【あしたのジョー】たちへの逐日 天才を教えてくれた男  WBC世界Jウエルター級チャンピオン浜田剛史

 

まえがき

ボクシングに魅せられて…。

それは1968年、ぼくが11歳のときに始まった。
『週刊少年マガジン』に「あしたのジョー」の連載が始まった年である。
その「あしたのジョー」にぼくは夢中になった。
『週刊少年マガジン』の発売日には、書店が開くのを待ち、『週刊少年マガジン』を買ってから遅刻で学校に忍び込んだ。
授業そっちのけで、机の下で何度も何度も「あしたのジョー」を読み返す。
あの時代、そう、あの時代、ぼくは「あしたのジョー」を読むためだけに生きていたと言っていい。

そして「あしたのジョー」を通して、マンガの世界から現実のボクシングの世界へと交差していく。
そのころ日本人の世界チャンピオンは、フェザー級の西城正三と、Jライト級の小林弘がいた。
広島の田舎に住んでいたぼくは、ボクシングの試合といったら、テレビでは世界戦以外はなかなか見ることができない。
そんな環境の中で、「あしたのジョー」のスイッチで、ボクシングのことが知りたくて、知りたくて、とにかく、たまらなくボクシングのことが知りたくて、ボクシングに関する本を読み漁っていった。

その中でもボクシングの専門誌は、リアルにボクサーの「今」を教えてくれた。
『プロレス&ボクシング』(1972年8月からは『ボクシングマガジン』になる)を丹念に、やはり授業そっちのけで、机の下で読みあさるようになっていった。
写真と記事だけを頼りに、『ボクシングマガジン』に載っているボクサーたちを想像する。
矢吹丈と同じバンタム級というだけで、当時の日本チャンピオンだった内山真太郎に肩入れしたり、デビューから6連続KOの豊島正直の記事を見て、自分の中でそのボクサーを想像する。
たとえば、そのKOシーンを、記事から思い描いて、こっそりと算数のノートに絵で描いてみる。
まるで矢吹丈が、ウルフ金串をクロスカウンターで倒したように、また、力石徹が、矢吹丈をアッパーで倒したように…
つまり、内山真太郎や豊島正直に、矢吹丈のイメージをかぶせて見ていたというわけだ。
矢吹丈を追いかけ見ていたボクシングは、大場政夫が気迫と執念で、輪島功一が根性と勇気で世界チャンピオンになる試合をTVで見ることになる。
大場と輪島の闘いに、今まで感じたことがないほどに、興奮と感動を覚え、ぼくは完全にボクシングの虜になっていった。

日本のボクシングだけじゃない。
モハメド・アリを中心に、ジョー・フレージャー、ケン・ノートン、ジョージ・フォアマンがいて、あのキンシャサの奇跡があり、ボクシングの死と隣り合わせの凄まじさ、ボクサーの生き様の濃さ、重さに何度も何度も感嘆を繰り返した。

テレビの前で動けなくなった試合がある。
日本屈指のテクニックを持った、高山将孝が、パナマの世界チャンピオンのボクサーに、 たった100秒で倒された試合を見たときだった。
震えた。
その震えは、その熾烈なまでの強さに対する尊敬だった。
強さが尊敬の念を抱かせるということを、ぼくは身体を震わせながら知った。
その尊敬を感じた、パナマのチャンピオンのボクサーの名は、“ロベルト・デュラン”。
その瞬間から、ぼくの中の英雄は、間違いなくロベルト・デュランになった。

それから8年。
テレビではなく、ボクシングのメッカ、後楽園ホールに頻繁にボクシングを見に行き始めたころ、デュランを感じるボクサーと出会うことになる。
浜田剛史である。

そのときからの43年。
ぼくは浜田剛史との出会いをきっかけに、何人ものボクサーと出会い、あまりにも濃く、同じ空気間で呼吸をし、生きた毎日を過ごすことができた。
ボクシングが好きで、好きでたまらなかったぼくにとって、ボクサーたちとの出会いは至福の日々だった。
取材で出会ったボクサーもいれば、プライベートで出会い、友人として、今でも交友しているボクサーたちもいる。

ボクシングに夢中だった1980年~1995年に撮ったボクサーたちの写真は、7万枚を超えていた。
まだフイルムの時代である。
その写真を一枚一枚見返してみる。

ボクサーたちは皆、リングに上がったとき、そのリングの上の印象を「眩しい」と答える。
カクテル光線に照らされたリングは、真夏の太陽のように「眩しい」と答える。

その眩しさの中に、ボクサーたちの「存在」があった。
16フィートの眩しいリングの中で輝いた「存在」。
その「眩しい」「存在」のあの日が、20年近く追いかけ、撮り続けた写真の中から蘇ってきた。
記憶の中でハッキリと、そう、まだぼくの記憶の中では永遠の残暑のように、熱い日々として残っている。
その始まりが浜田剛史だった。

浜田剛史との日々の言葉の紡ぎとともに、あの浜田剛史を見続け撮った写真は、どのように自分の心には見えていたのか…
写真に映った映像だけでなく、ぼくがあのとき、シャッターを切ったとき、どんな感情が心の中でわき上がり、どんな世界が見えていたのか。

今でもハッキリと記憶に残っている、自分の中で見えていた写真の中の思念を表現できないか、大学でAIの可能性を研究する中で試みてきたことである。
そして2026年、今、それが自分の中で形になってきた。言葉の紡ぎとともに、その見えて来た思念の映像を、あの眩しい浜田剛史との日々をここに表現してみた。

「あしたのジョー」への逐日の、あの少年の日に夢中にさせられたボクシングで出会った、ボクサーの眩しい16フィートの「存在」が、今、ぼくの中で言葉と映像としてここに蘇ってくる。
                              田中誠一.

 

【あしたのジョーたちへの逐日】
天才を教えてくれた男
WBC世界Jウエルター級チャンピオン 浜田剛史

あの日々は何だったのだろうか…
今でも浜田剛史と食事をしながら、懐かしく話すことがある。

1983年夏。
浜田剛史が、浜田の言う、「ボクサーの商売道具」、左拳を3度骨折し、その骨折からの復帰する少し前のことである。
ぼくは後楽園ホールで、復帰をアピールするために設けられた彼のスパーリングを見て以来、何かに取り付かれたように、毎日、そのころ新宿区早稲田の鶴巻町にあった帝拳ジムに通う日々がつづくことになる。
何と表現したらいいのか…
そのスパーリングで見た浜田剛史に、凄み、いや、生命力…そう、生命力の強さ。
見た瞬間に「尊敬」を感じるほどの、「生命力の強さ」をぼくは感じたのだ。

生活できるだけの、最低限のイラストなどの仕事をこなし、夕方になれば帝拳ジムの見学用の椅子にすわり、ただただ、浜田剛史の練習を見続ける。
練習が終わると、週に2~3回、ジムの近くの喫茶店「どっか」で浜田剛史と語り合う。

ぼくは本当にそのころ、浜田剛史は世界チャンピオンに「なれる」、いや、「なる」と、なぜか信じ切っていた。
そんなことを語るぼくに対して、浜田は後に「この人は何を考えているんだ。オレは世界どころか、あと一試合できるかどうかわからないというのに」、そう思っていたと言う。

だがぼくは、浜田剛史から感じた「生命力の強さ」が何だったのか、その練習を見た瞬間にすべてが理解できていたのだ。

そう、天才を見たのだ。 

                                    

それはぼくだけではなかった。
「凄いボクサーがいるんです!」と、マスコミ関係者、作家の友人、知人をジムへ、浜田剛史の練習を見せに連れていった。
漫画家のちばてつや先生も、「美味しんぼ」の原作者である雁屋哲先生も、みんな浜田剛史のその天才を感じ、惚れ込んでいく。
雁屋先生などは、浜田剛史のジムワークを見てすぐに、食のトレーナーをかってでるほど惚れ込み、浜田の現役時代、ケガに対する食での対処など、世界チャンピオン浜田剛史を創り上げていく上で、食に対して最高のアドバイスを贈ってくれた。

天才とは…浜田剛史が感じさせた天才とは、その練習量の凄さである。
他のボクサーの3倍、いや、その集中力の切れない濃厚な練習量を考えれば、5倍の練習をこなしていたと言える。

天才とは、ストレートのようなジャブを打てるとか、カミソリのように切れるパンチが打てるとか、そういうことばかりではない。
人の何倍もの練習を、身体がギシギシと悲鳴を上げる限界までの練習を毎日、1年ならば、365日続けられること自体が、普通の人間にはまねの出来ない才能であり、天才である。
それだけのこと(練習)をこなせば、汗が成長という細胞を創っていき、限界を超えた人間の持つ“狂気の凄み”を持ったボクサーへと変わっていく。

浜田剛史はいつも言っていた。
「自分の限界まで練習しないと、あとで悔いを残しますから」
浜田のボクサーとしての立ち位置は、負けるとすべてが終わってしまう、勝って登りつめる以外許されない場所で生きていた。
つまり、それは負けるとボクサーとして「死」を意味するということだ。

そして浜田はこうも言っていた。
「もっと強いパンチが打ちたい!」
サウスポーの浜田は強いパンチ力を鍛えつづけ、それを身につけたゆえに左拳を骨折してきた。
つまり、パンチ力が骨よりも強くなりすぎていたのだ。
なのに、浜田剛史はなおも強いパンチを打ちたいと、激しい練習でパンチを鍛え上げ、サンドバックに、ミットへとパンチを叩きつけていく。
今度折れたら終わることがわかっていて、より強いパンチを叩きつけるために鍛えていく。
リングに上がる前に「死ぬ」かもしれない覚悟を持って…いや、それも限界で勝負しなければ「自分のすべてが死ぬ」と覚悟してのことなのだ。

浜田剛史を見続けた日々は、ぼくにとって悲壮なほど壮絶な天才を見続けた日々である。

 

1986年 夏。
浜田剛史は世界チャンピオンになった。
出会って3年。そう、あまりに濃く奇跡の3年だった。
浜田と出会い、浜田を追いかけ、見続けたあの3年間の日々が蘇る。

凄いよ!ありがとう

「長かったですね…」
受話器の向こうから浜田剛史の声が聞こえてくる。
1986年7月25日、午前2時。

両国国技館で、1ラウンド3分9秒。魂の、生きてきたすべてを拳に込めたパンチで、王者レネ・アルレドンドを倒し、WBC世界ジュニア・ウエルター級の奪取をしてから、まだ6時間あまりしか経っていなかった。
まだぼくの頭の中には、あのときの両国国技館を包んだ、歓声というより叫び、まさに歓呼の叫びが渦巻いた中で、昂揚と興奮に震えた、そのときの気持ちが収まらないままで受話器を持っていた。

試合が終わってからついさっきまで、ぼくは浜田剛史の兄、雄二さんたちと六本木へ行き、「浜田剛史の世界チャンピオン誕生」を祝っていたのだ。
祝杯で何度も快哉を叫び、何度も乾杯を繰り返し、深夜の今、タクシーで家へ戻ってきたところだった。
そして、家の扉を開けると同時に、ぼくの耳に電話の鳴り響く音が聞こえてきたのだ。
それが浜田剛史からの電話だった。

グランドパレスホテル2015室。
試合の3日前から集中のために入っていたホテル。試合後浜田剛史はその部屋に戻り、そこから電話をかけてきていた。
浜田はひとりになり、長かった道のりだった、世界タイトルマッチへの道が終焉したことの、喜びというより、安堵からの疲れ…そんな空気が受話器の声から伝わってきた。
「本当に来たね」
ぼくがそう言ったあと、しばらく沈黙がつづいた。
浜田剛史と出会ってからの3年間、浜田剛史はせっぱ詰まった毎日の中で、世界チャンピオンという夢に向かって、毎日120%の想像を絶する激しい鍛錬の日々を送ってきた。
「毎日が自分の限界ギリギリまでやらないと、悔いを残しますから」
そんな浜田剛史の言葉通りの練習を見続けていくうちに、「浜田剛史の世界チャンピオンになる」という夢は、ぼくの夢にもなっていた。

思えば83年から86年までの3年間は、ぼく自身の生活も浜田剛史を中心に生きた3年間だった。
毎日のようにジムへ通い、世界戦前には、ただ応援しかできない…命を、生きているすべてを賭けている浜田に対して、自分は見ているだけしかできないのかというジレンマ。
身体の中から、掻きむしられるような、何か、何かを共有しなければ、逆に堪えられない、そこまでの浜田を見てくることから生まれてきた感情から、減量に苦しむ浜田剛史と少しでも同じ苦しみを、夢に生きるという苦しみを共にしたいと、ぼく自身も10キロの減量もやった。世界戦のポスターのイラストを帝拳ジムの依頼で描くことになっていたことから、帝拳ジムのマネージャーの長野さんに、10キロ減量できなかったら原稿料は受け取らないと断言しての減量である。

そこまで思わせた浜田剛史のあの日々の苦しみが、報われたという気持ちから、あれほどまでに苦しく辛い3年間が、何か懐かしい思い出となって、言葉とともに、互いの頭の中のスクリーンに、いくつもの場面、瞬間が映し出されていく。
「とにかく凄いよ、ありがとう!」
受話器を握りしめぼくは言った。
熱い涙ががまんしきれず、とりとめもなく流れた。
思い出話だった。
たわいもない思い出話だった。
「初めてぼくの家へ食事に来た日のこと、覚えている?」
「はっきりと覚えてますよ」
「あのとき、うちのカミさんと写真を撮って、将来の世界チャンピオンと写真を撮るのだから光栄なんだぞって、たしか言ったよね」
「覚えてますよ。あのとき奥さんの写真を撮るというので、それまでしていた眼鏡を外して撮ったんですよね」
「そのあと、田中さんが、この写真は貴重になるよって言ったんですよ」
「そんなことまで言ったっけなぁ」
「間違いなく言いました」
そうなんだ。
浜田剛史と話していると、その記憶力にはいつも感心させられる。
“あの日”の情景を、話した言葉の些細な部分までも、浜田は細やかに語ってみせるのだ。

ぼくらは1時間ほど、3年の日々を思い出し語り合った。
浜田剛史は小学校4年のときに、「世界チャンピオンになる」と決め、その夢を追い、ここまで翔りつづけてきた。
そして、その夢に数時間前にたどり着いたのだ。
夢にたどり着いたとき、そのときの浜田の気持ちは「喜び」ではなく、「終わった」という気持ち。
浜田剛史の長い夢の終焉である。
そして、終焉することで、長い、長い夢の道で凝固した疲れが、浜田剛史の身体いっぱいに広がっていたようだ。
「疲れました」
電話で話す会話の中で、その言葉が何度繰り返されたことか。
だが、その「疲れた」の言葉の中に、昨日のリングへ上がる前までとは違った、安堵の気持ちが感じとれた。
「何度も語り合った、世界チャンピオンの夢」
「本当に来たんだね」
ぼくはそう言って電話を切った。
その夜、ぼくはここ1週間の、不安と緊張で眠れなかった昨晩までの夜と違って、昂揚した気持ちから、また不眠の夜を1日延ばすことになっていった。

 

それは3年前にはじまった

 浜田との電話を切ったあと、ぼくはベッドに横たわり、高揚感で眠れない興奮した気持ちの中、2ヶ月半前の、1986年5月10日のことを思い出していた。
 夢を叶える長かった道の、最後のリアル、“世界挑戦”が動き出した日である。

その日、ぼくは浜田剛史と、帝拳ジムの近くにある喫茶店『どっか』にいた。
「ボクサーは身体が資本ですから」と、口から入れるものは、身体にいいものしか入れないと決めている浜田は、その日もオレンジ100%の生ジュースを注文していた。
「世界挑戦やっと決まったね」
ぼくは昂揚と緊張の顔でそう言うと、浜田は小さく何度も頷き、少し間を置き、「3年…ですか」と、ゆっくり荘重に言った。
そう言ってから「あの場所でしたね」と、浜田は店の片隅を指さした。
3年前の夏、帝拳ジムに浜田剛史の練習を見に行きだして、初めて、浜田と語った場所だった。
そのテーブルに座った浜田は、黒のスラックスに、黒のカラーシャツを着ていたのを覚えている。
服でその肉体を包んでいても、その肉体からは服の繊維の隙間からまで発してくるのか、ムッ!とした威圧的な“気”を感じさせてくる。一種異様な厳粛の中でマグマが沸き上がってきているというような男だというのが、そのとき感じた、初めて目の前に対峙したとき感じた浜田剛史の印象だった。

後楽園ホールでの復帰のスパーリングを見て、何かに惹かれるように帝拳ジムに通い始めたぼくだったが、その浜田剛史が左拳の骨折から再起戦まで、なぜ2年の歳月がかかったか、詳しくはぼくはまだ知らなかった。
そんなぼくに対して浜田は、ボソリと語り始める。

そのとき初めて、ぼくは浜田再起までの2年間に、左拳の3度の骨折の繰り返しと、2度の手術を行ったことを知ったのだ。
浜田がそのとき見せてくれた左手には、人差し指の付け根にそって、太いケロイド状の縫い跡が走っていた。
「足がダメなら、引きずってもどうにかなるのですが、拳はボクサーの商売道具ですからね。どうしようもなかったわけです」
その語り口調から、その2年間の腹の奥底でズン!と重しがのし掛かったような、どうしようもなかった思いの苦しさが感じ取れる。
「あと1年だけ拳が持ってくれたらいいです。とにかく100%のことをやるだけやって、あとは自分に運があるか、それを確かめようと思ってるんです」
「やらないで運がまわってくるわけないですから、やるだけやっての1年…今はそれだけです」
そのとき浜田は、世界チャンピオンの夢というよりは、自分自身のけじめを考えているようだった。

浜田剛史の、ここまでだれよりもボクサーとして生きてきたという矜持から、自分の納得した相手と終焉を迎える。
それが2年間のブランクで、辞めることなく、いや、それだけではなく、普通のボクサーの何倍もの練習を、リングに上がれない目標が見えない中でひたすら鍛錬の日々を送った浜田剛史の復帰の答えだった。
 
3年前のテーブルを見つめながら、浜田剛史はゆっくりとオレンジジュースをすする。
「1年のつもりが3年ですか…まさかこれだけ試合ができるとは思ってもいなかったですね」
そう、あれから3年が経っていた。

 

自分のために闘う

この3年間に、浜田剛史は10試合闘い、ひとつのノーコンテストを含めて、すべての試合に勝ってきた。
骨折前からつづけてきた15連続KOの日本記録、日本チャンピオン、東洋太平洋チャンピオンと、浜田は勝ちつづけることで記録、タイトルを手にし、勝ち続けることで、世界タイトル挑戦の権利をついに得るところまでやってきた。

 

「カムバックしてからと、する前では気持ちがぜんぜん変わってきましたね」
「カムバックする前は、ボクシングは楽しかったですよ。さぁ、次はだれと闘うか!世界チャンピオンと闘うまであといくつかって…」
「高校卒業してプロになったとき、自分なりに計算して、22歳で世界チャンピオンになると決めてましたからね。怖いもの知らずというのですか、リングに上がるのが本当に楽しかったですよ」
「それが、カムバックしてしてから気持ちが全然違ってきましたね。勝って嬉しいということじゃなくなりました」
「勝った喜びよりも、“拳は大丈夫か”って、次の試合を考えましたよ。今度折ったら終わりですからね」
「まわりの期待も大きくなっていったし、それを裏切っちゃいけないという思いもあったんです」
浜田はオレンジジュースの氷をカラカラとかき混ぜながら、述懐を続ける。
「今度の世界戦は、自分のやりたいように、自分のためだけに闘うつもりです」
「15連続KO、そして世界戦まで勝ちつづけたことで、周りに対する“義理”は果たしたと思ってます」
「世界タイトルに挑むのは自分だし、自分の身体ですから。そしてこのタイトルマッチが自分の小学4年からの夢でしたから、この試合で身体がどうなってもいいと思っていますよ。このために今までやってきたわけですから」
「そう決めたら、後のことなんか考えず、この試合のことだけ考えたらいいわけですからね」
「とにかく自分のボクシングで、生きてきたすべてを出すことだけ考えてやりますよ」
 
浜田はこの日、世界タイトルが決まったこの日、復帰してからの3年間の思いを吐き出すようにぼくに語ってくれた。
それは“この日”が、浜田剛史にとって、いかに長かったか…
その思いが言葉となっていた。

そうなんだ、世界タイトル挑戦は、世界ランキング10位以内に入れば、間違いなく挑戦の権利を得ることになる。
11ヶ月前の、1985年8月のランキングで、浜田はWBC世界ライト級9位にランキングされている。
だが“この日”まで、ラミレス、コステロ、サッコ、オリバ、スミスと、5人の世界チャンピオンへの挑戦が決まりかけては流れつづけた。
その間、浜田は焦ることなくこう言い続けていた。
「だれもが納得する一番強いヤツとやりたい」
そして今日、ボクシング関係者たちだれもが、「間違いなくスーパーチャンピオンになるボクサー」だと言う、まさに最強の世界チャンピオン、レネ・アルレドンドへの挑戦が決まったのだ。
「夢への最後の場所にたどり着いたことへの祝杯をあげようか」
ぼくはそう言って喫茶店の席を立った。

祝杯はふたりで新宿三丁目にある沖縄料理店『かりゆし』へ行き、浜田の大好物であるゴーヤチャンプルなど、浜田のふるさとの味、沖縄料理を腹一杯食べた。
食事が終わり、店を出ると、そこには土曜の新宿の夜の喧騒があった。
人混みをくぐり抜け、浜田は素早くタクシーに乗り込み、タクシーのドアが閉まる瞬間、浜田はぼくに言った。
「レネの38勝34KOいいですね」
そう言った浜田の顔は、心の底から納得の、そう、最強のチャンピオンと闘える、納得の笑顔だった。
浜田の乗せたタクシーは、新宿の浮かれ酔狂した人混みと、燦然としたネオンとの夾雑音の中を、強い、真っ直ぐに強い意志が伸びていくように走り去っていった。
この食事のあとから、すべてが、浜田剛史の生きているすべてが、世界タイトルへ向けての日々となったのだ。
それが1986年5月10日だった。

 

輪島功一さんの言う「休む勇気」

5月30日。
伊豆・伊東のサザンクロス・ゴルフ場での、浜田の世界挑戦に向けてのキャンプが始まった。

後輩の島本和博選手を連れてのキャンプインである。
朝6時、まだ寒い太平洋からの風をうけて、軽く準備体操をしたあと、勢いよく1時間、約15キロのゴルフ場でのロードワークに飛び出していった。
「今回のキャンプはとにかく無理しないでおこう」
浜田はそう決めていた。
いつものキャンプで走る、半分ほどのスピードでのロードワークだったが、それでも後輩の島本は浜田に付いていくのに必死だった。
そのとき浜田は、半月板損傷で痛めていた右膝を、前回の試合後、まったく秘密時に手術していたのである。
2年間で4度の左拳骨折のあと、浜田はこの右膝の痛みに悩まされ耐えていたのだ。
「ロスでやったレセンデス戦(84年3月2日)以後、五体満足で闘った試合はないですね。いつもどこか故障してましたよ」
「原因はすべてオーバーワークということはわかっていましたからね」
「ここまであと1試合、次が最後。そんな気持ちでやってきましたから、毎日の練習が限度を超えたところまで、いつもやっていたと思いますよ」
「それが3年ですからね。これだけやったら、身体にいいわけないでしょう」
 悔いを残したくないと、浜田は人の何倍もの、限界ギリギリの、いや、限界を超えた120%の力でつねに練習をしてきていた。
オーバーワークになるとわかっていながら、それでも限界を超えて、身体が悲鳴を上げてもその悲鳴を越える意志が身体を動かせていく。
それが浜田剛史の練習だった。

だが今回は違う。
「世界戦はベストの状態でリングへ上がる」
今までの、「やるだけやって悔いを残さない」ための思いとは違う。
「最高の状態でリングに上がることが悔いを残さないこと」と、その状態でリングに上がるをテーマとして持っていた。
そのために、浜田はキャンプに入ってから、身体に負担をかけない練習スケジュールを組み立て、それをこなすことにしていた。いつも限界ギリギリ、いや、限界を超えて、周りのボクサーたちの何倍もやってきた練習から、最小限の収斂された練習へと、それが今回の悔いを残さぬための練習だった。
「とにかく、もう体躯はできてますからね。あとはどこも故障しないで試合に持っていくための練習、筋力を落とさないための練習でいいと思ったんです」

 以前、世界J・ミドル級チャンピオンを3度も獲得した“炎の男”、輪島功一氏がオーバーワークについて、ぼくに話してくれたことがあった。
輪島功一の世界タイトル7度目の防衛戦で、オスカー・アルバラード・ショットガンに15Rに壮絶なKO負け、だが、その7ヶ月後に、「絶対に勝てない」という周りの声の中、見事な動きを見せ、ショットガンから、15R判定勝ちでタイトル奪回。
その輪島功一の奇跡の復活劇をヤングサンデーというマンガ雑誌で描くために、何度も話を三鷹の輪島さんの自宅に通い、そのとき聞いた話だった。
「ショットガン戦で負けたとき、あれはオーバーワークだったわけね。それで次の試合、練習量を半分に減らすことにしたわけ」
「練習量を減らしたら“おっ、楽だな”って思うでしょ。これが違うんだね。3倍も4倍も苦しく感じるんだね。わかる?」
「勇気がいるわけ。練習しない勇気」
「練習しないで身体を休めているとき、不安になってね。横になっても身体を動かしているわけね」
「いままでは、これだけやったんだというのが自分の自信になるよね。それがなくなるわけでしょ」
 「ここまで練習で自分を作ってきた人間には、練習しないというのは大きな勇気がいるものなんだよね」
浜田剛史が練習量を落としてのキャンプイン。
ぼくは輪島功一のその言葉を思い出していた。

 

本能で闘ってきた

輪島功一の言っていたような不安はないのか?
キャンプで浜田は、朝6時から2時間。昼の3時から2時間の練習以外は、食事を除いて、サザンクロス・ホテルの自分の部屋で横になって休むことに徹してきた。
休むことも練習。
そう思うことで、練習量を減らしたことを気持ちの中で割り切っているようだ。
そう、浜田自身、じっとしていること、ボクシングのため身体を休め静思するということは、東京へ出てきてずっとやってきたことなのだ。

沖縄から東京へ出てきて5年間、浜田はテレビを持たなかった。
ジムでボクシングのビデオを見る以外、外でもテレビの画面はほとんど見ていない。
電話も持っていなかった。
テレビを見れば目に負担がかかるし、電話があれば、休んでいる時間を起こされて邪魔されることもある。 
つまりボクサーとして生きることに、必要だと思われないものは、まったく浜田のまわりにはない。
浜田はそうやってボクサーとして生きてきたということだ。

「ここ(キャンプ地)は空気がよくて、よく眠れますよ」
満足そうな笑顔でそう言った浜田の顔には、練習量を減らした不安などまったく感じさせなかった。
そうなんだ。
浜田は「これだけやったという練習が自信」とか、そういった域なんて、3年前に出会った時から越えていたということだ。
浜田がこれほどまでに練習に打ち込んできたのが、「自信」ではなく、「最後」をいつも意識して生きてきていたから…それをぼくは見てきたじゃないか。
ぼくは浜田の笑顔に、自分に対して、思いが徒労だったことに苦笑するしかなかった。

キャンプもあと3日で終わりというころ、浜田の泊まっているホテルの1階にあるコーヒーショップに、浜田とふたりで座っていた。
朝の10時だった。
浜田はぼんやりと、コーヒーショップのガラス戸の外に広がるゴルフ場を見ていた。
外は雨。
浜田の前には、いつものように果汁100%のオレンジジュースが置かれていた。
浜田の目線の先は、次々とゴルフ場へとスタートしていく人たちに向けられている。
「ゴルフっておもしろいのでしょうね」
浜田はゴルファーたちを見ながらボソリとそう言ってきた。
「どうかな、ぼくはやらないからわからないけれど…」
「ぜったいにおもしろいですよ。でなければこんな雨の中、お金を払ってまでやるわけないですからね」
「たしかにそうだな」
ふたりで窓の外へとゴルフをやりに向かう人たちを目で追い、6月の雨の音を聞きながら時間が流れる。
「浜田さんは、小学4年までリトルで野球をやるほどだから、野球に夢中だったですよね」
「何でその後、ボクシングにここまで惹かれるようになったんですかね」
ぼくはゴルフの始まる高揚感を持って、ラウンドに嬉しそうに出て行くゴルファーたちを見つめながら訊ねる。
「ボクシングはだれにでもできるものじゃないと思うんですよね。1対1、野球のように勝っても、9人で勝った。負けても9人で負けたというんじゃないでしょ」
「自分自身がひとりで白黒をハッキリさせるというのがいいですね。子供のころ、やっぱりそういうところに惹かれて、野球よりボクシングがいいなと思ったんだと思いますよ」
「それに人によく、なぜボクシングをやってるのかって聞かれるけど、答えようがないですね。自分では“夢”ってよく答えているけど、それだけじゃないと思いますよ」
「“あしたのジョー”の矢吹丈じゃないけれど、“本能”でしょうね。ボクサーとしての本能みたいなものが、ここまでボクシングを自分にやらせていると思いますよ」
「本能…」
外の雨はだんだんとひどくなり、ゴルファーたちもあきらめたらしく、コースにはだれも人影はいなくなっていた。

神のみが知る

6月7日
伊豆・伊東のキャンプから帰った浜田とぼくは、日航の沖縄行き909便に乗っていた。


8日に、沖縄の浜田の生まれ育った中城村の役場で行われる、世界挑戦のために作ったガウンの受け渡し式に出るためだ。
浜田剛史のために、沖縄を代表する画家で陶芸家の与那覇朝大先生が描いた、沖縄の魔除けの象徴、シーサーの画を背に刺繍で作り上げた、純白のガウンが出来上がってきたのだ。

「沖縄に着いたら、もずくとゴーヤチャンプル食べに行きますか」
飛行機の中で浜田が言ってきた。
「いいねぇ」
ぼくがそう返事をしたときの浜田の笑顔。
2時間前まで帝拳ジムでギシギシと骨が軋むほどの練習していた、厳しいあのときの顔とは別人のような、高校まで育った沖縄へ向かうことでか、稚気を感じさせる顔になっていた。
世界戦が決まった、あの新宿三丁目の沖縄料理店で見せた以来の柔らかい表情である。
だがそんなときでも、飛行機の中、浜田との話はボクシングの話だ。
世界チャンピオン、レネ・アルレドンドにいかに挑むか…そんな話になっていた。
浜田はもちろん、ぼくもレネの試合はビデオで何試合か見ていることもあって、レネの強さが尋常ではなく、ゾクゾクするほどの狂気、研ぎ澄まされたサバイバルナイフのような、強さと鋭さを持ち合わせた、超の付くレベルのチャンピオンだということはわかっていた。
その狂気と闘う。
「前半勝負ですね」
浜田はキッパリと言い切った。
「1Rから狙っていくしかないと思いますよ」
「早い回じゃないですか、勝負がつくのは」
すでにそのときから、浜田の中では、1Rからの勝負は決めていたようだ。
「自分のボクシングは前に出て行くボクシングしかないわけですから、自分の今までやってきたスタイルしか考えてないですからね」
「それで自分のボクシングが通用するか、しないか、あとは運命の神のみが知る。それでいいんじゃないですか」
ぼくは浜田の言葉に小さく頷くしかなかった。
「たしかにそうかもしれない…」

 

世界戦は運命

6月8日。
役場に後援会の人たちが集まって、ガウンの受け渡し式が行われた。
浜田が受け取ったガウンを広げる。
真っ白なガウンの背中に、今にも飛びかかろうと毛を逆立て、まさに聖獣の凄みを見せる、与那覇朝大画伯の描いた激越のシーサーが刺繍となり、黒糸と、赤糸で見事に創り上げられている。
「いいですね」
満足した顔で浜田はガウンのシーサーを睨み付けるように見つめている。
「7年前ですか、沖縄から東京に出てきたとき、東京の家の屋根の上にはシーサーがないんですよね。あれって思いましたね。それで初めてシーサーが沖縄だけの守り神だということを知ったんです」
「そのとき、よし!世界戦をやるときは、シーサーをトレードマークにして、リングに上がろうと、そう決めてたわけです」
浜田が決めていたことが、ひとつひとつ形になっていく。
そう、浜田は世界チャンピオンになるために、何をやっていくか、そのイメージを作って歩んできていたのだ。

ガウンの受け渡し式が終わると、浜田の父、昌吉さんに連れられて、浜田の実家に向かった。
沖縄本島の中部の東海岸にある中城城跡地の近くに浜田の実家はある。
浜田家に着くと3匹の犬たちが向かえてくれた。
玄関を入ると、浜田の甥、姪たちが飛び出してくる。
そして浜田の兄、雄二さんが現れた
浜田剛史がボクシングを始めるようになったのは、すべてこの兄、雄二の影響からだった。
無敵のボクサーだった兄、雄二の高校時代、浜田剛史にとって、兄は憧れの存在だった。
兄、雄二が世界で一番強いと、浜田はそう信じていた。
子供の浜田から見て、つねに雄二のボクシングの試合は、相手とまったくレベルが違う、負けるということがまったく想像できない強さを誇っていた。
「兄は世界チャンピオンになれる」と、浜田はそう信じていたのだ。
その兄が負けた。
そのとき浜田は、「ボクシングは何って凄いんだ!」「世界にはどれほど強いヤツがいるんだ!?」「あの強い兄でさえ勝てない場所とは、どれだけ凄い場所なんだ」と、兄が負けたことで、ボクシングの凄さ、深さに惹かれ、自分自身の拳を握りしめたのだった。
そして兄とともに、11歳のときロードワークを始めたのが、浜田剛史が本気でボクシングを始めたきっかけだった。

「レネ・アルレドンドへの挑戦が決まったとき、何か運命を感じましたよ」
そう言って兄、雄二さんが話しかけてきた。
「12~13年前ですね。沖縄でレネの兄、リカルドが試合したことがあるんですよ」
知っている。
1973年11月29日、ノンタイトルマッチで上原康恒と闘い、何と世界でまだ無名だった上原がリカルドに判定勝ちした試合だ。
とは言っても、リカルドは当時、5度の防衛をつづけているWBCJライト級の世界チャンピオンで、タイトル奪取、そして防衛戦の対戦相手4人は日本人のボクサーと、日本人キラーと呼ばれた世界チャンピオンである。
「そのとき、私が県のチャンピオンだったということもあって、リカルドとスパーリングで闘ったんです」
「私のスパーリングでの世界挑戦だったわけですけどね」
雄二にとって、現役の世界チャンピオンとスパーリングで闘ったことは、ボクサーとしての誇りであり自慢だった。
リカルド・アルレドンドと闘ったという矜持。
「それが今度は、剛史がリカルドの弟、レネと本当の世界戦ですからね」
「兄弟同士で何か運命みたいなものを感じましたよ」
雄二さん話しているとき、となりから浜田剛史の笑い声が聞こえてきた。
振り向くと、浜田は相好を崩して、幼稚園前の姪とふざけ合っていた。
ボクサーとしては決して見せたことのない、やさしい双眸がそこにあった。
世界戦を前にした、短い戦士の休息があった。

スランプ

沖縄から帰ってきてから、浜田の調子がおかしい。
桑田トレーナーにミットに叩きつけられるパンチに、いつものような、骨の芯まで響くあの激越の迫力が感じられない。
桑田トレーナーは首をかしげながらつぶやくように言った。
「おかしいよ。いつもなら1回のミット打ちでバンテージが2回は切れていたのに、ここのところ1回も切れないんだ」
帝拳ジムの本田会長、長野ハルマネージャー、桑田トレーナーたちみんなが、そんな浜田に首を傾げる。
世界戦まであと一ヶ月を切っている…だれもが焦燥感を覚えていた。

ジムの帰りだった。
疲労感いっぱいの顔をしかめながら、浜田が苦しそうにつぶやく。
「何か3年間の疲れがいっぺんに出てきたみたいです。3階のジムへ上がる階段だけで疲れてしまう…こんなことは初めてです」
ぼくはそのとき、3年前、復帰戦を2RKOで終えたあとに浜田が話した言葉を思い出していた。
あと1年だけ拳が持ってほしいと、そう浜田が言っていた3年前である。
「復帰してからずっと弓の糸をいっぱいに張りつめたような、そんな気持ちがつづいています。弓の糸というのは、ずっと張りっぱなしだと切れてしまうらしいですね」
「ボクサーも同じだと思うんです。試合が終わって一度気持ちを弛めないと切れてしまうと思うんです。だけど、今弛める余裕なんてないですね」
「あと1年、張りつめていくしかないですね」
そう言ってから、張りつめた糸はすでにあれから3年が経っていた。
1度も弛めることなく張ってきた糸が、切れてしまったのではないだろうか…
そう、身体の糸が切れたかのように、そのころ浜田の身体に異常が起こっていた。
膝の痛み以外に、目がよく見えなくなってきていたのだ。
電気を消した室内で、安物のサングラスをしているように、すべてが薄暗い闇の中にいるように見えてしまう。
それを隠して浜田は練習をつづけていたのだ。
スパーリング中だった。
「浜田、おまえ目が見えないんじゃないのか?」
本田会長が「まさか」といった顔で気づいた。
浜田は首を縦に小さく振り頷いてみせた。
極度の疲労から来る、視力低下だった。

世界戦まであと2週間…
本田会長、長野ハルマネージャーが、試合キャンセルまで考えるほど、浜田の体調はおかしくなっていた。

7月14日。午後4時18分、WBC世界Jウエルター級チャンピオン、レネ・アルレドンドを乗せた、ニースウエスト111便が成田空港に降り立った。
1メートル80センチの長身に、まるでハリウッドスターを思わせる、美青年チャンピオンは、元世界チャンピオンの兄、リカルドとともにその足で、午後7時の、東京、九段のホテルグランドパレスでの記者会見に現れた。
レネは終始にこやかに笑みを見せながら言い放つ。
「私は勝つために日本へ来た」
余裕の目でそう言ってから、白い歯を見せる。
その態度には、肌のつや、引き締まった筋肉と、最高の仕上がりを見せている体躯に裏付けされた自信が見える。
浜田とは対照的な、その体躯から放つ強さ…世界の頂点にいるという自信と矜持から来るオーラをレネは放っている。
ぼくはレネに向かってシャッターを切る。
そのすべての写真の中で、レネは笑顔を見せていた。
作った笑顔ではない、自信の、身体の奧から放たれる笑顔である。
その笑顔だけでも、このボクサーがどれほどのことを、どれほどの修羅を勝ち抜いて勝ち得た自信かが、不気味なほど感じ取ることができた。
恐ろしいチャンピオンだ。
 

レネは歴史に残るチャンピオン

次の日からレネは、浜田とは時間をずらして帝拳ジムで練習を始めた。
鋼のような無駄のない鍛えられた筋肉の体躯を、上から下まで青一色で包み込んだタンクトップとパンツ姿でレネは現れた。
そしてリングの隅に長い足を放り出し座ると、青く染めたバンテージをゆっくりと巻き始める。
そんなレネを取り囲む、記者、カメラマンに向かって、レネは笑みを絶やさない。
ギラギラとした鋭い眼光に、笑みである。
取り囲むマスコミの数に満足しているといった、そういった笑みだ。
その姿は、ナルシストのハリウッドスターが、人に注目を浴びれば浴びるほど、そのオーラを発するように、レネは瀟洒な姿をまわりに見せつけ魅力を発している。
 
練習が開始される。

ズババァーン!!ババァァァーン!!ズババババババァァァァーン!!!

兄リカルドのミットに、右ストレート、左フック、左アッパーと突き刺さる。
浜田のミット打ちの、ズン!といった重さを感じる炸裂音に対して、レネのミット打ちは打ち抜く高音速が空気を振動させる。
高音速でミットの遙か先まで真っ直ぐに打ち抜き、そして炸裂する響きが空気で伝わってくるのだ。
目が変わった。
野生、野生の豹といった、獲物を狙う眼孔がミットを捕らえた瞬間、その高音速の炸裂音がジムに響き渡る。


取材陣が固まっている。
驚きと感嘆と、そしてすでに浜田のタイトル奪取に対して、あきらめの声さえあがっている。
「なぜこんな強い相手を選んだんだ!?」
レネは練習1日、いや、開始5分にして、取材に来ているすべてのものに、「浜田が勝つのは難しい」と言わせてしまった。
 
レネの練習とは対照的に、浜田はスパーリングのスケジュールを減らし、練習もこの時期に2日間休んだ。
この時期に練習を休むというのは、まさに輪島功一の言っていた「勇気」がいることだ。
だが、その「勇気」以上に動けなかったのだ。
浜田の身体は、生気を奪われ疲れというより脱力が体躯を襲ってくる。
桑田トレーナーは、浜田のパンチをミットで受けながら、目の前の浜田が幻に見えたという。
今まで、浜田のパンチを受けるというのは、「死」を意識してのミットだった。
タイミングがずれたとき、そのパンチを受けそこなったとき、それはケガですまないと、「死」を感じるパンチ…そこまでのギリギリの緊張で受けていたはずだ。
だが今、目の前にいる浜田は幻覚にしか見えなかった…そして感じなかった。
「どうしたというんだ…」
浜田に付きっきりで練習を見続けている桑田トレーナーが、そんな浜田に向かって言う。
「勝つには前半しかない。おまえもそう考えているのと違うか!?」
浜田は頷いている。
だが、その前半勝負にしても、せめて3Rだけでも本来の浜田剛史に戻さなければどうにもならない…
だから桑田トレーナーは浜田に聞き、そして確認する。
「こんな浜田は見たことがない…」
世界戦が迫る中で、こんな状態で、その上練習量を減らして大丈夫なのか。
桑田トレーナーは、不安の中で浜田のパンチを受けるしかなかった。
ただ、焦燥感とともに、毎日が過ぎていく。

それに対してレネの評価は、日に日に上がっていく。
「浜田が本当に勝てるとでも思ってるの?レネは歴史に今から名を残すチャンピオンなんだぜ」
ボクシングジャーナリストが、ボクシングのことは全て分かっているといった自慢げな口調で言ってくる。
ボクシング関係者までもが、「浜田が負けるな」と、明晰に発言している。
勝算は8対2でレネが勝つと、そんな情報がマスコミの中で語られるようになっていた。
浜田の耳にも、レネの圧倒的有利という周りの声は入ってきていた。
「今の段階でどちらが強いかじゃないですよ。強いものが勝つじゃなく、リングの上の闘いで勝ったものが強い。そうじゃないですか」
最悪の状態でなお、浜田は闘争本能むき出しでそう言い放つ。

 

蘇る強打

 ズボォォォォッン!!!!!

ミットを打つ浜田剛史のパンチの衝撃が、桑田トレーナーの腕の筋肉、いや、体中の筋肉、いや、体中の骨までも響かせて肩からズン!と響いてくる。
試合1週間前のことだった。
 ハッ!ハ!ハ!ハッ!
浜田の呼吸がテンポを産み、重く、そして腹の底にまで響いてくる炸裂音がジム中に響き渡る。 

試合前の練習で身体を休ませるといった、『賭け』がうまくいったのだ。
ここまで浜田の身体に疲労が溜まっていたということなのか…
その疲労を試合直前にして、それもすべてを賭けてきた試合を前にして休んで取るなど、ここまで鍛え上げてきたものを無くしかねない怖さがあったはずだ。
だが、この賭けはうまくいった。
浜田の目が、ギラギラと射る、視線を合わすだけで恐怖を感じるあの目が蘇ってきている。
目だけじゃない。
身体が、身体から発する生気がレベルを上げて蘇って来ている。
視力の落ちた目の状態も悪くない。
「間に合いましたね」
ぼくの言葉に桑田トレーナーは「間に合った」と白い歯を見せ、そしてホッとした表情を見せた。

7月21日。
ジムで練習を終えた浜田は、ホテルグランドパレスの2015室に入った。
浜田はいつも試合前、雑用、食事の心配のいらないホテルに入り、集中力を高めて試合に挑むことにしている。
この世界戦は、試合の3日前に入った。
最後の減量をきっちりと調整するためでもあった。
 
2015室は20階の部屋である。
その窓から見える夜の東京。
浜田はその遠くまで光り輝く夜景を見ながら、漠然とこの街へ出てきてから7年かと思った。
この街は、世界チャンピオンになるためだけに過ごした7年の街である。
部屋から見える目の下には、今までいくつもの世界タイトルマッチの行われた八角形の薄緑色の屋根をした日本武道館が見えていた。
「あと3日で、この街へ来たことの答えが出る」
ホテルの窓ぎわには、計量器が置かれている。
台秤のミリグラムまで正確に測れるジムから持ってきた計量器である。
浜田はゆっくりと計量器に乗ってみる。
64.5キロ。
今着ている浴衣の重さを引くと、800グラムオーバーということになる。
「うまくいっているな」
浜田は納得の表情で計量器を下りた。
「今回の減量は8キロですけど、うまくいったと思います。約1ヶ月半前から減量をはじめて、1段階ずつ身体を慣らしながらの減量です」
「まず3キロ落とし、最初は苦しいですが、人間の身体というものは、その体重に慣れてくるんです」
「そしてまた落とす。繰り返しですね」
「とにかく疲れもあったし、食べながら最後まで行こうと決めてましたから」
その夜、浜田は枕が変わったことでなかなか寝付くことができなかった。
そこで、電話帳を2冊、枕代わりにすると、ぐっすりと眠りに落ちていった。

7月22日。
試合まであと2日。
完全休養である。
ホテルの部屋で身体を休める合間に、浜田が東京へ出てきたとき住んでいた町、王子の行きつけの散髪屋へ行き、髭を剃り、髪を整える。
それも今まで試合前にやってきた時と同じ、いつもどおりだ。

7月23日。
この日も浜田は身体を休めることだけ考え、部屋で横になっていた。
夜の7時。
浜田はゆっくりと計量器に乗ってみる。
63.3キロ。
リミットを200グラム切っていた。
「計量まで15時間。それだけあったら、何もしなくても200グラムは楽に落ちるわけです。だから500グラム食べても大丈夫」
「64キロまでは食べられると思い、スパゲティ少しと、メロンを食べましたね」
浜田の計画通り、絶食はしないで、最後の日まで食事を摂っての減量である。
浜田がゆっくりと食事をしているとき、部屋に桑田トレーナーがやってきた。
「ひとりでいたら、胃が痛くて眠れなくてね」
そう言いながら、ホテルの部屋の隅にあるソファーに桑田トレーナーは腰を下ろした。
そして黙って食事をしている浜田を見つめる。
本来なら、計量前日の身体は減量で肌がカサカサになるはずだ。
だが、浜田の肌にはまだ艶が残っている。
桑田トレーナーは「これなら勝負できる」と確信した。
浜田は食事が終わり、計量器にゆっくりと乗る。
「63.8。300オーバー…ピッタリですね」
浜田が言った。

 

レネの顔が不自然だ

7月24日。
世界戦の朝。
浜田は8時に桑田トレーナーに起こされた。
昨晩、浜田がレネとの闘いを、頭の中でシミュレーションしながらうつらうつらと、覚えているのが昨日の12時までだった。
「8時間以上熟睡できたな」
浜田が試合前にこれだけ眠れるのは珍しかった。
「いつもは夜中に何度も目が覚めるんですよね。緊張からじゃなくて、腹が減って、喉が渇いてですけど」
「これだけ眠れたということは、間違いなく減量がうまくいったということです」
桑田トレーナーがホテルの窓のカーテンを開ける。
眩しく沖縄で感じていたような夏の光が、部屋いっぱいに照射した。
その光の向こうは蒼だけが広がっている。
窓の外は真っ蒼な空である。
「さぁ、いよいよだな」
浜田は自分に向かって、心につぶやく。
そして桑田トレーナーに目を向けた。
緊張のためにあまり眠れなかったのだろう、桑田トレーナーの目が赤い。
「今日の夜、やっと何も考えずにぐっすり眠れるな」
浜田は起きあがりながら、熟睡したにもかかわらず、そんなことを考えている自分がおかしかった。
桑田トレーナーの赤い目を見たからだろう。

顔を洗い、計量器に乗ると、63.1キロ。400グラムほどマイナスである。
浜田はそれを確かめてから、子どものころから飲み続けているクロレラの粉末と、ミネラルウォーターを飲み、計量会場である後楽園ホールに向かった。
9時40分。
浜田は計量会場に入った。
会場の隅に作られた検診室で、吉田コミッションドクターの診察を浜田は受ける。
ボクシングはスポーツというより、生死を賭けた闘いというのが正しいかもしれない。
ボクサーのパンチは、浜田クラスになると、成人が木槌を持って、渾身の力で殴ったとき生じる衝撃力の1.5倍はある。
当たり所が悪ければなどではない。
防御を知らない素人なら、頭に受ければ確実に死ぬ。
そんな凶器を持った殴り合いがボクシングである。
だから、体調が悪くリングに上がることは危険と、ボクシングは健康診断を受けることも義務づけられているというわけだ。

浜田がその健康診断を受けているときに、レネは会場に入ってきた。
9時59分。
浜田はゆっくりと、計量器横の椅子に腰をかけた。
正面を見ると、レネはこっちを向き笑っている。
「何か不自然な笑いで、無理矢理余裕ありげに見せているといった笑いでしたね」
浜田はレネの心理状態を探りながら、身体、表情、呼吸…あらゆるものを冷静にチェックしながら見つめる。
試合はもう始まっているのだ。
午前10時からの計量は、まずレネが計量器に上がり63.2キロ。
そして浜田が上がり、63.4キロ。
二人ともにJ・ウエルター級リミットの63.5キロ内、1回でパスである。
会場から拍手がおこる。
ぼくがそんなふたりに向かってカメラのシャッターを切っているとき、レネは自分で持ってきた1リットルの紙パックのミネラルウォーターを、その場でがぶ飲みしはじめた。
浜田はそれを見逃さない。
「計量が終わってすぐ、相手が居ることなどおかまいなしに、水をがぶ飲みするということは、そうとうに減量に苦しんだということですね」
つまりそれが、レネのあの不自然な笑いにつながっていく。
レネも不安を抱えている。

後楽園ホールでの計量から、試合会場である両国国技館へ入るまでの時間、浜田は食事もすべて、グランドパレス2015室ですませた。
ホテルの部屋で8時間。
その8時間、浜田は睡魔に襲われた。
やたらと眠い。
ふと、そのとき浜田の頭に、3年前の再起戦のことが過ぎった。
「あの日、控え室でいろいろ考えていると、とてつもなく眠たくなったんですよね。試合前だというのに、横になって眠ってしまいたいような」
「それを思い出して、あのときと同じだと思ったんです」
あのときと同じ。
そう、あのときが始まりで、そして今日が終わり。
今日で3年間のすべてが決まるということだ。

午後4時まで、浜田は食事以外はホテルのベッドでうたた寝を繰り返した。
部屋の付けっぱなしのラジオから、映画「ロッキー」のテーマが流れてくる。
遠い記憶の中で、浜田はそれを聞いていた。
世界チャンピオンに挑むに、あまりにもピッタリの曲。
4時半、浜田はゆっくりと国技館へ向かう準備を始めた。
「時計を見たら、あと3時間でゴング。ただそう思いましたね」
「とにかくやれるだけのことはやった。今さら何を考えるわけでもない」
「ひとつだけ決めていることがある」
 「相手の左フックに対して、右を上げ、鋭く中へ入り、思い切りパンチを打つ」
浜田はそのことだけを、何度も頭で繰り返していた。

九段のホテルから、両国の国技館まで、混み合っていてハイヤーで50分ほどかかった。
その間も、ハイヤーのシートで浜田は目をつぶり、「相手の左フックに対して右を上げ、中へ入って思い切り打つ…」と、何度もそのことを、イメージして反芻し、シミュレーションしていた。
6時6分。
浜田剛史は試合会場である両国国技館へ入っていった。

 

期待されるのは好きじゃない。殴り込む!

午後7時。
ゴングまであと30分少しとなった。
「こっちの前半から勝負をかけるという作戦は、レネ側にはわかっているはず」
控え室に入った浜田に対して、本田会長の気合いの言葉が放たれる。
「だから最初レネは流すかもしれないが、それでも打っていこう!」
「こっちとしては打っていくしかないからな、最初からケンカのつもりで行け!」
そう、浜田だけじゃない。
だれもがこの試合に賭け挑もうとしている。
それぞれの立場で挑もうとしている。
会長の声を聞きながら、浜田は控え室でシャドーを始めていた。
「相手の左フックに対して、右を上げ、鋭く中へ入って打つ!」

午後7時35分。
控え室にテレビカメラが入ってきたと同時に、眩しいテレビのライトが浜田剛史を照らす。
浜田は白地に、背中にシーサーの黒と赤の刺繍のはいったガウンを着ている。
リングへの入場だ。
カッ!と照らされたあまりに眩しい光の中で、桑田トレーナーの「よしっ!」というかけ声がかかった。
本田会長、桑田トレーナー、鈴木トレーナーと、浜田を中心にだれもの顔が、ひとつの思いに集中する。
ボクサーの頂点。
その頂点の最後の闘いに挑みリングに上がるということがどういうことなのか。
だれもがわかっている。
わかっているだけに、今まで感じたことのない緊張が、セコンドに付くだれもにのし掛かっている。
そのとき、後ろから、マッチメーカーでボクシング評論家のジョー小泉氏が、セコンドたちに喝を入れるように、大きな声で叫ぶように声を上げた。
「いつものようにリングに上がって、いつものように勝ってくる!」

そうだ。いつものようにリングに上がり、いつものように勝ってリングを降りてくる。 いつものように。

ボニー・タイラーの「ヒーロー」の曲が流れ始める。
いつもの、浜田が入場していくときのいつもの曲だ。
その「ヒーロー」が両国国技館いっぱいに響きわたる。
興奮する鼓動とともに、リズムとシャウトするボーカルが一気に気持ちを爆発させる。
それまで静かだった、1万人の観客がいっせいに昂揚の表情に変わり、歓呼の声を上げながら会場全体が渦を巻くように熱が一斉に上がっていく。
だれもが期待している。
浜田剛史という男に、夢を、浜田剛史が夢を叶えることが、自分の夢につながる思い。
そういった力をもらいたい、だから力を預けたいといった腹の底からグツグツと沸き上がってくる期待の歓声が両国国技館を包んでいく。
 
浜田はゆっくりと会場へ通じる廊下の通路を歩いていく。
「やるだけのことはすべてやった」
通路の先に会場の光が目に入ってくる。
光とともに、「ヒーロー」の曲が耳の中で響き出す。
この曲は好きだ。
2年前からの自分の入場のテーマと決めている曲。
大音響。
通路を出たとき、浜田の目に眩しい光が差し込む。
目の前の道は、世界挑戦の青コーナーのリングへとつづいている。

なぜかそのとき、浜田は、2年4ヶ月前にロスで闘ったメキシコのボクサー、ホセ・レセンデス戦のことを思い出した。
あのときの会場、オリンピックオーデトリアムも、1万人以上の観客が会場を埋め尽くし、渦を巻く観客席のその見下ろされた中心に自分が立っていた。
ゴォォォォォッ!!といった、雪崩のように巻き起こる重厚な喧噪と怒声。
その1万人の観客はすべてがメキシコ人と言っていい。
全員が浜田を敵とみなし威圧をかけてきている。
そんな中、浜田のKO勝ちが不本意な無効試合とされた試合だった。

「期待されるのは好きじゃない。やぶれかぶれでいくのが自分には向いてます」
 「このとき、ロスで闘ったときと同じ、殴り込みのような気持ちに、一瞬切り替わったんです」
あのときと、ロスでの試合のときと同じ気持ちでリングへ上がる。
なぜなら、あの試合は自分の中での最高の試合ができたと思っているからだ。

浜田はゆっくりと、いつものようにリング横に用意された椅子に座り、リングシューズの裏に念入りに松ヤニをすり込んでいく。
そしてリングへの階段を上っていった。

浜田はボクシングをやってきて、有名になりたいとか、金持ちになりたいとか、女にもてたいとか、そんな気持ちを抱いたことなど一度もなかった。
ただ決めたこと。
世界チャンピオンになると決めたこと。
決めたことが、浜田にとって夢だということだ。
なりたいではなく、“必ずなる”という夢。
その気持ちだけで生きてきた男である。
「命がけの気持ちでした。この日のためにボクシングをやってきたわけですから、これが最後、この試合で身体が終わりになっても、今、闘えればそれでいい」
「15年間、この日のためだけにやってきたわけですから」
リングの最後の階段を上り終え、浜田剛史はそこに立っていた。
1986年7月24日の両国国技館。
そのリングの上に。

ぼくはそのとき、2階席から、600ミリのF2.8のレンズを構え、そのファインダーからリングに立った浜田を見つめていた。
息が詰まりそうになるとはこういうことなのか。
期待と、今日の試合、どちらも当たれば一撃で終わるといった緊張がすでに国技館に漂っている。
そのときラテンの陽気なリズムが流れてきた。
マイアミ・サウンドマシーンの「コンガ」という曲とともに、チャンピオン、レネ・アルレドンドが、兄にリカルドとともにリングへと入ってきたのだ。
黒と白のはっぴのような、ラフだがファッショナブルなガウンに身を包み、長身で端正なその顔に、ムービースターのような笑顔を見せての入場だ。
600ミリでレネの表情を捕らえる。
その笑顔に緊張が見える。
浜田が計量のとき言っていた、“無理矢理余裕ありげに見せている笑顔”がそこにある。

メキシコ国歌、君が代と両国の国歌が流れ、お互いガウンを脱ぎ、リング中央へアメリカのスティーブ・クロッソンレフリーの注意を聞くために近づく。
純白のトランクスに白のリングシューズ。右膝にはサポーターを巻いている浜田。
レネは、黒の白のサイドラインの入ったトランクスに、白のリングシューズだ。
 
カメラを構える身体全体に緊張が走る。
どう表現したらいいのだろうか…
この2年で、ぼくと浜田は、書き手と、その対象の関係を超えていた。
昨日の浜田の計量のとき、ぼくも帝拳ジムで計量している。
絞った身体からの減量の浜田に比べたら大したことはないのだが、ぼくも1ヶ月で10キロの減量を帝拳の長野ハルマネージャーと約束した。
今回の世界戦のポスターは、ぼくが描かせてもらった。
日本の世界戦で、イラストでポスターを創ったのはこれが最初というポスターだ。
そのポスターの原稿料を、浜田の計量の日にリミットを切らなければ、ノーギャラでいいですと、そう長野ハルマネージャーと約束していたのだ。
サウナに通い、食事を控え、最後はボクサーと同じように水分まで控え、カサカサになる肌も経験した。そして2度目の計量でギリギリパス。
浜田のこの世界戦に向けて、何か自分でもやらなければいられない気持ち…
応援ではなく、どこか一緒に闘いたい。
それはきっと、いや、この2年間、浜田剛史という男を見てきて、浜田の夢がいつしか自分の夢になっていたのだと思う。
減量という場所でだけだが、いっしょに闘ってここまで来たといった気持ちで、あのときのぼくはファインダーから浜田を見つめていた。
まるで自分も闘っているような…今考えると、そのときの写真を見ると、闘いのその気持ちまでもフイルムに焼き付けて撮っていた、高い体温を身体から発しての、汗を感じる写真が撮れている。
 
リング中央、クロッソンレフリーの注意を聞きながら、浜田はレネの目を直視している。
睨みつける目の中の光がレネを射ている。
獲物を射る目だ。
ファインダーの中から見ていても、その浜田の目のズンとくる強さに恐怖を感じる。
闘うというエネルギーが、もっと言えば「死」を意識してのエネルギーがその目から発せられている。
レネはその浜田の目を直視できない。
顔をレフリーの方へ向け、ぜったいに浜田と目を合わせようとはしない…
レネは口元にまだ笑みは浮かべているものの、その笑みが強張っている。
勝負はもう始まっていた。

ゴォォォォォォォッ!!
両国国技館の熱が渦を巻くように一気に上がっている。
カァーン!
1Rのゴングとともに浜田剛史は青コーナーを、獣が襲いかかるように飛び出していく。

ブォォォォォッ!

浜田は体制を低く飛び出した勢いのまま、いきなりの渾身の左を思い切りレネに放つ。
レネは下がりながらそのパンチを避けるが、パンチの威力に、あきらかに恐怖の表情が見える。
ビデオでいくら研究してきていても、その感触というものは、このリングの上で初めて感じるものだと、それは今まで出会ってきたボクサーから何度も聞いた言葉。

浜田はまったく間をおくことなく、グイグイと右でタイミングを計り、渾身の左パンチを思い切り放ち続けている。
「このラウンドですべてを出し尽くすつもりなのか…」
ファインダーの中の浜田にシャッターを切りながら、レネに余裕を与えないそのパンチの出し方に、ぼくはこのラウンドの浜田の覚悟をすぐに感じた。
まったく休むことなくパンチを浜田は繰り出しつづける。
レネはその浜田の勢いと威圧に、自分の体制すらとれなく、バランスまでも崩している。
レネが押されるように、ロープへと下がったときだ。

ガッ!

開始29秒、浜田がロープに身体を突っ込んでいる。
観客のだれもが、浜田の渾身のパンチの回転で、勢い余ってロープに突っ込んだと思っていた。
だが違う。
レネの左のショートが浜田の顎を捕らえたのだ。
ふつうなら、その瞬間に、「間」が生まれるはずだ。
浜田は後に、あのときのレネの左は「効いた」と答えている。
効いたパンチならば、一瞬、0.何秒か意識が抜ける瞬間があるはずだ。
だが、その「間」などなく、レネが襲いかかるべく次のパンチを入れてくる前に、浜田はまた、レネに対して距離を詰め、レネより先にパンチを放っている。
このラウンドがすべてと考えているからだ。
その集中力が、「間」の瞬間まで潰しているのだ。
身体が止まることなく自然に反応して動きつづけている。
100%、この1ラウンドにすべての力を注ぎ込む。
力というのは鍛えた筋力、ここまで磨いてきた技術力、そして生きることで身につけた精神力がある。
その生きてきた、このためだけに生きてきた力のすべてをこのラウンドに圧縮している。
つまりは、このラウンドで終わらなければ、ボクサーとして死ぬ覚悟。
その覚悟が、筋力も技術力も、精神力も、このラウンドだけは限界のない、この3分だけは無限大の力で挑んでいる挙措。
その覚悟を持って浜田は、レネにくっ付いての左右のパンチを、テンプルに向かって放っていく。
その浜田の威圧にレネがバランスを崩す。
尽かさず浜田は渾身の左右を、すべて倒すための渾身の左右を思い切り放っている。
スピードもある。
浜田の前へ前へ、頭を低くして密着するほどの前へ前への攻めが、腕の長いレネの打ち下ろすパンチを完全に殺している。
だが、レネは飛び込んでくる浜田に対して、レネの最大の武器といっていい、左フックを狙っている。
鋭く早いレネの左フック。
当たれば一瞬にして試合は終わってしまう恐怖。
だが浜田は飛び込むことで、素早く飛び込むことで、その左フックを殺す。
そう、浜田が何度も反芻した「相手の左フックに対して、右を上げ、鋭く中へ入って打つ!」確実にそれを繰り返しているのだ。
ふたりのギリギリで勝負を賭けている互いの呼気が、ファインダーの中からも伝わってくる。
レネはカウンターをあきらかに狙っている。
それでも浜田は身体を低く、そしてレネに向かって飛び込んでパンチを放つ。
ロープに詰まるレネ。
ガッ!
またもレネの左のショートフックが浜田のテンプルを捕らえる。
「ヤバイ!」
ぼくは思わずファインダーの中の浜田に声を上げていた。
だが、またも浜田は「間」をとることなく、レネの懐に入り、身体を密着させることで、レネのパンチを殺し、そして浜田はボディーへパンチを突き上げる。
たとえ効いていても、このラウンドがすべてと思うことで、その効いているという意識を頭から飛ばしている。
いや、意識を持つ前に、身体が動いているということだ。
レネが身体を丸める。
レネは飛び込んでくる浜田に対して、左のショートフック、アッパーを狙っている。
だが、レネが左を放つより早く、そして鋭くレネの中へ入り、密着しての浜田の左フック。
浜田がロープへ詰まった、ガードで顎とテンプルを固めたレネのボディへ左右のパンチを叩きつける。

ドスッッッッ!

ぼくがカメラを構える2階にまで聞こえてくるボディへのパンチ音。
浜田が言っていた。
ボディを打つのは勇気がいると。
懐に入るということは、相手のパンチの当たる距離に入らなければ打てないパンチ、それがボディだと。

2分40秒、レネの鼻から血が流れている。
このラウンドあと20秒。
レネもラウンドの終わりを意識して左右のパンチを鋭く放ってくる。
もうこのラウンド、時間がない。

600ミリレンズを取り付けたカメラミノルタα9000のフイルムが切れた。
36枚使い切ったのだ。
300ミリレンズのカメラに切り替える。
そちらのフイルムももうあと10枚しか残っていない。
300ミリに持ち替え、「このラウンドでだめだったか…」と心でつぶやいた、次の瞬間だった。
1ラウンド、2分57秒。

青コーナー左でロープを背負い、向かってくる浜田に対して、レネが右を放とうとした瞬間、浜田の放った右フック。
ぼくはシャッターを切った。

グボッッッッ!!

浜田の右がレネの左テンプルを捕らえ、レネの端正な顔が右から左へ弾き飛ぶように歪む。
レネの膝が折れる。

ここで倒れていればまだ起きあがることができたのかもしれない。
だが、レネもボクサーだ。
必死に持ちこたえようと、崩れていく身体を立て直そうと本能が動く。
だが浜田はそこでも「間」をおかない。
浜田のボクサーとしての本能は、捕らえた獲物は逃さない獣だ。
膝をおりながら踏ん張ったレネに向かって浜田は鋭く飛び込んでいく。
左を放ち、そして右、続けての右フックが倒れようとするレネの身体を宙に突き上げる。
そして左フック。

崩れるというより、落ちるようにレネが青コーナー前に仰向けに倒れる。

ズドォォォン!!

レネのその目は完全に逝っている。
意識はもうない。


 
1ラウンド、3分09秒。
浜田剛史の前には、レネ・アルレドンドが昏倒している。
浜田剛史のKO勝ちだ。
そのとき浜田は「勝った」ではなく、「終わった」とリングの上で感じていた。


 
これ以上ないといった、一気に破裂するほど高くなった興奮と歓喜の熱気の中、浜田はその熱気の中の中心にいながら、その熱気とは違う場所でこの情景を見つめていた。
青いリングマットに、両国国技館の枡席の客が興奮で投げた、赤い座布団が舞う。
リングに歓喜と興奮で飛び込んでくる会長の姿、その会長がリングのロープにつまずきリングに頭から落ちた姿に、「痛いだろうな」と、そんなことを思っている…

ぼくはそのときの浜田とは逆で、一気に炸裂した熱気の中で震え、叫んでいた。
あまりの興奮と歓喜で、浜田剛史がレネを倒したあとの記憶がしばらく自分の頭から飛んでいる。
周りに聞くと、その瞬間、ぼくに握手を求めようとした友人たちの前から、興奮で身体を震わせ、歓喜を叫びながら凄い勢いでリングへ向かって走っていったらしい。
2階からどう走ってリングサイドに向かったのか、まったく記憶がない。
ともかく、2階で写真を撮っていたはずなのに、ぼくはリングによじ登って、チャンピオンとなった浜田の前でシャッターを切っている。
涙で顔をグシャグシャにしながらシャッターを切っている。
その中の1枚。
「田中さんの声がしたので」
世界チャンピオンを奪取したにもかかわらず、笑顔を見せなかった浜田が、ぼくのカメラに向かって小さく笑ってくれた。


 
使い古したようなグローブ 
 

翌日、グランドパレスでの記者会見の後、ぼくは浜田剛史のホテルの部屋、2015室にいた。                               世界チャンピオンになったというのに、いつもどうりの浜田剛史が、ホテルの浴衣のまま、ベッドの横に座っている。
窓の下には昨日と同じくポツンと計量器が置いてあり、前日と変わったところと言えば、机の上に世界チャンピオンの認定書が置いてあり、その横に、2組のグローブが置かれてあるぐらいだ。
「いやぁ、疲れました」
浜田が声をかけてくる。
昨日の試合後の深夜の電話での会話で、その言葉はもう何度も聞いている。
だが、顔は笑顔だ。
安堵からくる笑顔の表情だ。
ホテルから見える窓の外は曇りだった。
ここ何週間も毎日、雨と曇りのつづく中、昨日の1日だけが晴天だったということになる。
ぼくは机の上に置かれた、8オンスの「REYES」製の赤いグローブを手に取ってみた。
2組のグローブのひとつは、使い古したグローブであり、もうひとつは真新しいグローブだ。
「これ、昨日の試合で使ったグローブ?」
ぼくは真新しい方のグローブを持って浜田に訊ねた。
「そっちはレネの使ったやつです」
「そしてこっちがオレの使ったヤツです」
浜田は机の上に置かれた、使い古したグローブを指さし言っている。
ぼくは驚いて、その使い古したグローブを手に取ってみる。
ナックルの部分が激しく痛んでいる…
それは、浜田が小学4年のとき、世界チャンピオンになると決めてからの15年、その15年が凝縮された象徴だとぼくは感じた。
15年間のすべてを出した189秒。
それがレネに浴びせた102発のパンチとなった。
その結果が、古く、ボロボロになったように見えるこの痛んだグローブである。
「1ラウンドでこんなになるまで殴ったら、拳も痛くなりますよ」
「昨日は両拳が痛くて眠れなかったですからね。一晩中冷蔵庫の氷を拳に乗せて、冷やしつづけてましたよ」
そう言って浜田は自分の両拳に目をやる。
「こんなこと5年前、左拳を骨折して以来ですか…」
 
そうなんだ。
浜田は復帰してこの3年間で、始めて“次の試合”を考えることなく、思い切りパンチを出しつづけたということなんだ。
「だけど、それだけレネにパンチを叩き込んでの、世界チャンピオンになっての痛みなんだから、それも快い痛みじゃない?」
ぼくが笑いながらそう言うと、浜田は少し間をおき、考えてからまじめな顔で答えてきた。
「痛いのは快いもんじゃないですよ」
 
1983年7月8日に、初めて浜田剛史に出会い、折しも1の数字の並ぶ、1111日目に、浜田は世界一のボクサー、世界チャンピオンに輝いた。
それは、小学4年からの15年間の夢が叶ったことでの、夢の終焉でもあった。
だが、夢の終焉はボクサーとしての終焉ではない。
世界チャンピオンになれば、あたりまえのことだが、そのタイトルを狙うボクサーたちがその頂点を狙って挑んでくる。
それは浜田と同じ、世界チャンピオンになる夢だけを追いかけ生きてきて、そして権利を得たボクサーたちの「夢」の場所に浜田は立ったということだからだ。
世界チャンピオンになるためだけ、世界チャンピオンが夢の終着だと考えて生きてきた浜田にとって、それは身体の限界をタイトルを奪取した時点で超えていた。
最初の防衛戦は、1986年12月2日のロニー・シールズ戦。
浜田はチャンピオンの矜持で、ボロボロになった身体で、いつものように激しい練習をこなし、そして判定勝ちを納めていく。

そして2度目の防衛戦。
 レネ・アルレドンドとのリターンマッチで、1987年7月22日、6ラウンドTKO(レフリーストップ)でタイトルを失う。
 2ラウンドに右目上を深くカットし、流血で3ラウンドからはほとんど右目が見えない状態で闘っての、6ラウンドでのTKO負けである。
これで浜田は引退するものだとぼくは思っていた。


 
実は浜田剛史が世界チャンピオンになった次の日、浜田本人から「終わりました」という言葉を聞いていた。
「終わりました」とは、つまりは「引退します」ということだ。
だが浜田は、張りつめた弓矢の糸をもう一度いっぱいに張り続けての1年を送ってきた。
世界チャンピオンとしての「責任」があったからだ。

その浜田がレネに負けた。
「責任」はこれで終わったはずだった。
身体も限界を超え、とてもリングに立てる状況ではないことは、本人が一番わかっていたはずだ。
その浜田が「このままでは終われない!」と言う言葉を吐いた。
レネに負けた試合、レネは1年前の壮絶なKO負けの恐怖に怯えて浜田と闘っていた。
パンチを放つときも、パンチを入れるときも「うっ!」「うっ!」と声を上げていた。
気合いの声ではない。
恐ろしくて、怖くて、それで声が出ていたのだ。
浜田はそれがわかっていた。
あの1年前とは別人のレネの姿。
浜田はいつも言っていた。
「強いものが勝つのではなく、勝ったものが強いのです」
浜田はレネに負けたわけだから、レネが強かったと、ただそれだけのことだと…
だが今回だけはそれが言えない。
レネは怖がっていた、そのレネに負けた自分が許せないと、夜も眠れないほど許せないと、その思いが「このままでは終われない!」となったのだ。

浜田は再び、リングで闘うために動き出した。
自分自身に決着をつけるべく、浜田は単独で沖縄でキャンプを張り、あのタイトルを取る前の浜田剛史が動き出していた。
そこには間違いなく、あのときと同じ、この闘いで死んでもいいといった、凄まじいばかりの闘志と覚悟があった。
そして再起戦は1988年3月21日、東京ドームでの、マイク・タイソン6度目の防衛戦のセミファイナルと決まった。
この試合の次は、世界タイトル挑戦という道が引かれての再起戦である。
だが…
だがだ。
再起戦の10日前、浜田剛史は突然引退した。

 

引退

その日、浜田剛史は高校時代からのライバルであり、親友であった元世界J・ライト級日本チャンピオン、安里佳満とスパーリングを行っていた。
「ここ3年で身体は一番いい状態」
そう本人が言っていたように、動きは悪くない。
だれの目にも、あと10日後に迫った東京ドームでの再起戦に向けて、最高の仕上がりのように見えていた。
ボクシングの巧さでは、日本人ボクサーでは1、2位を争う安里をコーナーに追いつめての連打。
そのたびに安里の「うっ!」「うっ!」という呻き声が聞こえてくる。
「どう、いい動きしているだろう」
浜田のトレーナーである桑田さんが笑顔で声をかけてきた。
「これなら21日の試合も1ラウンドで終わりですね」
ぼくも笑顔でそう言った。

だが、その日、浜田はジムでの練習がおわったあと、本田会長と少し話し、浜田かぼくの方を向き声をかけてきた。
「田中さん、写真を一枚撮ってください」
浜田が出会ってから初めて、自分から写真を撮ってほしいと言ってきた。
浜田はトレーナーの桑田さん、本田さんに「いっしょに撮りましょう」と声をかけ、ジムのリングに座り、ぼくの構えるレンズに顔を向けた。

ぼくは戸惑っていた。

ボクサーはリングに座って自分から写真を撮ることはほとんどない。
リングに座るということは、ダウンを連想させるからだ。

ぼくはシャッターを切った。

 

その日、浜田は自宅に帰るなり、試合に向けて、身の回りの手伝いに来てくれている姉に向かってこう言ったのだった。

「今日の食事、少し多めでいいから」

試合を前にした減量中の浜田のその言葉に、姉はすべてを理解した。
何事もなかったようにコクリとだけ頷く。

引退だ…

次の日から浜田は、東京ドームでの試合までの10日間、39度の熱にうなされた。
11歳からボクシング中心で生きてきた16年間。
高熱が、身体からボクシングを吸い取っていくようだと、浜田は眠りながら感じていた。

引退を決めて5週間後の4月7日、浜田は引退発表をした。
その日の深夜、ぼくは浜田と川越街道沿いの小さなラーメン屋にいた。
客はぼくと浜田の2人だけだ。
「客のいない店に入るのクセですかね」
浜田がボソリと言った言葉に、ぼくが「えっ?」といった顔をして浜田の顔を見た。
「深夜にラーメン屋なんかにいると、朝のロードワークさぼっていると思われますからね」
浜田は少し自嘲ぎみに笑みを浮かべている。
「クセか…」
ぼくはそうつぶやき、あまりに浜田らしい言い方に笑った。
浜田は運ばれてきたラーメンをすすりながら、こう引退を決めた言葉を吐いてきた。
「ボクシングもクセになったら終わりです」
「オレも左拳を骨折して、一度も本気で打てなかったんです」
浜田はそう言うと、フッとラーメンを食べる手を止めた。
「左拳が当たる瞬間、力を緩めてしまう。骨折して2年間でそのクセがついてしまったんです」
「じゃぁ、世界タイトルを取ったときの左フックも…」
「本気で打ったつもりでしたが…それに右膝も同じだったんです」
浜田は大きく息を吸い込むようにして言ってきた。
「膝を痛めてから3年間、いつも膝をかばってボクシングをしてきましたからね」
「今回は1月のキャンプのときから、具合は一番よかった。なのに無意識に右膝をかばうクセがついているんです」
浜田がそう言ったあと、ぼくらの間にはしばらく沈黙がつづき、ラーメンをすする音だけが聞こえていた。
「今までは膝のことで自分にいい訳できたけど、今度だけはいい訳できないですからね」
「自分のボクシングができなくなったらボクサーをやめよう」
「これは以前から思ってました」
ぼくは何も言えなくなっていた。
ただ、浜田が自分で決めたことが一番正しい。
それだけは言えた。
 
ラーメン屋を出ると、外は4月だというのに大雪になっていた。
「大雪ですね」
浜田は嬉しそうに言った。
沖縄出身の浜田にとって、雪は憧れだと以前聞いたことがあった。
「これは凄い。4月の東京で降る雪としては、きっと記録的な大雪だよ」
ぼくが震えながら言うと、浜田は満面の最高の笑顔で振り返った。
「記録ですか。いいですね」
そう言って、雪の中へと、浜田は肩を大きく揺すりながら歩き始めていた。
深夜のラーメン屋の前、ぼくは5年間追いかけつづけた浜田の背中に向かって、心の中で叫んでいた。

「最高のファイトをありがとう!」