「即今・当処・自己」

2017年4月30日

「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」
禅の言葉で、仏教の教えである。
「今、ここで私が生きる」という意味だ。

もう20年ほど前、武術の取材をしているとき、この言葉と出会った。
つねに「今」を考え、そしてその「今」、ここで生きていることを考える。
べつに仏教徒ではないが、仏教のこの言葉を本当に深く、大事にしている。

今、世界がきな臭くなり、その根底には宗教が流れている。
よく考えると、世界宗教のなかで、武力を用いることなく、国境を越えて広まったのは仏教だけだけなのだ。

なぜなのか。答えは「絶対」を生み出す心ではないだろうか。
森羅万象「絶対」はないと思っている。
だが、神を人は「絶対」ととらえる。

仏教のブッダは神ではなく、修行僧なのだ。
修行僧というのは死ぬまで、生きることを修行として、「今」を大事にしなさいと説いている。
「絶対」ではなく、「今」なのだ。

何か敵対しているイスラムとキリストは一神教なわけだから、「絶対」が存在する。
だがその根底は、ユダヤ教が生まれ、キリスト教となりイスラム教となったわけだから、元は同じ「神」から生まれた「絶対」のはずなのだが、違う「絶対」が生まれたことで敵対してしまう。
つまり「神」を、「絶対」と捉えるから、その「絶対」が違う、つまり「神」の違う相手は歪みあってしまうのだ。

だがこうやって考えると、日本というのは実におもしろい。
そもそも日本には神道があり、飛鳥時代に仏教が入ってきたのだが、「宗教」という言葉が生まれたのは明治になってからで、それまでは「宗教」という言葉などなかったのだ。

それまで日本語には、宗門、宗旨、宗派という言葉しかなく、他神を斥けることみなく、日本古来の万の神の対等の神として受け入れてきた、そのひとつとしての仏教だということだ。
そう考えると、日本人の捉えるキリスト感も同じ考えで、クリスマスを宗教観を持って祝っているわけではない。

もともと日本人の考えは、山や森、そこに住むあらゆる生きものも神と捉えてきたわけだから、「今、ここで生きる」。つまり自分の生きている自然の中で「今」を大事に生きなさいということが、ぼくたち日本人に流れている魂だということだ。

そうそう、「自然」という言葉も日本には必用なかった言葉で、ネイチャーの意味である「人が支配」しての「自然」ではなく、人は自然と一体で生きていたわけだから「自然」という観念さえ必用なかったのだ。

江戸時代まで仏教語だった「自然(じねん)」(あるがままの意)を借りてきて訳語としたのが、日本における自然の言葉の語源なのだ。

その自然(じねん)の生き方が「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」だということだ。

 

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