のこの1年で、本当に「常識」が大きく変わり、人々は連鎖的にその新しい「常識」を受け入れた年だったと思う。

IoTが当たり前のようになり、それがAIと繋がり、スマートフォンをコントローラーにAIが生活の中で、何の不自然もなく使われはじめている。
AIが急速に“成長”しているのは、間違いなく画像認識ができるようになった、ディープラーニングであるし、3Dゲームなどで使われているGPU(Graphics Processing Unit)との組み合わせで、自動運転を中心にAIの可能性がどんどんと広がっている。

2018年は間違いなく「AI」の年になると思う。
それも「画像認識」というのが大きなキーワードだ。
そしてマンガというキーワード。

大学という場所にいるおかげで、他の大学の研究者たちとアートとサイエンスで共同研究が動き始めている。

最近も、「常識」では考えられないシステムを開発、研究している研究者のことを知り、さっそく連絡を取らせてもらった。
来年早々にも会って、そのシステムを使っての、マンガの可能性について話し合いたいと思っている。
アイデアはすでにある。

表現者にとって面白い時代だということは間違いない。
それだけに、「新しい常識」をどこまで形にしていけるか。

まぁ、2018年も「やることがいっぱいある」ということだけは、間違いないということだ。

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※本文とは関係ないが、年末の心穏やかにで、石仏の写真を載せておきます。

自然の中で生きる心を生み出していくということ

2017年11月30日

もう12月というのにだ。
2017年もあと一ヶ月だというのに、今年中に形にしなければならないゼミで受けている仕事が5本も残っている。
東京には間違いなく2週間近くは戻ることはできなく、とにかく大学の研究室で寝泊まりして目の前のひとつひとつを形にしていかなければならない。
きっと、大学のゼミでこれほど仕事としてコンテンツの依頼を受け、制作している日本中の大学のゼミでは、まずないはずだと思う。

大学での制作の他にもスケジュールを見ると、とにかく土日もなくビッシリと詰まっている状態だ。

最近、「情熱大陸」で、筑波大学の助教でメディアアーチストの落合陽一の生き方を見て、いやいや研究をコンテンツ化できるアーチストは、猪子 寿之氏にしても、真鍋 大度氏にしても、みんな1日24時間という、だれにも与えられた時間の中で、人の何倍ものスケジュールをこなしている。
でなければ、どんどんと新しいものが生まれてくる、まさにムーアの法則の中で生きている、メディアアーチストは凝縮された「濃い」時間の中でなければ生き抜けないのかもしれない。

こんな状態なもので、11月の初めに記者会見し、本格的に動き出した那須観光協会とのプロジェクトのことを日記やブログに書けないまま11月が終わろうとしている。

なので書いておくとする。

 

 

11月6日に新聞、テレビなどメディアに集まってもらって那須観光協会との「プロジェクト9b」始動の記者会見を行い、新聞、テレビのニュースなどで大きく取り上げてもらった。

「プロジェクト9b」とは、那須を舞台に、那須に伝わる「九尾狐」を中心に、那須の大自然の中で、デジタル技術を使い、自然を壊すことなく、九尾狐のキャラクターたちが、この大自然に住み、そこを訪れる人たちに、その動物たちの住む自然の物語の中で楽しんでもらう世界を創るという膨大な構想だ。

アートディレクターには、「ゼルダの伝説」のマンガを中心に世界で活躍し、アニマルアートに関してはトップアーティストの姫川明輝先生をアートディレクターに迎え、すでにここに発表している九尾狐のなど、世界中を驚かせるための制作に入っている。

姫川先生は、今回のプロジェクト、仕事として依頼されてキャラクターたちを描くのではなく、この那須の地で制作し、その自然の中で、作るではなく、この地からキャラクターを「生み出す」といった制作をしていく。
間違いなく本物が生み出されてくるはずだ。

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その生まれたキャラクターたちを自然にときはなすシステムとしては、まずはモーションとARで、スマートフォンを使って、キャラクターたちが自然を案内したり、いっしょに写真を撮ったり、キャラクターたちの言語に関しても、日本語、英語、中国語対応するといったシステムはすでにできている。

同時進行で研究機関である大学という研究プロジェクトで、新たなシステムの開発も理工系の大学と組んで進めて行くつもりだ。

まぁ、アイデアはとにかく山ほどある。
そのアイデアを形にしていくための資金ももちろん必要だ。

だが、その資金であるお金に縛られないでやるしかないと思っている。
お金に縛られるというのは、たとえば一億円の資金が必要だとする。
そこで、一億円など無理だとあきらめる人が、「お金に縛られている人」だと思っている。

自分が実現しようとするものに対して、たとえ10億必要だとしても、その10億をどのように集めるか、あきらめないで知恵を絞り、クラウドファンディングなど、ありとあらゆる方法を模索し、実現のためにとことん生きて行く、それが「お金に縛られていない人」だと思っている。

自然を破壊しないで、その自然の中で生きる心を生み出していく。
20代、30代のとき、沖縄で感じ、40代では、西伊豆の自然と御蔵島の野生のイルカと泳いだことで感じ、そして大学に来てからはこの栃木でつねに感じ、思っていることだ。

つまりは、ずっと思い続けていた「夢」が、形として動き出したということではないか。

考えてみれば、冒頭で書いた今年中に形にしなければならない仕事もすべて、大学のある栃木という地において生み出そうとしている仕事ばかりだ。

おっと、今、メールを開くと、NHKと制作した「動く絵本」のムービーデータが送られて来ている。
今週の日曜日、12月3日にまずNHKのイベントで発表される、ゼミ生と制作した仕事が形となったというわけだ。

今から珈琲を飲みながら、そのムービーを見ることにするか…
楽しみだ。

空手家、佐久本嗣男先生の言葉

2017年10月30日

「別に空手でなくとも、鍛錬が人間を創るものです。困難の山をどこから上っても、どの尾根を歩いていっても、行き着くところは同じです。山の頂点に立ったときに見る月というものは、同じ綺麗な月ですよ」
「だからお互いがね、相手の生き方を認め合う。それができない人間は生き方を語れないということです」

空手の「形」で世界選手権3連覇。ワールドゲームス2連覇。ワールドカップ2連覇と、1985年から1989年までに開催された国際大会をすべて制した(この記録はギネスでも認定されている)高才の空手家、佐久本嗣男先生の言葉である。
13年前に佐久本先生のことを書かせてもらい、その本の中でこの言葉は紹介させてもらっている。

現在、佐久本先生は、2020年の東京オリンピックで一番金メダルに近いと言われている、空手の「形」の喜友名諒選手を育て、また、沖縄県立芸術大学第6代学長でもある。

その佐久本先生の言葉を突然思い出し、13年前に書いた本を読み返し、そしてゼミ生に毎週送っているメールを今、書き終えたところだ。

メールにはこう書いた。

“今、みんなは大学という、いろいろな経験ができる場所にいます。
そのいろいろな経験と本気で向き合えば、曲がりくねって大変な道を登っていくことになると思います。
簡単に手に入る道は、最短距離の直線です。
でも考えてください。
挫折を繰り返すことで曲がりくねった道を、いくつもの経験と苦難とともに登っているものは、たとえ滑り落ちたとしても、一気に落ちていくことはありません。
また、止まったところから、経験を持ってもう一度登りはじめればいいだけです。
ですが、簡単に手に入れられる、直線の最短距離は、たった一歩踏み外しただけで、下まで滑り落ちて、すべてが終わってしまいます。

人生とはそういうものだと思います。
楽(らく)ではなく、楽しく生きたいのならば、それはすべての経験と本気で向き合うことだと田中は思います。”

この文章を書きはじめたとき、佐久本先生の言う「鍛錬」を「経験」という言葉に変えて、考え、学生に向けて出てきた言葉だ。

困難の山では何度も、その崖を登るときに挫折は必ずあるものだ。
だが、何度も何度も挫折しながらも諦めないで上りつづけた人間が、その頂上にたどり着く。
それは職業ではない。
生き方だ。
空手家、野球選手、マンガ家、サラリーマンだってすべて同じだと思う。
すべての経験と本気で向き合い、本気でぶっかり頂点に立ったとき見る月は、だれもが同じ綺麗な月を見ることができる。

そして、佐久本先生の言った、相手の生き方を認め合うことで、人は初めて生き方を語れる者となる。

たしかにそういうことだ。

研究機関であるべく大学としての道

2017年9月30日

NHKでやっていた、秋元康の“100年インタビュー”を見ていたら、今、同時に進めている仕事は100以上だと言っていた。
ぼくが今、抱えている同時に進めている仕事は25弱で、けっこうきついく、「もう60歳だし」と、疲れを年齢のせいにして、病院に行くことも多くなり、睡眠時間も4時間では厳しいと感じ始めていたとき、この秋元康の100以上の仕事を同時に抱えているという言葉。
秋元康とは年齢もさして変わらないもので、こういった同年代のがんばっている情報は実に力が湧いてくる。
がんばらなきゃ!

そんな仕事の中で、NHKと大学とアイディで制作した「トライ~難病ALSと向き合って~」の、モーションドラマがNHK総合テレビの全国放送で放映されることになった。
10月7日(土)午後3時5分~
http://www.nhk.or.jp/utsunomiya/tochilove/try/index.html

 

このドラマはNHKのラジオドラマから始まっている。
ラジオを生き返らせるためにどうするか、数年前にNHKのディレクターと話していて、「今からはラジオはスマートフォンで聞く時代になる」
つまりは「声」だけではなく、「動画」も使えるラジオ番組になるということだ。
そこで問題なのが、やはり制作費となる。
そこで、アニメの10分の一ほどの制作費で制作できるとともに、作家の原画をそのまま動かせる技術と表現なわけだから、まだまだ新しい大きな可能性があると、この作品が生まれていった経緯がある。
そう、「ラジオ革命」が制作にあたっての根底にある作品だ。
つまりは、NHKと組んで「実験」をさせてもらったモーションドラマなので、ぜひ見てもらえればと思っている。

もうひとつロードレースチーム「那須ブラーゼン」の九尾の狐をモチーフにしたキャラクター、「風孤(ふうこ)」が、スマートフォンやタブレットで止まった絵がモーションで動き出すプロモーションを、ARシステムで制作した。
自分のスマートフォンで見てもらえれば、けっこう楽しいと思う。
風孤のキャラクターは、現在、那須のプロジェクトを進めている「姫川明輝先生」のデザインで、これが本当にいいのだ。

【ARシステムで見るための無料ダウンロード】
“スマートフォンのアプリ、App Storeか、Google Playで「COCOAR」で検索し、無料のCOCOARのアプリをダウンロードしてください。
そのアプリを開いて、風孤のマーカーとなっている、ここに載っている風孤の絵に向けてもらえれば認識しスキャンします。
するとスマートフォンの中でキャラクターの一枚絵でしかなかった風孤が自己紹介を始めます。”
ぜひ一度遊びで試してください。

このARシステムを使ってのキャラクター制作は、GPSやビーコンを使っての、キャラクターが街を案内するといった大きなプロジェクトが動いているので、今年中には記者会見する予定で進んでいます。

ここのところブログでは、「大学の意味」について書いてきた。
今の時代の先端で、研究しコンテンツを創っていると、世界において大学がいかに必要になってくるか見えてくる。
とはいえ、今の、日本の高校の延長のような「勉強」できるための大学はまったく必要ない。

高校までは「答え」のある勉強をしてきたと思う。
「答え」があるということは、システムができているということであり、システムというのは機械化されていくことになる。

大学というところは本来、「研究機関」として勉強ではなく研究を通して「スペシャリスト」になるために、専門の大学に来ているはずだ。
卒業するときに、大学で研究し、学んだ「スペシャリスト」としてのスキルを持って、スペシャリストとして就職するなり、企業するなり、フリーとして生きるなりでなければ、まず生きていけない時代になったということだ。

大学を卒業して、大学で得たスキルとはまったく違う場所に就職したとしても、大学で研究してきたはずのスキルを持たずに働ける場所というのは、つまりは作業的な仕事が多くしめてくる。
つまりはスキルを持たなくても働けるという場所ということだ。

考えてもらいたい。
人間は「便利」に生きるために、作業的な仕事は「機械にできないか」と、「人間が便利に生きるため」につねに道具を生み出してきた。

たとえばモノを書いてきたぼくなど、一昔は、作品を制作にあたって、また、取材するにあたっての情報を得るために、図書館を渡り歩き、本屋、古本屋と、とにかく数日、長いときは一ヶ月、資料の情報を得るために時間を費やしてきた。
だが、今は検索すればすべての情報が手に入る。
1時間もあれば、制作、取材前の情報はすべて手に入る、実に便利な時代である。

検索というキーワードが出たので、最近しらべた、この地球上の情報量について書いておく。

2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算している。
そして、2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量を追い抜いてしまったというのだ。
つまりはコンピュータ、インターネットというものが、世界を変えていっているということなのだが、その情報の加速はだれもが肌で感じていると思う。

それでは、今の2017年は、ピーター・ライマンが、1999年末までに人類が30万年かけて蓄積してきた情報の何倍の情報になっているのか、計算してみることにした。

「シンギュラリティ」という新時代を唱えている、未来学者のレイ・カールワイツの、シンギュラリティの定義を支えている概念、「指数関数的な成長」。
そしてインテルの「ゴードン・ムーア名誉会長が1965年に予測した、半導体の集積度」の「ムーアの法則」は、どちらも「18か月(=1.5年)ごとに倍になる」という法則を唱えている。
つまり、この法則で情報量を考えると、1999年までに生まれた30万年の情報量の、今は122880倍の情報量がこの世界に存在していることになる。

たしかに、個人で考えたとき、自分のPC、HD、クラウド、スマートフォンの中に入れてあるデータはこの10年でどれぐらいの量となっているのか…

そういう時代にぼくたちは生きているということである。
すべての成長が「18か月(=1.5年)ごとに倍になる」という、指数関数的に動いている時代である。
そう考えると、ソーラーなど自然エネルギーは現在、たった0.5%のエネルギーの供給源でしかないが、指数関数的成長で考えれば、2026年までには96%が自然エネルギーで賄えることだって可能な数字になってくる。

成長とは研究と考えることができる。
つまり大学は時代を動かす研究機関でなければならない。

それは大学はスペシャリストを育てる研究機関としてでなければ、大学の存在自体も必要のないものになってしまうということである。

でもそうやって考えると、研究機関であるべく大学としての道は実におもしろい。

研究室で過ぎた夏

2017年8月30日

あぁ、夏が終わろうとしている。
十代のころから、旅に出なかった「夏」ははじめてかもしれない。

ほとんどの時間を大学の研究室を中心に、今抱えている20は超えるプロジェクトや、学生と進めている仕事と制作。
帝京大学理工学部との共同で、マンガとプログラミングを合わせた「デジタルマンガ制作演習」という実技の授業を、帝京大学の佐々木先生と立ちあげこの夏休みに行ってきた。

こういっては何だが、大学が夏休みに入ってからが、大学で大学としての「研究」の日々が流れている。
だいたい大学は学校ではなく研究機関なわけだから、実技、制作などは「研究」でなければならないと思っている。
だが大学の現状は、どう見ても専門学校と変わらないことをやっているし、マンガの大学で研究することが、既存の雑誌にデビューしてプロのマンガ家になるためなど、やはりどう考えてもおかしなことだ。

だいたい、既存の雑誌でプロになりたいのなら、大学など来る必要などどういった意味があるのだろうか?
そもそもマンガ家になりたいから大学へ来るということ事態、大学の意味を考えて入学してきているのだろうか?

いつも言っていることなのだが、入学金と授業料に払うお金があれば、2年間、世界中をバックパッカーとして旅をすることができる。
今の時代ならば、タブレットPCを持って、世界中を旅して、その旅先でその地で経験したことをマンガに描き、SNSでも使って世界中に配信していけば、それだけで作家として希有な存在になれるし、マンガ家としての他の作家が持てない「武器」だって持てるというものだ。

それに、2年間世界をバックパッカーすれば、2~3度は死を覚悟する目にも遭うだろうから、人間的にも間違いなく強くなれるということだ。

そう、2年間バックパッカーで世界を歩けば、大学へ行くより、たとえマンガ家になれなかったとしても、自分のやりたいことで生きて行ける強いチカラを身につけられるということだ。

最近読んだ本に、ニューヨーク州立大学バッファロー校の心理学者マーク・D・シーリーの研究のことが書いてあった。

「多くの人は人生に逆境などない方がいいと思っているでしょうが、あまり逆境を経験したことのない人たちは、ある程度つらい経験のあるひとたちに比べて、幸福感が低く、健康状態が劣っていました。そればかりか、過去に逆境を経験すた数がゼロのひとたちは、逆境を経験した数が平均的だったひとたちに比べて、人生に対する満足度がはるかに低かったのです」

考えてみればあたりまえのことである。
簡単に手に入るものを手に入れたとしても、まず達成感などありえない。
だが、いくつもの壁を、日々、何度も挫折しながら、それでも藻掻き、必死に限界までがんばり、そして手に入れたものは、体中から叫びが上がるほどの達成感があるはずだ。
それが人生にたいする満足度というののだ。

スポーツを見ればわかりやすいかもしれない。
高校野球で全国制覇した、スタンドで応援する部員も含め、選手たちの達成感は、喜びは、満足度はどれほどのものだと思えるし、オリンピックの金メダル。ボクシングなどで世界チャンピオンになった瞬間の達成感も同じだ。

何のために生きてきたか、生きてきたことの幸福感は、まさに逆境を乗り越えてきたからこそ生まれる幸福感だと思う。

今、大学を変えたいと思っている。
つまりはつまらないから変えたいと思っているというわけだ。

イノベーションの起こせない大学などまったくつまらない。
つまりは「研究」ではなく「勉強」を教えているしかない、高校の延長の「学校」でしかない今の大学。みんなこんな大学でいいと思っているのだろうか。

ふたつほど前のこのブログに、今の時代に大学はどうあるべきかといった考えを書いてあるので、興味のある人は読んでもらえれば、ぼくの今からの大学に対する考えがわかると思う。

今、このブログを大学の研究室で書いているのだが、まず、他の研究室の先生たちは夏休みで大学に来ることがないので、大学すべてが実に静かだ。
実に仕事が捗る。
だがそれでいいのだろうか…

ぼくの研究室だけは、企業の人たち、行政のひとたち、メディアの人たちなどなど、今進めているプロジェクトを中心に、毎日いろんな人たちが尋ねてきて打ち合わせをやっている。
イノベーションを起こすための打ち合わせで、自分の研究室だけが頻繁に人の出入りが激しい場所となっている。

イノベーションを起こすということは絵空事ではないので、もちろんお金のことを含めて毎日が逆境ではあるのだが、ひとつひとつ大学の研究の中でコンテンツを生み出すことができているのは、逆境だからこそ、ある意味、このだれもいない大学で一番、満足度の大きい幸せをかんじているのかもしれない。

そう思って、とにかくひとつ、ひとつ形にする。
イノベーションは形にしなければはじまらないのだ。

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多動力

2017年7月31日

ホリエモンの「多動力」を読んで思った。
多動力とは、ひとつの仕事をコツコツとやる時代は終わったと、つまりは、ひとつの肩書きだけでなく、いくつもの肩書きをもつことで、人はその肩書きの数だけ自分の価値が上がっていくということだ。
ひとつのことに一万時間取り組めば、100人の一人の人材になれると言われている。
そして別の分野でまた一万時間とりくめば、100人にひとり×100人にひとり、つまり一万人にひとりの人材になれるということになる。
もうひとつ新しい分野に取り組めば、また×100になれるわけだから、3つの分野で一万時間以上取り組んだスペシャリストになれば100万人にひとりの人材。
どんどんとオンリーワンの人材に近づいていくというわけだ。

そういう意味では、考えてみれば、ぼくの場合は40年以上前から「多動力」で生きてきたことになる。
17歳でマンガで賞をもらい、18歳でプロのミュージシャンとして事務所に入り、30歳のときには、マンガ家・イラストレーター・マンガ原作者・作家・ノンフィクション作家・コラム、エッセイ作家、フォトグラファーなどなど、プロという肩書きを持って仕事をさせてもらっている。

ボクシング、サッカー、野球、格闘技、武術とスポーツがその書く、描く、撮る対象だったもので、その頃の名刺の肩書きには「イラスポライター」と書いていた。
つまり、イラスト・スポーツ・ライターの略なのだが、そんなネーミングを勝手に作ってフリーで仕事をやらせてもらっていたというわけだ。

まぁ、そのころは、ひとつの仕事だけを貫くというのが日本では「美学」とされていたし、「二足わらじ」といって、ふたつの職名を持つことは、真剣に仕事に取り組んでいないといった見方をされていた。
つまり「ついで」といった仕事のとらわれ方だ。

だからあの頃、いつも考えていたことがある。
一流紙といわれる少年ジャンプ・サンデー・マガジンでマンガを連載し、週刊プレイボーイ、月刊プレイボーイ、Nunberなどでは、写真、イラスト、文章を単独でも掲載する。
「ついで」ではぜったいに載ることのない場所で勝負するということだ。

無名の新人が一流紙で掲載や連載をするとなると、当たり前だが、レベルはもちろんのこと、だれもが読みたい、見たいとい思う、自分にしか描けない、書けない、撮れないものを創るしかないと思ったわけである。

つまり、画力、文章力、技術力で勝負しても、名前のあるプロに代わって掲載できることなど、並大抵のことではないことはわかっている。

そこで考えたのが、今、雑誌で掲載しているプロに勝つには自分には、勝てるための「何があるか」である。
当たり前だが、名前のあるプロはいくつもの連載を抱え、毎週〆切に追われているはずだ。
ということは、プロに勝つ武器は「時間」ではないかと思ったのだ。

当時、沢木耕太郎の「一瞬の夏」というノンフィクションが好きで、自分もこういったものを書いてみたいと思っていたときだ。
「一瞬の夏」は、カシアス内藤というボクサーが、1978年10月に4年のブランクから復帰し、1979年8月に韓国のソウルに乗り込んで朴鍾八との東洋ミドル級王座決定戦に挑むもKO負けをするまでの一年間、ほぼ、そのすべての時間で密着といった取材で書かれたそれまでになかったノンフィクション作品である。

この、人にはできないほぼ毎日見続けるという取材は魅力があったし、実際、最低限のイラストの仕事をしながら、残りの時間はすべて取材相手の写真を撮り、毎日を見続ける時間だけに生きる日々が24歳からはじまった。
実際、ここまで何年といった「時間」の中で描く、書く、撮ることをやっていた創り手はまずいなかったと思う。

その「密着」取材で、浜田剛史は世界チャンピオンになり、高校野球で追いかけた天理高校は甲子園で優勝し、他にも、興味を持ったスポーツ選手を何年も密着して、長い「時間」の中で作品を創っていった。

それはスポーツ選手を書くというより、「濃密な人間の生き様を書く」という、自分にしか書けない人間の関係の中で創れた作品の数々だったと思っている。

そう考えると、「多重力」とは、ひとつのテーマの中でそれぞれの「顔」が生まれてくるものかもしれない。

表現にはいくつもの顔があり、「マンガ」で見せたいもの、「文章」で見せたいもの、「写真」で見せたいもの、それぞれの顔を創り手というのは持っているはずである。

そのひとつひとつの取り組みを本気で取り組めば、当たり前だが、それぞれが一万時間は遙かに超えた表現となっていく。

今、大学教授、メディア・アート・アーチスト、プロデューサーといったものが多動力に加わってきている。
そして18歳のころ、プロとしてやっていた音楽も、今のデジタル作品の表現の中で、自分で曲をつくり、演奏して生きている。
そう、メディア・アート・アーチストとしての大きな武器となっているのだ。

人生はだれもが「多動力」だと思う。

スティーブ・ジョブズが2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行った伝説のスピーチの中で言っている言葉がある。

「将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです」
「だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない」
「運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います」

本気でやってきたひとつひとつの点は、あとからつなぎ合わされ、そして人生のどこかで実を結ぶ。

「多動力」とは、そういうことだと思う。