シンギュラリティに向けて、大学はどう変わり、どう学ぶか

 

SONY DSC

2018年1月31日

シンギュラリティという言葉は2016年後半あたりからよく耳にしてきたと思います。
日本での注目されはじめたきっかけは、SoftBankの孫正義氏が「シンギュラリティがやってくる中で、もう少しやり残したことがあるという欲が出てきた」と、シンギュラリティがSoftBankの社長続投の理由として述べたことからはじまったと思います。

もともとこの「シンギュラリティ」という言葉が出てきたのは、現代のエジソンといわれる発明家であり未来学者、AI(人工知能)の世界的権威であるレイ・カーツワイルが2005年に発表した著作からです。
その著書の中でカーツワイル氏は、技術的特異点(シンギュラリティ)によって、テクノロジーが地球全人類の知能を超える、人類の進化速度が無限大の到達点に達するといっています。
それが今よくいわれている、カーツワイルが予言した「2045年問題」です。

ですが、「AIが人類の頭脳を追い越すのがシンギュラリティ」と一般では思われていますが、ジェネティックス革命(遺伝学)、ナノテクノロジー革命(ナノとは10億分の1を表す単位。つまり原子、分子レベルで物質を扱う)、ロボティックス革命(人間よりすぐれたロボットが生まれてくる)の3つ、「G・N・R」革命を中心に、あらゆるものが進化していく先にあるのがシンギュラリティだということです。
もちろん、その中心となるのは「AI」であることもたしかです。

つまりそういった「G・N・R」などあらゆるテクノロジーというものが、人類の進化速度が無限大の到達点に達し、今、想像もできない世界がやってくる、それがシンギュラリティの2045年問題だと思っています。

そうなればどうなるのか。
カーツワイルもわからないと言っています。
そう、シンギュラリティとは、宇宙物理学の分野で言えば、ブラックホールの中に、理論的な計算では重力の大きさが無限大になる「特異点」という、だれも想像できない世界に到達するということなのです。

もちろんこれはあくまで予言ですが、実際にカーツワイルが言った「特異点」に向かってのスピードで世の中は動いています。
たとえば「ヒトゲノム計画」(人間の遺伝子情報配列の解析)です。
15年で完了すると進められた解析プロジェクトは、7年間で1%しか解析できていなかったことにもかかわらず、カーツワイルは「もう半分以上終わっている」と指摘しています。
そしてその指摘のとおり、15年で解析は完了しています。
1%でも分かれば、その先はあっという間に到達していくスピードこそがシンギュラリティの流れです。

もっと身近な例を挙げると、スマートフォンがあります。
スマートフォンが広まるきっかけはiPhoneですが、iPhoneはまだ生まれてから10年しかたっていません。
ですが、世の中の大半は、スマートフォンなしでは生きてゆけないと言うぐらい、スマートフォンに依存した世界に変わってしまいました。

つまり、10年前とはまったく違う世界に今はなっているという現実が、スマートフォンひとつで起こっているということです。

その成長は、いままでのような進歩率、1,2,3,4,5…という成長ではなくなっています。
インテル社の創業者のひとりであるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文で「ムーアの法則」という、「トランジスタの集積度は18ヶ月ごとに倍になる」という説を唱えたのですが、今、まさに時代は「指数関数的」に成長しているというのが、だれもが実感していると思います。
指数関数の成長、つまりエクスポネンシャルの成長と言われていますが、1,2,4,8,16,32…と成長しているのが今の時代です。

これがシンギュラリティの「2045年問題」の核心だと思っています。

これを情報で置き換えたとき、わかりやすい研究結果があります。
2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算したところ、12EB(エクサバイト)。
次の2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量12EBを超えたと発表しています。
そして2007年には10年前と比べて情報量が410倍になっていると発表されています。
2018年の今は統計はないのですが、1年単位でのエクスポネンシャルで計算してみると、1999年までに人間が30万年かけて蓄積してきた情報量の17000倍になっているのが、今だということです。

ここまで書けばわかってくると思いますが、インターネットというものが、エクスポネンシャルによって世界を変えているとともに、大学の教える側も、学ぶ側も変わらなければならない、そこを考えなければ大学などまったく意味がないのが現状です。

SONY DSC

ここで「大学で学ぶとは何か」。
少し考えてください。
まず今の時代で考えれば、“調べる”、“知る”はGoogleで検索したら何でも出てきます。
レクチャーなど、ほとんどGoogleで検索で教えることなどありません。
では、技術を「見せる」。「見て覚える」はどうなのか。
世界で一流の人たちの創作が画像、ムービーでYouTubeなどでいくらでも学ぶことができます。
では講義はどうなのか。
MOOC(大規模オープンオンライン講座)で、ハーバード大学だろうと、東京大学だろうと、教授たちの講義は無料で聞くことができます。

ではお金を払ってまで、(自分に投資する)大学へ来る意味は何なのか。
大学はまず、学校ではないはずです。
研究機関だからこそ、専門学校ではなく、大学と呼ばれているはずです。
きっとインターネットによってエクスポネンシャルがはじまる前は、大学は「学校」の延長として、「教えてもらえている」ということで、かろうじて、「お金がとれた」かもしれません。(学校の延長と捉えた時点で無駄金ですが)
まぁ、簡単に情報が手に入らなかったので、情報がお金になったというだけのことです。
ですが、今は学生たちの手の中にはスマートフォンがあるのです。

そんな時代に大学で学ぶとはどういうことか。
そう考えると、答えはまず専門学校のような大学では、そこに「投資」(今から生きるために学費と時間を費やす)する意味などなということです。

人間は必ず死にます。
だから時間は「命」です。
その命の時間を無駄にするだけです。
経済学では、時間は「資源」ととらえていますが、たしかに時間は大きな可能性を秘めた資源とも捉えることができます。

では今、大学で学ぶとはどういうことなのか?
自分の命の時間に、お金を投資して大学に行く意味は何なのか。

もちろんそれはすべての人によって答えは違ってきます。
だからまず考えてください。
そこを考えなければ、命の時間とお金を捨ててしまうだけの無駄なことになってしまいます。(なんとなくの人間は、なんとなく生まれて、なんとなく生きて、なんとなく死んでいく一生をおくるだけです)

ぼくはこう考えています。
まずは、今の時代に大学で学ぶ第一の意味は、本来の研究機関としての大学に戻るべく「研究」です。
そして「実践としての教育」です。

研究とは、この世にないものを生み出す、つまりGoogle、YouTubeで検索では出てこないイノベーションです。
また「実践としての教育」とは、「今」「ここ」の教育です。
文星芸術大学ならば、宇都宮という「ここ」で、「今」生きていることでできる教育になると思います。

当たり前ですが、「今」「ここ」で生きている教育は、「今」「ここ」で生きる以外、学ぶことのできない教育のはずです。

教える側でも同じです。
ぼくは文星芸術大学へ来たとき考えました。
最初はマンガは東京が中心ということもあり、東京を見てマンガを創っていました。
ですが、「この大学に自分がいる意味」は、東京を見ているのなら、宇都宮にいる意味などないということです。
東京を見ているなら、東京にいればいいだけのことです。
それで宇都宮へ来ているのなら、自分がここで生きてる存在、意味は「何」なのか。

そう考えたとき答えは簡単に出ました。
「プラットホームを栃木(ここ)に自分で創ればいい」
そう、今の時代、だれにでも、どこにでもプラットホームが「個人」で世界に向けて発信できる環境が備わっている時代なんです。

考えてください。
今、時代はどう動いているのか、「今、自分はどんな時代に生きているのか」考えることが必要です。

世界はGoogle、Apple、Facebook、Amazonが大きな意味を持って「今」を動かしています。
一昔のように、車の企業は車を作り、電化製品の企業は電気製品をつくり、印刷の企業は印刷をするという時代ではなくなりました。

世界を変えるべくイノベーションを起こしているGoogle、Apple、Facebook、Amazonは何なのかと一言で言えば、「研究機関」です。
コンテンツを生み出すことのできる研究機関です。

大学も同じだとぼくは考えています。
大学という研究機関で、マンガという研究をコンテンツ化できる武器を持って、新たな表現を開拓していける場所です。
マンガでイノベーションを起こすのが、大学でマンガを研究するということだと思います。

ここ数年、帝京大学の理工学部とはいっしょに制作してきています。
宇都宮大学とも、新しい研究にはいっています。

今年から新たに、文星芸術大学、宇都宮共和大学、作新学院大学、帝京大学宇都宮キャンパス、宇都宮大学の5大学の連携を進めています。
産官学の連携を考えるということは、まさに「今」「ここ」で学ぶことに繋がるはずです。
そして大学が繋がることで、「研究」をそこからどう始めるかが重要になってきます。

きっと今回の連携に対して、ぜんぜん違う分野の大学が連携して何が(研究)できるとみんなは思うかもしれません。
ですが、シンギュラリティに向かってエクスポネンシャルに成長していくことを考えたとき、違う分野の研究機関が集まり「研究」するというのはとてつもなく必要な時代になっているということです。

SONY DSC

わかりやすい例として、昨年、2017年に興味深いことがありました。

そのひとつ、将棋の佐藤名人が電王戦においてAIのボナンザに第一局、第二局と完璧に負けてしまいます。
ちなみにボナンザは、囲碁の世界チャンピオンを破ったGoogleの「アルファー碁」のディープラーニング(深層学習)のAIではなく、機械学習のAIに名人は負けたのです。

この対局の二戦目に面白い場面がありました。
佐藤名人が優位にススメ、佐藤名人はここで、将棋の世界では常識の鉄壁の守備の陣形、「穴熊」という囲いを用いました。
その対決を見ていたすべてのプロの棋士たちが「完璧」と頷いたとき、ボナンザはこの穴熊囲いを易々と破ってしまったのです。
つまりAIが将棋の常識を破ったことになります。

佐藤名人は敗者の弁で「自分の将棋のどこが悪かったのかわからない」と感想を述べていますが、このあとの佐藤名人の打ち方が変わったと言われています。
今までの将棋の常識にとらわれない打ち方。
ここに、大学が今やるべきヒントが隠れているのではないでしょうか。

それは想像でしかないのですが、佐藤名人は、将棋が将棋に縛られていた「常識」という呪文から、AIに負けたことで解き放たれたのではないのかと、将棋をまったく知らないぼくですがそう感じました。

つまり、将棋界の常識が、AIという、今までなかった常識に縛られない学習をしてきた機械によって、将棋の可能性を新たに無限に広げてくれたのだということです。

それともうひとつは、昨年メジャーリーグで世界一に輝いた、ヒューストン・アストロズの革命です。
球団創設以来、一度も優勝のないアストロズが2011年にヒューストンの実業家のジム・クレインによって買収されます。
ヤンキースの総額年俸の3分の1にも満たない、金も力もない球団をどうやって強いチームにしていくか。
クレインはGMに大手コンサルティング会社「マッキンゼー・アンド・カンパニー」のエリートであったジェフ・ルーノウを抜擢します。
そのルーノウは球団にあらゆる分野の専門家を招き入れました。
エンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家などです。
それまでの野球界は、コーチやスタッフといったら、まず野球経験者で固めるのが常識でした。
ですが、まったく野球とは関係ないエンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家などをスタッフとして入れていったのです。

そのことによってアストロズだけではなく、メジャーリーグのベースボール自体が変わっていったのです。
それまでベースボールのバッティングはダウンスイング、もしくはレベルスイングでまず転がせ。フライは打ち上げるなというのが、これはメジャーだけでなくベースボールの常識でした。
ぼくも高校まで野球部だったのですが、ずっと「ボールを打ち上げるな、ボールを叩きつけろ!」と教わりました。
これは世界中のベースボールが何十年も言い続けてきていた「常識」です。

ですがアストロズは「フライボール革命」というものをメジャーリーグに起こします。
ゴロを打つのではなく、フライを打った方が打つことすべての確率が上がると、エンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家データによってはじき出されたのです。
バットのスイングする角度までも選手に支持し、そのことで結果が出、結果が出ることで、選手たちは、野球界の外の人間であったエンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家のデータに本気で取り組みはじめたのです。
すると、年間で400本以上もメジャーのホームラン記録が伸びるなど、数々のメジャー記録が生まれ、すべてのメジャーリーガーたちに対して革命が起きたということです。
もちろんバッティングだけではなく、投手もデータを分析し、デビュー以来1勝もできずに戦力外になった、コリン・マークヒュー投手をアストロズは、3年連続2桁勝利の投手へと育てあげます。
マークヒュー投手のカーブの回転数が、通常2000/分回転なのに対して、2500/分回転のカーブが投げられることを分析し、メジャーで勝てる投手に変えたのです。

フライボール革命も、マークヒュー投手も、きっと今までの常識にとらわれた野球界では生まれなかったイノベーションだと思います。

こうやって将棋やスポーツに目を向けただけでも、イノベーションを起こすには、その世界で凝り固まった場所では起きないということです。

マンガならマンガに縛られない、サイエンスや経済、医学、スポーツ学と取り組むことでの化学変化が、新しいイノベーションを起こすきっかけとなるはずです。

もちろんただ組むだけでは何も生まれてきません。

シンギュラリティに向けて、サイエンスと組むなら何がしたいか。AIと組めば何ができる。VRと組めば何ができる。ホログラムなら、プロジェクションマッピングならといくらでも発想が湧いてきます。

SONY DSC

田中研究室ではすでにいくつか始めているプロジェクトもあり、特に那須観光協会と進めているプロジェクトは4月には実際に形としてスタートすることもあり、連日、急ピッチで制作している段階です。

また昨日、宇都宮大学の先端光工学で世界から注目を集めている、長谷川智士准教授たちと新しい研究をしていきたいと話しています。
長谷川研究室は、フェムト秒レーザーを用いて,金属や半導体,誘電体の3次元サブミクロン構造を高精度に加工して,屈折率・反射率・摩擦・撥水性等を制御することで,材料に新規な機能性を付加する研究を行っているチームです。

フェムト秒レーザーを使い、水の中に、泡をpixel化することで、新しい表現が生まれてくるはずだと、田中は考えています。

つまり大学にとって、ここに書いてきたように、シンギュラリティに向けて、今からの大学はとてつもなく重要な場所となっていくはずです。

そこで「何」をすべきか。
「シンギュラリティに向けて大学はどう変わるり、どう学ぶか」

そういうことです。

体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない

2018年1月1日

あけましておめでとうございます。

正月早々PCの前に座って仕事を始めている。

「禅」の考えとは「ひとり悟る教え」である。
「なるほど、わかった」と会得するのは、他人ではなく自分。
そのためには、自分自らが行動しなければならないと「禅」は教えてくれる。

昨年はよく動いた。
「禅」のその考えを根底によく動いた。
そして見えてきたものがある。
「なるほど、わかった」と見えてきたものがある。

今、未来サイエンス研究で脳の持つデータもダウンロードでき、脳とインターネット、AIを結びつけ、老いても身体はサイボーグとして生かすことで、人間が無限に生きられる時代が来ると言われている。
そのことに対して「凄い」と思った。
人間はとんでもない領域に入ってきたと、これがシンギュラリティということなのかと思ったのだが…
だが、「それは本当に生きていることになるのだろうか?」という疑問。

生きているというのは、身体と脳、両方が生きていることで、「生命」と言えるのではないだろうか。

アインシュタインもこう言っている。
「体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない」

そう考えたとき、「生命」とは自然の上に成り立っているということだ。

今、自然の中で、その自然を感じることのできる、デジタル表現を、自然を壊すことなく大自然の中でできないかと考えている。

いや、もう何年も前から考えていたことが、形として動き出したということだ。

それが2018年。
がんばらなければならない一年だ。

世の中の常識にとらわれると、それがあたかも自分の信念で有るかのように誤解する

SONY DSC

2017年12月24日

あぁ、もう2017年もあと一週間になってしまった。

それにしてもよく仕事をした一年だった。
今も日曜日でだれもいない研究室で、溜まった仕事をとにかく一つずつこなしていっている。
いや、とにかく、〆切というやつが決まっているものだけでつねに20個以上は抱えていて、「それが終わったら進めます」と、控えている〆切、プロジェクトは今、いくつあるかわからない状態だ。

かといってこんな24時間仕事のような毎日が苦痛かというと、変な話し、仕事をしていないと不安はたしかにあるのだが、今やっている仕事ひとつひとつが面白くて、それで寝る間も忘れて取り組めていることもたしかだ。

SONY DSC

ここのブログで「大学とは」など、持論をいくつか書いてきたのだが、信念を持って動けば形になってくる。
だれも相手にしてくれなかったことが、いつのまにかプロジェクトとして動き始めているものが、今年、いくつもあった。

15年ほど前、そう、まだスマートフォンなどなかった時代、ケータイで見る、ケータイの機能を生かしたマンガを、世界ではじめて創作した。

まぁ、ケータイなもので、スクロールではなく、クリックして画面転換をしていくとともに、デジタルならではの見せ方をするマンガとして、「クリックコミック」略して、「クリコミ」と名付け制作した。
だが、そのとき、出版社など周りから言われたのが、「マンガは本で読むもの、ケータイでマンガを読む時代が来たら、東京中、素っ裸で逆立ちして歩いてやるよ」だった。

それからスマートフォンが生まれ、マンガどころか、この地球上のモノと繋がる、コントローラーとしてのケータイ(スマートフォン)の今がある。
まぁ、マンガをケータイ(スマートフォン)で読む人の方が紙媒体より間違いなく多くなったのだから、あのときの編集者には、ぜひとも東京中、素っ裸で逆立ちして歩いてもらいたいものだ。

SONY DSC

マンガは紙媒体で読むものから、本の他にタブレット、スマートフォンで読むだけではなくなった。
今、進めている、那須の観光地をキャラクターがARシステムで案内し、キャラクターと空間の中で遊べる、この取り組みも、ぼくにとっては間違いなくマンガだ。

作家のアンソニー・ロビンズがこう言っている。
「世の中の常識にとらわれると、それがあたかも自分の信念で有るかのように誤解してしまう」
「多くの人が不可能と言えば、それを真実と思い込んでしまう。すると実際には壁を乗り越える力があっても、実力を発揮できない」
「ところが、誰かがそれを実現すると、先入観が取り払われると、不可能という信念が、可能という信念に変わり、人々の連鎖的な行動につながっていくのだ」

まったくその通りだと思う。

SONY DSC

2017年のこの1年で、本当に「常識」が大きく変わり、人々は連鎖的にその新しい「常識」を受け入れた年だったと思う。

IoTが当たり前のようになり、それがAIと繋がり、スマートフォンをコントローラーにAIが生活の中で、何の不自然もなく使われはじめている。
AIが急速に“成長”しているのは、間違いなく画像認識ができるようになった、ディープラーニングであるし、3Dゲームなどで使われているGPU(Graphics Processing Unit)との組み合わせで、自動運転を中心にAIの可能性がどんどんと広がっている。

2018年は間違いなく「AI」の年になると思う。
それも「画像認識」というのが大きなキーワードだ。
そしてマンガというキーワード。

大学という場所にいるおかげで、他の大学の研究者たちとアートとサイエンスで共同研究が動き始めている。

最近も、「常識」では考えられないシステムを開発、研究している研究者のことを知り、さっそく連絡を取らせてもらった。
来年早々にも会って、そのシステムを使っての、マンガの可能性について話し合いたいと思っている。
アイデアはすでにある。

表現者にとって面白い時代だということは間違いない。
それだけに、「新しい常識」をどこまで形にしていけるか。

まぁ、2018年も「やることがいっぱいある」ということだけは、間違いないということだ。

SONY DSC

※本文とは関係ないが、年末の心穏やかにで、石仏の写真を載せておきます。

自然の中で生きる心を生み出していくということ

2017年11月30日

もう12月というのにだ。
2017年もあと一ヶ月だというのに、今年中に形にしなければならないゼミで受けている仕事が5本も残っている。
東京には間違いなく2週間近くは戻ることはできなく、とにかく大学の研究室で寝泊まりして目の前のひとつひとつを形にしていかなければならない。
きっと、大学のゼミでこれほど仕事としてコンテンツの依頼を受け、制作している日本中の大学のゼミでは、まずないはずだと思う。

大学での制作の他にもスケジュールを見ると、とにかく土日もなくビッシリと詰まっている状態だ。

最近、「情熱大陸」で、筑波大学の助教でメディアアーチストの落合陽一の生き方を見て、いやいや研究をコンテンツ化できるアーチストは、猪子 寿之氏にしても、真鍋 大度氏にしても、みんな1日24時間という、だれにも与えられた時間の中で、人の何倍ものスケジュールをこなしている。
でなければ、どんどんと新しいものが生まれてくる、まさにムーアの法則の中で生きている、メディアアーチストは凝縮された「濃い」時間の中でなければ生き抜けないのかもしれない。

こんな状態なもので、11月の初めに記者会見し、本格的に動き出した那須観光協会とのプロジェクトのことを日記やブログに書けないまま11月が終わろうとしている。

なので書いておくとする。

 

 

11月6日に新聞、テレビなどメディアに集まってもらって那須観光協会との「プロジェクト9b」始動の記者会見を行い、新聞、テレビのニュースなどで大きく取り上げてもらった。

「プロジェクト9b」とは、那須を舞台に、那須に伝わる「九尾狐」を中心に、那須の大自然の中で、デジタル技術を使い、自然を壊すことなく、九尾狐のキャラクターたちが、この大自然に住み、そこを訪れる人たちに、その動物たちの住む自然の物語の中で楽しんでもらう世界を創るという膨大な構想だ。

アートディレクターには、「ゼルダの伝説」のマンガを中心に世界で活躍し、アニマルアートに関してはトップアーティストの姫川明輝先生をアートディレクターに迎え、すでにここに発表している九尾狐のなど、世界中を驚かせるための制作に入っている。

姫川先生は、今回のプロジェクト、仕事として依頼されてキャラクターたちを描くのではなく、この那須の地で制作し、その自然の中で、作るではなく、この地からキャラクターを「生み出す」といった制作をしていく。
間違いなく本物が生み出されてくるはずだ。

SONY DSC
SONY DSC
SONY DSC

その生まれたキャラクターたちを自然にときはなすシステムとしては、まずはモーションとARで、スマートフォンを使って、キャラクターたちが自然を案内したり、いっしょに写真を撮ったり、キャラクターたちの言語に関しても、日本語、英語、中国語対応するといったシステムはすでにできている。

同時進行で研究機関である大学という研究プロジェクトで、新たなシステムの開発も理工系の大学と組んで進めて行くつもりだ。

まぁ、アイデアはとにかく山ほどある。
そのアイデアを形にしていくための資金ももちろん必要だ。

だが、その資金であるお金に縛られないでやるしかないと思っている。
お金に縛られるというのは、たとえば一億円の資金が必要だとする。
そこで、一億円など無理だとあきらめる人が、「お金に縛られている人」だと思っている。

自分が実現しようとするものに対して、たとえ10億必要だとしても、その10億をどのように集めるか、あきらめないで知恵を絞り、クラウドファンディングなど、ありとあらゆる方法を模索し、実現のためにとことん生きて行く、それが「お金に縛られていない人」だと思っている。

自然を破壊しないで、その自然の中で生きる心を生み出していく。
20代、30代のとき、沖縄で感じ、40代では、西伊豆の自然と御蔵島の野生のイルカと泳いだことで感じ、そして大学に来てからはこの栃木でつねに感じ、思っていることだ。

つまりは、ずっと思い続けていた「夢」が、形として動き出したということではないか。

考えてみれば、冒頭で書いた今年中に形にしなければならない仕事もすべて、大学のある栃木という地において生み出そうとしている仕事ばかりだ。

おっと、今、メールを開くと、NHKと制作した「動く絵本」のムービーデータが送られて来ている。
今週の日曜日、12月3日にまずNHKのイベントで発表される、ゼミ生と制作した仕事が形となったというわけだ。

今から珈琲を飲みながら、そのムービーを見ることにするか…
楽しみだ。

空手家、佐久本嗣男先生の言葉

2017年10月30日

「別に空手でなくとも、鍛錬が人間を創るものです。困難の山をどこから上っても、どの尾根を歩いていっても、行き着くところは同じです。山の頂点に立ったときに見る月というものは、同じ綺麗な月ですよ」
「だからお互いがね、相手の生き方を認め合う。それができない人間は生き方を語れないということです」

空手の「形」で世界選手権3連覇。ワールドゲームス2連覇。ワールドカップ2連覇と、1985年から1989年までに開催された国際大会をすべて制した(この記録はギネスでも認定されている)高才の空手家、佐久本嗣男先生の言葉である。
13年前に佐久本先生のことを書かせてもらい、その本の中でこの言葉は紹介させてもらっている。

現在、佐久本先生は、2020年の東京オリンピックで一番金メダルに近いと言われている、空手の「形」の喜友名諒選手を育て、また、沖縄県立芸術大学第6代学長でもある。

その佐久本先生の言葉を突然思い出し、13年前に書いた本を読み返し、そしてゼミ生に毎週送っているメールを今、書き終えたところだ。

メールにはこう書いた。

“今、みんなは大学という、いろいろな経験ができる場所にいます。
そのいろいろな経験と本気で向き合えば、曲がりくねって大変な道を登っていくことになると思います。
簡単に手に入る道は、最短距離の直線です。
でも考えてください。
挫折を繰り返すことで曲がりくねった道を、いくつもの経験と苦難とともに登っているものは、たとえ滑り落ちたとしても、一気に落ちていくことはありません。
また、止まったところから、経験を持ってもう一度登りはじめればいいだけです。
ですが、簡単に手に入れられる、直線の最短距離は、たった一歩踏み外しただけで、下まで滑り落ちて、すべてが終わってしまいます。

人生とはそういうものだと思います。
楽(らく)ではなく、楽しく生きたいのならば、それはすべての経験と本気で向き合うことだと田中は思います。”

この文章を書きはじめたとき、佐久本先生の言う「鍛錬」を「経験」という言葉に変えて、考え、学生に向けて出てきた言葉だ。

困難の山では何度も、その崖を登るときに挫折は必ずあるものだ。
だが、何度も何度も挫折しながらも諦めないで上りつづけた人間が、その頂上にたどり着く。
それは職業ではない。
生き方だ。
空手家、野球選手、マンガ家、サラリーマンだってすべて同じだと思う。
すべての経験と本気で向き合い、本気でぶっかり頂点に立ったとき見る月は、だれもが同じ綺麗な月を見ることができる。

そして、佐久本先生の言った、相手の生き方を認め合うことで、人は初めて生き方を語れる者となる。

たしかにそういうことだ。

研究機関であるべく大学としての道

2017年9月30日

NHKでやっていた、秋元康の“100年インタビュー”を見ていたら、今、同時に進めている仕事は100以上だと言っていた。
ぼくが今、抱えている同時に進めている仕事は25弱で、けっこうきついく、「もう60歳だし」と、疲れを年齢のせいにして、病院に行くことも多くなり、睡眠時間も4時間では厳しいと感じ始めていたとき、この秋元康の100以上の仕事を同時に抱えているという言葉。
秋元康とは年齢もさして変わらないもので、こういった同年代のがんばっている情報は実に力が湧いてくる。
がんばらなきゃ!

そんな仕事の中で、NHKと大学とアイディで制作した「トライ~難病ALSと向き合って~」の、モーションドラマがNHK総合テレビの全国放送で放映されることになった。
10月7日(土)午後3時5分~
http://www.nhk.or.jp/utsunomiya/tochilove/try/index.html

 

このドラマはNHKのラジオドラマから始まっている。
ラジオを生き返らせるためにどうするか、数年前にNHKのディレクターと話していて、「今からはラジオはスマートフォンで聞く時代になる」
つまりは「声」だけではなく、「動画」も使えるラジオ番組になるということだ。
そこで問題なのが、やはり制作費となる。
そこで、アニメの10分の一ほどの制作費で制作できるとともに、作家の原画をそのまま動かせる技術と表現なわけだから、まだまだ新しい大きな可能性があると、この作品が生まれていった経緯がある。
そう、「ラジオ革命」が制作にあたっての根底にある作品だ。
つまりは、NHKと組んで「実験」をさせてもらったモーションドラマなので、ぜひ見てもらえればと思っている。

もうひとつロードレースチーム「那須ブラーゼン」の九尾の狐をモチーフにしたキャラクター、「風孤(ふうこ)」が、スマートフォンやタブレットで止まった絵がモーションで動き出すプロモーションを、ARシステムで制作した。
自分のスマートフォンで見てもらえれば、けっこう楽しいと思う。
風孤のキャラクターは、現在、那須のプロジェクトを進めている「姫川明輝先生」のデザインで、これが本当にいいのだ。

【ARシステムで見るための無料ダウンロード】
“スマートフォンのアプリ、App Storeか、Google Playで「COCOAR」で検索し、無料のCOCOARのアプリをダウンロードしてください。
そのアプリを開いて、風孤のマーカーとなっている、ここに載っている風孤の絵に向けてもらえれば認識しスキャンします。
するとスマートフォンの中でキャラクターの一枚絵でしかなかった風孤が自己紹介を始めます。”
ぜひ一度遊びで試してください。

このARシステムを使ってのキャラクター制作は、GPSやビーコンを使っての、キャラクターが街を案内するといった大きなプロジェクトが動いているので、今年中には記者会見する予定で進んでいます。

ここのところブログでは、「大学の意味」について書いてきた。
今の時代の先端で、研究しコンテンツを創っていると、世界において大学がいかに必要になってくるか見えてくる。
とはいえ、今の、日本の高校の延長のような「勉強」できるための大学はまったく必要ない。

高校までは「答え」のある勉強をしてきたと思う。
「答え」があるということは、システムができているということであり、システムというのは機械化されていくことになる。

大学というところは本来、「研究機関」として勉強ではなく研究を通して「スペシャリスト」になるために、専門の大学に来ているはずだ。
卒業するときに、大学で研究し、学んだ「スペシャリスト」としてのスキルを持って、スペシャリストとして就職するなり、企業するなり、フリーとして生きるなりでなければ、まず生きていけない時代になったということだ。

大学を卒業して、大学で得たスキルとはまったく違う場所に就職したとしても、大学で研究してきたはずのスキルを持たずに働ける場所というのは、つまりは作業的な仕事が多くしめてくる。
つまりはスキルを持たなくても働けるという場所ということだ。

考えてもらいたい。
人間は「便利」に生きるために、作業的な仕事は「機械にできないか」と、「人間が便利に生きるため」につねに道具を生み出してきた。

たとえばモノを書いてきたぼくなど、一昔は、作品を制作にあたって、また、取材するにあたっての情報を得るために、図書館を渡り歩き、本屋、古本屋と、とにかく数日、長いときは一ヶ月、資料の情報を得るために時間を費やしてきた。
だが、今は検索すればすべての情報が手に入る。
1時間もあれば、制作、取材前の情報はすべて手に入る、実に便利な時代である。

検索というキーワードが出たので、最近しらべた、この地球上の情報量について書いておく。

2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算している。
そして、2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量を追い抜いてしまったというのだ。
つまりはコンピュータ、インターネットというものが、世界を変えていっているということなのだが、その情報の加速はだれもが肌で感じていると思う。

それでは、今の2017年は、ピーター・ライマンが、1999年末までに人類が30万年かけて蓄積してきた情報の何倍の情報になっているのか、計算してみることにした。

「シンギュラリティ」という新時代を唱えている、未来学者のレイ・カールワイツの、シンギュラリティの定義を支えている概念、「指数関数的な成長」。
そしてインテルの「ゴードン・ムーア名誉会長が1965年に予測した、半導体の集積度」の「ムーアの法則」は、どちらも「18か月(=1.5年)ごとに倍になる」という法則を唱えている。
つまり、この法則で情報量を考えると、1999年までに生まれた30万年の情報量の、今は122880倍の情報量がこの世界に存在していることになる。

たしかに、個人で考えたとき、自分のPC、HD、クラウド、スマートフォンの中に入れてあるデータはこの10年でどれぐらいの量となっているのか…

そういう時代にぼくたちは生きているということである。
すべての成長が「18か月(=1.5年)ごとに倍になる」という、指数関数的に動いている時代である。
そう考えると、ソーラーなど自然エネルギーは現在、たった0.5%のエネルギーの供給源でしかないが、指数関数的成長で考えれば、2026年までには96%が自然エネルギーで賄えることだって可能な数字になってくる。

成長とは研究と考えることができる。
つまり大学は時代を動かす研究機関でなければならない。

それは大学はスペシャリストを育てる研究機関としてでなければ、大学の存在自体も必要のないものになってしまうということである。

でもそうやって考えると、研究機関であるべく大学としての道は実におもしろい。

研究室で過ぎた夏

2017年8月30日

あぁ、夏が終わろうとしている。
十代のころから、旅に出なかった「夏」ははじめてかもしれない。

ほとんどの時間を大学の研究室を中心に、今抱えている20は超えるプロジェクトや、学生と進めている仕事と制作。
帝京大学理工学部との共同で、マンガとプログラミングを合わせた「デジタルマンガ制作演習」という実技の授業を、帝京大学の佐々木先生と立ちあげこの夏休みに行ってきた。

こういっては何だが、大学が夏休みに入ってからが、大学で大学としての「研究」の日々が流れている。
だいたい大学は学校ではなく研究機関なわけだから、実技、制作などは「研究」でなければならないと思っている。
だが大学の現状は、どう見ても専門学校と変わらないことをやっているし、マンガの大学で研究することが、既存の雑誌にデビューしてプロのマンガ家になるためなど、やはりどう考えてもおかしなことだ。

だいたい、既存の雑誌でプロになりたいのなら、大学など来る必要などどういった意味があるのだろうか?
そもそもマンガ家になりたいから大学へ来るということ事態、大学の意味を考えて入学してきているのだろうか?

いつも言っていることなのだが、入学金と授業料に払うお金があれば、2年間、世界中をバックパッカーとして旅をすることができる。
今の時代ならば、タブレットPCを持って、世界中を旅して、その旅先でその地で経験したことをマンガに描き、SNSでも使って世界中に配信していけば、それだけで作家として希有な存在になれるし、マンガ家としての他の作家が持てない「武器」だって持てるというものだ。

それに、2年間世界をバックパッカーすれば、2~3度は死を覚悟する目にも遭うだろうから、人間的にも間違いなく強くなれるということだ。

そう、2年間バックパッカーで世界を歩けば、大学へ行くより、たとえマンガ家になれなかったとしても、自分のやりたいことで生きて行ける強いチカラを身につけられるということだ。

最近読んだ本に、ニューヨーク州立大学バッファロー校の心理学者マーク・D・シーリーの研究のことが書いてあった。

「多くの人は人生に逆境などない方がいいと思っているでしょうが、あまり逆境を経験したことのない人たちは、ある程度つらい経験のあるひとたちに比べて、幸福感が低く、健康状態が劣っていました。そればかりか、過去に逆境を経験すた数がゼロのひとたちは、逆境を経験した数が平均的だったひとたちに比べて、人生に対する満足度がはるかに低かったのです」

考えてみればあたりまえのことである。
簡単に手に入るものを手に入れたとしても、まず達成感などありえない。
だが、いくつもの壁を、日々、何度も挫折しながら、それでも藻掻き、必死に限界までがんばり、そして手に入れたものは、体中から叫びが上がるほどの達成感があるはずだ。
それが人生にたいする満足度というののだ。

スポーツを見ればわかりやすいかもしれない。
高校野球で全国制覇した、スタンドで応援する部員も含め、選手たちの達成感は、喜びは、満足度はどれほどのものだと思えるし、オリンピックの金メダル。ボクシングなどで世界チャンピオンになった瞬間の達成感も同じだ。

何のために生きてきたか、生きてきたことの幸福感は、まさに逆境を乗り越えてきたからこそ生まれる幸福感だと思う。

今、大学を変えたいと思っている。
つまりはつまらないから変えたいと思っているというわけだ。

イノベーションの起こせない大学などまったくつまらない。
つまりは「研究」ではなく「勉強」を教えているしかない、高校の延長の「学校」でしかない今の大学。みんなこんな大学でいいと思っているのだろうか。

ふたつほど前のこのブログに、今の時代に大学はどうあるべきかといった考えを書いてあるので、興味のある人は読んでもらえれば、ぼくの今からの大学に対する考えがわかると思う。

今、このブログを大学の研究室で書いているのだが、まず、他の研究室の先生たちは夏休みで大学に来ることがないので、大学すべてが実に静かだ。
実に仕事が捗る。
だがそれでいいのだろうか…

ぼくの研究室だけは、企業の人たち、行政のひとたち、メディアの人たちなどなど、今進めているプロジェクトを中心に、毎日いろんな人たちが尋ねてきて打ち合わせをやっている。
イノベーションを起こすための打ち合わせで、自分の研究室だけが頻繁に人の出入りが激しい場所となっている。

イノベーションを起こすということは絵空事ではないので、もちろんお金のことを含めて毎日が逆境ではあるのだが、ひとつひとつ大学の研究の中でコンテンツを生み出すことができているのは、逆境だからこそ、ある意味、このだれもいない大学で一番、満足度の大きい幸せをかんじているのかもしれない。

そう思って、とにかくひとつ、ひとつ形にする。
イノベーションは形にしなければはじまらないのだ。

SONY DSC

 

多動力

2017年7月31日

ホリエモンの「多動力」を読んで思った。
多動力とは、ひとつの仕事をコツコツとやる時代は終わったと、つまりは、ひとつの肩書きだけでなく、いくつもの肩書きをもつことで、人はその肩書きの数だけ自分の価値が上がっていくということだ。
ひとつのことに一万時間取り組めば、100人の一人の人材になれると言われている。
そして別の分野でまた一万時間とりくめば、100人にひとり×100人にひとり、つまり一万人にひとりの人材になれるということになる。
もうひとつ新しい分野に取り組めば、また×100になれるわけだから、3つの分野で一万時間以上取り組んだスペシャリストになれば100万人にひとりの人材。
どんどんとオンリーワンの人材に近づいていくというわけだ。

そういう意味では、考えてみれば、ぼくの場合は40年以上前から「多動力」で生きてきたことになる。
17歳でマンガで賞をもらい、18歳でプロのミュージシャンとして事務所に入り、30歳のときには、マンガ家・イラストレーター・マンガ原作者・作家・ノンフィクション作家・コラム、エッセイ作家、フォトグラファーなどなど、プロという肩書きを持って仕事をさせてもらっている。

ボクシング、サッカー、野球、格闘技、武術とスポーツがその書く、描く、撮る対象だったもので、その頃の名刺の肩書きには「イラスポライター」と書いていた。
つまり、イラスト・スポーツ・ライターの略なのだが、そんなネーミングを勝手に作ってフリーで仕事をやらせてもらっていたというわけだ。

まぁ、そのころは、ひとつの仕事だけを貫くというのが日本では「美学」とされていたし、「二足わらじ」といって、ふたつの職名を持つことは、真剣に仕事に取り組んでいないといった見方をされていた。
つまり「ついで」といった仕事のとらわれ方だ。

だからあの頃、いつも考えていたことがある。
一流紙といわれる少年ジャンプ・サンデー・マガジンでマンガを連載し、週刊プレイボーイ、月刊プレイボーイ、Nunberなどでは、写真、イラスト、文章を単独でも掲載する。
「ついで」ではぜったいに載ることのない場所で勝負するということだ。

無名の新人が一流紙で掲載や連載をするとなると、当たり前だが、レベルはもちろんのこと、だれもが読みたい、見たいとい思う、自分にしか描けない、書けない、撮れないものを創るしかないと思ったわけである。

つまり、画力、文章力、技術力で勝負しても、名前のあるプロに代わって掲載できることなど、並大抵のことではないことはわかっている。

そこで考えたのが、今、雑誌で掲載しているプロに勝つには自分には、勝てるための「何があるか」である。
当たり前だが、名前のあるプロはいくつもの連載を抱え、毎週〆切に追われているはずだ。
ということは、プロに勝つ武器は「時間」ではないかと思ったのだ。

当時、沢木耕太郎の「一瞬の夏」というノンフィクションが好きで、自分もこういったものを書いてみたいと思っていたときだ。
「一瞬の夏」は、カシアス内藤というボクサーが、1978年10月に4年のブランクから復帰し、1979年8月に韓国のソウルに乗り込んで朴鍾八との東洋ミドル級王座決定戦に挑むもKO負けをするまでの一年間、ほぼ、そのすべての時間で密着といった取材で書かれたそれまでになかったノンフィクション作品である。

この、人にはできないほぼ毎日見続けるという取材は魅力があったし、実際、最低限のイラストの仕事をしながら、残りの時間はすべて取材相手の写真を撮り、毎日を見続ける時間だけに生きる日々が24歳からはじまった。
実際、ここまで何年といった「時間」の中で描く、書く、撮ることをやっていた創り手はまずいなかったと思う。

その「密着」取材で、浜田剛史は世界チャンピオンになり、高校野球で追いかけた天理高校は甲子園で優勝し、他にも、興味を持ったスポーツ選手を何年も密着して、長い「時間」の中で作品を創っていった。

それはスポーツ選手を書くというより、「濃密な人間の生き様を書く」という、自分にしか書けない人間の関係の中で創れた作品の数々だったと思っている。

そう考えると、「多重力」とは、ひとつのテーマの中でそれぞれの「顔」が生まれてくるものかもしれない。

表現にはいくつもの顔があり、「マンガ」で見せたいもの、「文章」で見せたいもの、「写真」で見せたいもの、それぞれの顔を創り手というのは持っているはずである。

そのひとつひとつの取り組みを本気で取り組めば、当たり前だが、それぞれが一万時間は遙かに超えた表現となっていく。

今、大学教授、メディア・アート・アーチスト、プロデューサーといったものが多動力に加わってきている。
そして18歳のころ、プロとしてやっていた音楽も、今のデジタル作品の表現の中で、自分で曲をつくり、演奏して生きている。
そう、メディア・アート・アーチストとしての大きな武器となっているのだ。

人生はだれもが「多動力」だと思う。

スティーブ・ジョブズが2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行った伝説のスピーチの中で言っている言葉がある。

「将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです」
「だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない」
「運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います」

本気でやってきたひとつひとつの点は、あとからつなぎ合わされ、そして人生のどこかで実を結ぶ。

「多動力」とは、そういうことだと思う。

 

時代は変わる

2017年6月28日

大学という場所に来るようになって10年が過ぎている。

そう、10年は一昔。
時代は変わっている。
時代が変われば、大学もかわらなければならない。

この10年、ずっと考えてきていることがある。
大学でマンガを教えるとはどういうことか…
この10年間、こんな質問を大学・専門学校でマンガを教えるいろいろな先生たちにに尋ねてきた。
「大学でマンガを教えることと、専門学校でマンガを教えることの違いは何ですか?」

納得する答えは得られたことがない。
そもそもマンガ家になるのなら、大学へ来ること自体が違うと思っている。
大学に来たからといってマンガ家に必ずなれるものでなければ、マンガを学ぶための入学金、授業料があれば2年間、世界中をバックパッカーとして旅をすることができる。
その経験を積む方が、大学へ来るより遙かに作家として有意義な時間を過ごすことができる。
ならば大学でマンガを学ぶとは「何」なのだろうか。
10年前から言ってきたことがある。
「大学でマンガを学ぶということは、マンガ家になるのではなく、マンガで生きるためである」

そう言っても、「マンガで生きるとは何だ?」とつねに「何言ってるんだ」と関係者からは思われてきた。

大学でマンガで生きるとは、つまりは「マンガの可能性の研究」である。
マンガという「心」を生み出すキャラクターには、無限のコンテンツとしての可能性がある。そのコンテンツを生み出す研究こそが、マンガで生きるということではないかと、そう考え実行してきた。
そう、新しい無限の可能性が生まれてきているデジタルという世界でとことん勉強し、研究し、制作してきた。

15年前からケータイでマンガを読ませるためのオリジナルのシステムを日本で初めて研究し、メディア芸術祭で賞もいただいた。
3Dマンガのソフトも帝京大学理工学部の佐々木先生と研究し、制作し、サイエンス研究で受賞もさせてもらった。
ここ5年ほどはモーションマンガの研究とともに、ioT、AR、VR、AI、プロジェクションマッピングなどなど、マンガを使っての新しい研究とともに制作をつづけている。

ioTなど、4年ほど前など、どこでそういったシステムの話をしても、「何言ってるんだ」とまず、その意味すらわからない人たちばかりで、まったく相手にされなかったが、時代というものはおもしろいものである。
時代がまさにioT、AR、VR、AIが注目される時代になってきたのだ。
大学でやってきていたことが、やっと時代が追いついてきたというのが正直な感想だ。

だが、だがである。大学で走り続けて、その大学を振り返ると、最前線でイノベーションを起こさなければならない大学が、実は時代にとり残されつつあるではないか…

その大学を考える上で、今の時代がどういう時代に変わって行っているか…
大学事態がまずわかっていない。
今の時代に、大学という研究機関は対応できているか、まずそこから考える必用があるので、まずそのことから書いておく。

イギリス、オックスフォード大学のマイケル・オズボーン准教授は、10~20年の間に、アメリカの総雇用者の47%の仕事が機械に代替されると予測している。

それは今までの産業革命のように、「作業」を機械化化することで、労働者の職が奪われるというのとは少し違う。
AI(人工知能)の進歩によって、たとえば、2016年5月、アメリカの大手法律事務所「Baker&Hostetler」が、世界初となるAI弁護士「ROSS(ロス)」を採用したことが話題になっている。
このAI弁護士は、主に破産に関する法律のアドバイスを補い、何か質問すると人間では読み切れないほど大量の法律文書や参考文献を読み込み、最適な回答を導き出す。
質問するほどに習熟度が高まるため、さらに最適な回答が得られるようになる仕組みになっている。
これはAIによって、機械が「生産の手段」から、「生産の主力」に成り代わる時代になったということなのだ。

そうなれば、この先、どんな仕事が生まれるのか。
まず踏まえておかなければならないのは、今からの時代、AIやロボットを使う側の仕事と、使われる側の仕事が生まれるということである。

使う側とは、AIやロボットを道具のように扱ってイノベーションを起こす仕事であり、使われる側とは、AIやロボットに命じられるままに働かされる仕事だということだ。

この「AIやロボットを道具のように扱ってイノベーションを起こす」というところに、これからの大学の向かう方向が見えてくるのではないだろうか。

前に書いたように弁護士のような職業は、AIによって、人を必要とされない時代がやってくる。
大学で経済学や法律などを学んでも、経済学者や弁護士など、すでにある仕組みやルールに関することを仕事にする人は、ほんのわずかしか必要なくなってしまう。
そうなると、大学の法学部、経済学部で何を学べばいいか、どういった人材を育てなければならないか、根本から考える必要がる。

それは経済学・法律だけではなく、すべての大学で考えなければならない課題だということだ。
「知る」の認識はネットによって大きく変わってしまった。
Googleなど検索機能によって、スマートフォンひとつでほとんどのことを「知る」ことができてしまう。

「学ぶ」にても「ムーク」(大学講師陣による無料のオンライン講座)ばど、無料のオンライン講座がネット上で行われている。
ムークを利用すると、スタンフォード大学やハーバード大学、東京大学などの講座が無料で見られ、宿題やテストをクリアすると修了証も得ることができる、そういったシステムだ。

そういったことを考えると、必要とされる大学、つまり生き残ることのできる大学というのはどういった大学なのか、時代の流れの中で絞られてくる。

そのための核となるのは、大学本来の「研究機関」における「研究」となってくる。
イノベーションを起こせる研究ができる大学のみが生き残れる大学だということだ。
そのイノベーションが新しい仕事を生み、イノベーションを起こした大学で、研究とともに、その仕事の人材を育てていくという形を創っていくというシステム。

そのイノベーションを世界中から日本のブランド、マンガで起こせると考えている。

少し頭を働かせて考えてほしい。
今、時代を動かしているのは、Googleであり、Appleだということはだれもが感じているはずだ。
ではGoogle、Appleとは何なのか。

答えは一口で言えば「研究機関」である。

そう、大学と同じ研究機関なのだ。
では、大学とGoogle、Appleの根本の違いは何なのか。
Google、Appleは研究はコンテンツと結びついている。
コンテンツを生み出すための研究である。
そう考えればこれからの大学のあり方が見えてくるはずだ。

大学も研究機関でありコンテンツを生み出す機関にならなければならないとぼくは思っている。
つまり、大学の研究機関にプラットホームを創ることがまず必要である。
つまり発信していくための研究機関であり、コンテンツを発信する場所としてのプラットホームだ。

マンガはすべての研究をコンテンツ化することのできる、「心」を生み出すことのできるキャラクターという力を持っている。

今、医学、音楽、介護など、そういった方面にも研究の場を創りたいと考えているし、アイデアはいくつもある。
少し熱くなっていろいろ書きすぎてしまったが、つまりはそういうことだ。

まぁ、とにかく、そう、とにかく、やりたいことが山のようにあるということで、まだまだがんばって生きなければ!ということである。

イノベーション

2017年5月31日

あぁ、前回の日記を書いてからもう一ヶ月が過ぎてしまっている。
それも今日、書かなければ2017年の5月に日記を書かなかったことになってしまう。
2005年からHPをつくり、最低でも一ヶ月に一度は日記を書くと決めて12年間それを守ってきた。
12年間つづけてきたもので、今日の「今」書かなければ、12年間がんばった自分に負けた気がするもので、いくつもの〆切を抱えていながらも、その合間にこの日記を書いているのだ。

まず書いておかなければならないのは、6月9日(金)夜7:30~8:33分 NHK総合テレビ(栃木県域)で「トライ ~難病ALSと向き合って~」が放映される。
10月には全国放送の予定だ。

アニメではなく、一枚絵を動かし創ったモーションでの、番組としてのTV放映は世界初だと思う。
それとともに、NHKの1時間番組を、ひとつの大学、文星芸術大学の田中ゼミの在校生、卒業生で制作するなど、東京大学だってできないことをやったと思っている。

この作品は実は実験としての要素を持った番組で、ラジオドラマをモーション化したものである。
つまり、今の時代、ラジオもスマートフォンで聞く時代なわけで、ラジオの可能性についての、ある意味、視聴者への提案だとも思っている。

http://www.nhk.or.jp/utsunomiya/tochilove/try/index.html
「トライ ~難病ALSと向き合って~」

まぁ、その他にも恐ろしい数のいくつものプロジェクトを抱えていて、もう、今年いっぱいのスケジュールが真っ黒になっている状況なのだ。
とはいえ、それが苦痛というわけではない。
毎日、毎日、山ほどの仕事の〆切と打ち合わせに追われているのだが、けっこうワクワクしている。

大学を研究機関と考え、マンガでイノベーションを起こすと決めてから、研究所だけでも「ちばてつやMANGAイノベーション研究所」「T&B(帝京・文星)ラボ」と2つ立ちあげ、ioT,AI,AR,VRなどなど、マンガとサイエンスで産学民でいくつもの制作に取り組んでいる。

あいかわらず、まだまだ発表できないことがたくさんあるのだが、大学という研究機関をつなぎ、もっともっと大きな研究に取り組むべきプロジェクトも動いている。
つまりは、詳しく書けないことばかりの多い研究の中で、いくつものイノベーションな制作をしているということだ。

うむうむ…
日記を書こうと書き始めたというのに、単なる近況報告になってしまった。