18歳のとき、突然としてレコードを出すという話しが持ち上がった。
大学の授業で高校時代に作った曲を生まれて初めて人前で歌ったのがきっかけだった。
その授業をやっていたのが三浦久先生で、大学で英語を教えるとともに、シングル、アルバムと何枚もワーナパイオニアからレコードを出しているプロのフォークシンガーだったのだ。
その三浦先生の紹介で、先生の所属していた事務所に入ることになった。
当時事務所には、あのねのね、河島英五とホモサピエンス、タンポポ、ナック、駿河学(笑福亭鶴瓶)などが所属し、やしきたかじん、尾崎亜美も出入りしていた。
当時ぼくは少年ジャンプで賞をもらい担当編集も付いて、大学へ行くより漫画家になるべく下宿で必死に作品を描いていたときである。
覚悟のないままぼくはミュージシャンになった。
事務所に入って、いきなり九州の佐世保へ連れて行かれステージに立った。
そのときのステージは、メジャーデビューを前にした河島英五とホモサピエンスがいっしょだった。
英五さんもぼくも前座だった。
ライブにあまり興味のない客たち。
メインは「冒険者たち」という映画だ。
事務所のスーパースター「あのねのね」の主演する映画。
客はその「あのねのね」のファンたちだ。
覚悟もなくミュージシャンになってしまったぼくに、初めて出会った英五さんは黙ったままだった。
デビュー当時に使っていたギターはS.yairiYD-404と、プロになって買ったMartinD-35だ。
英五さんからはプロになるとはどういうことかを教わった気がする。
すべてが音楽で生きているという毎日。
当時ぼくが作った曲で、ステージで歌えるレベルのものは10曲もなかった状態で、英五さんは何百曲と持っていた。
その何百曲は何千曲と作った曲の中の何百曲である。
ある日、英五さんがぼくに声をかけてきた。
「かいくん」(当時、“あさもりかい”という漫画のペンネームで使っていた名を、そのままミュージシャンとしても使っていた)
「曲を創っているか?」
ぼくが「思うように曲が書けません」と言ったときだ。
「ぼくは曲を創るときは断食して、好きなコーヒーもやめる」
「自分を追い込んでいるのか?このまま曲ができなかったら死ぬ覚悟を持ってやっているのか!」
厳しい言い方だった。
「死ぬ覚悟」というのは、ミュージシャンで生きるなら、曲ができないということはミュージシャンとして死ぬことがわかっているのかということだ。
まだ音楽で生きるという実感の気薄なぼくに対して怒りを感じての言葉だった。
そして英五さんは「オレの家へ来て、合宿しながら曲を書いてみるか」とぶっきらぼうに言ってきたのである。
英五さんの創った「酒と泪と男と女」がヒットしはじめていたころのことである。
その頃に英五さんのマンションに泊まり込みで曲創りの合宿を行った。
曲創りの合宿といっても、部屋へ閉じこもってただ曲を創るというのではない。
英五さんが自分はどうやって音楽を生み出してきたかというのを黙って、日々の生き方を見せる。ただそれだけである。
英五さんはマンションから歩いて近くの瓢箪山へ向かった。
小さな森があった。
川があった。
田園があった。
そこを歩きながら、この場所でこういうことを思い、そして出てきたものがこの曲だと英五さんは大きな声でアカペラで自分の曲を歌いながら歩いていった。
曲は小手先で書けるものではない。感じてこそそこから生まれるものだと、そう教えてくれた。
そして感じて曲を生み出すということの苦しみと喜びを語ってくれた。
ぼくも瓢箪山を歩きながら英五さんに自分のことをいろいろと話した。
その話した中のひとつに、子供のころ教会へ行っていたことの話があった。
マンションに帰って英五さんは曲を書き始めた。
「かいくんにピッタリの曲ができたぞ!」
英五さんがそう言って相好をほころばせ、ぼくの前でギターを弾きながら歌い出した。
〝祈り〟と題された曲で、後に“ゴルゴダの丘”と曲名は変えられている。
合宿が終わり、英五さんのマンションを後にしようとしたときである。
「プレゼント」
英五さんはぼくに一本のカセットテープと、何か書いた数枚の用紙を差し出してきた。
「気に入った曲があったら歌ってみろ」
英五さんが自分の曲を吹き込んだカセットテープだった。
それも60曲近くも吹きこんである。
この合宿中に英五さんがテレコを前にして歌っていたのは、ぼくにこのテープを渡すためだったのだ。
そして数枚の用紙にはその曲すべての歌詞と、そしてコード進行が書かれてあった。
それを受け取り声にならなかった。
「ありがとうございます!」という言葉以上の表現方法がない・・・
だから、ただ深々と頭を下げる以外あのときのぼくにはできなかったのだ。
「がんばれよ」
ぼくの背中に向かって英五さんの声が響く。
“祈り”、“スケッチブック”、“子供ならもっと高い山に登りたがるはずさ”、“流れ星とまれ”・・・
必死になって英五さんからもらったテープを聴きながらの練習が始まった。
プロとは何か・・・
いや、英五さんがぼくに向けて投げ込んでくれた気持ちに答えることが、それがプロへとつながる道となっていく。
漫画をやりながら音楽をやるなどといった甘い考えはそのとき消えた。
この合宿によってぼくの覚悟は決まったのだ。
「裏方を手伝ってみるか?」
事務所の社長が言ってきた。
スタッフをやることによって顔を売っておく。
つまりはこういうことだった。
事務所で一番売れている「あのねのね」の現場を手伝うことによって、TV,ラジオのディレクターに顔を覚えてもらい、そうすればデビューしたときチャンスが多くなる。
ぼくもその提案には好奇心があった。
「あのねのね」は高校時代いつも深夜放送で聞いていた。
そのころ、吉田拓郎、諸口あきら、イルカ、笑福亭鶴光、そしてあのねのねのオールナイトニッポンを聞かなければ次ぎの日の高校でのクラスの話題の中へ入っていけないといった時代である。
もちろんTVでも見ていた遠い存在でしかなかった「あのねのね」。
その「あのねのね」と仕事ができるということに好奇心が沸いたことで、ぼくはその提案に乗ってしまった。
だがそのことが、覚悟を決めたはずの音楽から遠のいてしまうことになるとは思ってもみなかった。
昔のアイドルがよく当時の記憶がないと言っていることがある。
あれはアイドルだけのことではない。
そのアイドルに付いているスタッフだって記憶が飛んでいる。
「あのねのね」に付いたのは約一年である。
現場はぼくひとりだけ。
早朝から当時青山に住んでいた二人のそれぞれのマンションへ迎えに行くことから始まる。
そして一日のスケジュールを告げる。
月~金まではTV,ラジオがレギュラー中心にすべて埋まっている。
その現場はすべて付き添い、夜二人をマンションへ送り届けると、今度はTV局、ラジオ局、有線を「皿まわし」という、レコードをかけてもらうために回っていく営業。
ときに雑誌社も宣伝で回る。
深夜だろうと関係ない世界。
企画が持ち込まれると、それを持ち帰り事務所のスタッフに告げる。
つまり寝る時間もなくスケジュールをこなす「あのねのね」以上に睡眠など取れない毎日である。
土、日は全国を回るライブが入っていて、ちゃんと布団の中で寝ることができていたのはそのライブで泊まった地方のホテルだけだった。
今思い出すのは単発な記憶だけ。
いつも「おはようございます!」の挨拶。
当時のレギュラー、「うわさのチャンネル」は日本テレビに12時間拘束だったこともあって、そのときの楽屋、Hスタジオの風景は覚えている。
日本テレビのTディレクター、ニッポン放送のMディレクターの顔と声・・・
また紅白歌のベストテンの渋谷公会堂の袖で、デビューの日だったと記憶しているが、懸命にふたりで振り付けの練習をしていたピンクレディーの姿。
TV局、ラジオ局で会ってもいつも疲れた顔のキャンディーズの三人。
そういえば、ヤングoh,ohの仕事で羽田から伊丹に向かう飛行機の中で、山口百恵さんが隣に座り会話をしたこともあった。
オールナイト・ニッポンでのあのねのねの原稿を書いていたのは当時放送作家だった、後に直木賞作家の景山民夫さんで、景山さんはギターがうまく、よくふたりでニッポン放送の空いているスタジオでギターを弾いたという楽しい思い出もある。
正月、20度の沖縄でロケをやり、夜には氷点下の札幌ロケだったこともあった。
「あのねのね」のメンバー、伸郎さん、国明さんと毎日会話していたはずなのに、その会話の記憶がほとんどない。
いったいあのとき何を話していたのだろうか・・・
その時代、京都でスタッフと飲んだときに、名曲、「夢ひとついらんかね」の曲を出したばかりのやしきたかじんさんが合流し、そのときたかじんさんに言われたことがある。
「おまえアーチストのくせに何やっとんや!アーチストは裏なんて知る必要ない、そんなんスタッフの仕事や」
「アーチストなら創らんかい!ええもん創らんかい!」
突き刺さった。
もう何ヶ月も曲など創っていない・・・ギターさえもあまり弾いていなかった。
ぼくの中で英五さんからもらった曲までもが死んでいた。
武道館まででスタッフを辞めると決めた。
当時「あのねのね」は武道館公演に向けて動いていた。
外タレ以外で武道館公演をやるアーチストなど、ほとんどいなかった時代での武道館である。
すぐにでもスタッフを辞め東京を出て行きたかったが、とても武道館公演が終わるまで現場を離れられる状態ではない。
小さな事務所ゆえのスタッフの少なさ。
そのひとりであるぼくが抱えている現場の状態は半端じゃなかった。
武道館公演が終わったあと、国明さんと伸郎さんがぼくに「おまえのおかげや」という言葉をかけてくれた。
二人から感謝の礼を言われたのは一年付いて初めてのことだった。
そして「もう少し頼めないか」の社長の言葉を振り切ってぼくは東京を出て行った。
ギターさえ弾く時間のないスタッフとしての東京での毎日からとにかく逃げたかったのだ。
京都へと戻る新幹線の中で、ギター胼胝(だこ)の無くなってしまった左手の指先を見つめながら悄然とした思いで、一年前に英五さんが言った「がんばれよ」の言葉を思い出していた。
今、TVを見ていて、あの頃の思い出とともに人の運命を感じることがある。
今や大御所のタモリさんだが、ぼくが「あのねのね」に付いていた当時、事務所と日テレ、ニッポン放送がもめた事件があり、うわさのチャンネルとオールナイトニッポンを突然降板するということがあった。
そこで急遽、「あのねのね」の穴埋めとしてこの二つの番組に当時無名のタモリさんが起用され、そしてこの二つの番組でタモリさんは大ブレークをしたのだ。
もしあのときあの事件がなければ今のタモリさんはあったのだろうか・・・
また当時、原田伸郎さんに対してNHKを含め、各TV局からドラマ出演の依頼がいくつもあったのだが、本人には伝えず事務所はその出演以来をすべて断っていた。
あのとき原田伸郎さんが役者をやっていれば、その後いい役者になったように思えてならない。
京都へ戻ってきて住んだのは、一乗寺という町にあった1DKの鉄筋のアパートだった。
アパートの名は「YAMAMOTOハイツ」。
部屋の表札は「清水」となっている。
つまりこのアパートを最初に借りたのが清水国明さんで、京都はアパートを借りるときに保証金が高いため、金のなかったぼくは「清水」になりすましてその部屋へ引っ越してきたというわけである。
ぼくだけじゃない。
このアパートに「清水」として住んでいたのは、原田伸郎さん、そして駿河学(笑福亭鶴瓶)さんもいつも入り浸っていた部屋だ。また後に柳ジョージとレイニーウッドでベースを弾いていた、当時同じ事務所のミッキー・ヤマモトさんもぼくの住む前に住んでいた。
今も当時のまま一乗寺の町にあるYAMAMOTOハイツ。
ぼくはこのアパートから、今度こそミュージシャンとして生きようと決めた。
そしてぼくはツアーに出ることになった。
河島英五の全国ツアーに前座として30~40分のステージをやらせてもらえることになったのだ。
北は北海道から南は沖縄久米島までの86ケ所。
英五さんと、マネージャーのIさん、照明の大井さん、そしてぼく。音響のスタッフはトラック移動なので、4人で全国を回る旅・・・ぼくにとってミュージシャンだった日々の中で、最高の思い出として残っている旅が始まった。
「それでプロでやっていくつもりか!」
リハを終えたぼくに向かって英五さんの怒りの声だ。
原因はわかっている。
声が出ていないのだ。
一年、ほとんど声も出さず、ギターも弾いてこなかったことでボロボロになっている。 泣きたい気持ちだった。
だがステージに立つ以上、そんなことが言い訳になるはずがないこともわかっている。 だから英五さんは、ぼくの一年の日々のことをわかっていて怒っているのだ。
そして、「よかったやないか、今からは毎日歌えるだろ!」と、怒りの声の最後にそう言ってくれた。
「今日から毎日歌える」・・・つまりは毎日がミュージシャンだ。
毎日がミュージシャン、つまりプロということとはどういうことか・・・
その答えを目の前で英五さんが見せてくれる。
ほとんど毎日がコンサートの日々。
コンサートが終わればその地域のスタッフと打ち上げだが、英五さんはお礼の挨拶をすると、ほとんど酒を飲むこともなく食事だけをしてホテルの部屋へと戻っていく。
明日のコンサートのために体調を崩さないためだった。
そして朝は必ずジョギングだ。
それは毎日のステージのための体力維持である。
ツアーの日々、ステージをつねに最高の状態で挑むために生きるといった毎日を英五さんは送っている。
そのためだけに生きる。
プロとはそういうものだと英五さんは生き方で見せてくる。
ぼくも朝のジョギングに参加して、英五さんを追いかけるように走り始めた。
1ベルが鳴る。
ぼくは楽屋から出てステージへと向かう。
当時のステージには客席との間に緞帳があり、その緞帳の向こうの客席から観客のざわめきが聞こえてきている。
そのざわめきを耳にしながら薄暗いステージで最後のギターのチューニング確認だ。
そして2ベル。
観客席の照明が落とされるとともにざわめきが消えていく。
緞帳の向こうから観客たちの期待と緊張の空気が静寂とともに押し寄せてくる。
ギターを抱えたぼくの足は震え、最高の緊張が身体を縛る。
ステージ横で合図を待っているマネージャーのIさんに向かって、ぼくは緊張の顔で頷ずく。
その瞬間、本ベルが会場に鳴り響く。
本ベルが鳴り終わると同時にぼくは覚悟を決めるといった思いでギターをかき鳴らす。
緞帳が静かに上に向かって開くとともに、目の前にいくつもの顔とそして拍手だ。
次ぎの瞬間・・・
バッ!
緞帳が顔の位置を通り過ぎた瞬間(とき)目の前からすべての光景が消える。
まるで真夏の太陽だけの光の世界、目にピンスポットが突き刺さったのだ。
その眩しすぎる光の世界が合図となり、身体から緊張は消え熱い塊が沸き上がる。
声だ!
観客に向かっての声が身体から弾けたように飛び出していく高揚感。
30分から40分の短いステージ・・・
そんなステージの光の中で、ぼくは声を張り上げることの陶然の快感をぼくは知った。
その快感が毎日のように訪れるツアーはまだ始まったばかりだった。
「どさまわり」という英五さんが創った曲がある。
あのねのねが「青春旅情」という名でシングルで出した曲である。
その曲を英五さんと旅(ツアー)の合間によく唄った。
全国を旅していると、田舎の駅で乗り換えに1時間以上待つなどということなどよくあることだった。
そんなときは英五さんとギターを取り出し、電車の来ないホームに座って歌を唄いだす。
最後は必ずマネージャーのIさん、照明のOさんも加わって「どさまわり」を声を張り上げ唄っている。
汽車にゆられ~一日のいくらかを~
過ごす毎日が続いています~
北から南へ~東へ西へ~
あちこちの人と人との~
心と心を~つなぐ架け橋に~
なれたらいいと思います~
雨の日も~風の日も~
揺れる汽車の中で~
思い出と~見知らぬ夢との~
間を行ったり来たり~
今でもこの唄をくちずさむと、あのときの季節の風が吹き、土地の臭いが包み、そして抜けるように蒼かった大きな空が目の前に広がってくる。
ツアーに出て、ホールとホテルしか知らないというミュージシャンたちの話しをよく聞く。
たしかにぼくも、「あのねのね」に付いていたときのツアーは、ホテルとホールだけの記憶しかない。
だが、英五さんとのツアーは、その街、その街を踏みしめるように歩いたツアーだった。
昼の3時にホールへ入るという約束で、英五さんたちとは別行動で早朝にホテルを出て、次ぎの街へとひとりで移動したことも何度もある。
せっかく知らない街に来ているというのに、その街の空気を知らないで去るなんて寂しすぎると思ったからだ。
とにかく街を歩いてみる。
海の街だったら海へ向かい、山に囲まれた街だったら少し山を登ってみる。
ぼくが少年時代育ったのは広島と四国の丸亀という街だ。
だからだろう、海の匂いと木々の匂いをかぐと知らない街でも懐かしい風がぼくの身体を吹きぬけていく。
また、城下町であれば城を見に行き、名産があれば食べ歩く。
そしてステージでその日出会った地元の街の話しをする。
「○○中学校の横に駄菓子屋があるよね。あそこのたこ焼きめっちゃ美味くてね、みんな食べたことあるよね」
「あるよ!今日も食べてきた!」
観客席からも声が上がる。
するとぼくと観客の距離は一瞬にして縮まっていく。
楽しかった。
ステージが楽しかった。
歌うことが楽しかった。
ぼくが本当にミュージシャンだったと言えた短い瞬間(とき)だった。
ツアーの合間の今も思い出す風景がいくつかある。
天草でコンサートをやり、その夜地元のスタッフに連れられて海へ行った。
そこにはいくつもの流れ星が潮の音とともに闇に消えていく光芒があった。
沖縄では同じ事務所のミュージシャン、あらい舞ちゃんもやってきて、後に英五さんのバックを手伝うこととなる、沖縄の伝説のハードロックバンド「メデューサ」の喜屋武幸雄氏とマリーに連れられてコザ、そして金武で、米兵のマリーンの連中を前に歌い、朝までハードロックに騒いだ思い出がある。
それから何年経ったころだろうか・・・
ぼくが頻繁に沖縄へ行くようになったころ、メデューサでドラムを叩いていたコーちゃんと、コザで偶然の再会があった。
当時コーちゃんのいたオキナワというバンドには、やはり伝説のバンド、「紫」のジョージ、チビ(宮永英一)などがいて、そこにコンディション・グリーンのかっちゃんも加わり、会えばとにかくみんなでよく飲んだ。
そして最近、オキナワ音楽つながりでまた出会いがあった。
オキナワのミュージシャン、ローリーさんのライブの打ち上げで、ぼくの隣に座ったのが、今やスーパーバンド、モンパチ(MONGOL800)のプロデューサー、浜里稔氏で、浜里氏は何と昔ぼくのいた事務所でアルバイトをやっていたということだ。
浜里氏からは懐かしい名前がいくつも飛び出してきた。
世の中とはまったく狭いものである。
(上の写真、嘉手納基地の中、喜屋武幸雄、マリー、娘のアリス、舞ちゃんと。シャッターを切ったのは英五さん)
長い英五さんとのツアーが終わったとき・・・英五さんに映画主演の話しが舞い込んできた。
「映画の仕事をどう思う?」
英五さんがぼくに聞いてきた。
ぼくが狂のつく映画好きだと知っていて聞いてきたのだ。
とにかく映画はひと月に20本近くは必ず見ていた。
休み、ツアーの合間、仕事の合間、とにかく時間があれば、お金がなかったのでロードショーではなく、安い名画座の椅子に座っていた。
京都では京一会館、祇園座という毎週土曜日はオールナイトでやっている映画館があり、東京では文芸座、文芸地下が行きつけの映画館だった。
「映画、面白いんじゃないですか」
ぼくは英五さんに言った。
「じゃぁ、決めるか!」
英五さんはそう決心を声にすると、「撮影、見てみたいやろ」と悪戯っぽく笑みを見せて言ってきたのだ。
「み、見たいです」
ぼくも興奮ぎみに即答である。
英五さんとともに成城学園にある東宝撮影所へと小田急線に乗って向かう。
ぼくは映画の撮影期間中、付き添いという形で映画の撮影を見せてもらうことになったのだ。
タイトルは「トラブルマン 笑うと殺すゾ」、山下賢章監督の初監督作品である。
その山下賢章監督は、ぼくの大好きな岡本喜八監督の元で助監督をやっていた監督である。
ドキドキした。
あこがれの映画の世界という風景に圧倒されていた。
あのねのねに付いていたとき、TVのスタジオを見て興奮したことなど一度もなかったが、映画は自分の中の思いがまったく違った。
TV局の匂いと映画撮影所の匂いはぼくにとってまったく違うものだったのだ。
スタッフルームへ行くと、山下組の隣には当時話題の「影武者」の撮影に入っていた黒沢組の部屋があり、一度黒沢監督とすれ違い挨拶すると、「おはよう」と黒沢監督が言葉を返してくれた。
もうそれだけでぼくは舞い上がっていた。
「く、黒沢監督ですよ!」「市川昆監督ですよ!」「す、すげぇ!!」
ぼくが撮影所の中でひとつひとつのことに興奮する姿を見て、英五さんは笑っていた。
そして監督として初めて「スタート!」の声を発した山下賢章監督の合図とともに、河島英五初主演の映画の撮影が始まった。
映画を創っている現場にぼくはいる。
そのことがぼくの気持ちを高揚させていく。
創造の塊と言われる映画を、プロはどうやって創っていくのか・・・
撮影前の衣装合わせ、本読みから見させてもらい、照明さん、美術さん、音響さん、そしてカメラ・・・そのときのカメラは後にぼくの大好きな岡本喜八監督の「近頃なぜかチャールストン」や「ジャズ大名」のカメラも担当した加藤雄大さんだった。
毎日のように創っていくという光景を目の当たりにできる。
プロの映画を創っているスタッフと映画の話しができる・・・
こんなしあわせなことはなかった。
「愛を乙うひと」「ラジヲの時間」「ひみつの花園」を後に制作する高井さんと映画の話しで盛り上がり、山下監督に監督の仕事が見たいというと、現場が終わると自宅マンションへ戻り、次の日の撮影のための脚本の直しまで「こうやって映画はできて
いくんだ」と、マンションまで同行を許され、ぼくにすべてを見せてくれた。
映画が好きだと言うと、それだけでこんなぼくにまで心を許してくれる。
映画に関わるものは皆、本当に映画が好きで、好きでたまらないといった気持ちが伝わってくる。
いつのまにか英五さんとは撮影所で別れ、ぼくは監督のマンションに泊まり込みで映画を創るというものを見せてもらうようになっていた。
毎日、朝から撮影を行い、終われば朝まで机に向かっている監督の姿・・・睡眠時間など2~3時間の仮眠だけだ。
だがその姿にぼくは憧れた。
ものを創るためだけに夢中に生きている創作者の姿に、ぼくは憧れていた。
撮影所でスタッフの人たちと話していたらひとりの俳優さんが入ってきた。
“トラブルマン”に出演するためにやってきた田中邦衛さんだった。
田中邦衛さんは「元気!」「元気!」と、すべてのスタッフひとりひとりに声をかけていく。
スタッフのみんなも「邦衛さん元気!?」と笑いながらの挨拶だ。
それだけで田中邦衛さんの人柄が見えてくる。
そしてスタジオの隅に立つぼくを見つけると、「あれっ?だれだったっけ?」と、いつも画面で見るあの笑顔で近づいてきた。
「河島英五についてきている田中です」
ぼくが答えると、田中邦衛さんは「同じ田中かぁ、よろしくなっ」と手を差し出し握手だ。
万弁の笑み。
一瞬にして田中邦衛さんという俳優が大好きになってしまった。
スターだというのに、まったく気取りや壁を造ることなく、逆にスタッフを大事にする、その気遣いにやさしさが見えてくる。
後に物書きとなって出会った高倉健さんもそうだった。
ラスベガスでボクシングのスーパーファイトを見た後、空港の待合い席に高倉健さんは座っていた。
『た、高倉健だ・・・』と遠く見つめていると、高倉健さんの横にいた知り合いのカメラマンの林さんがぼくを見つけ、そしてぼくにいきなり「紹介するから」と手招きである。
すると高倉健さんは椅子に座り帽子を深くかぶり本を読んでいたにもかかわらず、立ち上がってぼくの前に立つ。
そしてかぶっていた野球帽を脱ぐと、「自分は高倉健というものです」と真っ直ぐに頭を下げてきたのだ。
これにはまいった。
だれでも知っている健さんだというのに、そんなスターのそぶりなど見せることなく、これ以上ないといった礼儀の挨拶である。
すごい人だと思った。
もう感動と尊敬と、そしてその態度から伝わってくるやさしさに、ぼくは震えながら「田中といいます」と、頭を下げ挨拶を返した。
「いい試合だったね」
高倉健さんの笑顔での言葉だ。
その高倉健さんのやさしい笑顔は今でもぼくの脳裏に焼き付いている。
だから今でも、好きな俳優と聞かれれば「高倉健と田中邦衛」と、ぼくは尊敬の念とともに答えている。
財津一郎さんがいた。由利徹さんがいた。金子信雄さん、河原崎長一郎さん、小松方正さん、多々良純さん・・・「私は女優よ!」のみんなと少し距離を置く多岐川裕美さんがいた。
ぼくが大好きだった山本晋也監督の痴漢シリーズの顔だった、久保新二さんもいた。
そんな中で、映画初主演の英五さんは浮いていた。
ベテランスタッフたちは役者ではない英五さんと距離を置いている感がある。
そんなときだ。
「ライブをやるか!」
英五さんが言ってきたのだ。
その日の撮影が終わった後、スタッフ全員を集めてスタジオでライブをやるというのである。
スタッフで自分をよく知らない人たちにも自分を知ってもらいたい・・・
それが歌だった。
それをスタッフに伝えると、「じゃぁ、ステージを造ろう」「照明も決めるか」「いい音出してやるぜ」と、美術さん、照明さん、音響さんたちがステージを造り始めた。
ぼくらがいつも見ているステージでの仕掛けではない。
映画で使用する機材を使っての仕掛けがスタジオのステージに施されていく。
英五さん、スタッフそれぞれが互いを驚かせてやろうと工夫をこらす。
フラッシュライトで英五さんの登場である。
そしてライブ。
「いくぜ!」
英五さんが叫ぶ。
叫ぶように歌い、そしてバラードは話しかけるように歌っていく。
50人ほどのスタッフの前で、滝のように汗を流し歌っている。
いつしかベテランスタッフたちも聴き入り、そして立ち上がり踊り出している。
距離を置いていたベテランスタッフたちが「最高!」と、ステージの英五さんに握手を求め叫んでいる。
一体になった。
英五さんを中心に、映画のスタッフ全員との距離が消え、一体になった瞬間だった。
歌の力・・・いや、河島英五の伝えるという情熱の力に改めて「凄い!」と感嘆した瞬間でもあった。
英五さんの映画の撮影の間に、ぼくもデビューに向けて動き始めていた。
「新譜ジャーナル」「ガッツ」「オリコン」などに自分の名が事務所の広告に何ヶ月も前から載り始めていた。
レコーディングも始まった。
デビューシングルはA面があの「祈り」の曲からタイトルが変わった「ゴルゴダの丘」、B面が「子供ならもっと高い山に登りたがるはずさ」。両方とも英五さんの曲である。
音録りが始まる。
「ゴルゴダの丘」に関しては、チュダー王朝の教会音楽の中の「シナオンの賛歌」のような賛美歌的なイントロといったイメージがあったのだが、ぼくの意見はまったく受けいられなかった。
そして出来上がってきた曲には、2番の頭の歌詞が「曲が長すぎる」というだけで削られていた。
「ここの歌詞は必要」と言っても、「黙ってできてきた曲を歌え」それが答えだった。
アーチストとして意気込んでいた心が一瞬にして萎えていく。
そして自分の中に不満の残ったまま、東京のスタジオで歌入れも始まっていった。
そんな最中、事務所の主催する京都での音楽祭にいきなり出されることになった。
「賞は決まっているからミスはするな」
信じられない言葉がぼくの耳に入ってくる。
その音楽祭での賞はデビューに箔を付けるためだったのだ。
つらかった。
音楽祭の楽屋に居ることがつらかった。
出番を待つその楽屋にいるだれもが、賞を狙って必死に最後の音合わせをやっている。
だがもうすでに決まっているのだ。
賞のひとつはぼくに決まっているのだ。
音楽祭の出る前、出たくないと英五さんに相談している。
だが英五さんの答えは、ぼくの予想と違って「出ろ」だった。
他の有名な音楽祭もみんな同じことをやっているのだから恥じることはないと、ぼくの知っている英五さんとは思えない答えが返ってきたのだ。
歌い終わり、台本通りにぼくの名が呼ばれる。
司会者がわざとらしく歓喜の声を上げてぼくをステージで向かえ、握手の手を差し出している。
ぼくは手を差し出すことなどできない。
とても喜ぶ顔などもできない。
トロフィーをもらうことが恥ずかしくてならなかった。
ステージの下には賞に落ちて肩を落とすプロを目指すミュージシャンたちの姿が見えている。
早くこの場から逃げたかった。
笑顔などできるわけがない。
「あまりの喜びに表情を失うほどシャイな田中くんでした」
そのような当時の司会の声をこの文を書きながら思い出した。
そして家への帰り道、ぼくは貰ったトロフィーを道に叩きつけたのだ。
トロフィーはいとも簡単に砕け散ってしまった・・・
それがぼくが音楽をやめるはじまりとなっていったのだ。
あのときなぜ音楽をやめようと思ったのか・・・
そうだ、当時は格好つけてその賞を貰ったことでイヤになったなどと言っていた。
だが違う。
英五さんがあのとき音楽祭に出ろといった意味、そしてあのとき音楽をやめようと思った本当の自分の気持ちがわかったのはずいぶん後のことである。
自信がなかったのである。
プロとしてデビューをするというのに、賞をもらうことに自信がなかったのである。
あのとき最初から賞をもらうことが決まっている音楽祭に出ることを、英五さんは「恥じることはない」と言ったのはつまりはこういうことだったのだ。
自分に自信があり、自分の曲が歌が最高という矜持があれば、たとえ賞が決まっていたとしても、自分以外その賞を取るやつはいないと言い切れる自負があるはず。
どうせ自分が実力で取るのだから、最初から賞が決まっていようが関係ないということだ。
だがぼくには思えなかった。
ぼくよりも他のミュージシャンの方がうまいと感じていたのだ。
プロでこれからデビューしようとするミュージシャンが、自分にまったく自信が持てなかったのである。
そう、あのときぼくが音楽をやめようと思い始めた本当の思いは、プロとしてやっていく自信がなかったということだったのだ。
渦が巻いていた。
この場所で一秒たりとも居たくないほどの憤懣がぼくの中で、そして周りで渦巻いていた。
今、ぼくがミュージシャンをやっていたことを知る友はほとんどいない。
この「ミュージシャンだったような思い出」は21年前にHPに載せたものだが、それを読んで、「そうだったんだ」と、「なぜ今まで黙っていたんだ」と友、知り合いたちから言われ、いくつもメールももらった。
なぜ30年近く隠すように誰にも話さなかったのか・・・
隠していたわけではない、記憶から消えていた・・・そう、消してしまっていたのだ。
そのことを「ミュージシャンだった思い出」を書きながら思い出してきたのである。
忘れていたのではなく、消してしまった記憶。
それほどのことが、誰もが「やってられない!」と憤懣したいくつものことがあのときぼくの周りであったという事実。
スタッフをやったことで、以前から事務所のスタッフと飲みに行けば酔った中から出た裏での話しをぼくは知っていた。
アーチストには決して話さないような裏での話し・・・
欲望が渦巻く、権力、野心、虚構、忖度、いかがわしさ…
そんな中、「あのねのね」が事務所を辞めた。
そのことに関してもイヤな話しがいくつも耳に入ってきていた。
当時、事務所を支えていたスタッフSさん、Nさんが辞め、ぼくが事務所を離れるときには事務所で一番信頼していたスタッフのIさんまでもが辞めていく・・・
やはりこのときの渦の話しは辞めにしよう。
そのことを思い出すことで、あの時代の大事な思い出までもが汚れてしまう気がしてしまう・・・
そう、ぼくはあのときのある出来事がきっかけで、デビュー曲の歌入れでスタジオを押さえている日、スタジオには行かず「辞めます!」と、事務所に電話を入れたのだ。
そして当時、事務所から1円の金ももらっていなかったぼくは、深夜の東京駅から、大垣行きの各駅停車に乗って京都へと帰って行ったのである。
闇を走る各駅停車の中での気がかりは、まだ映画の撮影中だった英五さんにも黙って消えてしまったことだった。
それから1年半後、「ゴルゴダの丘」はそのときのオケで英五さんがレコーディングしていた。
英五さんのキーより1音半高いぼくのキーで造ったオケだったこともあり、サビの部分は原曲とは違う曲となっていた。
毎日何度も電話が鳴る。
どこから掛かってきているかはわかっているが電話は取らなかった。
そのときぼくは必死に机に向かっていた。
また絵を描いていたのだ。
あのときミュージシャンとしてアマチュアからもう一度一からやり直そうとしなかったのは、つまりは音楽で生きていく自信がなかったということである。
だが前に書いたように、当時のぼくはそのことに気づいてはいなかった。
音楽は好きだったから、ライブハウスでは歌っていた。
だがそのバックで、スライドで机に向かって描いた絵を流してのライブである。
みんなに必死で描いた自分の絵を、歌うことで見てもらっていたのだ。
「ある」という漫画の同人誌も創り、その本は「ぱふ」や「プレイガイドジャーナル」にも取り上げられたりもした。
半年ほど経ったあたりから、事務所からの電話を取るようになったが、もう事務所とは距離を置いての付き合いでしかなかった。
以前のように無報酬で事務所の手伝いをするなどということはなく、生きていくためのバイトとしての付き合いである。
京都でアマチュアのコンサートを開き、ライブハウスで歌いながら、事務所からのビアガーデンのステージ、レストランバーでの弾き語りなどの仕事をバイトとしてうける。
普通のバイトも36種類にわたっていろいろやった。
事務所は京都に新しく造ったスタジオで、ギター一本で録ったぼくの曲をレコードにしてくれたりしたが、事務所へもどる気はもうなかった。
とにかくもがいていた。
毎日のように机に向かって絵を描き、そのもがきから必死に光を探していた。
そして1980年12月8日、ぼくはうだうだと引きずっていた音楽への未練を断ち切り、絵で勝負すべく東京へ出ると決めた大事件があった。
ぼくが尊敬していたミュージシャンのジョン・レノンが殺されたのだ。
「ぼくが田中くんの人生を変えてしまって・・・悪いことをしたといつも思っていたんだ」
大学の恩師で、ぼくを事務所に紹介してくれた三浦先生があれから20年以上経った頃、東京で先生のライブを見に行ったときにそう言われたことがある。
「そんなことはないです」
ぼくはハッキリと先生に言った。
そう、あの時代がなければ今のぼくは間違いなくいない。
あの時代があったからこそ今、作家としてやっていけていると本当に思っている。
あれから集英社、小学館、講談社、秋田書店などメジャーの世界で数百本の劇画原作、ノンフィクション、フィクションを書き、何百枚の浜田剛史、タイソンといった世界戦のポスターをはじめとしてイラストを描いてきた。
週刊プレイボーイ、Nunnberなど雑誌のグラビアの写真も何百枚と撮ってきた。
そして気が付けば、劇画の原作本を中心に、ノンフィクション、エッセイ、共作としての本や海外での翻訳された劇画も含めると、2004年の4月23日に講談社から発売された「達摩」(画 所十三)の上下巻で丁度単行本も100冊目を出したことになる。
ここまでやってこれたのは「ぼくがミュージシャンだったような思い出」の時代があったからだ。
たしかに思い出したくないことはある。
だがそれ以上に、「ぼくがミュージシャンだったような思い出」の時代にやさしさと魂を持った何人もの人たちと出会ってきた。
そして青春があった。
あまり書かなかったが、タンポポの三代さん、保志子さんとの思い出もたくさんある。
「嵯峨野さやさやコンサート」に、直指庵の庵主様をぼくが東京へ連れて行くことになり大変だったことや、金沢にタンポポの仕事で行ったとき、雪で電車にとじ込められ、その雪の多さに三人で驚きとともに、どこか楽い気持ちで降り積もった雪を見ていた白い夜があった。
あのねのねの国明さん、伸郎さんとの思い出だっていくつもある。
国明さんが、当時アイドルだったアグネスチャン用に作られた曲に詩を付けてほしいと頼まれ、ぼくがその詩を取りに行くと「田中、この曲長すぎないか?」と言われ、見ると、「清水さん、間奏まで詩を付けてますよ」である。
「どうりで長いわな」と、だがその後、「これで出してみるか」と笑いながらその詩をぼくに差し出した国明さんの悪戯小僧の顔がある。
伸郎さんとも「田中、今日はふたりで語り合おうやないか」と、コンサートの後食事に誘われ、入った店が蟹の店だったことから、「何や、あまり語れへんな」と、ふたり黙々と「ホント語れません」と、蟹を食べていたこともあった。
スタッフのIさん、Nさんにはよく飲みに連れていってもらい、Sさんには家に招かれ家庭料理をごちそうになったりもした。
英五さんとのツアーの最中、照明の大井さんとは「せっかく天草に来たんだから」と、レンタカーを借り、ふたりでやさしい気持ちで眩しく光る海を見ながら九州のツアーを移動したこともあった。
東大阪の英五さんを通して知り合った、大橋くん、中井くんたち仲間ともいくつものバカをやって、かけがえのない友人となっていた。
事務所を辞める間際にも、今、舞台音楽やプロデューサーをやっている柄崎くんともよく京都の街をうろつき、ふたりでライブをやったりもした。
ギターリストのノーマンとは今でも交流があり、つい最近も三浦先生の辰野のライブハウスでライブをやっている。
そして・・・英五さんがいた。
ぼくがミュージシャンを辞めた後も、英五さんは心配して突然のように電話をかけてくれていた。
「何やっとるんや?」「がんばれよ!」「メシでもいっしょに食わんか」
英五さんはいつも励ましと勇気をくれていた。
単行本が出せるようになり、「今度、贈呈本送りますよ」と英五さんに言うと、「本屋でかい君の本見つけて買うほうが楽しいやろ」と言ってくる。
社交辞令ではない。
「今日、かい君の本、本屋で見つけたから明日からのツアーの電車の中で読ませてもらうで」
本当に英五さんは本屋でぼくの本を買ってくれていた。
そして「おもろいやないか!」と、また突然の電話である。
ぼくも東京近辺で英五さんのライブがあるときは聞きに行き、そして楽屋へも遊びに行った。
そうだ、こんなこともあった。
ぼくが仲久晃央の名で「ビクトリー・ラン!」というサッカー漫画を少年誌で連載していた時期である。
いつもの突然の電話だ。
「かい君、今、オレの隣にだれが居ると思う?」
ニタニタと自慢げな声である。
英五さんが、「感動するぞ!」と電話に出てきたのは当時のサッカー界のスーパースター、武田修宏である。
だがぼくは武田とは彼が高校を卒業したときに取材したことから、当時はプライベートでもメシを食べにいく仲だったのだ。
「あれ、田中さんじゃないですか」
武田の言葉に、英五さんは「何やおまえら友達なんか!?」と、つまらなそうに電話を切ってしまった。
英五さんはぼくが狂の付くサッカー好きと知ってて驚かすつもりが、肩すかしを食ったというわけである。
それから数日後、ぼくの尊敬する漫画家のちばてつや先生の家で恒例の餅つき大会があったときだった。
先生の家に招待されているぼくの横にあった電話が鳴ったのだ。
ぼくが「ちばです」と電話を取ると聞き慣れた声である。
「英五さん?」
ぼくが言うと、「何でかい君がおるんやねん」と、英五さんの驚きの声がする。
「いや、招待されているもんで・・・」
ぼくがそう言うと、「何でかい君は、いつもオレが知り合う人の後から付いてくるんや」と言ってくる。
「いや、武田もちば先生もぼくはずいぶん前からの知り合いなもんで・・・後から付いているわけじゃないのですが・・・」
「そやな・・・でも何か悔しいやないか!」
こんなことにまで英五さんは負けず嫌いだった。
ぼくがも作家としてのを書くようになって・・・いや、作家としての根底には英五さんがいた。
「ぼくは曲を創るときは断食して、好きなコーヒーもやめる」
「自分を追い込んでいるのか?このまま曲ができなかったら死ぬ覚悟を持ってやっているのか!」
英五さんと出会ったころのこの言葉はぼくの当時付けていた日記に書かれている。
そしてこの言葉は、音楽に見切りをつけ、ものを書き始めてからもいつもぼくの心にあった言葉だ。
そして生き様がある。
物書きになり、ぼくはいつもそのためだけに生きている人間を書きたいと、ぼくもそうなりたいと思ってきた。
ぼくが飯泉健二という、網膜剥離でリングに上がれなくなりながらも、リングに上がることだけを考え、網膜剥離になる前と同じ鍛錬の日々を10年続けたボクサーのことを書いた「拳雄たちの戦場」の中の一文がある。
すべてボクシングの男だった。
リングの上、ロードワーク・ジムワークだけじゃない。
食べることはボクサーとしての身体を造ることと考え、眠ることはボクシングのために身体を休めること。目を覚ますことはボクシングをやるため、脱糞、放尿はボクサーとしての体重維持。
息をすることさえも、すべてボクシングのためだと考えていた男である。
英五さんはそれが歌だった。
息をすることさえも、すべて歌のためだと考えていたあの姿。
その生き様をぼくは英五さんから見せつけられた。
十代後半から二十代前半・・・生きるという本当の姿を、魂をあの時代に見せつけられたのだ。
2001年4月16日・・・
突然の悲報が飛び込んできた。
「ここ何年か英五さんに会ってないし、東京の近くでライブがあったら行くよ」
英五さんのバックでギターを弾いていたノーマンに、そんなことを言っていた矢先のことだった。
英五さんがいなくなった後、思い出す場面がある。
英五さんのツアーで歌わせてもらっていたときの楽屋での風景・・・
たしか東北を回っていたときだった。
「気持ち悪いだろ」とアルマジロの姿そのままに弦を張った楽器を見せられときだから、英五さんがペルーから帰ってきてすぐの頃である。
ぼくは楽屋で自分のギターの弦を張り替えていた。
英五さんは声を張り上げ同じ楽屋で新曲の練習だ。
ぼくの弦を張り替えている手が止まる。
英五さんの歌う初めて聞く曲にぼくは引き込まれてしまったのだ。
歌い終わると「どうや、ええ曲やろ」とぼくに聞いてくる。
「いい曲ですね」
ぼくは感動していた。
「今日のステージで歌ってみるか」
英五さんが嬉しそうに納得の顔で笑った。
~君が悲しみに 心閉ざしたとき 思い出してほしい歌がある
人を信じれず眠れない夜にも きっとわすれないでほしい
生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ そうさ生きてりゃいいのさ
喜びも悲しみも立ちどまりはしない めぐりめぐって行くのさ
掌を合わせよう ほら温もりが 君の胸に届くだろう・・・~
その歌をその日のステージで英五さんは心を込めて歌っていた。
「生きてりゃいいさ」という曲だった。
涙が流れた。
ぼくの頭の中であのときの英五さんのステージでの歌はつづいている。
~君にありがとう とてもありがとう もう会えないあの人にありがとう
まだ見ぬ人にありがとう 今日まで僕を支えた情熱にありがとう・・・~
たった五年間少しの「あの頃ミュージシャンだったような…、いや、「あの頃ミュージシャンだった思い出」があった。
あの日があったから、あのとき出会った人たちがいたから間違いなく今のぼくがいる。
あの日のみんなにありがとう!
あの日のぼくを支えた情熱にありがとう!
~そして、もう会えないあの人に・・・~
本当にありがとうございました。
“あさもりかい”こと
田中誠一.

































