先月ChatGPTのことを書いたが、文、画像、動画、3D、音楽…あらゆる分野でAIが一気に動き出した感がある。
ただ、大学では思っているよりAIで訪れる社会のことがちゃんとわかっていないことが見えてきた。
大学での論文やレポートに関するAI対応を見ながら、今までのやり方の中で対処しなければならないと意見を述べているが、間違いなく「今」時代は変わったのだ。
そもそもChatGPTを単なる利口な検索エンジンように思っているらしい。
ネット上のビッグデータの中でのデータなので、フェイクもまだまだあることから「ここが間違っている」と、間違い探しを見つけては「使えないなぁ」と自慢げに話している人たちもいる。
数年前、大学でDXの話をしたとき、スマートフォンを持っていながら、「私はDX社会の中で生きてはいない」と言っている時とまったく同じレベルで、今回もAIのことをちゃんと理解できずに見ているようだ。
この場所でも数年前から書いてきたことだが、今からの時代は、「AIを使う人」と「AIに使われる人」に分かれると言ってきた。
つまり、AIに価値を「奪われる」人と、AIで価値を「生み出す」人がこれから生まれてくる。
ここでAIを否定する意見の人たちは、つまりはAIに価値を「奪われる」人たちのようだ。
AIに価値を「奪われる」と思われる人たちは、そもそもが、自分の仕事に対してアップデートができていない。
前回も書いたが、AIは便利な道具として、自分のやっていること、やろうとしていることの中でどう使うか。
たとえば、ぼくが原稿を書く場合だと、以前は資料集めなど数週間かかっていたことが、AIを使えばチェックなども入れても1日かからず用意することができる。
その下準備ができたところから、取材や研究といったリアルが始まる。
取材や研究においてのリアルはビッグデータにはまだないデータだし、データの中には五感で感じる感覚がない。
つまり、よくアナログ人間は人間的で、デジタル人間は機械的だと言うが、今の時代、その考えがまったく逆になっていると思っている。
アナログ人間はテクノロジーでできることに時間をかけ価値をどんどん奪われていき、デジタル人間は、テクノロジーでできることはテクノロジーで処理することで、より人間にしかできないことを追い求め、そこに価値を生み出していく。
本来なら大学というところは、制作、論文、レポートにしても、AIを道具として使うことで、どれだけのことができるか。
それを追求する、つまり今からのAI社会の可能性を研究する機関でもあると思っている。
それが本来の「成長」ではないだろうか。
そしてその可能性を追求すればするほど、間違いなく人間にしかできない、価値が見えてくるはずだ。
今月の「ことばの風景」
物差しを捨て 旅に出よう