〝ありがとう〟から考える

ありがとうという言葉は、「漢字で〝有ることが難しい〟と書く」と、今、読んでいる本に書いてあった。
たしかに「ありがとう」とは、「自分には有ることが難しい」場面や、作業、仕事においてそれをしてくれた相手に対して「有り難い」と感じている。

そして「ありがとう」という言葉は、言った方も、言われた方も喜びを感じる。

人は「自分はなぜ生きているのか」と考えたとき、その答えとして、「ありがとう」と言われることは大きなひとつであることは間違いない。

生きがいとは、もちろん自分が幸せを感じる生き方であり、それはまわりが自分の行動で幸せと感じてもらえるからこその幸せでもある。

では「幸せと感じる」生き方とはどういう生き方なのか?

たとえば「ありがとう」から考えることがひとつの答えかもしれない。

ぼくは学生に、自分のやりたいことで生きるには、「だれでもできることを、だれにもできないだけやる」ことだと言っている。

才能とはそもそも、野球なら野球、マンガならマンガに、1日24時間、1年365日「そのため」に生きられることだと思っている。
寝ることも、そのために体を休めることであり、食べることも、それをやるために食うことだと根底にそういった意識を持てる生き方。

こうやって息をして生きているのは、そのために生きているという意識を持っていることがつまりは才能であり、そういった生き方をしている人間は必ず人を引きつける。

ここで一番大事なのは、自分にとって「そのこと」とは「好きなこと」ということだ。
当たり前だが、好きでなければ「そのため」だけに生きることなどまずできない。

この10年で間違いなく時代は変わった。
「時代が変わる」ということは、「生き方が変わる」ことであり、それは「働き方が変わる」ということだ。

時代が変わることで戸惑いがあるなら、ここで「ありがとう」を考えてみる。

人は資本主義の中で、経済によって幸せになる考えてきた。
つまり幸せになるためにまず「お金」。そう、金をたくさん持てば幸せになれると働いてきた。
お金を儲けることが主語の生き方だ。

だが、今の時代が変わる中で、「ありがとう」と言える幸せをから「生きがい」を考えてみると面白い。

ありがとうと言われるのは、「求められる」こと。
求められたことに答えられるのは、「好きなこと」であり、好きなことのために生きればそれは「得意なこと」となる。
そしてその得意なことで人のために生きれば「ありがとう」と感謝され「お金になる」。

考えてみると、ぼくが都会に仕事場を持っていたときは、出版社のある都会でなければ収入を得られないと思っていた。
だが時代は変わった。
テクノロジーによって、世界のどこからでも時間と空間を共有する働き方ができる。
ぼくは自然に囲まれた地に仕事場を移してから、お金が主語ではなく、自然が主語となり、その自然の中で仮想空間やテクノロジーを考えるようになり、それがお金に結びつくようになっている。

この日記を書いたら今日も仕事場のまわりの自然の中を散歩してこよう。
そしてスマートフォンで撮った画像を動画にしながら「今」の感じていることを形にする。

これも今の幸せのひとつ。

変化にもっとも適応する

「生き残る種とは、最も強いものではない。 最も知的なものでもない。 それは、変化に最もよく適応したものである」

時代が大きく変わる今、ダーウィンのこの言葉がよく引用される。

この変化に最も適応するというのは、ただ時代の流れの中で生きろというのではない。

社会が激しく変化し、テクノロジーが目まぐるしく進歩する中で生きるということは、つまりは学び続けなければならないということだ。

たとえば坂本龍馬だ。
坂本龍馬は土佐脱藩し、幕府軍艦奉行並・勝海舟に会いに勝海舟の屋敷を訪ねている。
訪ねた目的は、開国論者だった勝海舟を殺すことだったと言われている。
だが、龍馬は勝の広い見識と、卓越した意見に目を見開かされ、その場で弟子にしてほしいと入門を願い出ている。

殺そうとした相手であっても、勝の世界の大きさを知り、時代の流れが見えている凄さに、殺害ではなく、「学び」の欲が龍馬の意識を突き動かしたと、この逸話から感じている。
そしてその後、龍馬は時代を変えることとなる。

この意識こそが「変化にもっとも適応する」ことではないだろうか。

学生と話していると、学ぶ=勉強ととらえているようだが、学ぶというのは、ただ勉強して「知識が身についた」と自己満足に浸ることではない。

学ぶというのは、まず「目的」があり、その「目的」のために何をやるべきか考え、そのやるべきことのためにどうすればいいか、それを実行していくことで形にしていく。
その実行というのはつまりは「研究」である。

ぼくの研究であるマンガ表現の可能性にしても、DXの中で、XRでの表現、メタバースでの活用、そして今からはだれもがアバターを持つことになることで、マンガ表現の可能性は広がっていく。
広がることで、次々と学びの意識が突き動かされる。

日常の表現も、ぼくの中では変わっていっている。
表現や宣伝は10年前までは写真やイラストといった1枚での表現が全体の80%を占めていたが、今は全体の80%以上を動画が占めている。
そういった流れもあり、昨年からSNSやこういったブログはスチール写真ではなく、動画を載せることにした。
「創りつづけることは、学びつづけること」
こうやって日々、スマートフォンで撮ったものを演出し、形にすることで新たな表現のアイデアも浮かんでくる。

これも学び続ける面白さだ。

6月の哀音

父が逝ってしまった。
91歳。
よく生きてくれた。

父が亡くなり「人によって生かされている」ということを感じている。
人は人によって成長し生かされている。
その最初の人とは両親だ。

今の自分が創られていった原点。
亡くなった父の顔を見ていると、忘れてしまっていた父との日々が蘇る。
頭で忘れてしまっていたことを“心”が覚えている。
そう、頭ではなく心…そういった感覚だ。

野球に打ち込んだのは間違いなく、高校野球で活躍した父の影響だ。
山登りも、父に連れられ名山に登った。
今回、父の部屋から大量の写真が出てきた。
いつもカメラを持っていた父。
いつしか自分もいつもカメラを手に写真に夢中になっていた。

高校ぐらいだろうか…父とはあまり口をきかなくなった。
マンガを描き、ギターに夢中になる。
マンガで食べていきたいと、父に将来を聞かれたら答えていた。

父はそんなことで生きていくことなどできないと、もっと現実的になれと言ってくる。
それが嫌だった。
だから中学の頃から、作品を描いてはひとり夜行電車で12時間揺られ東京へ持ち込みに出ていた。

今考えると、父への反発が大きなエネルギーになっていたのだと思う。

東京に出て10年以上家には戻ることがなかった。
その間、父とはずっと口をきいていない。
マンガ、マンガ原作、イラスト、ノンフィクション、エッセイ、コラム、写真と8本の連載を持つようになっても、実家に電話はかけることはあったが、父と話すことはなかった。

10数年ぶりに実家へ戻ったときだ。
ぼくが使っていた部屋の扉を開けると、部屋が雑誌と単行本などで埋まっている。
すべてぼくが書いたものが載った雑誌と単行本だ。
自分でも取っていない、半ページのコラムやエッセイの載った雑誌まで取ってある。
単行本など同じものが3冊も買っている。

「何やってんだよ!」
父に怒った口調で、一部屋雑誌と単行本で埋まった部屋を見て声を上げたのだが、嬉しかった。
父は口では言わなかったが、認めてくれたと思った。

それからもあまり話すことはなかったが、父はパソコンを覚え、18年ほど前から気が向いたらSkypeで連絡を取ってきていた。
たわいのないスポーツの話が中心だ。

亡くなる11日前に父の住む神戸に行き、そのとき細く小さくなった父にLINEでのテレビ電話の仕方を教えた。
すると東京へ戻ってきたぼくのスマートフォンにかかってきている。
それが最後の会話となった。

父が亡くなり「心」のことを考え続けている。
お坊さんが、父は阿弥陀如来になったと言ってお経を上げてくれている。
その阿弥陀如来になった父を見て、みんなは悲しみ泣いている。

それは阿弥陀如来になった父が心を発しているのではなく、それぞれの人たちの心が父を悲しんでいるのだ。

心というものは、つねに自分の中から生まれてくる。

葬式というものは、故人のために行うのではなく、残された人のために、その心の悲しみを鎮めるために行うものだとぼくは思っている。
父の葬儀は、ぼくの中では、母のための葬儀だと思っている。

父が亡くなり、心の中で思いがどんどんと生まれてくることで、父は最後にその「心とは何ぞや」とぼくにとっての答えを教えてくれた。

人は相手の心ではなく、自分の心でその人の存在を確認している。
存在とは、形でもなく、相手の心でもなく、自分の心が生み出している。

そう、自分の心に父がいるということは、父は自分が死ぬまで生きているということなのだ。

今、取り組んでいる研究は、DXにおいて、キャラクターたちにどうやって心を感じてもらうか、それを超高齢化時代の中でのコンテンツ化である。
つまり、心を感じてもらうということは、コンテンツが心を持つのではなく、そのコンテンツによって、それぞれの人たちがどう心を生み出してくれるか。
心の中で生きている存在となってくれるかということだ。

「人によって生かされている」
また父によってひとつ生かされたよ。

ありがとう。

 

夏のはじまり

6月を前にして夏のはじまりのような日々。

仕事場を東京から自然に囲まれた場所に移して1年が過ぎた。
前回、この地に来てから散歩が日課だと、そして次のような言葉を書いた。

自然というのは「今」を教えてくれる。
春の「今」は自然の命が芽生える季節。

禅で使われる仏教用語、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」。
「今、ここで私が生きる」という意味だが、この言葉が自然の中でリアルな軸として感じられる。

こう書いたのだが、もう少し理解してもらうため、少し付け加えておきたい。
「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」というのは自分にとっての答えではない。
ぼくは自分への問いだと思っている。
リアルな軸として、「今、ここで私が生きる」ということを「問い」として生きている。

「問い」があるから自分の答えを探して考える。
自然の中を散歩をしながら考えると、目の前にいくつもの生命が目に入ってくる。
草木、そして花の息吹、自然の中での鳥たちの羽ばたき。
虫や、時にヘビも現れる。

空や、雲、そして風からも生命を感じる。
人が創った神社やお寺も、そこに生命を感じる。

そして自分も自然の一部だと感じることができる。

そこでまた、「自分も自然の一部」とはどういうことなのか。
自分への問いが始まる。

「問い」があるから考える。
そしてまた「問い」が生まれてくる。

こう書くと、「自分さがし」と思われるかもしれないが、それはまったく違う。
「自分さがし」というのはそもそも「目的」探しで、よく、大学に来た学生から
「自分さがしで大学に来た」などという学生がいるが、大学に何をしに来たのか呆れてしまう。
大学というところは、「目的」があるから大学を選び、その「目的」のための「手段」として研究するために来たのではないのか。
だから「研究」の意識がなければ、「問い」は生まれてこない。

「研究」と「哲学」、そして「仏教」は同じ軸から生まれてきた考え方だ。

自分の中で生まれた「問い」に「問い」つづけていくことは、考え抜くということ。
それは「問い」つづけることで、どんどんと余計なものが削がれ、シンプルになることで自然と向き合うことができる。
つまり、「生命」と向き合うことができる。

たとえばジョブズが禅と向き合ったことも、ジョブズが生み出したモノを見ればわかると思う。

デジタルと自然を対局だと言う人がいるが、デジタルはAIも含めあくまで道具でしかない。
自然の中で生きるための生み出した道具。

今、そういったことを自然の中でスマートフォン片手に日課である散歩をしながら、自分の中で問いを繰り返しながら歩いている。

今、ここで私が生きる

仕事場を自然の中に移してから散歩が日課になっている。
自然というのは「今」を教えてくれる。
春の「今」は自然の命が芽生える季節。

禅で使われる仏教用語、「即今(そつこん)・当処(とうしょ)・自己(じこ)」。
「今、ここで私が生きる」という意味だが、この言葉が自然の中でリアルな軸として感じられる。

もちろん自然の移り変わりだけではない。
今、自分が生きているのは、まだコロナ過がつづき、ロシアのウクライナへの侵略戦争によって世界は緊張状態の中にいる。
その「今」の中で、大学のこと、学生のこと、研究のこと、進めているプロジェクトのことなどなど、いくつものことが動いている。

すべてが「今」というレイヤーの重なりの中で存在している。

ゲーテの「ファウスト」の中の言葉を思い出す。
「人間は、努力する限り、迷うものだ」

そう、迷いは成長しようとするから生まれてくる。
成長とは、同じところに留まることなく、変わり続けることだ。
その変わっていくというのは、人それぞれで答えはない。
だから迷う。

それはとても大切な迷いであり、迷うということは生きている証だと思っている。

変化を求めなく、「このままでいい」と考える人が周りに多くいるが、「このままでいい」といういうのは現状維持ではなく、後退していることに気づいていない人たちだ。

「このままでいい」は、「今」ではなく過ぎ去った過去。

そんなことを散歩をしながら考えた。

研究テーマ「マンガ・キャラクターを使ったDX研究」

ぼくの大学での研究テーマは「マンガ・キャラクターを使ったDX研究」である。
マンガに対してみんなが思い浮かべる、少年ジャンプなどで描かれ表現されているようなコンテンツのマンガの研究ではない。

マンガ、キャラクターの持つ「力」と、デジタルという次々と生まれてくる表現法を組み合わせることで、「観光」「メディア」「エンタメ」「医療」「教育」「福祉」などなど、あらゆる分野で、新たなコンテンツ開発ができると考えている。

大学のデジタル研究で注目を集めていると言えば、まず筑波大学の准教授で、メディアアーチスト他、多彩の顔を持つ落合陽一氏の研究テーマでもある「デジタルネイチャー」が出てくると思う。
デジタルネイチャーとは、まさにDXによって人工物と自然物の区別がつかない世界が次々と生まれてくる中での研究である。

ぼくが考えている研究テーマも、その同一線上にある。
だが、ぼくが考えているのは、リアルとバーチャルの区別が付かないのではなく、“リアル”の中に“バーチャル”が存在する、マンガ・キャラクターを使ったDX研究だ。

今、ぼくが関わっているプロジェクトを見てもらえれば、少し理解してもらえると思う。

「プロジェクト9b」
那須において、伝説の九尾狐のキャラクターがARを使い観光案内とともに、その物語を体験してもらう。
https://www.project9b.com/
「嶋子とさくらの姫プロジェクト」
さくら市においてARを使い観光案内とともに、町の歴史を探索してもらう。

姫たちがさくら市をご案内!! デジタルスタンプラリー【嶋子とさくらの姫プロジェクト】

このコンテンツは、リアルな「場所」において、伝説、実在のバーチャルな「キャラクター」を組み合わせることで、訪れた人にわかりやすく伝え、興味を持って知ってもらうといったことを目的としている。
そこで生まれてくるのが訪れた人たちの「心」だということだ。

「場所(リアル)」と「キャラクター(バーチャル)」によって、訪れた人たちの「心」を生み出していく。

この発想は、お寺と仏像から得ている。
「リアル」なお寺(場所)に引き寄せられ向かう。
そこには人々の「バーチャル」な世界観をもった仏像(キャラクター)がある。
そこで願いを託し手を合わせることで、個々の自分の中から心を生み出していく。

人は「心」によって、喜びや悲しみ、苦しみたど、すべての感情を生み出し、生きる力、死への絶望と動かされていく。

その「仏像」を、「心」を生み出すことのできるマンガ・キャラクターのバーチャルと、心を感じることのできる「自然」というリアルな中で、「観光」「メディア」「エンタメ」「医療」「教育」「福祉」などなどでできないかと考え研究しているというわけだ。

デジタルでこうやって研究していると、デジタルは冷たく心を感じないという人がまだまだいる。
だが考えてほしい。
仏像にしても、当時のテクノロジーであるノミなどの彫り道具で彫られている。
デジタルも表現するための現代のテクノロジーである道具でしかない。

その道具は、今、だれもが手にしている時代でもある。
たとえばぼくも日々の日課である散歩をしながらiPhoneで撮影し、シンセで音楽を作り、感情のままデジタルで繋げてみた。
心が形となって現れる。

デジタルによって日々の生活の中から「心」を生み出すことができる時代にだれもがいる。

そう、だれもが手元に心を生み出すデジタルな道具を持っているではないか。
そして今からは、スマートグラスなど新しいデジタルのディバイスでの、新しい表現が生まれてくる。
そこにマンガ、キャラクターというバーチャルで「心」を生み出すことのできる現代の仏像で可能性を求めていきたい。

大学の新学期が始まるにあたっての、自分の研究テーマの確認と考えを書いてみた。

力づくで抑え込む権力と、力づくでない権力

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ロシア軍のウクライナ侵攻のニュースがテレビから流れている。
戦争への憤り。

考えてみる。
争いというやつは、結局は「権力」闘争から来ている。
人の持つ「支配という欲」。

戦争は権力者が力づくで抑え込んでいくことで始まる。

だがフランスの哲学者フーコーは「近代以降の“力づくでない権力”が、人々をより徹底的に支配するようになった」と言った。

たしかに日本人のぼくらはすでに戦後長い年月をかけて“力づくでない権力”によって骨抜きにされてしまっていると感じている。

戦争はぜったいの悪。
だから見えやすいし、憤りを感じる。

“力づくでない権力”は、ジワジワと内から浸食していく。

ジワジワとくるから憤りも爆発しない。
飼い慣らされるように、あきらめから抵抗力を奪い、そして無関心に導いていく。
権力者にとって、無関心が一番の成功となる。

戦争は支配する権力。
だが権力を持つ政治に無関心の人たちは、すでに権力に支配されている人たちだと…

権力の目的が支配なら、テレビの前で戦場のニュースを見ているぼくたちも、戦場と同じ場所に立っているのではないだろうか…

ロシア軍のウクライナ侵攻に憤りを感じながら考える。

月9ドラマ「ミステリと言う勿れ」久能整の哲学的言葉が面白い

月9ドラマ「ミステリと言う勿れ」が面白い。
菅田将暉演じる主人公、久能整が持論を語る言葉に引き込まれる。

久能整の周り、そして視聴者は、つまりは常識人で、久能整は言ってみれば、常識にとらわれないで自分の考えを語っている。
それは答えではないのだが、常識を鵜呑みにするのではなく、「なぜ?」かは始まる考えた言葉がそこにある。

ぼくの周りもほとんどがそうなのだが、常識というやつは、みんなそれが答えだと思っている。
そもそも常識というものは、時代や、社会、国や宗教、政治などなどそれぞれの形の中で存在するわけだから、立場の違いで、「正」と「誤」はまったく違うものになってしまうもののはずである。

だから常識を疑う。
久能整の言葉はそこから生まれた言葉だから面白い。

そうやって考えると久能整の言葉はつまりは「哲学」である。

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では哲学とは何ぞや?
ソクラテスは哲学とは「人生をよくいきるために知を愛す」と言っている。
その言葉について古代ギリシャ語で「フィロソフィア」といい、日本では明治時代に西周によって「哲学」と日本語に訳されたものだ。
つまりは、哲学とは「人生においての知」を考えることである。

たとえば日本のことわざで、「出る杭は打たれる」というのがある。
何か、いかにも日本人的で嫌なことわざだが、このことわざを聞くたびに、モヤモヤしたものがある。
きっとこれを答えだと思っている常識人は、「まさにそうだな」で終わるのかもしれないが、ぼくにはすごく中途半端な言葉だと感じてしまう。

「じゃぁ、出ない杭はどうなるんだ?」と、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と問い詰めたくなる。
そして考えたとき、自分の中での答えが生まれてくる。

「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」

常識だからではなく、自分が納得する答えにモヤモヤが消える。

そう考えていくと、身のまわりに常識と言われるものでモヤモヤした言葉がたくさんあることに気づく。

学校で「君はここが不特異だから、ここを勉強しなさい」と言うが、不特異なことは、つまり自分が好きではなく夢中になれないことである。
特異なことは、いつまででもやっていられる大好きなことだから自然と特異となっている。
なのに、才能を伸ばすために特異なことを「もっとがんばれ!」ではなく、不特異なことををやらせて、抜きんでた才能を育てるではなく、平均的な人間をつくっていく。
まさに、「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」といった平均的な人間をつくることを「よし」とするわけだ。

「寝る間を惜しんでがんばれ!」も同じでモヤモヤである。
好きなことをやれば、「寝る間を惜しんで」ではなく、「寝る間を忘れて」でなければおかしい。
まわりの人とは違う抜きんでた才能は、まず夢中になれるほど好きでなければできるものではない。
「寝る間を惜しんで」は、好き、嫌い関係なく、やらなければならないからがんばるということだ。
才能は使命感ではなく、好きだからがんばるものだと思っている。

「寝る間を忘れて夢中になる」
だからだれよりもその才能が伸びていく。

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こうやって周りを見渡し考えれば、モヤモヤすることだらけだ。
だから考える。
森羅万象答えなど存在しないのだから、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と考えて、自分が納得できる答えを探す。

常識人から見ると、「ミステリと言う勿れ」の久能整のような人間は、「めんどくさい」と映るのだろうが、久能整のように「哲学」を持った生き方は間違いなくおもしろい。

 

あけましておめでとうございます!

2022年 あけましておめでとうございます!
昨年、仕事場を自然の感じる場所に引っ越しました。
人間も自然の一部と感じる日々。
ふと、マハトマ・ガンジーの言葉が浮かびました。
「明日、死ぬかのように生きろ!永遠に生きるかのように学べ!」

枯れた技術の水平思考

テレビから「枯れた技術の水平思考」という言葉が流れてきた。
落合陽一が自分の番組でその言葉を言っている。

「枯れた技術の水平思考」というのは、任天堂で『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わった、「携帯ゲームの父」と言われる横井軍平氏の言葉である。
その「枯れた技術」というのは、最前線ではなく、すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになることで、何度も試行錯誤を繰り返すことによって熟した技術ということだ。
「水平思考」というのは、既存の技術を既存の商品とは異なる使い方をするということで、「枯れた技術の水平思考」とは、熟した技術を持ってまったく新しい発想でコンテンツを生み出していくということになる。

ぼくが30代のころの名言なわけだから、四半世紀前のその言葉が耳に入ってきたとき、「あっ!」と、気づきを感じた。
よく言う、「下りてくる」という感覚だ。

この数年、自分がやろうとしていることをうまく伝えられないモヤモヤ。
そのモヤモヤが、「枯れた技術の水平思考」という言葉で「そうか!」と見えてきた。

今、DXにおいて、マンガという発想を持って、XRやメタバースなどと組み合わせることで、観光、福祉、教育などあらゆる分野でコミュニケーションツールを生み出すことができると、つまり「水平思考」の考えを持って取り組んでいる。

マンガとテクノロジーの話をすると、まず最新のテクノロジーにだれもが目を向ける。
マンガはあくまで新しいテクノロジーを生かすためのコミュニケーションツールでしかない。

だがそれは違う。
日本人にとってマンガは特別のものなのだ。
つまり日本人にとってマンガはまさに「枯れた技術」なのだ。

戦後、ディズニーのようなアニメを創りたかった手塚治虫先生だが、貧乏だった日本にはそんな制作予算を出してくれるところなどない。
そこで、わら半紙のような安い紙に、黒の墨汁で、紙の上でキャラクターが動き回る、日本独自のマンガが手塚先生によって生まれていく。
そしてちばてつや先生、石ノ森章太郎先生、さいとうたかを先生…今のマンガに至るあらゆるマンガ家の先生が、紙の上で躍動する表現を研究し、実験し、日本マンガ独自の表現を生み出していった。
マンガは戦後の日本から生まれた中で、世界に誇る最大のコンテンツであることは間違いない。
そのマンガとともに、日本人は子供のころから、当たり前のように育ってきているのだ。

勉強したわけではなく、日本人は熟したマンガ環境の中で、だれもが生きたキャラクターと出会い、生き様の中で影響を受けたマンガのキャラクターを感じている。

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ぼくたちの生きてきた環境…マンガは日本人のだれもが持っている「枯れた技術」として心に持っている。
紙に描いたキャラクターに生命を宿らすことのできる「枯れた技術」だ。

そう考えていくと、「枯れた技術」とは、人間が生きていく中でトライ&エラーを繰り返し、特別のものではなく、自然に存在するモノとなっていくことではないだろうか?

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あぁ、こうやって今年最後の日記を書いているうちに、来年に向けてのテーマがまたひとつ見えてきている。
特別な存在としての人間ではなく、自然の一部としての人間として「水平思考」を持って考える。
そう、2022年はより哲学に生きていく。