枯れた技術の水平思考

テレビから「枯れた技術の水平思考」という言葉が流れてきた。
落合陽一が自分の番組でその言葉を言っている。

「枯れた技術の水平思考」というのは、任天堂で『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わった、「携帯ゲームの父」と言われる横井軍平氏の言葉である。
その「枯れた技術」というのは、最前線ではなく、すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになることで、何度も試行錯誤を繰り返すことによって熟した技術ということだ。
「水平思考」というのは、既存の技術を既存の商品とは異なる使い方をするということで、「枯れた技術の水平思考」とは、熟した技術を持ってまったく新しい発想でコンテンツを生み出していくということになる。

ぼくが30代のころの名言なわけだから、四半世紀前のその言葉が耳に入ってきたとき、「あっ!」と、気づきを感じた。
よく言う、「下りてくる」という感覚だ。

この数年、自分がやろうとしていることをうまく伝えられないモヤモヤ。
そのモヤモヤが、「枯れた技術の水平思考」という言葉で「そうか!」と見えてきた。

今、DXにおいて、マンガという発想を持って、XRやメタバースなどと組み合わせることで、観光、福祉、教育などあらゆる分野でコミュニケーションツールを生み出すことができると、つまり「水平思考」の考えを持って取り組んでいる。

マンガとテクノロジーの話をすると、まず最新のテクノロジーにだれもが目を向ける。
マンガはあくまで新しいテクノロジーを生かすためのコミュニケーションツールでしかない。

だがそれは違う。
日本人にとってマンガは特別のものなのだ。
つまり日本人にとってマンガはまさに「枯れた技術」なのだ。

戦後、ディズニーのようなアニメを創りたかった手塚治虫先生だが、貧乏だった日本にはそんな制作予算を出してくれるところなどない。
そこで、わら半紙のような安い紙に、黒の墨汁で、紙の上でキャラクターが動き回る、日本独自のマンガが手塚先生によって生まれていく。
そしてちばてつや先生、石ノ森章太郎先生、さいとうたかを先生…今のマンガに至るあらゆるマンガ家の先生が、紙の上で躍動する表現を研究し、実験し、日本マンガ独自の表現を生み出していった。
マンガは戦後の日本から生まれた中で、世界に誇る最大のコンテンツであることは間違いない。
そのマンガとともに、日本人は子供のころから、当たり前のように育ってきているのだ。

勉強したわけではなく、日本人は熟したマンガ環境の中で、だれもが生きたキャラクターと出会い、生き様の中で影響を受けたマンガのキャラクターを感じている。

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ぼくたちの生きてきた環境…マンガは日本人のだれもが持っている「枯れた技術」として心に持っている。
紙に描いたキャラクターに生命を宿らすことのできる「枯れた技術」だ。

そう考えていくと、「枯れた技術」とは、人間が生きていく中でトライ&エラーを繰り返し、特別のものではなく、自然に存在するモノとなっていくことではないだろうか?

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あぁ、こうやって今年最後の日記を書いているうちに、来年に向けてのテーマがまたひとつ見えてきている。
特別な存在としての人間ではなく、自然の一部としての人間として「水平思考」を持って考える。
そう、2022年はより哲学に生きていく。

知らないこととの出会いがあるから、生きていることを実感することができる

知らないこととの出会いがあるから、生きていることを実感することができる。

人生の先行きなんて、いつでもわからない。
先行きがわからないから面白いのではない。
予測できる人生なんてそもそもつまらないのだ。

だから目の前に現れた出会いは、ジョン・レノンが言ったように「Yes!」と答える。
「Yes!」は出会いで、「No!」は遮断。
だから「Yes!」と答えることで、知らない世界との出会いがいくつも生まれてくる。

仕事は出会いから始まるものだ。
Yes!と答えることで、マンガ家、劇画原作者、ミュージシャン、イラストレーター、ノンフィクション作家、フォトグラファー、エッセイスト、プロデューサー、ディレクター、大学教授、デジタルクリエーター…
プロとして目指したのではなく、「Yes!」の出会いを真剣に取り組み楽しむことで、プロとして扱われるようになった。

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今はマンガのキャラクターという、コミュニケーションコンテンツを使って、DXにおけるXRやAIといった機能によっての、超高齢者社会においての新しい形のコミュニケーションなどを研究している。
Facebook社が、metaに社名を変えたことで、俄然注目を浴びてきたメタバースといった、リアルとバーチャルにおいてのコミュニケーションコンテンツのプラットホームが次々に生まれてきている。
そのことで、アバター化、キャラクター化することで、仮想空間の中を通してリアルなコミュニケーションを生み出すことができると、この10年言ってきたことが、やっと周りに理解してもらえつつある。

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振り返ると、人生において音楽、ミュージシャン、マンガ家、大学教授と、何かバラバラな道を歩んできているようだったが、実はすべてが繋がってきた。
マンガ、イラスト、音楽、写真、取材力、大学における研究と、コンテンツを生み出せる知識と出会いによる人脈。

それがあったからこそ、「今」がリアルとして存在している。
よくだれもが言うことだが、人生において「やってきた」ことに無駄はないということだ。

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だがパンデミックによって、「Yes」の行動に足止めを食らった。
2年前から研究の拠点を海外の大学に移す予定がストップしている。
今日11月29日も日本でも新規の入国を原則停止が表明された。
まだまだ世界を自由に動くことができない。

自分の人生の残りの時間を考えると、「Yes」と言いながら進めない時間に苛立ちも感じた。
だが、人生は予測できないからこそ面白いとあらためて感じている。

自分がやろうとしていたことが、日本では補助金など予算を中心にわかってもらえないと感じて、賛同してくれる海外に目を向けたのだが…パンデミックが、動かない日本を動かしたのだ。

このパンデミックの二年間で、デジタルの意識が日本で一気に変わった。
電子マネー、オンライン教育、オンライン会議などなどが当たり前になり、DXによるイノベーションの理解が凄い速度ど動き出している。
まるで第二次世界大戦の終戦時、昨日まで正義と言われたものが悪となるように、形のあるモノしか信じなかった人たちが、スマートフォンで生活のやりとりを当たり前のように始めるようになっている。

オンライン授業、オンライン会議などのコミュニケーションはもう、2~3年もすればメタバース上でアバターとしてのやりとりが当たり前になるだろう。
リアルの世界と、バーチャルの世界、どちらも自分の世界とだれもが認識しはじめるはずだ。

こんなに現状の変化を嫌う日本の社会が動くとは予想もしなかったことだ。
だから今、パンデミックが収まるまではこの日本でできることを今は進めることができると感じている。

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この日本においても、変化によっての知らないこととの出会いが、生きていることを実感できる土壌がパンデミックによって動き出している。

リアルとバーチャルの時代

Facebookが社名を「Meta」に変更し、SNSからメタバースに注力する企業として動き出した。
ソフトバンクもネイバーが手を組んで、メタバース事業を拡張するというニュースが流れてきている。
実はこれは、今からの新しい社会が生まれていくべく、その始まりとなる歴史的なニュースだと感じている。

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ここ数年間、特に南京電媒学院大学とつながりを持ってからは、マンガのキャラクターによる、バーチャルコミュニケーション研究、コンテンツ制作がライフワークになってきている。

そのライフワークの課題は、もう目の前に来ている2025年問題である超高齢化社会をどうするか…つまり超高齢者のコミュニケーションの新しい形である。

マンガのキャラクターや、自分がキャラクター化したアバターによって仮想現実の中でのコミュニケーションを考えたとき、フォノグラムとメタバースがキーワードだと考えてきた。

そのメタバースにFacebookが社名を変えてまで動いたことで、一気に加速をつけることは間違いない。

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このコロナ過の中で、バーチャルイベントがいくつも生まれ、オンライン会議もworkroomsなどメタバースのプラットホームが使われるようになってきている。
https://www.oculus.com/workrooms/?locale=ja_JP 

workrooms

富士フイルムビジネスイノベーションのCMで、秘境の森を探検している人たちの前に、
ひとりでオフィスを構える男が現れるなどのシリーズがある。
https://www.youtube.com/watch?v=yoouFDHqmq4

つまりこういった、メタバースの世界では、秘境の自然の中と、自分のオフィスという、バーチャルとリアルが一体となった、二つの世界で生きることのできる時代が訪れるということである。

ひとりの人間が、いくつもの世界を持つことが生活の一部となるということは、そこには数々のビジネスが生まれてくるとともに、生命とは何かということを考えるきっかけになるのではないかと思っている。

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ぼくは自然のある場所にリアルを求めて、今年の6月に仕事場を移した。
そして都会とは、バーチャルでつなげればいいと思っている。

いや、もしかしたら都会で生きるということは、そこに生命を感じるには自然が乏しく、それで息苦しかったのではないかと、自然の中に住みだして感じている。
そう、都会のリアルはバーチャルのようなものだったのかもしれない。

ともあれ、これからメタバースのプラットホームが次々と生まれてくる中で、リアルとバーチャル。生命とテクノロジーをどう使い、どう生きるかは、ひとりひとりの考えと生き方しだいということだ。

平衡 バランス

時代が変わるというのは、きっとこういうことなのだろう。

コロナ過が日常となった今、パンデミック前の日常とは違うものになってしまった。
つまり、今、コロナが消えてしまったとしても、ぼくはテレワークはより便利なシステムとして使い続けるし、Amazonなどのオンラインショップも、モノだけではなく、システムを利用する「コト」をつなぐ新しいオンラインショップとしても使い続けることになっていくと思う。

たとえばiPhoneが生まれ、世界中の人がスマートフォンをプラットホームに使い始め、あらゆることが、この小さな箱(ディバイス)で繋ぐことができる時代の変化は10年だった。

たった10年でぼくたちの生活が変わったこと自体、驚きだが、コロナはたった2年で世界を生活を変えてしまったのだ。

そう、デジタル化が世界中で凄い勢いで進んでいる。
前回の日記で書いたのだが、時代は「モノ」から、「コト」を必要とする時代へと間違いなく変化している。
バーチャルの中に、リアルが存在するということだ。

世界はGAFAやBATHが世界を動かし、DXの波を中心に格差が大きく生まれてきている。
そしてコロナによって、その格差は勢いを増している。
時代を創る人と、時代に使われる人が生む格差だ。

今、ぼくたちは時代の大きな岐路に立っている。

人間がここまで発展してきたのは、間違いなく資本主義だと思っている。
だが、その資本主義によって今回のコロナは生まれてきた。
温暖化による異常気象も資本主義によって生まれてきたものだ。

資本主義を進めることで発展という号令をもとに環境破壊による温暖化が起こり、コロナも異常気象もそこから生まれてきたものだ。

もしかしたら今回のパンデミックは地球に住む人間への警告かもしれない。

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もう15年以上前のことだが、武術の取材で中国の武術家を訪ねたとき言われたことがある。
「少林拳は陽。太極拳は陰。このふたつを極めることが達人の道」
「陽だけではダメ。陰だけでもダメ」
「陰陽一体にならなければならない」
「森羅万象すべては陰と陽のバランスでできている」
「人はバランスを崩せば病気になる」
「今、地球はバランスを崩し病気になっている」

資本主義は発展という環境破壊によって、今の時代を創ってきた。
それは自然のバランスを崩すことで手に入れてきた世界だと思う。

バランスを崩し、病気になっている地球の病気をどう治すか。
自然エネルギーなど環境破壊をすることなく、人はどう時代をつくっていくか。

デジタルによって環境破壊をすることなく、そう、モノを作るのではなく、コトによってリアルをどう生み出せていくか。

コロナによって今を考えさせられている。

 

DX(デジタルトランスフォーメーション/Digital Transformation)の時代

DX(デジタルトランスフォーメーション/Digital Transformation)の時代にどう生きるか。
この夏休み、他大学との合同特別授業で学生たちに投げかけ、話し合っている。

マンガは「心」を生み出す表現コンテンツと考えることで、マンガの可能性が無限に広がっていくということ。
その大学での研究、地域・民間・メディアで制作したコンテンツを見せながら、マンガはDXの中でどういったイノベーションが起こせるかを学生たちと考える。

マンガというコンテンツ自体、紙からデジタルへの移行の「デジタイゼーション」が起こり、世界で読まれるマンガの90%はスマートフォンを中心としたデジタルデバイスになっている現実。
そしてデジタルによって、新しい表現が広がることで、「デジタライゼーション」として、マンガは読むだけではなく、XRやAIによって存在するリアリティコンテンツとして新しいコンテンツが生み出されてきている。。

今、ぼくが関わっている「プロジェクト9b」「嶋子とさくらの姫プロジェクト」などARを使ったコンテンツを学生に見せながらDXの話をしているわけだが、この長くつづくコロナでDXへの考えは一気に加速したと感じている。
そう、ちゃんと聞く学生が間違いなく増えているということだ。

5年前に予測したデジタル化していく世界の流れは間違いなく、3年は縮まっている。
デジタル化することで、モノの時代から事(コト)の時代へと変わってしまった。
マンガも本というモノから、スマートフォンで見る事(コト)へ変わっていった。

その事(コト)とは何なのか?
答えはすぐに出る。
情報だ。

その情報を辿ると1998年に発売されたMicrosoft Windows 98が加速の始まりだと見えてくる。

2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算したところ、12EB(エクサバイト)。
次の2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量12EBを超えたと発表している。
そして2007年には10年前と比べて情報量が410倍になっていると発表され、2018年からの統計はないが、1年単位でのエクスポネンシャルしたと計算してみると、1999年までに人間が30万年かけて蓄積してきた情報量の68000倍に2020年にはなっていたことになる。

そう情報の加速はインターネットだ。

インターネットによって、情報を発信するメディアは個人が中心になり、スマートフォンはまさに個人情報メディアのプラットホームとなって情報の渦が起きている。

そして5Gによって情報量の加速はますます止まらない。
その情報量がDXの中で新しい事(コト)のコンテンツを生み出していく。

何か書いているうちに、普段の講義のような文章になってしまったが、ぼくたちが今、DX社会で生きるということは、現実としてこういった情報の中で生きるということだ。

 

TOKYO2020で見えてきたことと感じたこと

オリンピックが始まった。
パンデミックの中でのオリンピックということもあり、複雑な思いはだれもが抱いていると思う。
とはいえ、「そのために生きてきた」選手たちの、とてつもなく濃い時間を、オリンピックの一瞬に凝縮した闘いには、やはり心を振るわせてしまう。

その選手たちの凄さを「伝える」のが間違いなくテクノロジーだと思っている。

1924年のパリ大会でラジオが始まり、そして1936年のベルリン大会からのテレビによって、オリンピックは世界中の人たちが見ることのできる大会となっていっている。
前回のリオデジャネイロ五輪で世界で36億人が見たと言われている。

そうテレビというテクノロジーによってオリンピックは、世界中に感動を与える大会と
なったということだ。

そしてTOKYO2020。
2018年の平昌オリンピックで、5Gによる「伝える」の一方的ではなく、自分の目的で自由に選手を応援できるアプリなど。また自由視点カメラによるライブVR、ドローン、e-sportsと、新しい形のスポーツ観戦が体験でき、新しい「伝える」の表現が始まった。それだけに、TOKYO2020は間違いなく、世界最新のテクノロジーによって、新しい「伝える」を生み出してくるオリンピックになると思っていた。

だが、まず開会式で165億をかけた演出ということで、どんな凄い演出を見せてくれるのかと期待していたところ、テクノロジーを使った演出はドローンぐらいしかない。
それもドローンで映像を組み立てる見せ方は、すでに平昌オリンピックの開会式でも行われていたし、海外のイベントでもよく見られる、新しい驚くような表現などではない。

NTTや、CanonなどでXRの新しい表現が研究されていただけに、そういう技術はなぜ使わないのだろうと思ってしまう。

コロナ過で無観客のオリンピックだけに、裏を返せばテクノロジーを使って、現場にいなくても、現場以上のリアルを感じ、自分も参加できる新しい時代のスポーツ観戦を表現できるオリンピックが創れたはずだ。

57年前、1964年の東京オリンピックにしても、市川崑監督の映画、デザイナーの亀倉雄策氏のポスターを見たらわかるように、オリンピックは新しい表現にクリエーターは挑んでいる。
つまりオリンピックはクリエーターにとっても、新しい表現で世界を驚かせる、そういった「場」でもあったはずだ。

今、XRのエクスポテンシャルな進化によってイメージを形にできる時代である。
なぜそういった新たな表現を生み出すクリエーターを選ばなかったのか?

今回の開会式を巡るゴタゴタで、クリエーターの世界において、大きなお金の動く場所は、権力と利権とコネによって動いていく様が実によく見えてきた。

まぁ、それだけにオリンピックで闘う選手たちの、実力で勝ち取ったものが評価される純粋な世界だと思うことができる。
だからぼくたちは感動する。

ぼくはスポーツの作品を数多く書いてきた。
とことん取材して書いてきた。
たとえば、100メートルで10秒を切る選手。たとえば160キロのボールを投げる選手。たとえば150キロのパンチを繰り出す選手。
もちろん、そのためにどれだけのことをやってきたかという尊敬もある。
だが、もっと単純に、その選手が目の前に立っただけでぼくは尊敬の念を純粋に抱き、感情が湧き出てくる。

なぜなのか…
20代のときの本の中でぼくは書いている。
「人は生命力の強さに尊敬を抱く」

そう、世界の頂点を目指して、そのためだけに生きてきた選手の集まるオリンピック。
生命力の強さの塊がそこにある。

だが、生命力の強さはスポーツだけではない。
オリンピックにおいて、メディアにおいてテクノロジーを使って伝える側も、技術だけではなく、生命力を持って表現に挑まなければならない。

見る側が感嘆するような表現を、伝える側からも見せてほしい。

そんなことを思いながら、TOKYO2020を毎日テレビの前で見ている。

自然の中で生きる

6月の初旬に仕事場を東京の都会の街中から、自然に囲まれた地へ移した。
ずっと考えてきたことだ。

自然の中で生きたいというのは、詩人であり随筆家…いや、ぼくにとってはタオイストとしての哲学を感じる作家である加島祥造のような生き方にあこがれていたこともある。

加島祥造は67歳のとき伊那谷に移住し、道教の自然の宇宙に生きるといった考えの道(タオ)に包まれた中で、92歳で亡くなるまでを過ごしている。
加島祥造の本にこういった言葉がある。

この暮らしがとても気に入ってるんだ。理由は簡単だ、楽しいからさ。毎日たくさんの驚きや発見がある。遠くに見える山々は毎日違う姿を見せてくれる。道ばたの草花や木々の姿、夕焼けの色、鳥や虫の声、風。そういったひとつひとつにびっくりする。もちろんここに住む前にだって、自然に触れて「きれいだな」「素晴らしいな」と感じたことはたくさんある。でも、じっさいに住んで、心と身体で実感するのは、それとは違う。自然からうける感動というのは、何度味わってもまったく薄まらない。それどころか、もっともっと強く心に響いてくる。

そう、行くではなく、そこに身を置くが大事なんだ。
ぼくは自然が好きだからと、いつも海、山、川、森と、旅の中で自分の好きな場所を見つけ、気に入った場所には何度も足を運んできた。

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好きだからそこへ行く。
それはなぜか?
仕事も好きだから、ミュージシャン、マンガ家、作家、フォトグラファー、大学教授とやってきている。
その「好き」というのはいったいどういうことなのか?

加島祥造の言葉がそのヒントを与えてくれた。

好きなことをしていれば、次ぎの「好きなこと」を見つける力が湧いてくるということだ。世間ではよく子供や若い人に「自分の好きなことを見つけてそれに向かって進みなさい」という。しかし、私が言いたいのは、それとはちょっと違う。どこが違うかと言うと、世間が「自分の好きなことに向かって進め」というとき、それは将来のことを言っている。

「好き」なことは遠くのほうにあって、そこへ向かって歩いて行くための目標になってしまっている。でも本当の「好き」は、「今、このとき」の感情だ。「今」したいと思うことを、「今」する。「好きなことをする」ことの本来の姿だ。

本当の「好き」は、「今、このとき」の感情。
まさにその通りだと思う。

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もう20年以上も前から武術に興味を持ち、知りたいという「好き」で、沖縄、中国と何人もの武術家に取材させてもらった。
そして武術は「禅」だと感じた。
中国禅宗の開祖である菩提達摩が少林寺武術の創始なのだが、武術を取材すればするほど技、思想と武術に留まらず禅の宇宙が繋がっていく。

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つまり、「好き」が次の「好きなこと」を生み出し、自分の「好き」なものへの、自分の答えへと導かれていく。
その導きの答えとは、道(タオ)という哲学に足を踏み入れることではないだろうか。
答えというのは、森羅万象すべて「明確でない」ということを知るということだと言うことだ。
仏教、禅、そして道教とすべては「哲学」として自分の中でうごめき始める。

仏教の教え、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」、「今、ここで私が生きる」とは、自然が好きだからと自然を求めて行くのではない。

自然の中に住み、移りゆく今を心と身体で実感する。
自然はその一瞬、一瞬に二度と同じ匂い、同じ光、同じ風、同じ音…同じものは存在しないことを教えてくれる。

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そしてこの地を選んだ一番の要因に、自分の中で宇宙を感じる場所がある。

山岳の渓で、自然の脅威に果てることなく、1000年以上も生き続けている「千本桂」。
その樹はぼくにとってのタオだと感じている。

変化は成長となる

Nさんからイラストを頼まれた。
ここのところ、イラストの仕事は受けていないので断るつもりでいたが、そのイラストというのが、古賀稔彦さんの名前のついた少年少女柔道大会に向けての古賀さんのイラストだった。

古賀さんとはいくつもの想い出がある。
仕事はもちろんのこと、プライベートでも飲みに行くなど、古賀さんはぼくにとって濃い時間を過ごさせてもらった尊敬の人である。
それを知ってNさんが頼んできたイラストだ。
もちろん断るわけにはいかない。

描きながら、古賀さんとのことがいくつも思い出されてきた。

その中のひとつ。
古賀さの一本背負いは、当たり前だが世界一である。
だがその世界一というのは到達ではないと、古賀さんは話してくれた。
たとえばバルセロナで金メダルを取った次の瞬間、すでに自分は世界一ではないというのだ。
もともと柔道は、相手の予期せぬ技をかけることで、相手のバランスを崩して倒す闘いだ。
だが、近代柔道はテクノロジーによって、出す技はビデオに撮られ研究される。
一本背負いで勝って世界一になったからといって、その次の瞬間は、その一本背負いは研究され、世界一の技ではなくなっている。

世界一を目指すということは、勝った次の瞬間、この技は研究され、次はこう攻めてくるということをこちらも研究しつづける。
そして、その攻めを崩す一本背負いをつねに新たに生み出していく。
その繰り返しで進化していくことが、世界一を目指すということだと。

もう20年前に古賀さんが話してくれたことだ。

 

古賀さんの言葉はまさに、チャールズ・ロバート・ダーウィンの言葉と同じことを言っていたのだと今更に思う。

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。

唯一生き残ることが出来るのは、
変化できる者である。

今、ぼくらはすごいスピードでの変化を目のあたりにしている。
もちろん新型コロナの影響は大きい。

だが、考えてみれば、20年前に古賀さんが言ったように、何かを成し遂げようとするということは、「到達」ではない。
成し遂げた瞬間に、それは過去のものとなる。

だからいくつになっても走りつづけていく。
変化は成長となる。


「古賀さん、一生成長」なんだよね。
何か古賀さんを描きながら、古賀さんがあのとき伝えようとしてくれた大事な言葉、思い出したよ。
ありがとう!古賀稔彦さん!

安楽椅子を買った。あまりに楽で思想がわかない

2021-4-29

 

今年もゴールデンウィークのこの時期に、緊急事態宣言が発令された。
前回の緊急事態解除からの世界の状況、流れから見てこうなることはわかっていたと思う。

そう、「想像」すればだれにでも予測できたはずである。
だがエビデンスが見えてこないことで「想像」の目的があいまいになり、まん延防止にしろ、緊急事態宣言にしろ漠然としか捉えられなくなっている。

 

ぼくは大学では学生に、知識がなければ想像できないと語っている。
当たり前だが、どんなことだって知識がなければ想像は生まれない。

知識のない想像は、たんなる思いつきでしかない。

緊急事態宣言においての知識とは、科学的根拠に基づいた根拠である。
単なる数字が減ってきたからというのではなく、だれもが知りたいのはその数字のエビデンスだ。
それも目先ではなく、「こうなった場合はこうしていく」「なぜならこういうことだから」と、エビデンスによっていくつかのプランが出てこなければおかしい。

エビデンスを持ったプランを示してもらえれば、数字にリアリティが生まれ、ひとりひとりが「目的」を持って取り組むことができる。

最初のPCR検査にしても、クラスターつぶしが不可能になった時点で、なぜPCR検査を増やさないのか何の説明もないまま、どこに向かって、何をやろうとしているのかまったくエビデンスが見えてこないままでここまで来てしまっている。

日本人特有の曖昧にして、だれも責任を取らないシステムの中でその場しのぎ、だれもが人ごとのように時間だけが流れどんどんと最悪な道を歩んでいる。

今回のコロナで「あぁ…」と感じていることがある。
エビデンスが示されず、考えること、想像することができないではなく、考えること、想像することができなくなっている人間が増えているのかもしれない。

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大学で以前学生から大学側にぼくへのクレームがあった。
「田中先生は何事も考えろと、自分の頭で答えを考えろと、いつも答えを教えてくれない」
「学生に答えを教えないで考えろというのは、教師として職場放棄です。給料泥棒です」と、そういったクレームの投書だった。
ちなみに、その学生(いや、大学生の認識のないので学生ではなく生徒だな)は、自分の受け持つ生徒ではないのだが、他の先生の授業のように、教壇に立ち授業をするのではなく、研究室や、他の大学に行って学生たちと研究・制作をする田中ゼミは授業ではないと見ていたらしい。
そもそもゼミは研究であって、授業なのではないことすらわかっていない。

つまり大学とは考えるや、想像するでなく、教える側は問題の答えをちゃんと示さなければならないと考えているということだ。
それは大学を研究機関ではなく、答えを教えてくれる学校だと思っているからだろう。

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研究というのは、答えを自分で見つけ出すものであるから、検索しても出てこない。
検索して、自分の出した答えが出てくれば、それが自分の研究であり答えだということだ。
そしてそれが新しい常識として認められていく。

答えのあるテンプレートの上での教育で育った生徒は、学生にはなれず、大学に入っても生徒のままで考える力、想像する力を持たぬまま何の疑問もなく卒業していく。

今の状況も、考えないから、エビデンスを示さない政治に対して無関心だし、このままいけばどうなっていくのか想像できない人で溢れているこが今の日本かも知れない。

高校生のころに読んだ本で、どういった本に書かれたことだったのかも思い出せなく正確ではないかもしれないが、こういった言葉を思い出した。

“安楽椅子を買った。あまりに楽で思想がわかない”

安楽椅子とは、つまりは考えなくてもいい答えのあるテンプレートだということだ。

だが、今回の命のかかったパンデミックのテンプレートにない事態になったとき、考える力と想像する力がいかに必要か…日本人がそのことに気づくチャンスなのかもしれない。

目的を持って死ぬまで勉強

2021-3-31

大学の卒業生たちに、「大学を出ても、目的を持って死ぬまで勉強」と伝えている。
勉強というのはつまりは目的の研究のための「知識を得る」ということだ。

もう何度もこの場所でも書いてきたし、世界中で言われてきていることだが、今、ぼくたちは間違いなく大きな時代の変革の中にいる。
日本でも2015年あたりから、今まで機械やエネルギー・通信によって産業革命が起き時代が一変したように、AIのDeep Learningがテクノロジーの中心となり、2045年には「想像」したものがexponentialに形になっていくシンギュラリティの時代が来ると言われてきた。
それが今回のパンデミックによってexponentialに加速がつき3年~5年間違いなく早まってきている。

そう、「想像」したものが、すぐに形になっていく時代。(AIなどの技術が、自ら人間より賢い知能を生み出すことが可能になる時点とも言われている)
その「想像」こそが人間に与えられた人間として生きるための力だと思っている。

「想像」を形にするというのは、そこに必ず「研究」が求められる。
だが、研究にはまず、「知識」がなければ「想像」ができない。

たとえばマンガを制作するにしても、AIを舞台にしたマンガを描こうとすると、AIの知識がなければ、まず想像することなどできない。
つまり、知識を持ち、想像が生まれ、研究がはじまり、それが形(コンテンツ)となる。
これは人類が進化してきたすべての流れといっていい。

新型コロナによって、世界中がデジタル化で進んでいくことに対して、「人間がどんどんと機械に支配されていっている」と、大学の中でもそうだが、デジタル化を否定する人たちがいるが大勢いるが、少し考えてもらいたい。

人間が人間として生きるとはどういうことなのか?
戦後、日本が経済大国となる中で、エコノミックアニマルと呼ばれ、「24時間闘えますか」などというCMが流れる中で、日本人はロボットのように働いてきた。
とくにホワイトカラーと呼ばれるサラリーマンが、日本の経済成長の象徴だった。

そのロボットのように働くホワイトカラーの仕事を、テクノロジーはロボットに任せる仕事としたというわけだ。
それは、人間はロボットにできない、人間にしかできないことをやるべきとテクノロジーによって示された問いでもある。

今のデジタルによって変わる時代を、もっと全体をとらえて見れば、資本主義そのものが変わるしかない時代でもある。
資本主義というものは、簡単に言えば、資本を持っているものが労働者を資本で雇い、資本家が必ず富みを得るシステムである。
マンガ家にしても、少し前まで資本を持つ出版社の下で働かなければ、書店に自分の作品が並ぶこともなく読まれることもなかった。
だから9対1という不公平な富みの配分に逆らうことができなかった。
それが今は、インターネットによって、流通などの資本がなくても作品を読んでもらえるし、作家自身が起業することもさして難しいことではなくなった。

何より、資本を持つものの命令によって作品を描くのではなく、今の時代はインターネットによって個人が自由に配信できる、本来の自分が表現したい作品で勝負ができるようになってきている。
それならば、たとえ作品が失敗したとしても作家として納得できるはずだ。

ロボットのように資本家の下で働く時代は終わり、資本家もロボットのように働く人材ではなく、何百倍のスピードで処理をしていくテクノロジーを使うようになる。

今までは頭がいい人というのは「モノ知り」だった思う。
「勉強ができる」とはモノを知ってることだった。
だが今は、だれの手にもスマートフォンがあり、だれもがモノ知りになっている。
「頭のいい人」の定義はまったく変わってしまったと思う。

だからこそ、今から生きていくのに一番必要なのが、人間の持つ最大の能力「想像」だと思っている。
目的を持って勉強し、知識を得て、想像し、それを形にする。
今、勢いを持って世界を変えているのはDXだが、DXはデジタルの知識を得た先で、想像が生み出すイノベーションである。

「目的を持って死ぬまで勉強」
そこに人間としての新しい生き様が生まれてくるはずだ。

※写真は、妹が老いた両親を温泉に連れていきたいと感染対策をした上で計画し、城崎温泉に3月に行ってきたときのものをイメージとして使いました。