大学のゼミで、ゼミ生に「締め切りを守る必要性、それは表現者として生きて行くための信頼」という話をしていたときだ。
学生から、「プロとしてやってきている先生は、今までいくつの締め切りをやってきたのですか」という質問をうけた。
そういえば数えたことなどなかったが、作品の連載の数から、思い出すかぎり書き出してみると、1128本の締め切りをこなして来ている。
1回きりのイラストやコラム的なものは思い出せないものがいくつかあるが、とりあえず1128本という数字が出た。
もちろんカンズメやギリギリの印刷所で書いて入稿したことは何度かあるものの、締め切りを落としたことは1度もない。
考えてみれば40年以上プロとして作家をやってきたわけだから、まぁ、これだけの締め切り数だけの作品を書いてきたわけだ。
自分の作品はノンフィクションが多いのだが、フィクションにしても自分で経験しての取材から生まれている。
ノンフィクションの原稿は、ほとんどというか、すべて「ボク」という主語で書いてきている。
つまり、書いてきたものは、つねに自分の生きている「今」から生まれてきたものばかりで、AIには創れない作品を書いてきたことになる。
これからの作家は、「自分しか生み出せないもの」でなければ、作家として生きていけない時代だと、そしてそれは「いいことだ」と、作家でAI研究もしていることもありいろいろな場所で話している。
自分の作品を読み返すと、ボクという主語で書いてきているというのもあるが、どの作品も思念を押し出す表現で書いてきている。
スポーツ選手を追いかけ、2年、3年、長くなると10年以上見続け、ときにはトレーニングに参加させてもらったり、プライベートで旅をしたこともある。
そういった長いつきあいの中から、スポーツである以上、勝負という勝ち負けを書くことになる。
ただの勝ち負けではない。
人生を賭けた勝ち負けがそこにある。
だからうれし涙を流し、悔し涙を流す。
選手はもちろん流すが、書き手であるボクもいつも涙を流してきた。
その涙こそに、人間が生きてきている人生の真実があるのかもしれない。
データで作ったもの、中途半端なもの、ビジネスライフで取り組んだものでは、まず涙など流すことはない。
涙を流すということは、そのためだけに生き、そのためだけに人生のすべてを賭けた時間の中で濃密な日々があったからだ。
「16フィートの真夏」という作品がある。
ジャッカル丸山というボクサーを追いかけ、そのボクサーの生きている意味と覚悟を見せられ、そこから生まれたすべてを、叩きつけた作品だ。
当時、ジャッカルの試合が一番面白いとチケットは即完売、その命のやりとりのような闘いにボクシングファンを唸らせ、ボクもその一人でジャッカルを書きたいと追い続けた。
そんな中惜しまれながら、ジャッカルは引退を決め、引退式の開催も決まり、何より彼女と結婚も決まった。
その彼女の実家の経営する料亭も任されることになり、これ以上ない幸せがボクサー引退後に待っているはずだった。
だが、ジャッカルは引退を撤回し、そのすべてを捨てて世界1位のボクサーに挑むために復活のリングに上がった。
なんてボクサーなんだ。
勝てば世界戦が待っている。
負ければすべての道が閉ざされる。
結果は、ジャッカルのパンチを恐れた世界1位のボクサーが攻めることなく足を使われ、ドローという結果に終わった。
負けたのなら納得がいく。
だがドローという結果で、ジャッカルのすべてを賭けた道が閉ざされた。
試合が終わり、控え室でひとりポツンと座っているジャッカルにボクは声を掛けることができなかった。
ボクのの中で、やるせない悔し涙が流れた。
あのときは、すべてを賭けた時間に空しさを感じていたが、そうではない。
ジャッカルが本当に自分のすべてを賭けて挑んだ時間。
そしてその時間の中で生きられた、時間があった。
あの時間にこそ、ジャッカルも、ボクも「生きている」という、あまりに濃い時間があった日。
それが人間にとっての、生命を持つものの「幸せ」なのかも知れない。
その幸せの時間こそが、AI時代において、AIでは作ることのできない、人間としての生き方ではないかと、今の自分は思っている。
【旅の空Ⅷ ジャッカル】