6月の哀音

父が逝ってしまった。
91歳。
よく生きてくれた。

父が亡くなり「人によって生かされている」ということを感じている。
人は人によって成長し生かされている。
その最初の人とは両親だ。

今の自分が創られていった原点。
亡くなった父の顔を見ていると、忘れてしまっていた父との日々が蘇る。
頭で忘れてしまっていたことを“心”が覚えている。
そう、頭ではなく心…そういった感覚だ。

野球に打ち込んだのは間違いなく、高校野球で活躍した父の影響だ。
山登りも、父に連れられ名山に登った。
今回、父の部屋から大量の写真が出てきた。
いつもカメラを持っていた父。
いつしか自分もいつもカメラを手に写真に夢中になっていた。

高校ぐらいだろうか…父とはあまり口をきかなくなった。
マンガを描き、ギターに夢中になる。
マンガで食べていきたいと、父に将来を聞かれたら答えていた。

父はそんなことで生きていくことなどできないと、もっと現実的になれと言ってくる。
それが嫌だった。
だから中学の頃から、作品を描いてはひとり夜行電車で12時間揺られ東京へ持ち込みに出ていた。

今考えると、父への反発が大きなエネルギーになっていたのだと思う。

東京に出て10年以上家には戻ることがなかった。
その間、父とはずっと口をきいていない。
マンガ、マンガ原作、イラスト、ノンフィクション、エッセイ、コラム、写真と8本の連載を持つようになっても、実家に電話はかけることはあったが、父と話すことはなかった。

10数年ぶりに実家へ戻ったときだ。
ぼくが使っていた部屋の扉を開けると、部屋が雑誌と単行本などで埋まっている。
すべてぼくが書いたものが載った雑誌と単行本だ。
自分でも取っていない、半ページのコラムやエッセイの載った雑誌まで取ってある。
単行本など同じものが3冊も買っている。

「何やってんだよ!」
父に怒った口調で、一部屋雑誌と単行本で埋まった部屋を見て声を上げたのだが、嬉しかった。
父は口では言わなかったが、認めてくれたと思った。

それからもあまり話すことはなかったが、父はパソコンを覚え、18年ほど前から気が向いたらSkypeで連絡を取ってきていた。
たわいのないスポーツの話が中心だ。

亡くなる11日前に父の住む神戸に行き、そのとき細く小さくなった父にLINEでのテレビ電話の仕方を教えた。
すると東京へ戻ってきたぼくのスマートフォンにかかってきている。
それが最後の会話となった。

父が亡くなり「心」のことを考え続けている。
お坊さんが、父は阿弥陀如来になったと言ってお経を上げてくれている。
その阿弥陀如来になった父を見て、みんなは悲しみ泣いている。

それは阿弥陀如来になった父が心を発しているのではなく、それぞれの人たちの心が父を悲しんでいるのだ。

心というものは、つねに自分の中から生まれてくる。

葬式というものは、故人のために行うのではなく、残された人のために、その心の悲しみを鎮めるために行うものだとぼくは思っている。
父の葬儀は、ぼくの中では、母のための葬儀だと思っている。

父が亡くなり、心の中で思いがどんどんと生まれてくることで、父は最後にその「心とは何ぞや」とぼくにとっての答えを教えてくれた。

人は相手の心ではなく、自分の心でその人の存在を確認している。
存在とは、形でもなく、相手の心でもなく、自分の心が生み出している。

そう、自分の心に父がいるということは、父は自分が死ぬまで生きているということなのだ。

今、取り組んでいる研究は、DXにおいて、キャラクターたちにどうやって心を感じてもらうか、それを超高齢化時代の中でのコンテンツ化である。
つまり、心を感じてもらうということは、コンテンツが心を持つのではなく、そのコンテンツによって、それぞれの人たちがどう心を生み出してくれるか。
心の中で生きている存在となってくれるかということだ。

「人によって生かされている」
また父によってひとつ生かされたよ。

ありがとう。

 

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