2017年7月31日
ホリエモンの「多動力」を読んで思った。
多動力とは、ひとつの仕事をコツコツとやる時代は終わったと、つまりは、ひとつの肩書きだけでなく、いくつもの肩書きをもつことで、人はその肩書きの数だけ自分の価値が上がっていくということだ。
ひとつのことに一万時間取り組めば、100人の一人の人材になれると言われている。
そして別の分野でまた一万時間とりくめば、100人にひとり×100人にひとり、つまり一万人にひとりの人材になれるということになる。
もうひとつ新しい分野に取り組めば、また×100になれるわけだから、3つの分野で一万時間以上取り組んだスペシャリストになれば100万人にひとりの人材。
どんどんとオンリーワンの人材に近づいていくというわけだ。
そういう意味では、考えてみれば、ぼくの場合は40年以上前から「多動力」で生きてきたことになる。
17歳でマンガで賞をもらい、18歳でプロのミュージシャンとして事務所に入り、30歳のときには、マンガ家・イラストレーター・マンガ原作者・作家・ノンフィクション作家・コラム、エッセイ作家、フォトグラファーなどなど、プロという肩書きを持って仕事をさせてもらっている。
ボクシング、サッカー、野球、格闘技、武術とスポーツがその書く、描く、撮る対象だったもので、その頃の名刺の肩書きには「イラスポライター」と書いていた。
つまり、イラスト・スポーツ・ライターの略なのだが、そんなネーミングを勝手に作ってフリーで仕事をやらせてもらっていたというわけだ。
まぁ、そのころは、ひとつの仕事だけを貫くというのが日本では「美学」とされていたし、「二足わらじ」といって、ふたつの職名を持つことは、真剣に仕事に取り組んでいないといった見方をされていた。
つまり「ついで」といった仕事のとらわれ方だ。
だからあの頃、いつも考えていたことがある。
一流紙といわれる少年ジャンプ・サンデー・マガジンでマンガを連載し、週刊プレイボーイ、月刊プレイボーイ、Nunberなどでは、写真、イラスト、文章を単独でも掲載する。
「ついで」ではぜったいに載ることのない場所で勝負するということだ。
無名の新人が一流紙で掲載や連載をするとなると、当たり前だが、レベルはもちろんのこと、だれもが読みたい、見たいとい思う、自分にしか描けない、書けない、撮れないものを創るしかないと思ったわけである。
つまり、画力、文章力、技術力で勝負しても、名前のあるプロに代わって掲載できることなど、並大抵のことではないことはわかっている。
そこで考えたのが、今、雑誌で掲載しているプロに勝つには自分には、勝てるための「何があるか」である。
当たり前だが、名前のあるプロはいくつもの連載を抱え、毎週〆切に追われているはずだ。
ということは、プロに勝つ武器は「時間」ではないかと思ったのだ。
当時、沢木耕太郎の「一瞬の夏」というノンフィクションが好きで、自分もこういったものを書いてみたいと思っていたときだ。
「一瞬の夏」は、カシアス内藤というボクサーが、1978年10月に4年のブランクから復帰し、1979年8月に韓国のソウルに乗り込んで朴鍾八との東洋ミドル級王座決定戦に挑むもKO負けをするまでの一年間、ほぼ、そのすべての時間で密着といった取材で書かれたそれまでになかったノンフィクション作品である。
この、人にはできないほぼ毎日見続けるという取材は魅力があったし、実際、最低限のイラストの仕事をしながら、残りの時間はすべて取材相手の写真を撮り、毎日を見続ける時間だけに生きる日々が24歳からはじまった。
実際、ここまで何年といった「時間」の中で描く、書く、撮ることをやっていた創り手はまずいなかったと思う。
その「密着」取材で、浜田剛史は世界チャンピオンになり、高校野球で追いかけた天理高校は甲子園で優勝し、他にも、興味を持ったスポーツ選手を何年も密着して、長い「時間」の中で作品を創っていった。
それはスポーツ選手を書くというより、「濃密な人間の生き様を書く」という、自分にしか書けない人間の関係の中で創れた作品の数々だったと思っている。
そう考えると、「多重力」とは、ひとつのテーマの中でそれぞれの「顔」が生まれてくるものかもしれない。
表現にはいくつもの顔があり、「マンガ」で見せたいもの、「文章」で見せたいもの、「写真」で見せたいもの、それぞれの顔を創り手というのは持っているはずである。
そのひとつひとつの取り組みを本気で取り組めば、当たり前だが、それぞれが一万時間は遙かに超えた表現となっていく。
今、大学教授、メディア・アート・アーチスト、プロデューサーといったものが多動力に加わってきている。
そして18歳のころ、プロとしてやっていた音楽も、今のデジタル作品の表現の中で、自分で曲をつくり、演奏して生きている。
そう、メディア・アート・アーチストとしての大きな武器となっているのだ。
人生はだれもが「多動力」だと思う。
スティーブ・ジョブズが2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行った伝説のスピーチの中で言っている言葉がある。
「将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです」
「だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない」
「運命、カルマ…、何にせよ我々は何かを信じないとやっていけないのです。私はこのやり方で後悔したことはありません。むしろ、今になって大きな差をもたらしてくれたと思います」
本気でやってきたひとつひとつの点は、あとからつなぎ合わされ、そして人生のどこかで実を結ぶ。
「多動力」とは、そういうことだと思う。