6月を前にして夏のはじまりのような日々。
仕事場を東京から自然に囲まれた場所に移して1年が過ぎた。
前回、この地に来てから散歩が日課だと、そして次のような言葉を書いた。
自然というのは「今」を教えてくれる。
春の「今」は自然の命が芽生える季節。
禅で使われる仏教用語、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」。
「今、ここで私が生きる」という意味だが、この言葉が自然の中でリアルな軸として感じられる。
こう書いたのだが、もう少し理解してもらうため、少し付け加えておきたい。
「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」というのは自分にとっての答えではない。
ぼくは自分への問いだと思っている。
リアルな軸として、「今、ここで私が生きる」ということを「問い」として生きている。
「問い」があるから自分の答えを探して考える。
自然の中を散歩をしながら考えると、目の前にいくつもの生命が目に入ってくる。
草木、そして花の息吹、自然の中での鳥たちの羽ばたき。
虫や、時にヘビも現れる。
空や、雲、そして風からも生命を感じる。
人が創った神社やお寺も、そこに生命を感じる。
そして自分も自然の一部だと感じることができる。
そこでまた、「自分も自然の一部」とはどういうことなのか。
自分への問いが始まる。
「問い」があるから考える。
そしてまた「問い」が生まれてくる。
こう書くと、「自分さがし」と思われるかもしれないが、それはまったく違う。
「自分さがし」というのはそもそも「目的」探しで、よく、大学に来た学生から
「自分さがしで大学に来た」などという学生がいるが、大学に何をしに来たのか呆れてしまう。
大学というところは、「目的」があるから大学を選び、その「目的」のための「手段」として研究するために来たのではないのか。
だから「研究」の意識がなければ、「問い」は生まれてこない。
「研究」と「哲学」、そして「仏教」は同じ軸から生まれてきた考え方だ。
自分の中で生まれた「問い」に「問い」つづけていくことは、考え抜くということ。
それは「問い」つづけることで、どんどんと余計なものが削がれ、シンプルになることで自然と向き合うことができる。
つまり、「生命」と向き合うことができる。
たとえばジョブズが禅と向き合ったことも、ジョブズが生み出したモノを見ればわかると思う。
デジタルと自然を対局だと言う人がいるが、デジタルはAIも含めあくまで道具でしかない。
自然の中で生きるための生み出した道具。
今、そういったことを自然の中でスマートフォン片手に日課である散歩をしながら、自分の中で問いを繰り返しながら歩いている。