自然が目の前にいつもある

2022年も終わろうとしている。
今年は間違いなく、人類史上大きな変革の中の一年だった。
コロナ、戦争、分断、地球温暖化による災害、格差、貧困、政治、経済…
だれもが生き方を変えなければならない時代。

世の中はデジタル化がエクスポネンシャルに進んでいる。
そしてそのデジタル化はほとんどの人が理解できないまま進んでいる。

今、ぼくは芸大でDXにおいてのマンガコンテンツの研究をやっているわけだが、未だにアナログで作品を作っている自称芸術家の先生たちは、デジタルでは「心」が生まれない的な、トンチンカンなことを言ってくる。

ぼくはアナログを認めていないわけでもなく、そもそも何十年もアナログで作家として作品も創ってきた。
そしてデジタルは道具として、「心」を生み出すために使っている。

たとえば写真。
ぼくは週刊プレイボーイや、月間プレイボーイ、Number、マンガ雑誌でグラビアもプロとして撮ってきている。
フイルム時代、つねに自分の写真のリアルに拘ってきた。
だれもが感じたことだと思うが、撮った写真のたとえば空の色を見て、「あれっ?こんな色だったけ、もっと深い青だったと思うのだが…」などと感じたことがあると思う。
つまり、自分の「心」で感じた色と、写真の色にズレがあるわけだ。

ぼくはフイルム時代、いくつものフイルムを試し、シャッタースピード、露出のデータ管理をして、自分の感じた色をいつも模索していた。
自分が撮った瞬間の、心が感じた、その表現をリアルに見てもらうため。
そう思って写真を撮ってきた。
だが、デジタルという道具を手に入れた瞬間、自分の「心」で感じた、その表現がちゃんとできるようになった。
Photoshopを使い、加工ではなく、「心」で感じたリアルをデジタルで生み出すことができる。

マンガのキャラクターでもそうだ。
デジタルを使うことで、キャラクターと会話することもできる。
プログラミングで、会話の相手の名前をよぶように、「こんにちは太郎さん!元気ですか」などと話させると、聞いた本人は、名前を呼んでくれたと喜びが沸き、キャラクターに対する「心」が生まれてくる。

つまり「心」というものは、相手に押しつけるものではなく、相手の心が生み出されるものだということだ。

デジタルを道具として使うことによって、自分の、そして相手の「心」を感じることのできるにはどうしたらいいか。

ぼくが今、研究している超高齢化時代の、マンガを使ったコミュニケーションの大きなテーマとなっている。

ぼく自身も今、仕事場を東京から自然に囲まれたコテージに移し、そこで仕事をしている。
今日もこのあとオンライン会議なのだが、デジタルによって都会ではなく、自然の中で生活できているというわけだ。

散歩もよくするようになった。
iPhone片手に、季節とともに変わりゆく風景を撮りながら歩いている。
それを動画にして、今の心を形にする。

昨晩、2022年のこの1年散歩で撮ってきた動画、写真を見ているうちにpremiere ProとAftereffectで季節の流れを編集してみた。

デジタルと自然とは、ほとんどの人が対局にあるように思っているが、それは違う。

デジタルによって、自然が目の前にいつもある日々をぼくは今、過ごしている。

DXはリアルの中から見えてくる

森や田んぼの畦道などを散歩をしながら季節の流れをiPhoneで撮り、そしていろいろなことを考える。
自然に囲まれた場所に引っ越してから、それが日々の生活の大きな時間になっている。

DXの時代というのは、仕事と暮らしが同居する時代だと思っている。
デジタルの時代というと、ほとんどの人がリアルではなく、バーチャルなつながりだと思っているかもしれないが、デジタルな時代だからこそ、人間はリアルがより重要になってきている。

日本人が昭和の時代、人間がロボットのように働き、海外からはエコノミックアニマルと呼ばれ、「24時間働けますか」とテレビからCMが流れる中で、日本は経済大国になっていった。
経済成長が幸せだとだれもが信じ、「根性」という言葉の中でだれもがアリのよう働くことで、テレビ、車、家と幸せの象徴であるモノを手に入れていく。

お金を儲けることが幸せにつながると思い込んでいた時代だから、仕事というものは厳しさの中で働くのが当たり前。それで金がもらえると思い込んでいたのかもしれない。

だからロボットのように日本人は働き、1970年代にはGDP世界2位まで上り詰めている。
だが、ロボットのように働くのは、今は本当のロボットが働くことになってしまった。

作業的な仕事は、テクノロジーによって生まれた機能、サービスによって人間からAIを搭載したロボットへと代替していっている。

人間の仕事は、人間しかできないことが求められている。

それが何かと言えば、それは「想像力」だということだ。
考えてほしい。
AIを生み出していっているのも、人間の想像力を形にしていったからだ。
つまりこの世に存在しなかったものを生み出す根底には人間の想像力がある。

だが日本の教育は想像力を生み出すべく教育ではなく、暗記力を持ってロボットのような人材育成をしたことで、日本にGAFAMやBATHが生まれないどころか、想像力によっての新しいチャレンジをしようとする人材を日本社会は潰していった感がある。
だから今の日本はどんどん時代から、世界から取り残されていっている。

「想像力」を生み出す力を考えたとき、想像力の基盤には必ず「リアル」が存在する。
その「リアル」というのは、暮らしの中でたとえば「楽しい」と感じたリアルな気持ちだ。
その基盤があって、バーチャルが存在しなければ、そこに生命力は存在しない。
存在しないということは、死んだ世界ということだ。

今からの時代、メタバースによって、仮想空間をだれもが生活の中で利用することのなることは間違いない。

つまりそこに生きるということだ。
だから死んだ世界ではなく、生きる世界として「リアル」がとても大事だと感じている。

そう考えると、DXの時代はロボットのように生きるのではなく、人間が人間として生きることを問われている。
デジタル=非人間的ではなく、デジタル=より人間的な生き方。

たとえば写真。
風景を撮って見たとき、「あれ?空はもっと青かったのにな」など、感じることがあるとおもう。
そういった場合、自分が感じた空の青さをPhotoshopによって調整する。
加工と言ったら、リアルを変えると思うかもしれないが、テクノロジーによって、より自分が心で感じたものをリアルにしていくということでもある。

想像も心が生み出すもの。
その心はリアルの中から生まれてくるものだということだ。

まぁ、散歩をしながらそんなことを考えてみた。