Photo video

ぼくがアーティストとしてアナログで創作してきた1970、1980年代は「生産の時代」と言われてきた。

そして1995年、Windows95が発売された年から、「情報の時代」となった。
GAFAMが時代を創り、だれもがスマートフォンを持つようになっていった。ぼくも1995年にPower Macを買いデジタルでの創作に移行していった。

そしてAIの時代である今は、Google DeepMindの主任研究者、デービッド・シルバー氏の掲げた「経験の時代」と呼ばれるようになっている。
AIが自らの経験から学ぶ新たなAI研究に入っているというわけだ。

だが、「経験」とは何か。
広辞苑には「人間と外界との相互作用の過程を、人間の側から見ていう語」と書かれている。
つまり「自分が身をもって経験すること」なのだが、その経験には、ただ自分が体験するだけではなく、「人」との関わりが人間の経験には一番重要だと思っている。

自分を振り返ったとき、ぼくの創作は「人との関わりの中」から生まれてきたものばかりだ。

これからの時代、AIが自ら経験することが「経験の時代」ではなく、「人との関わりの中」から生まれてきたもこそが「経験の時代」であり、AI時代における「人間として生きる経験の時代」だと思っている。

マンガDX研究者としてAI研究は10年以上前からやってきているが、AIを研究すればするほど、自分のやってきた制作はAIではなく、自分にしかできない「人間として生きる」創作だと感じている。

「あしたのジョー」から始まったぼくの旅は矢吹ジョーを探す旅だったのかもしれない。知りたくてカメラを手に追いかけた何人ものボクサーたち。
ボクサーだけではない。

「燃えたよ……真っ白に……燃え尽きた」

そういった生き方を選んだ人たちを追いかけ、ぼくはシャッターを切ってきた。

ぼくの旅を振り返る。
ぼくだけの経験である旅の足跡。
「旅の空」をPhoto videoにして振り返る。

 

 

旅の空Ⅵ アメリカの拳

1985年、後に伝説となったマービン・ハグラーvsトーマス・ハーンズ戦から、何度かラスベガスにスーパーファイトの取材に向かった。 ロベルト・デュラン、シュガーレイレナードの闘いは、まさにアメリカの拳 そしてフイルムに残された旅の彷徨

 

旅の空 Ⅶ Owada Masaharu

ボクシングを始めたのは「金を稼いでばあちゃんに家を建ててやりたい」からだとマサは答えた。ぼくはそれを「きれい事」のように捉えたことを恥じた。
マサの育ったアパートは古く壊れそうなアパートで、その四畳半に、5人で生活し生きてきた。この場所で生きてきたなら、間違いなくそう思うはずだ。
そしてボクシングで世界チャンピオンになれば、まだ会ったことも見たこともない父に出会えるかもしれない。
マサのボクシングはここから始まった。

 

旅の空Ⅷ Jackal Maruyama

ジャッカルは、青森の竜飛岬の近くで育ってきた。
青森の夏休みは短く、2週間しかない。
毎日海へ潜り、アワビやサザエを捕って遊ぶ。
海へ潜れば苦しいが、限界まで潜り遊ぶ。
水面に顔を出し、大きく息を吸い込んだ真上には真夏の太陽があった。
生きていると感じた。
ボクシングのリングは一辺が16フィート
真夏の太陽のような眩しい光の中で闘う。
ジャッカルにとってボクシングは、生きていると感じる真夏だった。
ジャッカルの生き様を書かせてもらった「16フィートの真夏」はぼくにとって至宝の一冊となっている。

 

旅の空Ⅸ Hideyuki Ohashi

大橋秀行は「150年にひとりの天才」と言われていた。
実際、メディアが取材に来ても、練習生より練習をしていない。
「あれで勝てるのだから凄い」とメディアは帰って行く。
ぼくは、その後も、選手たちも帰ったジムで大橋を見続けた。
ぼくがあまりにもジムから帰らないので、大橋は「書かないでくださいよ」としびれを切らせて練習を始める。
集中した、他のボクサーなら1Rで倒れてしまうような激しい練習だ。
天才は努力を見せない。
彼の美学だった。
だが、その美学を捨て、がむしゃらに、ただがむしゃらにその姿を晒したとき、大橋秀行は世界の頂点に立った。

 

ちばてつや先生からの幸甚の言葉

自分にとっての創作のアイデンティティは間違いなく「あしたのジョー」である。 40歳のとき書いた著作に、ちばてつや先生から贈られた言葉。 「あしたのジョー」に、自分の創作が触れることができた…そんな幸甚の言葉。

 

旅の空 Ⅹ Tsuyoshi Hamada 其の一

最初の出会いは後楽園ホールのエレベータの中だった。 左拳を骨折し、ランキングからも名前が消えていたときだった。 なぜだろうか… そのときこの男は世界チャンピオンになると、そう感じた。 次の日から、彼の所属する帝拳ジムに通う日々がつづいた。 それから2年。 彼は連続KOの日本記録とともに、世界の階段を駆け上りはじめた。

 

旅の空 XI Tsuyoshi Hamada 其の二

彼を追いかけて二年が経っていた。 世界戦が決まった。 彼がやってきた日々を思ったとき、「がんばれ」という 言葉では軽すぎると感じた。 だから彼が減量する中、ぼくもいっしょに減量した。 約束の10キロの減量ができなければ、彼の世界戦のポスターを頼まれ描いたその原稿料は受け取らない約束を課した。 彼の計量の日、ぼくもジムで計量しクリア。 そして浜田剛史は1R3分9秒KO勝利で世界を制した。

 

旅の空 XII kiyoshi

清詞と出会ったのは、彼が高校を卒業してすぐの19歳だった。 世界チャンピオンになるには、名古屋という地方で世界を目指すのは無理だと言われていた時代である。 だが清詞は名古屋で世界を目指し、そして名古屋で世界を奪取。 そして名古屋初の世界チャンピオンになった。

 

旅の空 XIII Iizumi Kenzie

世界へと駆け上がっていた飯泉健二を追いかけていた。 1989年3月、相手をKOで倒しながら網膜剥離になりリングに上がれなくなった。 それから9年。 飯泉は、それまでと同じように、毎日ロドワークで走り、ジムワークと、現役時代と同じメニューを続けていた。 1998年1月16日、飯泉はリングに戻って来た。 最後の、1試合だけのカムバック。 2回50秒TKO勝ち IBFアジアライト級王座を獲得、引退。

 

旅の空XIV kenngo fukuda

彼とは、彼が愛媛から東京に出てきた日に出会った。 三迫ジムで、会長に輪島功一選手の話を聞いていたときだった。 「強い」というのが、彼を初めて見たときの印象だ。 彼はボクが彼のことを書籍で書いたとき使った一説 「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いんだ」 その言葉が気に入り、インタビューでよく使っていた。 だが強い彼は、勝ち続けることはなかった。
いつか健吾を教えたいと願っていた名トレーナーのエディさんが言った。
「これがボクシング」

 

旅の空 XV Ozaki Fujio

静かな男だった。 彼に話しかけると、いつも静かに笑みを浮かべていねいに答えてくる。 だが、ボクサー尾崎富士雄は違った。 カメラのファインダーから見える尾崎の顔はいつも叫んでいた。 闘志が叫びとなって、その瞬間がフイルムに焼き付けられている。

 

旅の空XVI Kengo Nagashima

長嶋健吾と出会ったのは、彼はまだ8歳のときだった。 そのとき、サッカー選手になりたいと言っていた少年は、ボクサーであった父の背中を追いかけ、父の開いた地方のボクシングジムで、世界タイトルに挑むところまで駆けていった。

 

旅の空 XVII Hiroyuki Miyata

彼の所属するジムに初めて行ったのは、彼がまだ高校生のときだった。 まるで「あしたのジョー」の丹下ジムのような…いや、四角いリングのスペースさえない、狭いジムだった。 そこで彼は、高校生にして新人王を獲得。 彼の忘れない言葉がある、 「本気で闘いながら、本気で闘っていなかった」 その意味を問いただしたとき、「ぼくは人を殴れなかった」と言った。 その彼が自分のジムの会長として、世界チャンピオンを生み出している。

 

旅の空XVIII Tadashi Maruo

1985年 ロスアンゼルスのダウンタウン メインストリートジムで彼とは出会った 映画「ロッキー」の舞台でもあるこのジムから 夢を叶えるために…

 

旅の空XIX hidekazu Akai

彼に最初に会ったとき、ぼくが彼を描いたイラストを渡した。 「一番嬉しいプレゼントです」 豪快な彼の笑顔から彼の取材がはじまった。だがリングでの事故… ボクサーとしての彼を書き切れなかった無念。

 

旅の空XX Boxers

80年代、90年代はとにかくボクシングの日々だった。 「あしたのジョー」から始まったぼくのボクシングの旅は 何人もの矢吹ジョーを探す旅であり、矢吹ジョーに出会う旅だった。 勝利と敗北、喜びと無念… そこには敬虔な生き様がいくつも渦巻いていた。

 

旅の空XXI Boxing scenery

20代後半から40代と、当時のぼくのスケジュール帳は 毎日がボクシングだった。 後楽園ホールを中心とした試合会場、ボクシングジム 沖縄から北海道まで選手の育った地。 海外へもボクシングのためだけに。 生きるとは…生命力の強さとは何かを追いかけた日々だった。

 

旅の空XXII Senrima Keitoku

28歳のとき、作家、山本茂さんの新聞連載ノンフィクション小説「祖国の名を高く掲げよ」の挿絵を描かせてもらった。(後に単行本も発売) 作品の取材から同行させてもらい、そのときの経験が、ぼくの作家として歩む貴重な財産となっている。 「生きる」を書くとは何か? 山本茂さんから学んだことである。