空気感

2019-5-31

もうずいぶん前から。
そう、20年以上前ぐらいから感じていることがある。

海外に行き、日本に帰ってくるといつも感じる空気感だ。
とくにアジアのタイやベトナム、中国などから帰ってきたとき、ドンヨリとした空気感を感じてしまう。
アジアへ行けばいつも喧噪の渦が舞っている。
その渦巻く空気感は、人間が生きているといった「生命」の空気感だ。
それが日本ではあまり感じない。
電車の中、街の中…喧噪感はなく、だれもが静かにスマートフォンに黙って目をやっている。
スーツを着ている人が多いせいか、「灰色」の空気感だ。

今年に入って、毎月中国に行っている。
大学での人材育成と研究で、南京の伝媒南広学院でマンガ学部を立ち上げることになり、その準備期間としての授業と、北京、上海、香港、深センといった場所で、メディア、情報、テクノロジーの世界最前線で研究をしている研究家たちとのチーム設立を目的としている。

中国はどんどん変わっていっている。
1986年に最初に中国に行ったときは、街には自転車が溢れ、人々は人民服に身をつつんでいた。
そのときは、瀋陽、撫順、広州と行ったのだが、それぞれの街が、それぞれの生活臭に包まれ、まさに街の喧騒と生活臭、黄砂の舞が記憶の中で強烈に刻まれている。

2008年、北京オリンピックまでは、中国はその強烈な街の個性が空気感となり記憶に刻まれていたが、北京オリンピックによる急速な開発が進むにつれて、その空気感は消え、街の臭いというものが、どの街も同じになっていった。

30年前、成田からロスに飛んだとき、成田もロスも同じ臭いと空気感しかなかったが、それが、今は、中国でも感じている。
開発で便利になるということは、世界全体が同じ便利さを追い求め、同じ空気感になってしまうということなんだろう。

だが、だがだ。
その同じ空気感の中で、日本はこれほどまでにドンヨリとした生命の力を感じない国になってしまっているのだろうか。

日本と中国の大学で学生たちを見ていると、その空気感の違いが見えてくる。
大学というところは、学校ではなく、研究機関であるわけなので、あたりまえだが、「目的」を持って来る場所のはずである。
だが、日本人学生の大半は「なんとなく」という、さしたる目的を持たないまま。
たとえばマンガなら、「マンガ家になれたらいいな」程度の「なんとなく」で大学に来ているようにみえる。
そもそも今、商業誌などで描くマンガ家になりたいのなら、大学に来る必要などない。表現者に一番必要なのは、経験なわけだから、大学に学費をはらうのなら、その金で世界中を歩き、人とは違う経験をした方がいいと個人的には思っている。

この間、中国での授業で「この大学で学ぶことによる将来の目的」を聞いてみた。
すると大半が、「将来は今学んでいることで起業したい」と答えてきた。
10年後の「起業」のために、「今」「何をやるべきか」という、「目的」と「手段」を持って授業を受けにきている。
大学を卒業したあと、大学院にしろ、就職にしろ、それは「目的」のための「手段」と考え、今を生きている。

同じ質問を日本でしたところ、「目的」ではなく、漠然とした夢を語ってくる。
そのために「今」何のために課題を勉強しているか、「課題」自体が、「手段」ではなく、単位をとるための「目的」になっている、そんな学生があまりにも多い。

人が生きるということは、「思考する力」が必要となってくる。
世の中には答えなどまずない。
時代の流れとともに常識も当たり前だがどんどん変わっていく。

勉強ができるという人間は、つまりは常識の中での「正解」が答えられただけのことであり、それはテンプレートの中での勉強ができるだけのことだ。
だが、生きるということは、まず正解などない。
考えて、考えて、自分の答えを自ら導き出すしかないないということだ。

大学は「答えを学ぶ」場所ではなく、「考え方を学ぶ」場所でなければならない。

そう考えると、日本のドンヨリとした空気感は、経済の流れはもちろんあるが、日本においての「教育」が、みんな同じ答えの中で、将来の「目的」のための「今」ではなく、テンプレートの答えのない社会で戸惑い、なんとなく「今」を生きている、そんな空気感なのかもしれない。

2019-4-30

平成最後の日が流れている。
旅の風を感じている。

そう、あの懐かしい旅の風だ。
まだ昭和だった18歳のころと同じ空気感を持った風だ。

あのころ、まだ何ものでもない自分にもがき、自転車で四国、九州、本州をただただ走っていた。

高校のとき週刊少年ジャンプで賞をもらい、大学に入るとプロのミュージシャンとして事務所に誘われ、いきなり河島英五さんと全国をツアーが始まった。
事務所には、当時大人気だった「あのねのね」がいたことから、バイトでマネージャーもやった。
そこには、つい数ヶ月前までテレビで見ていた山口百恵がいた、キャンデーズがいた、ピンクレディがはじめてデビューしたときは、渋谷公会堂の袖で彼女たちをみていた。
中学、高校と毎日ラジオで聞いていた、オールナイトニッポンのスタジオにいた。

大好きだった映画の世界も、東宝の映画のスタッフとしてかかわり、となりの組では黒澤明監督が「影武者」を撮っていた。

そんな中で気がつけば十代で日本の47都道府県はすべて回っていた。

旅は非日常の毎日だ。
明日何が起こるかわからない日々が流れていく。
不安もたしかにある。
だがそれ以上に、「あした何と出会えるのか」そのワクワク感に毎日心が震える。

知らないことを「知る」喜びが毎日訪れる。
「知る」ということは、自分が成長していくことが実感として感じることができること。

この歳になって、60歳を過ぎて、あの昭和の日々と同じ風に吹かれている。

考えてみればずっと走りつづけている。
昭和も平成もただただ走りつづけてきた。

今また、18歳のころと同じように、新たないくつもの知らない世界の中で走り始めている。
大学とは何かと考え、学校ではない大学にすべく、大学を変えようとこの10年、ただただ走り続けてきた。
そして次ぎの旅は世界だ。

4月から、中国のメディアの大学の、南京にある南広学院で講義をはじめた。
今、中国のITは、アメリカのGAFAを超える勢いだ。
つまり世界の先端の研究がそこにある。

ちばてつやMANGAイノベーション研究所の中国支部も大学の中につくった。

もちろんいろいろな駆け引きがあり、研究をコンテンツ化し、それをビジネスに結びつけなければならないプレッシャーもある。

だがだ、つまりは、旅が好きなのだ。
毎日が同じ風景の中では生きている実感が湧いてこない。
高いテーションの中で旅をつづけるしか、そこにしか生きている実感が湧いてこない。

そう、きっと死ぬまで旅をつづける。
昭和、平成、そして令和と、どこまで行けるか、どこまで「知る」ことができるか、どこまで「成長」できるか。

もうすぐ「令和」の時代がはじまる。

すべての概念が変わっていく

2019-3-31

目の回る忙しさがつづいている。
大学は春休みなのだが、4月からスタートする中国南京の南広学院大学と立ち上げる国際授業へのスタートとともに、北京、香港でもいくつものプロジェクトが立ち上がりってきている。
大学、栃木などで進めているプロジェクトが20以上あるわけだから、そりゃぁ、周りからその仕事の量に「無謀」の声が上がるよね。
でも、まぁ、10代のころから、「できるできないではなく、やりたいか、やりたくないか」ですべて決めてきたわけだから、その信念に従い、今回も「やりたいからやる」。それでいいと思っている。

3月末、北京に飛び中国で毎日のように濃い会議と打ち合わせの日々を過ごしてきた。
時代は間違いなく大きく変わっていっている。
やはり5Gを中心に、この1年で変わっていくか、そういった「これからの時代」に対して、何をやっていくかといった、そういった話し合いができた。

このブログでもいってきたのだが、大学は“研究”があり、“コンテンツ化”をしていき、そしてそれを“ビジネス”につなげていく流れが必ず必要だと思っている。

それも高い意識を持ったチームの中での“研究”、“コンテンツ化”、“ビジネス”でなければ意味がない。
時代はエクスポネンシャルに流れている。
1年前のことは、もう古い過去としてビジネスにはなっていかない。
“研究”によって新しいものを生み出し、それを“コンテンツ化”し、イノベーションを起こせるものが、“ビジネス”となる。

昨年から実はうんざりしていることがある。
日本の教育だ。
昨年、上海の高校を回ってきたとき、「勝負にならない」とハッキリわかった。
もちろん上海という特別な場所だとわかっている。
だが、特別な場所にしろ、そこで行われている教育は、ちゃんと時代を捉えた「研究」があっての教育であり、テンプレートで教える勉強ではない。
ひとりひとりが時代と向き合い、成長するための「研究」意識が、生徒にも先生にもある。特に先生は、高校主導で順番に目的を持って海外に留学して、そこで学び研究してきたことを、生徒と研究して教え、学んでいくというシステムができていた。

これはもう、日本の大学でさえまったくできていないことを、中国では高校でできているということだ。

日本では2020年から文科省・内閣府・経済産業省などが提唱する未来社会のコンセプトで進められている、Society5.0に向けた教育でも人材育成が具体的に始まる。
ニュースではプログラミングの授業ばかり取り上げられるが、Society5.0による教育とは、「知識を学ぶ」から、「考え力、表現する力、判断する力」を育てるということだ。
テレビを見ていて中学か、高校なの校長先生がおもしろいことを言っていた。
その学校では宿題がないというのだ。
宿題は「やらせる」勉強だ。
ぼくも大嫌いだった。
そしてその学校ではテストを行い、採点のあと、再テストを希望者は受けることができるというのだ。
たとえば70点を取ったとしよう、次の日に自分から再テストを受けるとなったら、できなかった30点のところを家で勉強するということだ。
自分から、それも目的を持った、見事な自分から勉強する宿題となる教育だ。

こういった教育が2020年から始まるのならば、実に大歓迎である。

問題は今、目の前の学生たちだ。
いや、先生たちも大問題だ。
先生は答えを教えるのが義務だと思っているし、学生は答えを教えてほしいと口をあけて待っている。
だが、この世に答えなんてあるのだろうか。
大学ということは、答えを「考える」でなければ意味がない。
その「考える」が研究なのだが、その「考える」を学生も、先生もほとんどがやっていない、だから、大学で研究する先生が、学生がほとんどいないのだ。
だから大学は単なる「学校」で、学生は「生徒」になっている。

ここ数年、大学を変えたいと動いてきたし、時代と地域の中で、“研究”をし、“コンテンツ化”してきているのだが、最近徒労を感じている。
何人かはたしかに、意識を持った学生はいる。
だが、全体の3%にも満たない数しかいない。

前にも書いた通り、まず、学生も先生も、大学だというのに「研究」という意識がほとんどない。
それどころか、「研究」することに対して、「答えを教えてくれない」と平然と言ってくる学生もいる。
「研究」とは、答えがないから「研究」するものだという意識すらない。
先生にしても同じで、ぼくは学生たちと教室で授業はやらない。
研究室や他の専門知識を持った大学にゼミ生を連れ出向いて、現場でコラボしてコンテンツ制作をやっている、まぁ、高校や専門学校じゃあるまいし、研究とはそういうものだと思っているから、ゼミではそういう形で研究しコンテンツを制作している。
だが、他のゼミ生や、先生たちは教室で授業をやらなければ授業放棄と見るものもいるからこまったものだ。
授業とは教室でやるものだと、それが常識だと思っているこそが、そもそも大学としておかしいことだ。

まぁ、いつも言っているのだが、「研究」という目的を持っていない、学生、先生は専門学校に行ってもらいたい。

とはいっても、こんな考えを持っているものはほとんど今いる大学にいないわけだから、「研究」は、今回、新しい形としても中国南京の南広学院大学での新しい国際授業へのスタートにともない、中国を中心にやっていこうと思っている。

北京を中心としたチームとともに、ITに関しては香港のチームから参加の声がかかっている。

今、時代はまったく違う時代へと変わってしまう。
今までの産業革命とは規模の違う、人類が今までで一番進化し、変化していく時代のど真ん中にいることをみんなはわかっているのだろうか。
Smartphoneがこの世に出てきて、10年少しで、世界中の人たちがSmartphoneなしてで生きられなくなっている。
そのSmartphoneが、5Gになる今年(日本は来年を予定)、今までのSmartphoneの100倍のスピード、1000倍の容量で、コンテンツを生み出すことができるようになる。

考えてみればわかることだ。
今の時代、すべての概念が間違いなく変わる。

 

イマジン(想像)

2019-2-28

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ちばてつや先生が、大学の学長に就任した。
ちば先生ともここ数年、大学からの学長要請の話しがあり、いろいろ意見も求められ話し合ってきた。

その中で、ちば先生が引き受けると決めたかぎりは、当たり前だが全力で力になっていくつもりだ。

この変革の時代。
いや、人類がかって経験したことのない大変革の時代、大学も変わっていかなければ、あっという間に必要ない大学となり、間違いなく時代から消えていくだけである。

このタイミングでちば先生が学長に就任したのには大きな意味があると思っている。
今、なぜここまでの大変革が起こっているか。
今までの産業革命とは別次元のスピードで変革している、前々回でこのブログで書いた、エクスポネンシャルで時代は動いているということである。

今は間違いなく第四次産業革命に入っているわけだが、エクスポネンシャルに時代を変えているキーワードは、「インターネット」「ioT」「AI」である。
すでに中国では始まろうとしている、5G(第五世代通信システム)によって、インターネットによってあらゆるもがioTとなり、そこにAIが入ってくることとなる。

そのことによって、既存の仕事の半分以上はここ数年で、この「インターネット」「ioT」「AI」で人間を必要としない仕事と変わって行く。

そのことに対して悲観的に捉える人が多いのだが、実はぼくは大歓迎なのだ。
近代社会は「高度経済成長」という号令の元、人間はまるで機械のように働かされてきた。
経済成長こそが人間の幸福があると幻想を抱いてだ。

だがそれで人間は幸福になったのだろうか。
経済成長によって、たしかに便利にはなった。
だが、幸福と考えたとき、たとえば自分が今の学生として生きてきた1970年代よりも今は幸福なのだろうか…
そもそも幸福とはなのなのだろうか…
そう考えたとき、ぼくの中にひとつの答えが生まれてきている。
「人間として生きること」
機械のように生きるのではなく、「人間として生きる」ことだ。

では人間はこの地球でなぜこれほどまでに進化を遂げてきたのか。
答えは「想像」である。
人は想像することで、それを形にしてきた。

「こういったものがあればいな」といった想像が、馬車を生み、蒸気機関車を生み、車を生み、飛行機を生んできた。
そう、人間の生み出したものはすべて想像から始まっている。

その想像は、AIにはできない。
ビッグデータにしろ、機械学習(ディープラーニング)にせよ、想像は目的ではないので生み出すことはできない。
つまり、人間は想像することで生きる生き物ではないだろうか。
そこに幸福と感じる大きなヒントがあるのではないだろうか。

今からの時代、機械的な生き方は、すべてAIが引き受けてくれると言ってくれているようなものだ。
人間は人間しかできない、「想像」で、そしてAIを道具として生きていけばいい時代が、まさに「今」だということだ。
その今から、無くなっていく仕事以上に、「想像」によって新しい仕事が間違いなく生まれてくる。

大学は本来研究機関である。
研究とはこの世にないものの答えを探す場所だ。
つまり新しい仕事(生き方)を生み出すことにおいて、「想像」を一番必要とされる場所だということだ。

マンガはまさに「想像」からしか生まれない。
ちばてつや先生は「想像」の神様だと思っている。

そのちば先生が学長となった大学でいかに「想像」していくか。
実にやりがいがある。

そうそう、前回のブログで書いた、中国の話しが、まさにエクスポネンシャルに動いている。
先日も中国伝媒南広学院を創った、テレビドラマ、映画、テレビ番組を制作する、中国メディアを動かしている「華夏視聴伝媒」の蒲社長と、副社長の孫さんと、これからの方向性を決める話し合いをやってきた。
今からのグローバルメディアの中において何を生んでいくか、まさに「想像」の話しだ。
その研究はすぐに始め、研究をコンテンツ化していく。
そして、ビジネス。

「想像」を大学で研究するとともに、それをコンテンツ化し、ビジネスに繋げることのできるプラットホームが中国で具体的になってきた。

今年は通勤のように、北京、南京、上海を行き来する1年になりそうだ。

マンガ革命

2019年1月31日

2007年に、ちばてつや先生に誘われて大学でマンガを研究するようになったとき、最初に掲げたのが「マンガ革命」という言葉だった。
大学の研究室の入口に、ドン!と張り出し、今も「マンガ革命」の紙は貼られている。

なぜあのとき、「マンガ革命」の文字を書き、研究室の入口に張ったのか。
当時、auとSoftBankのケータイ発信で、「クリコミ」(当時のケータイは、クリックして画面移動していたので、クリックして読むコミックという意味)という、世界で初めてのケータイで見るために創ったマンガ配信をやっていたことで、必死に尖っていたのかもしれない。
当時、まぁ、だれもがケータイでマンガを読めるなんてこと事態知らないし、そもそもマンガは冊子で読むものだという「常識」によって、「ケータイで読むマンガなど邪道」と、いろいろ批判を受けていたことに対する反発だったのかもしれない。

ケータイでマンガを創るということは、冊子ではできなかった表現、スクロールや、場面転換のエフェクトに絵を載せ動かしたり、パラパラマンガの方式で表現が切り替わる効果を作ったり、バイブ機能や、音も使えるなど、新しい表現が、マンガができると確信していたことから、「マンガ革命」などと尖った言葉を研究室の扉に張ったのだと思う。

だが言葉というのは、人間をその方向に向かわせていく。

今ではというか、たった10年でマンガは、冊子で読んでいる人より、スマートフォンやタブレットで読む人が上回っている。
それどころか、スマートフォンをコントローラーとして、IoT、AR、VR、AI、を使い、繋ぐことであらゆる表現とともに、あらゆる分野でのマンガの可能性がどんどん広がっていっている。

大学での研究も、工学部、理工学部、医学部など、他の大学との共同研究も進め、マンガの可能性を探っている。

「革命」という言葉は、ぼくたちのイメージの象徴はゲバラであり、権力を持つ体制に対して、自由を求めて変革するために戦うスローガンとしての言葉となっている。
いや、もっと広い意味をこの言葉は持っているな。
“常識”を時代とともに変えていく。
「今のまま」でいることは、後退でしかない時代。
時代の中で走り続けることが、自分の中でつねに“革命”を起こしていると、この言葉を捉えてもいいかもしれない。

そういう意味では、大学ではずっと革命を起こしつづけている。

尖って大学に入ってきたこともあって、大学の現状にはいつもため息ばかり。
学生も教員も、大学を“研究機関”としてではなく、高校の延長、つまり“研究機関”ではなく、学校として見ているものが大半をしめているように感じているからだ。
大学でどれだけの教員が本気で研究しているのだろうか…
時代はエクスポネンシャルに動いているのに、何十年も同じ講義をやっているなど、本来はありえないのだ。
それも本来なら時代の最先端でなければならない、大学が完全に時代に取り残されているように感じている。

そういったことから、ちばてつや先生と2016年に【ちばてつやMANGAイノベーション研究所】を立ちあげ、大学を変えなければならないと、ここ5年本気で動いてきたことが、時代のタイミングもあるのだが一気に動いてきている。

自分の大学で言えば、今年度から「アニマルアート」という学科をつくり、来年度からはアニメーション、マンガ英語と学科を立ち上げる。
他大学とも、共同授業は3年前からいくつか形にしてきていて、今は共同学部設立の話しを文科省にも繋げて進めている。
医学大学とは、マンガセラピーの研究も始める。

海外でも、中国のメディアの大学で今年からマンガ学科を立ちあげ、春から毎月一週間ほど滞在しながら、中国の大学にも共同研究を進めて行く予定だ。

そのすべての進行、カリキュラム、教員などの人材捜しとひとりでやっているもので、とにかく時間が足りない。
これ以外に大学の授業に、学生たちと進めているいくつかの仕事(今日も2本〆切がある)と、冷静に考えれば物理的にありえない仕事量を抱えている。

だいたい、今の仕事量を人に話すと、だれもが驚いてしまうのだが、先日、電子機器のワコムに中国の大学のことと、アニメーションの立ちあげで相談にいったとき、Yさんが「ありえないな」と笑いながら言ったあと、「でも、たのしそうだね」と言ってきた。

実はそうなのだ。
10代のころから、自分の中のものさしがある。
「できる、できないではなく、やりたいか、やりたくないかで決める」

そう、「やりたいからやっている」のだ。
そしてそれが「革命」になれば実におもしろいではないか。

 

エクスポネンシャルの時代に生きる

2018年12月31日

 

今年ももう数時間となってしまった。
まさに加速の2018年だった。
ここ数年、自分の時間もエクスポネンシャルにスピードを増して流れている。
スピードだけではなく、「量」もエクスポネンシャルということだ。
昨年の今のことを考えると、新たにいくつのプロジェクトがスタートしているのか…
自分でもよくひとつひとつ形にしていっていると思っている。

いや、考えてみれば時代の時間と流れに自分が引っ張られているのかもしれない。
テクノロジーの進歩。
テクノロジーがまさに自分のアシスタントとして大きな力となっている。

たとえば、今月、AI翻訳機の新型POCKETALKを買ったのだが、予想以上に使えている。
日常会話だけでなく、上に書いた、エクスポネンシャルやIoTといった、ちょっとした専門用語もちゃんと翻訳して伝えてくれている。
長い会話も大丈夫だ。

人工知能研究の第一人者、東京大学の松尾豊先生も、2025年以降の「翻訳機」の世界では、AIが言葉の意味を理解した自動翻訳や自動通訳ができ、真のグローバリズムが訪れると言っていたが、POCKETALKの性能を考えると、2020年にはほとんど完璧な自動通訳機ができてくるのではないだろうか。

POCKETALKは、来年のプロジェクトで一番大きな自分の中のプロジェクトになるであろう中国での大学の中に入っての研究に頼もしい相棒になってくれそうだ。

とにかくぼくの一番の苦手は語学なだけに、通訳に頼らなくてもある程度会話ができるテクノロジーは本当にありがたい。

 

大学で研究するようになって、10年が過ぎたのだが、自分なりにいくつかの「大学でやるべきこと、やらなければならないこと」を感じている。
自分がいる大学では、悲しいことだが、研究者という意識を持った先生、学生とほとんどいないもので、意識を持ったゼミ学生、近くでは帝京大学理工学部、宇都宮大学の工学部、農学部の意識を持った教授たち、学生たちと共同研究をし、コンテンツを生み出しているのだが、実はその先が日本の大学にはない。

本来なら、大学は「研究」があり、そこから生まれる「コンテンツ」があり、そしてそのコンテンツを「ビジネス」へとつなげなければならない。
そのビジネスを日本の大学では、「教育の場だとか、研究の場にビジネスを持ちこむとはなにごとだ」と、不思議なのだが、ビジネス=悪と考える人があまりにも多い。

研究をコンテンツ化し、ビジネスにつなげるということは、つまり、大学で学び、研究した学生が、その研究でちゃんと生きて行ける場所をつくるということになるというのにだ。

この1年以上、ずっと言っていることなのだが、スマートフォンが5Gになる、来年、再来年にかけて、時代は間違いなく大きく変わっていく。

どう変わるか、これを説明すると、また長くなるので、どう変わるかは、このブログの10月に書いたものを読んでもらえればどういうことかは書いている。

つまり、5Gが実用化するべく今が、研究し、コンテンツを生み出し、それをビジネスにつなげていくための最高のコントローラであり、プラットホームとなるビッグチャンスが目の前にあるということなのだ。

 

 

で、中国の大学の話だ。
12月、中国の南京にある南広学院大学で講演をやってきた。
南広学院は、北京にある伝媒大学と同じ系列で、映画、テレビといったメディアの名門大学である。
偏差値は日本の慶応大学ほどで、卒業生はほとんどが映画スターの道を歩む伝媒大学の演劇の学部など172倍の倍率と、すごい競争率の大学だということだ。
eスポーツの学科も世界で初めて創設し、そこへ入る倍率も155倍と、世界から学生が集まっている。

その大学で、共同研究をやらないかと誘いを受けている。
もちろん5Gの話もしている。
5Gになることで、IoTにつなげてのマンガキャラクターの可能性。
そこにはAR,AI,VR,3Dといった表現力もあり、それはメディアでの可能性だけではなく、これからの超高齢化問題、不登校や引きこもりといった問題に対する、マンガセラピーの研究など、今、自分が大学にいることで考えている研究の可能性と、そこから生まれてくるものの必要性について大きな興味を持ってくれている。
日本とは違い、研究→コンテンツ→ビジネスとまったく違和感なく、中国の大学側のトップと話し合えてきているということだ。

来年早々、中国からそのトップが来日し、具体的なことを話し合うことになっている。

 

他にも、抱えている仕事の数を数えると、不可能だと思ってしまうので、とにかく目の前のひとつひとつを、期限を持って形にしていくしかないということなのだ。
ひとつひとつを形にしていっても、また次々と興味ある仕事が湧いてくるので、つねに20以上の仕事とプロジェクトを進めている。

でもそれは、ありがたいことだと思っている。

さぁ、来年、2019年はどう動き、来年の今頃はどうなっているのか。
予想のつかない時代のエクスポネンシャルの流れの中だけに、ひとつひとつを楽しんで生きていく。
それが一番。

時代は変わる

2018-11-28

 

先月の末、中国の上海に行ってきた。
高校・中学と10校近くまわり、講義もおこなってきた。

上海ということもあるのだが、テクノロジーを使った教育が普通に行われていた。
タブレットが教科書など当たり前で、教室の白板もデジタル化され、生徒のタブレットと連動していたり、博物館のような空間もあれば、プラネタリウムまでもある。
図書館など、デジタル対応で、おしゃれなcafeのようなスペースの中で、生徒たちは読書をしている。

また学校の学生たちの行動システムでAIが使われていたり、3Dプリンターも教材で普通に使われていたりと、日本の大学よりも遙かに進んだ設備の中で教育が行われていた。
先生にしても、学校側から定期的に、最新のテクノロジーなどを勉強するための、留学のシステムができていて、先生たちもつねに新しい教育を学び、生徒に教えていっている。

つまり中国では時代の変化に対して、「変わる」ことができなければ、今からの時代を生き残れない「攻めとしての発展」の教育を感じてきた。
そう、だれもが時代を変える人材育成としての教育をしているということだ。

それに対して、日本は大学という研究機関の中でさえ、大半の教授や学生は、変化することを拒み、昔と変わらぬ、さして時代を求めて勉強することもなく、基本はアナログだと、テクノロジーは人間をダメにすると根拠もなく言ってきたりしてくる。
批判するならテクノロジーを勉強して、ちゃんとわかった上での考えなら何も文句を言うつもりはない。

勉強もしないで、キライとか、苦手だとか、ちゃんとわかっていないにもかかわらず、たとえば、IoTやナノテクノロジー、ジュネティックス、ロボティックスなど、ニュースを見ていたら当たり前に一般でも使われている言葉を使うだけで、「そうやってわからない言葉を使って、わからなくするのよね」など、理解できないのは、ちゃんと勉強し、研究している側のせいにされる。
言っておくが、ニュースで使われている一般常識の言葉以外は、たとえば、今、取り組もうとしているハプテクスなどは、「振動、動き、皮膚感覚などデバイスを通して伝えるテクノロジー」と、もちろんちゃんとわかりやすく、そう言ってちゃんと伝えている。
…いや、そう答えたら、デバイスという言葉で「やはりね」と、ひっかかるか(笑)

そういう人たちは、変化ではなく、このままを維持することを臨んでいる。
つまり、このままが、「楽」だからだ。

だが時代は変化している。
留まるということは、現状維持ではなく、間違いなく「後退」しているということだ。
「楽」の先にあるのは、「楽」をしただけ、変わって行く時代の中で、人生の可能性を失っているだけのことだと、そのことがどこまでちゃんとわかっているのだろうか。

そしてそういった考えが、研究機関である大学の中でさえもあるのが、今の日本だということだ。

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考えてみれば、中国へ最初に行ったのは、1987年で、香港から瀋陽に飛び、撫順などを回ってきたのだが、まさにまだベールに包まれた国で、人民服に自転車の国だった。
車などまだ珍しく、道路は自転車であふれかえり、電車の遮断機は人力の丸太で、黄砂の舞う近代化とはほど遠い国だった。
今となっては笑い話なのだが、香港までの帰りの航空券が取れず、中国に予定より一週間以上出られなくなり、中国政府や公安が訪ねてきたりと大変だったのだが、その分、中国政府の中に入り込むことで、当時の中国をじっくり取材させてもらった。
そのときのことは、日本へ戻るとサンデー毎日で、大特集されるほどの、撮るもの、取材するものすべてがニュースになるほどのだれも知らない中国がそこにあった。
それからたった30年で、中国はアメリカと世界を二分する大国となっている。

2008年の北京オリンピック前の3年間ほどは、武術の取材で中国には何度も行き、特に北京のオリンピックに向けて近代化へと変わる姿は、リアルに北京の現場でみることができてきた。
2010年の夏は、上海から杭州に入り、西安から洛陽、鄭州など約1ヶ月間バックパッカーで旅もしてきている。

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考えてみれば、1987年に初めて中国を見たボクは、今の中国を想像できただろうか…
今から10年先、中国はどのようにまた変わっていくのだろうか。
そしてボクは今から、中国とどのような形で繋がっていくのだろうか。

先週も中国で活躍するプロデューサーと新宿で食事をしながら、今からの新しいマンガコンテンツの話しをしてきた。

そして12月に入ったら、また今度は南京の大学で講演をしてくることになっている。

何かが新しく始まっている予感は感じている。
だが、それがハッキリと何なのかはまだ見えていない。

ただこれだけは言える。
良くも悪くも、今、日本よりも、中国は刺激に満ちている。

テクノロジー 「今」の話し

2018年10月24日

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大学での講義、研究会での講義、行政に呼ばれての講演と、いろいろな場所で毎週のように「今」を話している。
「今」というのは、テクノロジーによって大きく時代が変わってきている「今」の話しだ。

ここに何度か書いてきた、今年の4月にスタートした「プロジェクト9b」は、姫川明輝先生の、那須に何度も足を運び生み出した、それぞれの那須のスポットで生み出したキャラクターたちが、ARシステムでスマートフォンを通して、その場に行くと表れ、観光案内をしてくれるといったシステムである。
大学の田中ゼミには、他にも行政を中心に制作依頼が来ていて、つねに20以上のプロジェクトを抱えているのだが、その数が間違いなくムーアの法則(エクスポネンシャル)的(笑)に増えていっている。

こういったマンガを使ってのARはまさにIoT化の時代において無限の可能性を秘めていることは間違いない。

IoTと書いたので、数字でIoTのことを書いておく。
総務省によると、インターネットにつながるIoTディバイスは、2016年において173億個がつながり、2020年には300億個がIoTのデバイスによってつながると予測している。だが、2020年からはスマートフォンが5Gへと変わることになる。
それはまさに、この世に存在するモノのほとんどが、IoTにつながり、IoTがつながれば、そこにはマンガやキャラクターもつなげることのできるということなのだ。

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そもそもスマートフォンが5Gになるとはどういうことか。
簡単に言えば、「● 高速・大容量」「● 低遅延(ていちえん)・超高信頼」「● 多数同時接続」の3つが上げられる。
超高速ネットワークはLTEの100倍。1,000倍の大容量化になり、LTEでは5Gと同等の送信成功率を達成するのに無線区間5ミリ秒以上の遅延時間を要したが、5Gでは無線区間1ミリ秒以下と、5分の1以下に遅延時間が短縮されることになる。
多数同時接続では現状の100倍以上の端末接続をサポートすることとなる。
これは1㎢あたり100万台以上のデバイスと同時に接続することが出来るというわけだ。

つまり、2019年全米で、2020年には日本でサービスがはじまる5Gは、あらゆることのできるコントローラーになってしまうことで、時代は間違いなく変わってしまう。

たとえば医療に関して言えば、血圧や心拍数などモニターで主治医に送られ、異変があれば8Kカメラによって遠隔で診察もできる。(もちろんここにも、キャラクターを使うことができる)
AIともつなげれば、ガンなどの早期発見までも見つけ出してもらえる。

じつは今、興味を持っている、ハプテクスとつなげれば、触覚までもスマートフォンで伝えることができるわけだから、簡単な手術ならスマートフォンで遠隔でできるかもしれない。
触感を伝えることができるということは、スマートフォンやタブレットでのマンガの中で衣服の質感を伝えることはできるし、衝撃力や、吸い込まれる感覚をも表現として使うことができることになる。

他にも今、デジタル上で研究されていることが、5Gになることで、人間の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚までも、スマートフォンで伝えることができる形になるということである。

とくに視覚に関しては、自由視点カメラによって、たとえば野球のスタジアムの客席にいながら、スマートフォンで、グランドに立った位置で、選手の横で試合を観戦できることだってできる、つまりリアルVRを体験、体感できるテクノロジーが2020年のオリンピックに向かって形になってきている。
これも新しいマンガコンテンツを生み出すことができるテクノロジーだ。

まだまだ凄い研究は、大学、民間の研究所で行われてきているわけなのだが、こういったテクノロジーは、マンガやキャラクターを創る側からすると、無限の表現手段を与えてもらっている。

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いやいや、表現者にとってはとてついもなく面白い時代になってきたことだけは間違いない。

そういった「今」を、研究、制作とともに、大学での講義、研究会での講義、講演で、夢を語るように話している。

今週末からは、中国の上海の高校や専門学校で5日間ほど、大学でマンガを研究することについて夢を話してくるつもりだ。

イノベーション

2018-9-29

イノベーションとは何なのか。

大学に創った「ちばてつやMANGAイノベーション研究所」でもイノベーションの言葉は使っている。

イノベーションを定義した、20世紀の代表的な経済学者J・A・シュンペーター(1883年2月8日 -~1950年1月8日)はイノベーションを次の5つに分類している。
・新しい生産物または生産物の新しい品質の創出と実現
・新しい生産方法の導入
・産業の新しい組織の創出
・新しい販売市場の創出
・新しい買い付け先の開拓

シュンペーターが約100年前に考えた、この考えは、現代のまさにイノベーションを起こしている、Apple、Google、Amazon、Microsoftにピタリと当てはまってくる。

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そう、今、世の中はApple、Google、Amazon、Microsoftに世界中のほとんどの人間が関わった生き方をしているわけだから、この4つがプラットホームとなり、このプラットホームからまた、新たなイノベーションが生まれるという仕組み…

たしかに今、大学で取り組んでいるマンガのキャラクターがARや、VRで情報を発信していくシステムにしても、アプリを創り、iPhone、Androidのスマートフォンをコントローラーとし、iTunes、Googleストアーからダウンロードしてもらわなければだれもが使えるコンテンツとして成立しない。

でもこうやって、イノベーションという概念を生み出した経済学者J・A・シュンペーターの考えを見ると、イノベーションとは、発明ではなく、創造だということがはっきりと見えてくる。
そう考えると、世の中に新しいものを生み出すということは、つまり創造なわけで、その創造的な出来事の99.9%は、「今まで無かった、過去にあった出来事の組み合わせ」だということも見えてくる。

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ここ毎回書いていることだが、大学は間違いなく変わらなければならない。
大学という場所はもともと、実用的な目的を持って、美術、経済、医学、歴史、物理などなど専門分野に分かれている。
もちろんこれは必要で、ひとりの人間がすべての分野で専門家になることなどまず、不可能なこともたしかだ。
だが、ひとつの分野に閉じこもっていると、他の分野で何が起こっているか見えなくなっている。
ぼくは今、美術大学にいるのだが、昨年、教授会で「シンギュラリティによって大学はどうかわらなければならないか」(カーツワイルのこの言葉から、G.N.R革命の説明、2045年問題、スマートフォンで検索できる時代において、教えるとは何か。語学もアプリで同時通訳ができる時代においての語学を学ぶとは何か。情報量は1999年まで人類が30万年かけて蓄積した量が、7年で410倍の情報量になっている今の情報社会においての学びとは何か。2007年生まれからの子どもの平均寿命は100歳を超え、2025年には65歳以上が日本の人口の3分の1をしめることになる。超高齢者会においての社会保障としてのベーシックインカムのことなどなど…)という論文を全先生方に配り、読んでもらったのだが、「何を言っているかわからない」で終わってしまった。

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教授たちは、美術の大学は、美術だけをやっていればいいという考え方で押し通そうとしてきている。
はっきり言うが、それは単なる「楽」をしたいだけなのだと思う。
新しい「知識」を入れるためには「勉強」をしなければならない。
だが、それをやらないというのは、ひとつの専門分野に閉じこもり、他の分野で、この世界で何が起こっているのか見えてなく、べつにそんなことなど知らなくていいと、「楽」をしているということだ。
だが今、時代は大きく流れている。
まさにイノベーションが凄い勢いで世界中で起こっている。

その中で生きていくには、経済的要因を考え、政治的要因を考え、文化的要因を考えと、
美術、経済、医学、歴史、物理など、学問的横断的なアプローチで知識を得なければ想像ができない時代になっていると思う。

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ぼくはいつも学生に言う言葉がある。
「知識」がなければ「想像」はできない。
たとえばAIの知識がなければ、AIとマンガを結びつけたコンテンツのイメージはわかない。
人間は「想像」し、それを形にしたいと考え、研究し、数々のモノを「形」としてこの世に生んできた。
「想像」がなければ、形は生まれてこない。
研究ではなく、専門学校のような経営をしている大学はまさに、専門分野の「知識」しかなく、専門分野の「想像」しかできない、大学であるにかかわらず、世界から取り残された場所になりつつある。

そう考えると、イノベーションのイメージが見えてくると思う。
現代のイノベーションを生み出すのは、学問的横断的なアプローチに立った「知識」と「想像」だと見えてくるはずだ。