2023年の終わりに

2023年は新しい時代のはじまりだった。。
まわりではあまりピンときてない感はあるが、世界は間違いなく、2023年から大きく変わって行く。

ぼくが週刊少年ジャンプで連載していた1988年は、ジャンプの発売日の月曜に電車に乗れば、大げさではなく8割近い乗客がジャンプを読みながら座っていた。
それが2000年代になると、乗客はケータイ電話を見るようになり、iPhoneが生まれた2007年から一気にスマートフォンが普及しはじめ、今では電車の8割がスマートフォンをいじっている。

いや、電車の中だけではなく、生活そのものがスマートフォンなしでは生きられないインフラとなっている。

Windows95が世に出たころから、電車の中でジャンプを読んでいたあの時代とは、まったく違う時代になっているというわけだ。

これほど時代が変わったにもかかわらず、Windows95で世界中でインターネットが普及し始めた中、日本の96年の普及率は3.3%と日本はインターネットの時代に乗り遅れ、1988年は世界の時価総額トップ50に日本企業は32社入っていたのが、2020年にはトヨタが40位後半に1社入るだけとなっている。
日本の経済が低迷し、失われた30年というのは、まさにインターネットによって、「情報」の時代と変わったというのに、「このままでいい」「ものつくり日本を変えるな」と、過去の考えにしがみつき変化を否定したことだと思っている。

日本でなぜGAFAMが生まれてこなかったのか。
時代を変えた、AppleのジョブズはSONYを手本としたというのに、日本の「このままでいい」という国全体の空気が、時代の変化に対応できなかった思っている。

そして今年、ジェネレティブAIによって、ぼくたちの生活は一変しようとしている。
ぼくたちのあらゆることに、AIがサポートしてくれることになる。

仕事も教育も遊びも、そして創造においても何かやろうと考えたとき、ジェネレティブAIはあらゆる分野で対応できる、人間にとって最高のパートナーとなることが、研究すればするほど見えてくる。

つまり、今までの「常識」がまったく変わってしまう時代に入ったというわけだ。

大学で言えば、「知識」を学ぶ場所ではなくなっている。
一番必要なのは間違いなく「思考力」である。
課題にしても、「必要なのはあたえられた課題を解決するのではなく、課題を見つける力」が必要となっていく。

つまり、人間のやるべきことは「覚える」ではなく、「研究」ではないだろうか。
大学はまさに、本来の「研究機関」としての場になるべきだと思っている。

大学は「学校」ではダメだということだ。
だが、「学校」という「知識を学ぶ」という常識が、大学の中での活動に大きな壁となることは予想できる。
インターネットの時と同じ、変わりたくない地位にしがみつく者たちが、古い常識を押しつけて、新しいものを否定し時代を止めてしまう。
そういう人たちは、AIを研究することなく、「人間をダメにする」とか、「恐ろしい」とか、それこそ知識なしで否定してくる。

日本が失われた30年をまた繰り返すのか、それとも変化することで新しい時代を生み出すことができるのか…

今、ぼくたちは大きなターニングポイントに立っているというわけだ。

2023年の終わりに

答えのない答え

暑く長い夏が終わり、自然の中の仕事場のまわりを散歩すると錦秋の風景が広がっている。
もう2023年もあと一ヶ月で終わりなのだが、今年は間違いなく人類の歴史が大きく変わる始まりの年となった。

今日もゼミ生、研究室に尋ねてきたDX関係の企業の人とも話していたのだが、世界がインターネットで時代が大きく変わった以上に、今、AIによって時代はエクスポネンシャルに進化していっている。

ジェネラティブAIであるChatGPT-3.5が昨年11月に一般ユーザー向けにリリースされ、今年3月にGPT-4.0が発表されたときから、時代が一気に動き出したといった感がある。

同時に画像ジェネラティブAIである Midjourneyが昨年の夏、ファインアートコンテストで、デジタルアーツ部門の1位を獲得したニュースに驚かされ、今では画像ジェネラティブAIをDALL-Eを使ってのMicrosoftのイメージクリエーター、そしてAdobeのPhotoshop、illustratorで画像生成も普通に使うようになっている。
この先、Adobeのソフトで、動画、3Dとプロンプトの指示で制作できるようになるということだ。
またぼく自身、音楽AIのsoundrawで3月から普通に仕事でも使うなど、すでにジェネラティブAIは表現のコンテンツの中でも、1年も経たずして仕事の道具として当たり前に使うようになっている。

こういった話をすると、非人間的な時代になっていくといった話をする人が多いのだが、それはまったく逆である。
今、人間はAIによって、「人間が人間らしく生きるにはどうしたらいいか」を問われる時代になっていっているのだ。

つまりぼくたちは、機械によってできるような「作業」を、そのテンプレートに従ってやっていたというわけである。
だからぼくらは教育の中で、テンプレートとしての「答え」を教えられてきたのである。
そもそも「答え」など、まず一つなわけがないし、時代とともに答えなど変化するものだ。

5~6年前だっただろうか、大学で「答えなどない、自分で考えろ」と学生に言っていたところ、学生から大学へ、「田中先生は答えを教えてくれません。職場放棄で給料泥棒だと思います」という投書があり、大学から呼び出されたことがあった。

そのとき思ったのだが、学生も大学も、答えがなければ不安で耐えられなくなるらしい。

だがAI時代になれば、「テンプレート」上の答えが常識としたならば、AIがはじき出すものが「正しい答え」ということになる。
要するにその答えを実行するのに人間など必要なくなるのだ。
だが本来、答えなどひとつではなく、時代とともに新しい答え、新しい常識を生み出すのが、つまりは人間ということになると思っている。

今まで「答え」を見つけたら思考停止してしまう教育をやっていたから、だれもがひとつの「答え」を求めることが正解と思っていたことで、「答えがない」などというと、職場放棄などと言われてしまったわけだ。

本来、人間というのは「考える」ことで新しいものを生み出してきた。
それがいつしか、新しい答えではなく、今までの答えの中で知識を振りかざすものがエリートと呼ばれ、想像力のないままに権力を持つ地位に就いてきている。

それが、AIによって、今までの知識としての答えなどAIの方が遙かに優秀だという時代がやってきたというわけだ。

今から人間が生み出す「答え」とは何なのか。
それは人間が人間として生きることを問われていると思っている。

AIが問いかけてくれた「人間」とは何か?

仕事場を自然の中に引っ越してから2年半、変わりゆく風景の中を歩きながら、一瞬、一瞬変化していく自然がその「答えのない答え」を教えてくれていると感じている。

 

【動けば変わる】

 

旅の始まり

大学での恩師の三浦久先生に久しぶりに会いにいってきた。
三浦先生はミュージシャンと大学の教授をやりながら、ふるさとの長野県の辰野町で35年以上前から、ライブハウスをやっている。

そのライブハウス「オーリアッド」で、やはり三浦先生を恩師としている「あのねのね」の清水国明さん、原田伸郎さんが、あのねのね50周年全国ライブツアーの中に、三浦先生のライブハウスもツアーに入れたのだ。
過去には武道館でもライブをやったこともあり、このツアーも全国のホールを回っているあのねのねの二人が、たった50人しか入らないライブハウスでのライブをなぜ入れたのか。

あのねのねの二人は、ライブで「自分たちは三浦先生によって、今の活動の原点がある」といった話を語り、50周年ライブツアーは三浦先生のライブハウスで歌うのが、一番の目的だったとも語った。
そう、人には、自分の人生が動き始める大事な出会いというものがある。

実はぼくも、大学で三浦先生に出会ったことによって、当時、大人気だったあのねのねもいた、インタースペースKIYOTOレコードという事務所を紹介され、その事務所でミュージシャンとして活動していた時期がある。
当時、週刊少年ジャンプで賞をもらい、マンガ家になろうとしていたときに、突然ミュージシャンとしてプロの世界に足を踏み入れることになったというわけだ。
18歳の春である。

事務所には、河島英五さん、やしきたかじんさん、笑福亭鶴瓶さん、タンポポ、ナック、そして三浦先生など多くのアーチストが所属していた。

あのねのねとは一時期行動を共にし、河島英五さんとは全国ツアーをいっしょに回るなど、今考えると、とてつもなく大きな経験をさせてもらった。

テレビの世界、ラジオの世界、映画の世界、イベントの世界など、あのねのねや河島英五さんといっしょに仕事をさせてもらえたおかげで、メディアにおいてプロのトップで活躍する人たちと何人も出会い、十代にして「プロの凄さとプロ意識」というものを目のあたりにすることになった。

※当時のミュージシャン時代の話は、旧HPの「あの頃ミュージシャンだった思い出」に書いています。
http://2002.seiichi-tnk.com/music.html
〝あの頃ミュージシャンだったような思い出〟

ミュージシャンとして活躍できなかったこともあり、三浦先生は今も、「田中くんの人生を狂わせてしまった」と言ってくるのだが、それはまったく違う。

ミュージシャンでは活躍できなかったとはいえ、その後のマンガ家、原作者、作家、ノンフィクション作家、ジャーナリスト、フォトグラファー、ディレクター、プロデュサー、研究家、大学教授など、自分が表現したいことで自由に生きてこれているのは、間違いなく、三浦先生との出会いがスタートだと思っている。
活躍できなかった音楽にしても、コロナ前までは年に何度かライブもやってきたし、今も曲を作っている。
動画制作などの仕事で、シンセやPCでの作曲をし、そして今はAIを使って曲作りを続けている。
(いつもこの場所に載せている動画も、曲はAIを使って作曲している)

ニーチェの言葉に、「生きるべき理由を知っている人は、そこにいたる方法も探し出す」
というのがあるが、「そこにいたる方法」には必ずきっかけがある。
そのきっかけを三浦先生に与えてもらったことは間違いない。

よく人生を旅に喩えることがある。
ぼくも自分の書いてきた本の中で、旅の喩えは何度か書いてきた覚えがある。

人生に立ち向かっていく中で、どんな自分になれるのか、どんな人と出会えるのか、それこそが旅であり、人生の本質だからだ。

旅の始まりは、だれもが無名で、何者でもない存在からスタートする。
その旅が何者かになろうとするときに、間違いなく出会いがある。

今回、オーリアッドで先生からのリクエストで17歳のときにつくり、先生との出会いのきっかけとなった「季節風」という曲を久しぶりに歌った。

そして先生から昨日メールが届いた。
「大学のプレハブの小屋の中で初めて聞いたときの感動が蘇りました」

そうだった。
プレハブの教室の中で、ぼくは人の前で初めてこの歌を歌い、旅が始まったのだ。

 

久しぶりに歌った「季節風」

 

自然の中で暮らし始め、今月作った言葉の動画
「すべては途中でのできごと」

 

本当のしあわせとは…

日課の田舎道を散歩しながら最近よく考える。
「しあわせ」とは何だろう。


ぼくの研究とコンテンツ創りはデジタルが中心だ。
XRを使ってメタバースなどバーチャルな世界を表現し、今年に入ってからはAIを使っての創作、研究が自分の中でも加速している。

今まで数日かかっていたことがカスタマイズしても数時間でできてしまう。
「便利」ということでは、テクノロジーでとてつもなく「便利」な世の中になってきた。

だが、「便利」と「しあわせ」は違う。

子どもの頃、ロボットマンガを読みながら、「便利」なロボットがいてくれたら「しあわせ」なのにと思っていた。
だが、子どもの頃から、時代は数段便利な世の中になったのに、「しあわせ」とは思えない。

そんな「しあわせ」とは何かを考えているとき、スティーブ・ジョブズの有名な言葉を思い出した。

未来を見て、点を結ぶことはできない。
過去を振り返って点を結ぶだけだ。
だから、いつかどうにかして点は結ばれると信じなければならない。

ぼくはいろいろなことをやってきた。
プロとしてだけでも、ミュージシャン、マンガ家、マンガ原作者、イラストレーター、ジャーナリスト、スポーツジャーナリスト、ノンフィクションライター、フォトグラファー、デジタルアートディレクター、プロデュサー、デジタル研究者、大学教授などなど…
とにかくやりたいことをやっていたら、プロと言われるようになっていた。

そのプロとしての根底にはいつも学生たちに言っている
「だれにでもできることを、だれにでもできないだけやる」
ただそれだけだ。

その歩みの中でジョブズの言う「点」を作ってきた。
創ってきた作品とともに、何人もの人と出会い、いくつもの景色と出会い、いろいろな世界を知り、その数だけの「点」ができてきた。

そして気づけば、その過去にできてきた「点」がつながり、今の創作が生まれてきている。

もしかしたら「しあわせ」というのは、形あるものではなく、ひとつひとつの「点」に夢中になり、そこで感じていた「瞬間」なのかもしれない。

自然を歩きながら、「ぼくはしあわせなのか?」と思うのではなく、自然の中で、雲の流れ、花の揺らぎ、緑の匂いを感じ、「気持ちがいい」と感じているその一瞬。
まさに、今の「点」の感じることができているのかということ。
それが「しあわせ」なのかもしれない。

この文章を書いている今、ふと、ぼくが大好きな美術館のことが頭に浮かんできた。
瀬戸内海の小さな島、豊島にある美術館。
豊島美術館

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ここには絵や彫刻といった作品はいっさい飾られていない。
ただ大きな穴が空いた空間があるだけだ。
その穴から空が見え、海の風が入ってくる。
波の音と、木々のざわめく音。
床には、雨のとき入ってきた水滴が、美術館の中で舞う風によって自由に動いている。

ひとつひとつが、その一瞬にしか感じられない、見ることのできない宇宙。
そこへ行けば何時間も宇宙の中で漂ってしまっている。

来週、ゼミ生とともに帝京大学、宇都宮美術館との共同研究で進めているバーチャル美術館の記者会見があるのだが、「便利」なテクノロジーの話でななく、「しあわせ」を感じることのできるプラットホームにこの美術館をしていきたい…
そういった話でもしようかと「今」思った。

 

君はひとりじゃない

卒業生のアップデートとしての大学

今、15年前に自分のゼミにいた卒業生の作家のKに仕事を頼み、いっしょに行政から依頼のマンガ制作と、動画制作を行っている。
Kは在学中からプロとして活躍し、卒業してからは週刊少年ジャンプで連載を行なうなど活躍しているプロのマンガ家である。

今回、Kが今、ぼくが行っている地域行政のコンテンツ制作に加わってくれたのは、「仕事」以上に「学び」の目的があったからだ。

Kはプロの世界で仕事をしながら、不安を抱いていたという。
時代が大きく変わる中で、「このままでいいのか?」という不安である。

マンガは冊子で読むものから、世界では98%がスマートフォン・タブレットで読むものに変わり、来年度の2024年度から小学校の教科書改訂に合わせてデジタル教科書を全国で本格導入することになっている。
つまり表現において、紙ではなく、デジタルの世界が中心となっていく。
作家として生きるにおいて、新しい表現がどんどん生まれてきている世界で、今までのやり方では取り残されていくという不安。

そして「ジェネレーティブAI 」によって、AIでマンガも制作できる時代に入ってきた。
ジャンプ+から、マンガ制作サポートAI「Comic-Copilot」(コミコパ)、漫画制作サービス「World Maker」が生まれてきている。

ぼくは両方使ってみたが、まったくマンガの描けないものでも、マンガが制作できるし、ChatGPTを活用しているだけあって、プロンプトによって、完成度の高いストーリーを組み立ててくれる。
2年でパラメータ数が1000倍と増えていっているChatGPTを考えれば、2~3年もすれば、こういったジェネレーティブAIによってマンガが描けなくても今のプロレベルの作品が作られることになるだろう。

現代はVUCK(ブーカ)の時代だと言われている。
「VUCA(ブーカ)」とは、ビジネス環境や市場、組織、個人などあらゆるものを取り巻く環境が変化し、将来の予測が困難になっている状況を意味する、「Volatility:変動性」「Uncertainty:不確実性」「Complexity:複雑性」「Ambiguity:曖昧性」の頭文字から来ている。

そのVUCKの時代の中で自分はマンガ家として生きて行けるのだろうかと、Kは不安になり、Kが相談してきたことから、大学で学ぶこともかねてKと今回の仕事をやってみることになったのだ。

ぼくのゼミはここ10年ほど前から、帝京大学や筑波大学、宇都宮大学、中国の南京電媒学院大学などとも共同研究をして、デジタルによってマンガの可能性の研究とコンテンツ制作をやってきている。
ゼミで制作したコンテンツは、70作品以上で、NHKの1時間動画番組も制作してきた。

もちろんAI研究も10年前からやってきている。
面白いもので、AI研究をすればするほど、創作において「人間の可能性」を考えるようになってきた。
AIにできることは、AIを道具として使い、人間にしかできない創作を考え、コンテンツ化を考える。

ここでも何度も書いてきたが、人間が人間として生み出すものは「リアル」だと思っている。
そのリアルの表現としてぼくは自然をつねに考えてきた。

空も木々も、海も山も、「今」しか存在しない。
(1秒先には空の雲ひとつ見ても変化している)
そこから生まれる感情は、「今」であり、「過去」でも「未来」でもない。

「今」を感じた感情は、「過去」である情報のビッグデータからは生まれることはない。

ぼくがここで日課の散歩をしながらiPhoneで撮ったものをAIを道具として使い、言葉の動画として載せているのも、今しか創ることのできない、人間が人間として生み出すことのできる表現の実験でもある。

ゼミでゼミ生といつも話しているのは、人間にしかできない創造を考える。
その創造を表現するために、ペイントソフト、3Dソフト、動画ソフト、音楽ソフト、AIを道具として使い、自分にしか創れない表現を形にする。

そういったことをいつも学生たちと議論し、学生たちも考え自分の「リアル」を表現してきている。

実はKは、そのリアルを持ってプロのマンガ家になったゼミ生である。
15年前、ぼくのゼミにいるころから、ぼくがノンフィクション作家でもあったことから、現場を見せ、Kにはとにかく徹底的に取材をやらせて作品を作らせた。
つまり、リアルに見て感じたところから作品を生み出しプロとなっていったのだ。

Kの創った作品は、大学時代に創った作品も、まずビッグデータでは創れない自分だけのリアルから生まれた作品だった。
これは今の時代においても、いや、今の時代だからこそより必要な作家だと、Kからは感じている。

不安の要因は、今の時代の中で表現するための知識だと思っている。
当たり前だが、時代とともにディバイスが発達し、表現の80%以上を占めている動画は創れなければ、20%以下の狭い世界でしか表現できない。3Dを覚えればメタバースの世界などバーチャルな世界でも自分の作品で表現できる。
作家として表現の世界が増えれば、それだけ生きていくプラットホームが増えていく。

もちろん、AIに表現できないものは、マンガを含めアナログ表現でもいくつもある。
だが、アナログ表現で生きていけるのは、間違いなく希有な才能を持った天才を感じる作家でなければ難しいこともたしかだ。
そこで生きられるのは、ほんの一握りしかいない。
創ることで成長する世界において、創ることで生きていけないとなると、創らなくなり、才能は涸れていく。

Kと話をしていると何時間も議論が始まる。
制作についての表現の仕方、それを表現するための技術、そして大学での研究から見えてきている未来など、とにかく止まらない。
お互いこれが実に楽しい。

卒業生がこうやってまた大学にやってきて、お互いプロとして新しい表現コンテンツを制作していく。
Kもプロとして活躍する中、アップデートをするために大学に来て制作する。

今回のKとの創作は考えてみると、今からの大学においてとても必要なことかもしれない。

「今」を生きている3度目の夏

仕事場を自然に囲まれた田舎に移して3度目の夏。
iPhoneで写真や動画を撮りながらの散歩が日課となっている。

散歩コースも大きく分けて3つの10キロコースに固まってきた。
都会のように道がたくさんあるわけでないので、車や人がいない農道を歩くとなると、だいたい決まったコースになってくる。
だが、その同じコースに、毎回驚きと発見がある。
田畑の変化もあるし、遠くに見える山々も毎日違う顔を見せてくる。
いろいろな花との出会いも毎回ある。

カモや鶴、キジの子どもが親を追って歩いていたと思ったら、季節の流れとともに大空に向かって羽ばたいている。

自然の中にいると、すべてが生きていることを感じさせてくれる。
過去でも未来でもなく、生きているのは「今」だということを感じさせてくれる。

つまり同じ道を歩いても、その道は「今」しか出会えない出会いだということだ。

自然の中で蘇ってくる。
子どものころの自然の中で遊んだ記憶。
思い出などではない。
この自然の中で生きていたことを身体が思い出させてくれるのだ。

目で見えているものは忘れてしまうけど 心で見た記憶はいつまでも胸に残る。

都会の中では偏見に捕らわれ、妄想に捕らわれたこともあった。
ときに世辞に乗せられ 欲に引きずられたりもした。
つまりは狭い世界のちっぽけな人間になってしまっていた。

面白いもので、大学でDXコンテンツを研究し、制作するほど自然に惹かれていく。

特にここで何度も書いてきたChatGPT-3.5が2022年11月に一般ユーザー向けにリリースされ、2023年3月にChatGPT-4が発表されてからは恐ろしほど時代が加速している。

ChatGPT-4のパラメータ数は1兆以上と言われ、今も機械学習によってAIは成長し人間のやっていること、やってきたことを次々と簡単にやってのけてしまう。

それは決して悪いことでは無く、テクノロジーにできることはテクノロジーに任せればいいという考えはずっと変わってはいない。
ただテクノロジーに頼るのでは無く、テクノロジーを「道具」として使えばいいだけのことだ。

 

AIが進化することで、「人間とは何か」ということを深く考えるようになった。
たとえばAIで音楽を創るとき、AIに向かっていくつものイメージを伝えて行く。
AIはそのイメージで、幾通りものパターンの曲をプレゼンしてくる。
何十曲、ときには何百曲のAIの創った曲を聴きながら、ぼくの方のイメージも膨らんでくる。
リズム、メロディーがイメージと重なったとき、「これだ」と感じた曲を下地として、そこからカスタマイズしていく。
音楽ソフトを使い、楽器も選びその曲にどんどんと沸いてきたイメージを重ねていく。

つまりAIを道具として使うことはこういうことだと思っている。

そして、AIを道具として使って行くと、テクノロジーとはまったく逆の、「人間にしかできないものは何か?」を考え始める。

同じ道を歩いても、その道は「今」しか出会えない出会いだと自然が教えてくれる。

心で見た記憶、心で聴いた記憶、心で感じた感触…
それは、過去でも未来でもない、「今」が教えてくれる。

自然を前に、「今」を生きている3度目の夏。

 

今月の自然の中を歩いて創った言葉の動画
「不幸の源」

京都で思い出す大学の意味

大学で学ぶとはどういうことか?
今の時代、「知識」に関しては、AIに聞けばほとんど教えてくれる。
ソフトのレクチャーにしても、YouTubeで動画で丁寧に教えてくれるし、ぼく自身も新しい機能や、新しいソフトが出るとYouTubeで学んでいる。

ここでも何度も書いてきたが、今からはAIを道具として使う人と、AIに使われる人に分かれてくると思っている。

前回に書いた、シンギュラリティの時代が来ている今、人間の存在はビッグデーターの外の考えを追い求めることになる。
つまり新しい考え方だ。

それは発明ではなく、90年代に任天堂のゲームの父と言われた横井軍平氏が語っていた哲学、「枯れた技術の水平思考」(古いテクノロジー(枯れた技術)を違う分野で生かし新しい価値を生み出すこと)ができる新しい考え方のできる人材を育てることだと感じている。

つまり、これから大学が育てなければならないのは、知識を持った人材ではなく、思考力を持った人材育成ということだ。

それとともに、大学という場所で一番大きい意味は「出会いだ」と思っている。

先週、京都での「あのねのね」50周年コンサートに行ってきた。
あのねのねの清水国明さん、原田伸郎さんと出会ったのは、ちょうどぼくが大学に入学した18歳のときだった。
そのとき大学で教えていた大学講師でミュージシャンの三浦久先生と出会い、作っていた曲を聴いてもらったところ、当時、あのねのねの所属していたインタースペース京都レコードに所属することになったのだ。

事務所には河島英五さん、やしきたかじんさん、尾崎亜美さん、たんぽぽ、笑福亭鶴瓶さんなど、後々有名になっていくアーチストが所属していた。

あのねのねの二人もまだ大学生だったし、あのねのねの二人以外はまだ無名といっていい存在だったこともあり、よく安い店で酒を飲みながらいつも夢を語っていた。

そして他にも、後に世に出てくる、きっとだれもが知っているミュージシャン、芝居、俳優、作家を夢見る京都大学、同志社大学、立命館、精華、京都女子など、自分の大学に関係なく、何人もの出会いがありいろいろなことをやってきた。

なぜ出会ったか。
答えは簡単で、「おもろいことをやっていれば、おもろい仲間が集まってくる」。

そういうことだ。

ライブハウスはもちろんのこと、京都の会館などそんな仲間たちと借り、チケットを手売りで売り、アルバイトをして資金を稼ぐなど、コンサートも自分たちで何度も開いた。
同人誌を出したり、イベントもいろいろやってきた。

「もっとおもろいことをやりたい」

今考えれば、学生だったからこそできたことだし、本当に楽しかった。
そしてそのときの経験、そして人脈がそこからいくつもつながっていく。

あのねのねの50周年コンサートには、スケジュールの合間を縫って飛び入りで笑福亭鶴瓶さんもやってきた。
ステージでは出会った大学時代の話で盛り上がり、その出会いがあったから今があることがよくわかる会話と笑顔だった。

そして、あのねのねと鶴瓶さんが1曲歌い出した。
河島英五さんが作った「青春旅情」という曲だ。
実はこの曲、あのねのねや鶴瓶さん、そしてぼくにとっても大事な曲なのだ。

河島英五さんとコンサートツアーで全国を周っていた時など、田舎の駅の乗り換えの時間など、英五さんとホームでギターを出しよく歌っていた。
当時は「どさまわり」という曲名で、まだまだ無名でもがいていた日々の中で、この歌がいつしか、当時のぼくたちの仲間の歌となっていた。

次の日、46年前にぼくが住んでいた京都の一乗寺にあるアパートに行ってみた。
最初、清水国明さんが借り、そこへ原田伸郎さん、鶴瓶さん、同じ事務所だった後に、レイニーウッドのベースとなるミッキーさんが住み、そしてぼくが最後に住んだアパートだ。
そのアパートがまだ残っていた。

ぼくは途中で大学は辞めたが、ぼくにとっては京都が大学で、今も当時の仲間たちと仕事もするし、飲みにもいく。
そして口癖が「おもろいことしような」だ。

時代が大きく変わっても、大学時代の「出会い」は変わることのない感応だということだ。

道元禅師の有名な逸話。
その言葉で今月の風景とともに曲と動画を創ってみた。

シンギュラリティの時代

シンギュラリティとは、2005年にAI研究の第一人者として知られるレイ・カーツワイル氏が、シンギュラリティ論を発表し、そして「2045年にシンギュラリティが訪れる」と言ったことで注目された言葉である。

このカーツワイル氏、1990年にインターネットの誕生に検索エンジンが生まれることや、コンピューターが2000年までにチェスの王者をやぶるなど、理論に基づいて未来を予測してきた未来学者でもある。

日本でも2016年に孫正義氏が〝シンギュラリティ〟という言葉を使ったことから、日本でも〝シンギュラリティ〟という言葉が飛び交うようになり、ぼく自身もそのころから興味を持ち始めた。

〝シンギュラリティ〟日本語では「技術的特異点」と訳されている。
AIなどの技術が、直線的に向上するわけではなく、指数関数的に向上することで、仕事の多くが代替可能になるということだ。

だが、ここのところChatGPT-4が発表されてから、いったい何が起こっているのかと思うほど、あらゆる分野でAIを使ってのコンテンツが生まれてきている。

「2045年にシンギュラリティが訪れる」ではなく、これはもうすでに〝シンギュラリティ〟に入ったのではないだろうか。

前回、AIをどう、道具として使うかということを書いたが、まさに「自分が何をやろうとしているか、そのためにAIをどう使うのか」という思考がなければ、AIは単なる便利な検索エンジンでしかない。

現在ぼくのメタバースの共同研究では、3DモデリングをAIに命令して作ろうと研究しているのだが、きっと1年もすれば、テキストだけで自分が想像する3Dモデリングがだれにでも可能になると思っている。

またAIは大学で教えることで出てきた問題点も今年に入ってからどんどん解決してくれている。

たとえば、「伝える」において、情報源は「視覚情報」「聴覚情報」「言語情報」の3つによって伝えられる。
その割合は、視覚情報 55%、聴覚情報 38%、言語情報 7%になる。
つまり、93%が視覚と聴覚によって人は認識している。

つまりは、「伝える」において一番だれもが認識できる形は動画ということだ。
実際、10年前は、広告業界において動画は20%ほどだったが、今は80%以上が動画となっている。

なぜかと言うと、答えは簡単で、だれもが持っているスマートフォンが4Gとなり、動画をストレスなくだれもが見られるようになったからだ。

2020年のサイバーエージェントの市場調査においても、動画マーケティングに取り組んでいる企業担当者の約85%が「動画の重要性が増している」と回答している。

ぼくのゼミの学生には、1年前から課題制作の中で動画を作らせている。
premiere、Aftereffect、blender、unityを中心としたソフトを使い、動画研究に取り組んでいるわけだが、ひとつ問題があった。

動画に欠かせない音楽である。
ゼミ生の中には作曲できる学生もいるのだが、ほとんどの学生が音楽を作ることができない。
今年の春までは、YouTubeなどのフリーの楽曲を使わせていたのだが、コンテンツ化するにあたってフリーとはいえ、他の人が作った曲ではいろいろ問題があると感じていた。

ChatGPTから始まったAIを研究する中で、AIで音楽を作ってみようと、ここ1ヶ月ほど取り組んできた。

これがとにかく面白い。
AIに、たとえば「センチメンタル」に「ゆったりと」「アコースティック」になど、キーワードを入れ、楽器、時間やキーも指定するといくつもの曲を一瞬にプレゼンしてくる。
その中から、自分のイメージに合った曲を見つけると、それをカスタマイズし、ドラムとベースを強調したり、ストリングスを加えたり、時には自分でギターを弾いて加えたりと、曲を自分のイメージにそこから変えていく。

ぼくは10代、20代のころプロとしてミュージシャンもやっていたことで、現在もクライアントから頼まれた動画の曲もシンセなどで作曲していたのだが、AIを使うと、1週間かかっていた作業が、6~7時間でできてしまう。

もちろんAIが作ってきた曲をそのまま使用すると、1分かからず曲ができてしまうのだが、音楽を作ってきた身としては、そこから曲を膨らませ、イメージを形したくなってくる。
AI作曲についていろいろ調べたが、ぼくがやっている方法だと著作権の問題もある程度クリアーもできている。

学生に対してAIを使うことによっての可能性として、ぼくとは逆のパターンだが、こうやってAIで音楽を作ると、楽器が弾けなかったり、音楽ソフトを使えなかったものも、自分でもイメージを膨らましたくなり、目的を持って楽器を覚えたり、音楽ソフトを使ってシンセを覚えるなど、自分の可能性がAIによってどんどん広がっていくはずだ。

つまり今まで「できなかった」ことが、AIによってできることが、それも一人でできることが一気に増えている。
それは仕事をAIによって奪われるのではなく、AIによって〝自分の可能性が広がっていく〟ということだ。

シンギュラリティの時代をどう生きるか。
その一つとして道具としてAIを使うことだとぼくは思っている。

今回、ここに載せている「生き方に窮屈を感じたら」の動画、音楽はAIを使って曲を創ってみました。

 

ChatGPTが時代を変える2

先月ChatGPTのことを書いたが、文、画像、動画、3D、音楽…あらゆる分野でAIが一気に動き出した感がある。
ただ、大学では思っているよりAIで訪れる社会のことがちゃんとわかっていないことが見えてきた。

大学での論文やレポートに関するAI対応を見ながら、今までのやり方の中で対処しなければならないと意見を述べているが、間違いなく「今」時代は変わったのだ。
そもそもChatGPTを単なる利口な検索エンジンように思っているらしい。
ネット上のビッグデータの中でのデータなので、フェイクもまだまだあることから「ここが間違っている」と、間違い探しを見つけては「使えないなぁ」と自慢げに話している人たちもいる。

数年前、大学でDXの話をしたとき、スマートフォンを持っていながら、「私はDX社会の中で生きてはいない」と言っている時とまったく同じレベルで、今回もAIのことをちゃんと理解できずに見ているようだ。

この場所でも数年前から書いてきたことだが、今からの時代は、「AIを使う人」と「AIに使われる人」に分かれると言ってきた。
つまり、AIに価値を「奪われる」人と、AIで価値を「生み出す」人がこれから生まれてくる。
ここでAIを否定する意見の人たちは、つまりはAIに価値を「奪われる」人たちのようだ。
AIに価値を「奪われる」と思われる人たちは、そもそもが、自分の仕事に対してアップデートができていない。

前回も書いたが、AIは便利な道具として、自分のやっていること、やろうとしていることの中でどう使うか。
たとえば、ぼくが原稿を書く場合だと、以前は資料集めなど数週間かかっていたことが、AIを使えばチェックなども入れても1日かからず用意することができる。

その下準備ができたところから、取材や研究といったリアルが始まる。
取材や研究においてのリアルはビッグデータにはまだないデータだし、データの中には五感で感じる感覚がない。

つまり、よくアナログ人間は人間的で、デジタル人間は機械的だと言うが、今の時代、その考えがまったく逆になっていると思っている。

 

アナログ人間はテクノロジーでできることに時間をかけ価値をどんどん奪われていき、デジタル人間は、テクノロジーでできることはテクノロジーで処理することで、より人間にしかできないことを追い求め、そこに価値を生み出していく。

本来なら大学というところは、制作、論文、レポートにしても、AIを道具として使うことで、どれだけのことができるか。
それを追求する、つまり今からのAI社会の可能性を研究する機関でもあると思っている。
それが本来の「成長」ではないだろうか。

そしてその可能性を追求すればするほど、間違いなく人間にしかできない、価値が見えてくるはずだ。

今月の「ことばの風景」
物差しを捨て 旅に出よう

ChatGPTが時代を変える

OpenAIが2022年11月に公開した人工知能チャットボット、ChatGPTがとにかく凄い。
検索はもちろんのこと、指示のやり方であらゆる文章、ソフトとの連携で3Dや動画作成までもできる。

4月から自分のゼミでは、まずは課題の研究制作に向けて、ChatGPTで目的のレポートは書かせてみようと考えている。
もちろん、単にChatGPTの作成したレポートを提出させるのではなく、そこに自分の目的、研究を加えることで、自分がやろうとしている「目的」が、ChatGPTが導き出した答えによって、深く研究制作できることになる。

たとえばChatGPTに「動画の必要性について」と質問。

「動画は、静止画と比べて商品を深く理解してもらいやすく、伝えられる情報量が多く、動きや音声によって印象に残るため、商品を深く理解してもらいやすいです 1。また、動画から何らかの感情が生まれたユーザーはそれを他のユーザーと共感するために、ソーシャルメディアで動画をシェアし、拡散性の高い動画は「バイラル動画」と呼ばれます 4。
採用動画の良さは、働く環境や人の雰囲気が伝わりやすいこと 3。商品やサービスを利用する人々のようすや場面を動画にすることで、購入後の将来像をスムーズにイメージしやすくなります 2。
以上のように、動画は商品やサービスを深く理解してもらいやすく、拡散性が高いため、ビジネスにおいて必要性があると言えます」
と回答。

次に、「たとえばAdobe Premiere Proならば、映画制作など高いレベルの制作も可能か」と質問。

「はい、Adobe Premiere Proは、プロ品質の映像を制作することができるなど、幅広い用途で使えます 1。Premiere Proは、映画やテレビ番組などの大規模なプロジェクトにも対応しており、多くの映画やテレビ番組で使用されています 1。また、Premiere Proは、他のAdobeアプリケーションやサービスとシームレスに連携し、何百ものサードパーティ製の拡張機能と統合されています 3」
と回答してくる。

具体的にもっと知りたいと、「映画ならどういった作品でpremiereは使われているか」と質問。

「Premiere Proは、多くの映画で使用されています。たとえば、『シン・ウルトラマン』では、VFXと連携して映画制作に使用されました 3。また、『ボヘミアン・ラプソディ』や『ジョーカー』などの映画でも使用されています 1。
Premiere Proは、映画制作に必要な機能を備えており、大規模なプロジェクトにも対応しています 1。また、Premiere Proは、他のAdobeアプリケーションやサービスとシームレスに連携し、何百ものサードパーティ製の拡張機能と統合されています 3」と回答。

こうやってChatGPTと質問と応答によって、単にpremiere Proを覚え高い質の動画制作を目的とするレポートを書くにしても、そのレポートの幅と可能性を広げてくれる情報を提示してくれ、目標の到達地点がより高いところへと導いてくれる。

つまりChatGPTが出てきたことで、大学でAIが書いた文章は認めないではなく、AIを道具としてChatGPTをどう使うか、そのことの方が間違いなく必要だということだ。

これは画像をAIで制作することも同じだと思っている。

マンガやアニメ、3DもAIで制作できるテクノロジーが出てきている。
AIで制作したマンガやアニメはビッグデータの組み合わせだからといって、オリジナリティがないのかと言えば、それは大間違いだ。
AIはあくまで道具であり、その道具を使う人間の個性が間違いなく生まれてくる。

写真にエフェクトをかけるのと同じことが言える。
ぼくは制作において、自分の抱いたイメージに向かっていろいろなエフェクトをかけていくのだが、出来上がった作品は自分の抱いたイメージであり、それは自分の心で見えたオリジナル作品である。

デジタルで加工すると虚妄だと言う人がいるが、写真を撮ったのは自分であり、たとえば風景なら季節、雲の動き、日差し、空の色…すべて同じものなど撮れない一瞬を捉えたリアルから始まっている。
撮った写真の空の色が自分にはもっと青く見えたなら、自分の心で見えた色を自分の心の色に変えていく。
その自分に見えたリアルな世界を道具であるデジタルでよりリアルな作品としているということなのだ。

AIを道具として、自分の中で表現できなかったものがコンテンツ化できていく。
そのとてつもない便利な道具としてChatGPTが今、ぼくたちの目の前に現れた。

1992年に日本で初めてのインターネットサービスプロバイダーがサービスを開始してから30年、ぼくたちの生活はそれまでとまったく違うものとなった。

インターネットによってGAFAが生まれ、Microsoft、AdobeなどのMT SAASが次に来ると言われている。
中心となるのはクラウドサービスだが、それを引っ張るのはAI、つまりChatGPTではないだろうか。

インターネットで大きく時代が変わったように、AIによって新しい時代が始まっている。

カーツワイル氏が2045年にシンギュラリティ(技術的特異点に到達)になると予測したが、ChatGPTによってここ2~3年以内にはシンギュラリティが来ると予測する。

とにかくこの、ChatGPTの凄さは、ウォズニアック氏やマスク氏などが、「このままでは予測不可能なブラックボックスに突入し人類が危機に曝されかねない」として、企業は対話型AI技術の開発を半年間停止すべきだとする公開書簡が発表されるなど、人類がかって経験したことのないスピードで時代を変えようとしていることは確かだということだ。

そのスピードはもう止めることはできない。

※今年からなんとなく作りだした、大学でゼミ生に話している言葉、その「言葉の動画」 もリンクさせています。