2019年1月1日
世界で5Gが実用化の2018年。
グローバルに研究をコンテンツ化、そしてビジネスへと、
おもしろい時代にしていきたいと思っています!

田中 誠一.
2018年12月31日
今年ももう数時間となってしまった。
まさに加速の2018年だった。
ここ数年、自分の時間もエクスポネンシャルにスピードを増して流れている。
スピードだけではなく、「量」もエクスポネンシャルということだ。
昨年の今のことを考えると、新たにいくつのプロジェクトがスタートしているのか…
自分でもよくひとつひとつ形にしていっていると思っている。
いや、考えてみれば時代の時間と流れに自分が引っ張られているのかもしれない。
テクノロジーの進歩。
テクノロジーがまさに自分のアシスタントとして大きな力となっている。
たとえば、今月、AI翻訳機の新型POCKETALKを買ったのだが、予想以上に使えている。
日常会話だけでなく、上に書いた、エクスポネンシャルやIoTといった、ちょっとした専門用語もちゃんと翻訳して伝えてくれている。
長い会話も大丈夫だ。
人工知能研究の第一人者、東京大学の松尾豊先生も、2025年以降の「翻訳機」の世界では、AIが言葉の意味を理解した自動翻訳や自動通訳ができ、真のグローバリズムが訪れると言っていたが、POCKETALKの性能を考えると、2020年にはほとんど完璧な自動通訳機ができてくるのではないだろうか。
POCKETALKは、来年のプロジェクトで一番大きな自分の中のプロジェクトになるであろう中国での大学の中に入っての研究に頼もしい相棒になってくれそうだ。
とにかくぼくの一番の苦手は語学なだけに、通訳に頼らなくてもある程度会話ができるテクノロジーは本当にありがたい。
大学で研究するようになって、10年が過ぎたのだが、自分なりにいくつかの「大学でやるべきこと、やらなければならないこと」を感じている。
自分がいる大学では、悲しいことだが、研究者という意識を持った先生、学生とほとんどいないもので、意識を持ったゼミ学生、近くでは帝京大学理工学部、宇都宮大学の工学部、農学部の意識を持った教授たち、学生たちと共同研究をし、コンテンツを生み出しているのだが、実はその先が日本の大学にはない。
本来なら、大学は「研究」があり、そこから生まれる「コンテンツ」があり、そしてそのコンテンツを「ビジネス」へとつなげなければならない。
そのビジネスを日本の大学では、「教育の場だとか、研究の場にビジネスを持ちこむとはなにごとだ」と、不思議なのだが、ビジネス=悪と考える人があまりにも多い。
研究をコンテンツ化し、ビジネスにつなげるということは、つまり、大学で学び、研究した学生が、その研究でちゃんと生きて行ける場所をつくるということになるというのにだ。
この1年以上、ずっと言っていることなのだが、スマートフォンが5Gになる、来年、再来年にかけて、時代は間違いなく大きく変わっていく。
どう変わるか、これを説明すると、また長くなるので、どう変わるかは、このブログの10月に書いたものを読んでもらえればどういうことかは書いている。
つまり、5Gが実用化するべく今が、研究し、コンテンツを生み出し、それをビジネスにつなげていくための最高のコントローラであり、プラットホームとなるビッグチャンスが目の前にあるということなのだ。
で、中国の大学の話だ。
12月、中国の南京にある南広学院大学で講演をやってきた。
南広学院は、北京にある伝媒大学と同じ系列で、映画、テレビといったメディアの名門大学である。
偏差値は日本の慶応大学ほどで、卒業生はほとんどが映画スターの道を歩む伝媒大学の演劇の学部など172倍の倍率と、すごい競争率の大学だということだ。
eスポーツの学科も世界で初めて創設し、そこへ入る倍率も155倍と、世界から学生が集まっている。
その大学で、共同研究をやらないかと誘いを受けている。
もちろん5Gの話もしている。
5Gになることで、IoTにつなげてのマンガキャラクターの可能性。
そこにはAR,AI,VR,3Dといった表現力もあり、それはメディアでの可能性だけではなく、これからの超高齢化問題、不登校や引きこもりといった問題に対する、マンガセラピーの研究など、今、自分が大学にいることで考えている研究の可能性と、そこから生まれてくるものの必要性について大きな興味を持ってくれている。
日本とは違い、研究→コンテンツ→ビジネスとまったく違和感なく、中国の大学側のトップと話し合えてきているということだ。
来年早々、中国からそのトップが来日し、具体的なことを話し合うことになっている。
他にも、抱えている仕事の数を数えると、不可能だと思ってしまうので、とにかく目の前のひとつひとつを、期限を持って形にしていくしかないということなのだ。
ひとつひとつを形にしていっても、また次々と興味ある仕事が湧いてくるので、つねに20以上の仕事とプロジェクトを進めている。
でもそれは、ありがたいことだと思っている。
さぁ、来年、2019年はどう動き、来年の今頃はどうなっているのか。
予想のつかない時代のエクスポネンシャルの流れの中だけに、ひとつひとつを楽しんで生きていく。
それが一番。
2018-11-28
先月の末、中国の上海に行ってきた。
高校・中学と10校近くまわり、講義もおこなってきた。
上海ということもあるのだが、テクノロジーを使った教育が普通に行われていた。
タブレットが教科書など当たり前で、教室の白板もデジタル化され、生徒のタブレットと連動していたり、博物館のような空間もあれば、プラネタリウムまでもある。
図書館など、デジタル対応で、おしゃれなcafeのようなスペースの中で、生徒たちは読書をしている。
また学校の学生たちの行動システムでAIが使われていたり、3Dプリンターも教材で普通に使われていたりと、日本の大学よりも遙かに進んだ設備の中で教育が行われていた。
先生にしても、学校側から定期的に、最新のテクノロジーなどを勉強するための、留学のシステムができていて、先生たちもつねに新しい教育を学び、生徒に教えていっている。
つまり中国では時代の変化に対して、「変わる」ことができなければ、今からの時代を生き残れない「攻めとしての発展」の教育を感じてきた。
そう、だれもが時代を変える人材育成としての教育をしているということだ。
それに対して、日本は大学という研究機関の中でさえ、大半の教授や学生は、変化することを拒み、昔と変わらぬ、さして時代を求めて勉強することもなく、基本はアナログだと、テクノロジーは人間をダメにすると根拠もなく言ってきたりしてくる。
批判するならテクノロジーを勉強して、ちゃんとわかった上での考えなら何も文句を言うつもりはない。
勉強もしないで、キライとか、苦手だとか、ちゃんとわかっていないにもかかわらず、たとえば、IoTやナノテクノロジー、ジュネティックス、ロボティックスなど、ニュースを見ていたら当たり前に一般でも使われている言葉を使うだけで、「そうやってわからない言葉を使って、わからなくするのよね」など、理解できないのは、ちゃんと勉強し、研究している側のせいにされる。
言っておくが、ニュースで使われている一般常識の言葉以外は、たとえば、今、取り組もうとしているハプテクスなどは、「振動、動き、皮膚感覚などデバイスを通して伝えるテクノロジー」と、もちろんちゃんとわかりやすく、そう言ってちゃんと伝えている。
…いや、そう答えたら、デバイスという言葉で「やはりね」と、ひっかかるか(笑)
そういう人たちは、変化ではなく、このままを維持することを臨んでいる。
つまり、このままが、「楽」だからだ。
だが時代は変化している。
留まるということは、現状維持ではなく、間違いなく「後退」しているということだ。
「楽」の先にあるのは、「楽」をしただけ、変わって行く時代の中で、人生の可能性を失っているだけのことだと、そのことがどこまでちゃんとわかっているのだろうか。
そしてそういった考えが、研究機関である大学の中でさえもあるのが、今の日本だということだ。

考えてみれば、中国へ最初に行ったのは、1987年で、香港から瀋陽に飛び、撫順などを回ってきたのだが、まさにまだベールに包まれた国で、人民服に自転車の国だった。
車などまだ珍しく、道路は自転車であふれかえり、電車の遮断機は人力の丸太で、黄砂の舞う近代化とはほど遠い国だった。
今となっては笑い話なのだが、香港までの帰りの航空券が取れず、中国に予定より一週間以上出られなくなり、中国政府や公安が訪ねてきたりと大変だったのだが、その分、中国政府の中に入り込むことで、当時の中国をじっくり取材させてもらった。
そのときのことは、日本へ戻るとサンデー毎日で、大特集されるほどの、撮るもの、取材するものすべてがニュースになるほどのだれも知らない中国がそこにあった。
それからたった30年で、中国はアメリカと世界を二分する大国となっている。
2008年の北京オリンピック前の3年間ほどは、武術の取材で中国には何度も行き、特に北京のオリンピックに向けて近代化へと変わる姿は、リアルに北京の現場でみることができてきた。
2010年の夏は、上海から杭州に入り、西安から洛陽、鄭州など約1ヶ月間バックパッカーで旅もしてきている。

考えてみれば、1987年に初めて中国を見たボクは、今の中国を想像できただろうか…
今から10年先、中国はどのようにまた変わっていくのだろうか。
そしてボクは今から、中国とどのような形で繋がっていくのだろうか。
先週も中国で活躍するプロデューサーと新宿で食事をしながら、今からの新しいマンガコンテンツの話しをしてきた。
そして12月に入ったら、また今度は南京の大学で講演をしてくることになっている。
何かが新しく始まっている予感は感じている。
だが、それがハッキリと何なのかはまだ見えていない。
ただこれだけは言える。
良くも悪くも、今、日本よりも、中国は刺激に満ちている。
2018年10月24日

大学での講義、研究会での講義、行政に呼ばれての講演と、いろいろな場所で毎週のように「今」を話している。
「今」というのは、テクノロジーによって大きく時代が変わってきている「今」の話しだ。
ここに何度か書いてきた、今年の4月にスタートした「プロジェクト9b」は、姫川明輝先生の、那須に何度も足を運び生み出した、それぞれの那須のスポットで生み出したキャラクターたちが、ARシステムでスマートフォンを通して、その場に行くと表れ、観光案内をしてくれるといったシステムである。
大学の田中ゼミには、他にも行政を中心に制作依頼が来ていて、つねに20以上のプロジェクトを抱えているのだが、その数が間違いなくムーアの法則(エクスポネンシャル)的(笑)に増えていっている。
こういったマンガを使ってのARはまさにIoT化の時代において無限の可能性を秘めていることは間違いない。
IoTと書いたので、数字でIoTのことを書いておく。
総務省によると、インターネットにつながるIoTディバイスは、2016年において173億個がつながり、2020年には300億個がIoTのデバイスによってつながると予測している。だが、2020年からはスマートフォンが5Gへと変わることになる。
それはまさに、この世に存在するモノのほとんどが、IoTにつながり、IoTがつながれば、そこにはマンガやキャラクターもつなげることのできるということなのだ。

そもそもスマートフォンが5Gになるとはどういうことか。
簡単に言えば、「● 高速・大容量」「● 低遅延(ていちえん)・超高信頼」「● 多数同時接続」の3つが上げられる。
超高速ネットワークはLTEの100倍。1,000倍の大容量化になり、LTEでは5Gと同等の送信成功率を達成するのに無線区間5ミリ秒以上の遅延時間を要したが、5Gでは無線区間1ミリ秒以下と、5分の1以下に遅延時間が短縮されることになる。
多数同時接続では現状の100倍以上の端末接続をサポートすることとなる。
これは1㎢あたり100万台以上のデバイスと同時に接続することが出来るというわけだ。
つまり、2019年全米で、2020年には日本でサービスがはじまる5Gは、あらゆることのできるコントローラーになってしまうことで、時代は間違いなく変わってしまう。
たとえば医療に関して言えば、血圧や心拍数などモニターで主治医に送られ、異変があれば8Kカメラによって遠隔で診察もできる。(もちろんここにも、キャラクターを使うことができる)
AIともつなげれば、ガンなどの早期発見までも見つけ出してもらえる。
じつは今、興味を持っている、ハプテクスとつなげれば、触覚までもスマートフォンで伝えることができるわけだから、簡単な手術ならスマートフォンで遠隔でできるかもしれない。
触感を伝えることができるということは、スマートフォンやタブレットでのマンガの中で衣服の質感を伝えることはできるし、衝撃力や、吸い込まれる感覚をも表現として使うことができることになる。
他にも今、デジタル上で研究されていることが、5Gになることで、人間の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚までも、スマートフォンで伝えることができる形になるということである。
とくに視覚に関しては、自由視点カメラによって、たとえば野球のスタジアムの客席にいながら、スマートフォンで、グランドに立った位置で、選手の横で試合を観戦できることだってできる、つまりリアルVRを体験、体感できるテクノロジーが2020年のオリンピックに向かって形になってきている。
これも新しいマンガコンテンツを生み出すことができるテクノロジーだ。
まだまだ凄い研究は、大学、民間の研究所で行われてきているわけなのだが、こういったテクノロジーは、マンガやキャラクターを創る側からすると、無限の表現手段を与えてもらっている。

いやいや、表現者にとってはとてついもなく面白い時代になってきたことだけは間違いない。
そういった「今」を、研究、制作とともに、大学での講義、研究会での講義、講演で、夢を語るように話している。
今週末からは、中国の上海の高校や専門学校で5日間ほど、大学でマンガを研究することについて夢を話してくるつもりだ。
2018-9-29
イノベーションとは何なのか。
大学に創った「ちばてつやMANGAイノベーション研究所」でもイノベーションの言葉は使っている。
イノベーションを定義した、20世紀の代表的な経済学者J・A・シュンペーター(1883年2月8日 -~1950年1月8日)はイノベーションを次の5つに分類している。
・新しい生産物または生産物の新しい品質の創出と実現
・新しい生産方法の導入
・産業の新しい組織の創出
・新しい販売市場の創出
・新しい買い付け先の開拓
シュンペーターが約100年前に考えた、この考えは、現代のまさにイノベーションを起こしている、Apple、Google、Amazon、Microsoftにピタリと当てはまってくる。

そう、今、世の中はApple、Google、Amazon、Microsoftに世界中のほとんどの人間が関わった生き方をしているわけだから、この4つがプラットホームとなり、このプラットホームからまた、新たなイノベーションが生まれるという仕組み…
たしかに今、大学で取り組んでいるマンガのキャラクターがARや、VRで情報を発信していくシステムにしても、アプリを創り、iPhone、Androidのスマートフォンをコントローラーとし、iTunes、Googleストアーからダウンロードしてもらわなければだれもが使えるコンテンツとして成立しない。
でもこうやって、イノベーションという概念を生み出した経済学者J・A・シュンペーターの考えを見ると、イノベーションとは、発明ではなく、創造だということがはっきりと見えてくる。
そう考えると、世の中に新しいものを生み出すということは、つまり創造なわけで、その創造的な出来事の99.9%は、「今まで無かった、過去にあった出来事の組み合わせ」だということも見えてくる。

ここ毎回書いていることだが、大学は間違いなく変わらなければならない。
大学という場所はもともと、実用的な目的を持って、美術、経済、医学、歴史、物理などなど専門分野に分かれている。
もちろんこれは必要で、ひとりの人間がすべての分野で専門家になることなどまず、不可能なこともたしかだ。
だが、ひとつの分野に閉じこもっていると、他の分野で何が起こっているか見えなくなっている。
ぼくは今、美術大学にいるのだが、昨年、教授会で「シンギュラリティによって大学はどうかわらなければならないか」(カーツワイルのこの言葉から、G.N.R革命の説明、2045年問題、スマートフォンで検索できる時代において、教えるとは何か。語学もアプリで同時通訳ができる時代においての語学を学ぶとは何か。情報量は1999年まで人類が30万年かけて蓄積した量が、7年で410倍の情報量になっている今の情報社会においての学びとは何か。2007年生まれからの子どもの平均寿命は100歳を超え、2025年には65歳以上が日本の人口の3分の1をしめることになる。超高齢者会においての社会保障としてのベーシックインカムのことなどなど…)という論文を全先生方に配り、読んでもらったのだが、「何を言っているかわからない」で終わってしまった。

教授たちは、美術の大学は、美術だけをやっていればいいという考え方で押し通そうとしてきている。
はっきり言うが、それは単なる「楽」をしたいだけなのだと思う。
新しい「知識」を入れるためには「勉強」をしなければならない。
だが、それをやらないというのは、ひとつの専門分野に閉じこもり、他の分野で、この世界で何が起こっているのか見えてなく、べつにそんなことなど知らなくていいと、「楽」をしているということだ。
だが今、時代は大きく流れている。
まさにイノベーションが凄い勢いで世界中で起こっている。
その中で生きていくには、経済的要因を考え、政治的要因を考え、文化的要因を考えと、
美術、経済、医学、歴史、物理など、学問的横断的なアプローチで知識を得なければ想像ができない時代になっていると思う。

ぼくはいつも学生に言う言葉がある。
「知識」がなければ「想像」はできない。
たとえばAIの知識がなければ、AIとマンガを結びつけたコンテンツのイメージはわかない。
人間は「想像」し、それを形にしたいと考え、研究し、数々のモノを「形」としてこの世に生んできた。
「想像」がなければ、形は生まれてこない。
研究ではなく、専門学校のような経営をしている大学はまさに、専門分野の「知識」しかなく、専門分野の「想像」しかできない、大学であるにかかわらず、世界から取り残された場所になりつつある。
そう考えると、イノベーションのイメージが見えてくると思う。
現代のイノベーションを生み出すのは、学問的横断的なアプローチに立った「知識」と「想像」だと見えてくるはずだ。
2018年8月26日
大学は夏休みに入っているのだが、あいかわらず大学の研究室で仕事をしている。
まぁ、日曜日の今日など誰もいない大学なもので、実に静かな環境の中で、自分のペースで抱えている仕事を進めることができている。
夏休みといっても、特別授業は開講している。
(まぁ、選択授業なので、目的を持って大学に来ている意識の高い学生以外は来ない授業なのだが、予想通りというか、文星芸術大学は2名、帝京大学は13名と少ない)
今、ちょうど、帝京大学理工学部と共同授業で、デジタルマンガ制作において、基本ソフトとなる、CLIPSTUDIO、Photoshop、Unity、blenderを覚えることで、ペイント、加工、モーション、3D、VRの基礎の基礎を帝京大学の佐々木先生とやっている。
もちろん授業をやりながら、前回のブログで書いたが、ゼミ生のKくんを中心に、冊子のマンガを基本に、そのマンガの中の世界にバーチャルで入ることができるVRを使っての研究と制作。
3Dモデリングを2Dにしたとき、いかに手で描いた感を持ったリアルな表現法。
そしてマンガのキャラクター、身につけているアクセサリーなどを3Dプリンターによって立体化することでいかにグッズ化していけるかなどなど、新しいマンガというか、マンガの可能性を「形」として見せられるように、研究、制作もやっている。
こうやってデジタル研究でやっていることを書くと、テクノロジーを使っての表現は、どこか機械的で冷たいといったイメージを持つかもしれない。
だが実際は逆なのだ。

デジタルで表現しようとすれば、自然の凄さが、いかに凄いかが見えてくる。
人工知能を勉強すればするほど、人間がいかに凄いかが見えてくる。
またそれとともに、空間の概念、時間の概念といった物理にも興味を持つことで、相対性理論や、量子力学を知りたいと。
つまり今、生きているすべての宇宙を、知りたいという欲求が生まれてくる。
当たり前のことだが、この宇宙のすべてのものは原子でできている。
そう、海も森も草木も山といった自然も、ぼくたち人間も、人工知能やスマートフォンだって原子でできている。
ぼくらは普通に今、スマートフォンを使っているのだが、そこには量子力学や相対性理論がなければ生まれてこなかったというわけだ。
世の中ではAIが人間を超えるなどと言われているが、よく考えてほしい。
AIができるのは、ビッグデータの中での精度の向上である。
そこには、ビッグデータの中で一番高い精度に向かって、ディープラーニングならば、自己学習を繰り返すことで精度を向上させるというプログラミングだ。
もちろんこういったデータの中での高精度ならば、AIはとっくに人間を超えていると言えると思う。
だが、人間はデータ処理の中で生きているのだろうか。
これは間違いなく違う。
人間とAIでは目的がまったく違う。
人間は「生きる」という生命としての目的がある。
その「目的」があるからこそ、「心」という感情が人間にはある。
その「心」があるから、人間は「想像」し「創造」する。
もちろん、その中で生まれたのが、テクノロジーであり、その中のひとつがAIということ。
つまり、AIは人間の創造した便利な道具だということだ。
その道具(テクノロジー)を使って、マンガを育てていく。
日本の大学というところは、「こうしなさい」と言われた課題をちゃんとあげると、「優秀」と言われている。
言われたことを、そのままやっていけば、大学に限らず、幼稚園から「優秀」と言われる教育の中で子どもたちは育っていっている。
言われたことを、そのままやっている生き方は、実は楽な生き方なのだ。
そんな教育にだれもが慣らされ、そんな「こうしなさい」の「答え」を出せる人間が優秀とされてきた。
だが、インターネットやAIによって、世の中は完全に変わってということだ。
AIによって職が奪われるなどと叫んでいる人たちは、いわゆるその「優秀」な子どもたちだ。
その優秀とは、極端に言うと、エリートのホワイトカラーの人間たちだ。
エリートと言われてきた「こうしなさい」の「答え」を出せる人間では生きられなくなった今、大学は本当に変わらなければならない。
本当の「優秀」とはどういうことなのか。
大学は学校ではなく、研究機関である。
研究にはまず答えはない。
答えがないから、研究するのだ。
テクノロジーが凄い勢いで発達していく中、大学において教えるのは「こうしなさい」という押しつけの常識の中での答えではない。
常識の答えなど、Googleで検索すればすべて教えてくれる。
テクノロジーの時代だからこそ、「人間はどう生きるべきか」が今、問われている。
2018-7-31
アイデアを形にすると見えてくるものがある。
想像だけでは見えなかったものが、形にすることで「存在」として、想像では予想もしなかった効果が生まれたり、逆にもっと研究すべき課題も見えてくる。
先月、帝京大学の佐々木研究室と、文星芸術大学の田中研究室で研究、制作したVRマンガは、いろいろな人に見てもらったことでいくつかの課題が見えてきた。
それとともに、マンガというものの新しい可能性も次々に出てきている。
VRの中だけでマンガを展開すると、たしかにマンガの世界に自分が入り込めるもので、どんどんゲームに近づいていってしまう。
だが、今度はマンガ視線で考えると、マンガの表現が無限に広がっていく。
たとえば、「あしたのジョー」のマンガを読んだあとに、泪橋の上に立つことができたらどうだろうか。
ドヤ街が目の前に広がり、橋の下では丹下ジムからサンドバックを叩く音が聞こえてくる。
空は真っ赤な夕焼けで広がっている。
VRで制作すれば、自分自身がその世界に、泪橋に立つ自分が存在することができる。
つまりVRを使えば、読んだばかりのマンガの世界に入り込むことができるというわけだ。
マンガという世界があればこそ、その世界に立てるだけで嬉しくなってくる世界を創ることができる。
また創り手にとっても、3Dのモデリングでマンガを創れば、自分の描くマンガの背景として自由に使えるし、作者の絵の中にVRで入ることができる。
3Dのモデリングは、キャラクターやアクセサリーもモデリングを創ることで3Dプリンターで、マンガ家の絵からフィギュアやアクセサリーだって簡単に制作することができる。
今、そうやってマンガを制作しているゼミ生がいるのだが、ブレンダーで3Dのモデリングを創り、線画化してから、構図を決め2D化したあとCLIPSTUDIOで線画抽出と手描きの線を加えることで、アナログで描いたような背景に仕上がってきている。
まったく見事な、3Dのモデリングから背景を創ったとは思えない、アナログタッチの背景も創れている。
いやいや、ゼミ生のKくんからは教えられる。
このブログで何度も紹介しているマンガでのモーション、ARシステム、今やっているVR、そして研究をつづけているAIと、形を創ることでリアルにマンガの可能性が無限大に広がってきている。
まぁ、こういったことをやっていると、「それはマンガではない」「マンガとは読者のリズムで、見開き効果、めくり効果を持って存在するもの」といった、「マンガとは!」といったマンガ論を語る人が必ず現れる。
だが、創り手が「これはマンガです」といったら、それが新しいマンガでいいと思っている。
そもそも「何々とは!」と語る人は、存在する形にこだわり、概念と常識で、その形に留めようとする人たちだ。(自分にとってその方が都合がいい人たち)
つまり、形の外のものは認めたくない人たちである。
それでは成長はない。
それどころか、時代は成長し変わっていくわけだから、「留まる」は現状維持ではなく「後退」だとわかっていない人たちかもしれない。
マンガを創るということは、表現することに他ならない。
その表現がテクノロジーによって、新しい表現ができるのならば、新しい、だれも見たことのない、感じたことのない新しい表現を生める「今」にぼくたちは生きている。
そう、作家としてこんなワクワクすることはないではないか。
2018年6月29日
【ちばてつやMANGイノベーション研究所】を大学で、ちばてつや教授と立ち上げたのが、2016年6月。
ちょうど2年が過ぎて行こうとしている。
この2年間、あらゆる世界が大きく変わっていっている。
たった2年前のことなのだが、たとえば取材を受けたとき、「ioT」と言っても記者たちは「?」だったし、シンギュラリティと言われている、カーツワイルの、「テクノロジーの進化のスピードが∞になる」といった話しなど、説明しても「そんな時代が30年後に来るわけがない」と、まず信じてももらえなかった。
それがたった2年で、だれもがioTは利用しているし、シンギュラリティについても普通に議論できるようになっている。
そう、この2年間でだれもがエクスポネンシャルを実感としてリアルに感じているのだ。
だが、大学に目を向けると、本来、研究機関として時代の最前線であるべき大学が、旧時代のシステムの中で存在している。
学生の手の中にはスマートフォンという、「知る」ことのできるテクノロジーがあるというのに、検索で出る程度の講義を大学で行っている。
技術だってYouTubeで一流の技術を見て知ることができるというのに、それでいいのだろうか。
だいたいここは大学である。
小学校・中学校・高校までのように、答えを出す場所ではない。
大学とは、答えを求めて考える場所のはずだ。
だから先生は教授と呼ばれ、学生は生徒ではなく、学生と呼ばれている。
そもそも、「研究」という意識を持って大学へ来ている教授、学生はどれだけいるのだろうか。美大の場合だと、技術を教えてもらうだけなら、先生も学生も専門学校で教え、学べばいい。
この数年、大学を変えるためにそうとう動いてきている。
この場所(ブログ)で伝えているだけでも、言ったことはひとつひとつ研究の先で「形」にしてきている。
当たり前だが、「形」にしなければ、やっているとは言えないからだ。
この6月もゼミの学生と帝京大学の学生と組んで、読者がマンガの中に入り込めるVRマンガを制作し、宇都宮市民芸術祭で新たに始まる、メディア芸術プレ事業として出展した。
このVRマンガは新しいコンテンツとしての大きな可能性があると感じている。
来年度から大学で二つの新しい授業を立ち上げることが決まった。
もう、新聞で発表されたので、ここに書いておこうと思う。
ひとつは「アニマルアート」という授業を立ち上げる。
なぜアニマルアートを大学で立ち上げるか、そのコンセプトを少し書いておく。
“ここ数年、世界でアニマルに関する、マンガ、キャラクター、アートと世界的にブームになっている。
日本でもマンガ・アニメの「けものフレンズ」が大ヒットし、猫や犬に関するあらゆる書籍がヒットするなど、「どうぶつ」の時代といっていいほど、どうぶつが求められている。
たとえばキャラクターとして、どうぶつの歴史を振り返っても、ディズニー、ワーナーブラザーズの顔となっている数々のキャラクター、スヌーピー、ラスカル、トムとジェリーなどなど、どうぶつは世界中のだれもが知っているキャラクターとしてブームに終わらず、根強く生きてきている。
日本最古の漫画と言われている「鳥獣戯画」も、どうぶつたちがたくさん描かれている。
そういったどうぶつに興味を持ち、どうぶつをアート、マンガ、イラストで本格的に描いてみたい、勉強してみたいと思っている人たちは世界中にたくさんいるはずだ。
●調べたところ、「アニマルアート」として大学の中で特化したコースを立ち上げている大学はない。
これほどまでに求められているにもかかわらず、アートにおいて特化してどうぶつ学べる場所がないということだ。
●大学で「アニマルアート」を立ち上げるにあたって、やはりそこには「研究」がなければ大学で教える意味はない。
また、大学で、なぜ「アニマルアート」をはじめるか、なぜ栃木の大学でアニマルアートなのか。
そのコンセプトが見えてなければ、大学でアニマルアート設立の軸がぶれてしまう。
●まず、「アニマルアート」を大学ではじめるにあたって、大きな「軸」がふたつある。
それは学生を集めるための二つのブランド力としての「軸」でもある。
その一つは、世界的に有名なアーチストである姫川明輝先生が客員教授として来ていただけるということだ。
その姫川先生の、今月の4月1日より、那須の観光協会や国の観光庁と進めている「9bプロジェクト」のARで、姫川先生の生み出した九尾の狐たちのキャラクターが、まずは9つの那須の観光地を案内するシステムがスタートしている。
このプロジェクトを進めるにあたって、昨年より九尾狐のキャラクターたちは、この栃木に来て、この地で制作している。
依頼されて創るではなく、この地で「生み出していく」という制作の仕方を、このプロジェクトをスタートしてから姫川先生ははじめている。
それとともに、姫川先生のアート作家としての活動を、那須にアトリエを創り、アニマルアートを中心に、この地で進めて行くと決め現在進めてる。
自然があり、そしてどうぶつ王国の存在も、この地で制作アトリエをかまえる大きな要因にもなっている。
ここ数年、姫川先生はアニマルアートに関して、アメリカへシャーマニズムのシャーマンに会いに行くなど準備を進めていたこともあり、一昨年から自然の中にアトリエを持つ計画が那須に絞られてきたこともあり、本格的にマンガとは別に、アニマルアートを栃木の地で進めると言ってくれている。
そういった流れから、大学でも研究してみないかと姫川先生に提案し、月1回という形でお願いし、了解を得たというわけだ。
●二つ目の軸は、自然。
この栃木の地で、自然が溢れるその中でアニマルアートを研究、制作していける環境だ。またその栃木にある那須どうぶつ王国にも話しを持ちかけていることから、協力はおねがいしている。
そのどうぶつ王国に拘るもうひとつが、この地に合った生態のどうぶつたちを、檻にいれずに、自然の中で見せていることと、大半のどうぶつに触れることができる環境だ。
これは、触れることによって、どうぶつの皮膚感、骨格など本物を体験できる環境があります。
どうぶつ王国のコンセプトである「人間と動物の自然な関係」がここにはあり、その中からアートが生まれるといった、これから進めて行く「アニマルアート」のコンセプトとしても一致する環境がここにはあるということだ。
◎こういった中で、ただどうぶつの絵を描く、どうぶつの絵の上達などだけではなく、大学として、アニマルアートをやっていく中で大事なのが研究である。
その点においては、動物学の授業も必要とされる。
動物学は、古代ギリシアの時代に生まれ、発生学、生理学、生態学、動物行動学、形態学などの視点から研究が行われています。
動物がどのような課程を得て、今の体型、骨格になっていったか。
それは「生命」と「生存」という研究にも繋がっていく。
そういったこともわかった上で、動物を知り、それをアートとして技術を磨いていく、大学としての研究と実践を持ってのアニマルアートにしていかなければならないと考えている。
そういった動物学の先生に関しては、宇都宮大学、農学部動物生産学の青山准教授に講義をお願いしている。
実技に関しても、動物デッサン、クロッキー、骨格を徹底的に、どうぶつ王国とともに、大学の近くにある宇都宮動物園とも協力しあいやっていくつもりだ。
動物を立体に創ることで、動物を知ってもらうために、動物フィギュアも、立体造形の教授にお願いしている。
◎出口に関しては、キャラクターが求められる時代ということもあり、マンガ専攻で進めているAR、AI、VRのシステムを使った、アニマルキャラ制作や、グッズ製作。
帝京大学との連携で、3Dプリンターを使っての立体のフィギュア製作など、これからの時代に向けて、就職活動も含め対応していく方向で進めている。
また動物が描けるようになれば、生命が描けることにもつながり、アーチストとしても高いレベルで活動できる人材育成ができると考えている”
長々と書いてしまったが、こういった考えを持って、現在、新しいコースを創り上げで動いている。
もうひとつは、大学での語学の授業を、「マンガ語学」という形で立ち上げる。
語学を学ぶということも、まったく変わってしまった。
スマートフォンのアプリで、語学は同時通訳のできる時代である。
大学で専門的でなく、海外旅行で話せる程度の英語や他の語学なら、スマートフォンで十分だということだ。
ならば大学の授業を受ける必要が果たしてあるのか?
2年前、出版関係者から相談を受けたことがある。
日本のマンガは世界中で読まれている。
すべての書籍の中で一番売れているのが、日本のマンガという国がいくつも存在する。
そこで相談を受けたのが、翻訳者がいないということである。
マンガの場合、キャラクターは言葉によっても表現されている。
ただ、言葉を翻訳するわけにはいかない。
そのキャラクターがわかって翻訳しなければ、マンガの中のキャラクターが死んでしまうということだ。
たとえば、キャラクターが「ボク」「わたし」「あたい」「オイラ」「オレ」…自分を指す言葉だけでも、まったく違うキャラクターになってしまう。
それをどう訳すか。
翻訳者がいないというのは、語学ができるのではなく、キャラクターがわかったオタクで語学ができる人間がいないということなのだ。
そう考えたとき、直訳ではない、キャラクターならこの言葉をどう話すかを考え、学ぶ語学というのは、大学でやれば面白いのではないかと考えたわけである。
もちろん、翻訳者を育てるというのではない。
マンガのキャラクターを使って、語学を習うことによって、語学を深く理解できるのではないかと考えたわけである。
それはスマートフォンでは訳せない語学でもある。
まずは、何はともあれ、このふたつの新しい授業をどうにか立ち上げることが決まった。
実はまだまだアイデアはあるが、身体がもたないので、まずはこの二つを育てていく。
世の中はAIに職を奪われるとビクビクしているし、大学もAIによってなくなる学部も出てくるとビクビクしている。
いやいや、今の時代の流れは、ビクビクではなく、ワクワクではないか。
AIはまだ1%も開発されていない「便利な道具」で、あらゆる方面で無限の可能性を秘めている。
iPhoneが発売されて、この10年でいかに便利になり時代が変わったか。
それ以上の可能性がAIを中心に始まろうとしているのだ。
そのAIを育てるまさに中心が研究機関である大学だと思っている。
つまり「研究」である。
今、日本中の大学は生き残りに必死なのだが、大学は「研究」を軸に考えれば、それぞれの大学の存在の意味が見えてくるはずだ。
「研究」のできない大学は、大学として必要ないし、学生も「研究」の意識がなければ、大学に無駄なお金を使うだけになる。
そして何より、「研究」の意識のない教員は、すぐさま大学を辞めるべきである。
今、大学が大学として、変わろうとしている日々が間違いなく始まっている。
AIを研究すればするほど、人間の凄さが見えてくる。
そしてテクノロジーを使って作品を創れば創るほど、自然の生み出す創造の凄さが見えてくる。
5月27日に那須で行われた、九尾の狐伝説の殺生石の前で行われる、御神火祭に行ってきた。
殺生石のこの一角は、硫黄の臭いの立ちこめる、この世とは思えない不思議で異様な空間がそこにある。
殺生石の前には、ここで何度か紹介した“プロジェクト9b”の姫川明輝先生の生み出した殺生石のキャラクターが、GPSによってこの場だけでしか見られないARで、殺生石の由来を説明してくれるシステムを4月1日からスタートしている。(あとあとはGPSではなくBeaconを考えている)
その場所に置かれてあるキャラクターの絵を、スマートフォンで写真を撮るようにARでキャラクターを呼び出し、本物の殺生石をバックに、キャラクターが動き出し殺生石の説明を始める。
この場に来てそれをやってみると、制作時に研究室で感じたものとはまったく違う世界観が見えてくる。
そう、研究室とは違い、本当の殺生石の前でキャラクターが動き始めると、そこには間違いなく「リアル」がある。
今、AR、VR、AIといったテクノロジーを使って、マンガの可能性を研究し形にしていっている。
大学のある栃木で研究、開発していることもあり、自然の中でのテクノロジーを考えつづけている。
テクノロジーを使えば、道路を作ったり、木を切ったりといった開発で自然をつぶすことはない。
「テクノロジーとマンガの融合で、この大自然の中で宇宙を創れないものか」
それをテーマに、ここ何年か取り組んでいる。
自然の中でこうやって取り組んでいると、最初に書いた自然の生み出す創造の凄さが見えてくるとともに、「マンガとは何か」ということも考え始めた。
ぼくはずっとマンガを創るとき、いつも自分の「心」で感じたものを読者に、その「心」をどう伝えるか考えて創ってきた。
だが、テクノロジーでマンガを創っていく中で、その考えはまったく逆のものになっていったのだ。
自分が「心」を伝えるのではない。
自分が創ったものを見て、見た人が「心」を生み出すものだと、そう考えはじめた。
たとえば、ボットを使って話せるマンガのキャラクターにプログラミングで「こんにちわ」と言うと「こんにとわ」と答えるようにすると、読者はキャラクターが自分の挨拶にちゃんと挨拶をキャラクターが返してくれたと喜んでくれる。
読者はキャラクターに「心」を感じてくれるということだ。
それはキャラクターが「心」を持っているのではなく、読者が「心」を感じてくれているというわけだ。
前回にも書いたが、これは仏師の彫った仏像と似ているのかもしれない。
もちろん仏師は「心」を込めて、「魂」を込めて制作する。
だが、それを見て手を合わせ、願いを込めて生み出す「心」は、制作側の「心」ではなく、それを見て手を合わす側が生み出す「心」だ。
今回、殺生石の前で行われた御神火祭を見ながら感じたことがいくつもある。
御神火祭に集まっただれもが、狐のペイントをしたり、お面をかぶり、この空間の中で、非日常を自分自身で演出している。
それは、殺生石という空間があってからこそ、非日常の宇宙が生まれたからこそ、ごく自然にだれもが「心」を開いているのだ。
匂いや空気感がなければ、単なるバーチャルで「存在」ではない。
もっと深い、生命の「心」というものは「リアル」がなければ生み出すことはできない。
御神火祭は陽が沈みかけたころから、語りべと笛の音で「九尾の狐伝説」が語られることから祭りは始まる。
この空間だからこそ、リアルに語りべの言葉が心を動かしていく。
そして白装束に身を固た100人を超える松明を持った人たちが、那須温泉神社から殺生石せっしょうせきまで行列し、大松明(御神火)へ火を放つ。


天に伸びるように、御神火が燃え上がり、その前で九尾太鼓が炎の舞いとともに鳴り響き、存在の宇宙がそこに生まれてくる。
バーチャルではなく、本物の火だから火の熱が見ている側にも伝わってくる。
飛び散る火の粉は肌に触れると熱い。
そう、そのリアルによって心の宇宙が舞い始めるのだ。
あぁ、と思う。
こういった自然のリアルはテクノロジーで創ることはできない。
積み重なった歴史の上に成り立つものには、実は「心」も歴史とともに積み重なっている。
そのリアルの生み出した「心」の上に、その「心」を壊さず、より生かすにはどうすればいいかを考えるのがテクノロジーではないだろうか。
マンガを創るとき心がけてきたことがある。
「わかりやすく伝える」だ。
この空間を利用してわかりやすく伝えるはどうしたらいいか。
たとえば、九尾の狐の語りべの背景で、殺生石の空間にプロジェクションマッピングで、語りべの物語をわかりやすく迫力を持って「伝える」を、重厚な絵で見せたとする。
リアルの中で、バーチャルな演出を加えることで、そのリアルをもっと、もっと大きなリアルとして伝えることができるはずだ。
リアルから生まれる宇宙は、そこにリアルに立つ人たちすべてに、まちがいなくそれぞれの「心」の感動が生まれるはずだ。
そう考えていくと、大自然のリアルの溢れるこの地で創っていく…いや、創りたいものがどんどん増えていくではないか。

2018年4月30日
ゴールデンウイーク真っ只中なのだが、大学の研究室でひとりPCに向き合っている。
20以上のプロジェクトと〆切を抱えているもので、とにかく目の前のひとつひとつを形にしていくしかない状況の中なのだが、大学はこのゴールデンウイークの間は休講なので、静かな環境の中、集中して形にできていっている。
今日は午前中はCRT栃木放送のラジオ番組、「まついじんの部屋」にゲストで遊びに行かせてもらい、午後からはずっと研究室。
珈琲タイムの合間にこのブログを書いている。
今日、なぜラジオに遊びにいってきたかというと、5月5日、6日と行われる「とちてれ☆アニメフェスタ!」の毎年、イベントの司会をやっていただいている、だいまじんのじんのすけさんの番組ということもあり、イベントのコーナーのお知らせを兼ねて顔を出してきたということだ。
考えてみれば、このイベント、最初は「デジタルマンガ甲子園」として、ちばてつや先生と大学近くのスーパー銭湯につかりながら「やってみます!」「応援するよ!」と2011年に立ち上げたのだが、その最初の年にあの3.11があったのだ。
あの3.11のときの思い…「ぼくたちに何ができるのだろうか」と、心が締め付けられる恐怖と不安の中、もちろんイベントで人を集めるのは危険とか、自粛とか、中止を促す声が大半だったのだが、「何か、なにか、何をやれば…何かやらなければ」と、マンガ家の仲間たちが集まってくれて、みんなのその思いからチャリティイベントとして始まったイベントなのだ。
小さなぼくの研究室に送られてきた仲間のマンガ家たちの色紙やグッズ、生原稿までもチャリティにかけさせてもらい、1236万円を被災地に寄付させてもらった。
それからもう8年目を迎えている。
今回のステージは、ちばてつや先生、姫川明輝先生、一癸さやか先生、声優の古川登志夫さん、安部敦さんと行うことにしている。
今年からコーナーの名前を、「デジタルイノベーション・マンガステージ」に変え、まさにマンガのイノベーションをステージで見せられると思っている。
つまりは、とちてれ☆アニメフェスタ!という2万人の観客の前で、エンターテインメントとして大学でのテクノロジーによってのマンガの表現の可能性による研究発表をさせてもらっているようなものなのだ。
今年は、姫川明輝先生とここ数年、那須で取り組み、この4月からスタートした、「9bプロジェクト」をみんなに見てもらうことにしている。
9bプロジェクトとしての今回の第一歩は、姫川先生がアートディレクターとして生み出してきた、九尾狐たちのキャラクターが、AR(拡張現実)で、その地に行けばスマートフォンの中でキャラクターが動き出し、那須の観光案内をしてくれるという新しい観光案内のシステムである。
インバウンドも考え、中国語、英語でも対応している。
そう、そう9bとは九尾から生まれたプロジェクト名なのだ。
イベントでは、今年も、声優の古川登志夫さんに、そして安部敦さんにも、姫川先生のキャラクターたちにむちゃぶりで公開アフレコでキャラクターを演じてもらうことになっている。
むちゃぶり公開アフレコは、4年前の緑川光さんにお願いしたときから始めたのだが、これが実に面白かった。
これがプロという姿を、公開アフレコならではのライブ感の中で見せてくれる。
プロの声優の凄さというものを、目の前で、生でぜひ見て、聞いてほしい。
他にも、ちばてつや先生の「あしたのジョー」50周年の話しや、姫川明輝先生、栃木の地元から世界に向けてマンガを発信しつづけている一癸さやか先生と、この栃木から生み出していくマンガの話しなど盛りだくさんで盛り上げて行こうと思っています。
コーナーは5月6日(日)の14時から宇都宮オリオンスクエアで行うので、ぜひ!
書きながら、今回のブログは、「とちてれ☆アニメフェスタ!」のお知らせのようなブログになってしまったが、こういったイベントも含め、今、この地、栃木でいろいろなことが生み出せていることに、いつもワクワクさせられている。
週のほとんどを、仕事場のある東京ではなく、この栃木で大学も含め、最初に抱えている仕事のことを書いたとおり、いくつものプロジェクトが動いている。
東京はグローバルで、栃木はローカルだと言われてきた。
だが、ローカルからグローバルに発信していく時代がやってきたことは間違いない。
こうやって、生きて居る「地」で生み出していくプロジェクトの中で、少し見えて来たものがある。
創るということの方向が、自分の生きる答えとして見えて来たものがある。
仏師の彫った仏に、人は自分の心で向き合い、そしてその仏は、向き合った人の数だけ「心」が生まれる。
作り手の「心」ではなく、人がその仏を見て、感じる「心」を生んでいく。
その「心」に人は手を合わせ、自分の「心」と向き合うことができる。
自然も同じだと思う。
この栃木の地のおかげで、自然とも向き合うことが出来ている。
自然を壊すことなく、人が向き合える「心」を、大自然の中でテクノロジーとマンガで生み出すことができるのではないか…
今、取り組んでいるプロジェクト、すべての軸を、その視点から考え始めている。
作るのではなく、「生み出す」という創作。