イノベーション

2018-9-29

イノベーションとは何なのか。

大学に創った「ちばてつやMANGAイノベーション研究所」でもイノベーションの言葉は使っている。

イノベーションを定義した、20世紀の代表的な経済学者J・A・シュンペーター(1883年2月8日 -~1950年1月8日)はイノベーションを次の5つに分類している。
・新しい生産物または生産物の新しい品質の創出と実現
・新しい生産方法の導入
・産業の新しい組織の創出
・新しい販売市場の創出
・新しい買い付け先の開拓

シュンペーターが約100年前に考えた、この考えは、現代のまさにイノベーションを起こしている、Apple、Google、Amazon、Microsoftにピタリと当てはまってくる。

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そう、今、世の中はApple、Google、Amazon、Microsoftに世界中のほとんどの人間が関わった生き方をしているわけだから、この4つがプラットホームとなり、このプラットホームからまた、新たなイノベーションが生まれるという仕組み…

たしかに今、大学で取り組んでいるマンガのキャラクターがARや、VRで情報を発信していくシステムにしても、アプリを創り、iPhone、Androidのスマートフォンをコントローラーとし、iTunes、Googleストアーからダウンロードしてもらわなければだれもが使えるコンテンツとして成立しない。

でもこうやって、イノベーションという概念を生み出した経済学者J・A・シュンペーターの考えを見ると、イノベーションとは、発明ではなく、創造だということがはっきりと見えてくる。
そう考えると、世の中に新しいものを生み出すということは、つまり創造なわけで、その創造的な出来事の99.9%は、「今まで無かった、過去にあった出来事の組み合わせ」だということも見えてくる。

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ここ毎回書いていることだが、大学は間違いなく変わらなければならない。
大学という場所はもともと、実用的な目的を持って、美術、経済、医学、歴史、物理などなど専門分野に分かれている。
もちろんこれは必要で、ひとりの人間がすべての分野で専門家になることなどまず、不可能なこともたしかだ。
だが、ひとつの分野に閉じこもっていると、他の分野で何が起こっているか見えなくなっている。
ぼくは今、美術大学にいるのだが、昨年、教授会で「シンギュラリティによって大学はどうかわらなければならないか」(カーツワイルのこの言葉から、G.N.R革命の説明、2045年問題、スマートフォンで検索できる時代において、教えるとは何か。語学もアプリで同時通訳ができる時代においての語学を学ぶとは何か。情報量は1999年まで人類が30万年かけて蓄積した量が、7年で410倍の情報量になっている今の情報社会においての学びとは何か。2007年生まれからの子どもの平均寿命は100歳を超え、2025年には65歳以上が日本の人口の3分の1をしめることになる。超高齢者会においての社会保障としてのベーシックインカムのことなどなど…)という論文を全先生方に配り、読んでもらったのだが、「何を言っているかわからない」で終わってしまった。

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教授たちは、美術の大学は、美術だけをやっていればいいという考え方で押し通そうとしてきている。
はっきり言うが、それは単なる「楽」をしたいだけなのだと思う。
新しい「知識」を入れるためには「勉強」をしなければならない。
だが、それをやらないというのは、ひとつの専門分野に閉じこもり、他の分野で、この世界で何が起こっているのか見えてなく、べつにそんなことなど知らなくていいと、「楽」をしているということだ。
だが今、時代は大きく流れている。
まさにイノベーションが凄い勢いで世界中で起こっている。

その中で生きていくには、経済的要因を考え、政治的要因を考え、文化的要因を考えと、
美術、経済、医学、歴史、物理など、学問的横断的なアプローチで知識を得なければ想像ができない時代になっていると思う。

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ぼくはいつも学生に言う言葉がある。
「知識」がなければ「想像」はできない。
たとえばAIの知識がなければ、AIとマンガを結びつけたコンテンツのイメージはわかない。
人間は「想像」し、それを形にしたいと考え、研究し、数々のモノを「形」としてこの世に生んできた。
「想像」がなければ、形は生まれてこない。
研究ではなく、専門学校のような経営をしている大学はまさに、専門分野の「知識」しかなく、専門分野の「想像」しかできない、大学であるにかかわらず、世界から取り残された場所になりつつある。

そう考えると、イノベーションのイメージが見えてくると思う。
現代のイノベーションを生み出すのは、学問的横断的なアプローチに立った「知識」と「想像」だと見えてくるはずだ。

夏の大学にて

2018年8月26日

大学は夏休みに入っているのだが、あいかわらず大学の研究室で仕事をしている。
まぁ、日曜日の今日など誰もいない大学なもので、実に静かな環境の中で、自分のペースで抱えている仕事を進めることができている。

夏休みといっても、特別授業は開講している。
(まぁ、選択授業なので、目的を持って大学に来ている意識の高い学生以外は来ない授業なのだが、予想通りというか、文星芸術大学は2名、帝京大学は13名と少ない)

今、ちょうど、帝京大学理工学部と共同授業で、デジタルマンガ制作において、基本ソフトとなる、CLIPSTUDIO、Photoshop、Unity、blenderを覚えることで、ペイント、加工、モーション、3D、VRの基礎の基礎を帝京大学の佐々木先生とやっている。

もちろん授業をやりながら、前回のブログで書いたが、ゼミ生のKくんを中心に、冊子のマンガを基本に、そのマンガの中の世界にバーチャルで入ることができるVRを使っての研究と制作。
3Dモデリングを2Dにしたとき、いかに手で描いた感を持ったリアルな表現法。
そしてマンガのキャラクター、身につけているアクセサリーなどを3Dプリンターによって立体化することでいかにグッズ化していけるかなどなど、新しいマンガというか、マンガの可能性を「形」として見せられるように、研究、制作もやっている。

こうやってデジタル研究でやっていることを書くと、テクノロジーを使っての表現は、どこか機械的で冷たいといったイメージを持つかもしれない。
だが実際は逆なのだ。

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デジタルで表現しようとすれば、自然の凄さが、いかに凄いかが見えてくる。
人工知能を勉強すればするほど、人間がいかに凄いかが見えてくる。
またそれとともに、空間の概念、時間の概念といった物理にも興味を持つことで、相対性理論や、量子力学を知りたいと。
つまり今、生きているすべての宇宙を、知りたいという欲求が生まれてくる。
当たり前のことだが、この宇宙のすべてのものは原子でできている。
そう、海も森も草木も山といった自然も、ぼくたち人間も、人工知能やスマートフォンだって原子でできている。
ぼくらは普通に今、スマートフォンを使っているのだが、そこには量子力学や相対性理論がなければ生まれてこなかったというわけだ。

世の中ではAIが人間を超えるなどと言われているが、よく考えてほしい。
AIができるのは、ビッグデータの中での精度の向上である。
そこには、ビッグデータの中で一番高い精度に向かって、ディープラーニングならば、自己学習を繰り返すことで精度を向上させるというプログラミングだ。

もちろんこういったデータの中での高精度ならば、AIはとっくに人間を超えていると言えると思う。
だが、人間はデータ処理の中で生きているのだろうか。

これは間違いなく違う。
人間とAIでは目的がまったく違う。

人間は「生きる」という生命としての目的がある。
その「目的」があるからこそ、「心」という感情が人間にはある。

その「心」があるから、人間は「想像」し「創造」する。
もちろん、その中で生まれたのが、テクノロジーであり、その中のひとつがAIということ。
つまり、AIは人間の創造した便利な道具だということだ。
その道具(テクノロジー)を使って、マンガを育てていく。

日本の大学というところは、「こうしなさい」と言われた課題をちゃんとあげると、「優秀」と言われている。
言われたことを、そのままやっていけば、大学に限らず、幼稚園から「優秀」と言われる教育の中で子どもたちは育っていっている。

言われたことを、そのままやっている生き方は、実は楽な生き方なのだ。
そんな教育にだれもが慣らされ、そんな「こうしなさい」の「答え」を出せる人間が優秀とされてきた。
だが、インターネットやAIによって、世の中は完全に変わってということだ。

AIによって職が奪われるなどと叫んでいる人たちは、いわゆるその「優秀」な子どもたちだ。
その優秀とは、極端に言うと、エリートのホワイトカラーの人間たちだ。
エリートと言われてきた「こうしなさい」の「答え」を出せる人間では生きられなくなった今、大学は本当に変わらなければならない。
本当の「優秀」とはどういうことなのか。
大学は学校ではなく、研究機関である。
研究にはまず答えはない。
答えがないから、研究するのだ。

テクノロジーが凄い勢いで発達していく中、大学において教えるのは「こうしなさい」という押しつけの常識の中での答えではない。
常識の答えなど、Googleで検索すればすべて教えてくれる。

テクノロジーの時代だからこそ、「人間はどう生きるべきか」が今、問われている。

アイデアを形にすると見えてくるものがある

2018-7-31

アイデアを形にすると見えてくるものがある。

想像だけでは見えなかったものが、形にすることで「存在」として、想像では予想もしなかった効果が生まれたり、逆にもっと研究すべき課題も見えてくる。

先月、帝京大学の佐々木研究室と、文星芸術大学の田中研究室で研究、制作したVRマンガは、いろいろな人に見てもらったことでいくつかの課題が見えてきた。

それとともに、マンガというものの新しい可能性も次々に出てきている。

VRの中だけでマンガを展開すると、たしかにマンガの世界に自分が入り込めるもので、どんどんゲームに近づいていってしまう。
だが、今度はマンガ視線で考えると、マンガの表現が無限に広がっていく。

たとえば、「あしたのジョー」のマンガを読んだあとに、泪橋の上に立つことができたらどうだろうか。
ドヤ街が目の前に広がり、橋の下では丹下ジムからサンドバックを叩く音が聞こえてくる。
空は真っ赤な夕焼けで広がっている。
VRで制作すれば、自分自身がその世界に、泪橋に立つ自分が存在することができる。

つまりVRを使えば、読んだばかりのマンガの世界に入り込むことができるというわけだ。
マンガという世界があればこそ、その世界に立てるだけで嬉しくなってくる世界を創ることができる。

また創り手にとっても、3Dのモデリングでマンガを創れば、自分の描くマンガの背景として自由に使えるし、作者の絵の中にVRで入ることができる。
3Dのモデリングは、キャラクターやアクセサリーもモデリングを創ることで3Dプリンターで、マンガ家の絵からフィギュアやアクセサリーだって簡単に制作することができる。

今、そうやってマンガを制作しているゼミ生がいるのだが、ブレンダーで3Dのモデリングを創り、線画化してから、構図を決め2D化したあとCLIPSTUDIOで線画抽出と手描きの線を加えることで、アナログで描いたような背景に仕上がってきている。
まったく見事な、3Dのモデリングから背景を創ったとは思えない、アナログタッチの背景も創れている。
いやいや、ゼミ生のKくんからは教えられる。

このブログで何度も紹介しているマンガでのモーション、ARシステム、今やっているVR、そして研究をつづけているAIと、形を創ることでリアルにマンガの可能性が無限大に広がってきている。

まぁ、こういったことをやっていると、「それはマンガではない」「マンガとは読者のリズムで、見開き効果、めくり効果を持って存在するもの」といった、「マンガとは!」といったマンガ論を語る人が必ず現れる。
だが、創り手が「これはマンガです」といったら、それが新しいマンガでいいと思っている。

そもそも「何々とは!」と語る人は、存在する形にこだわり、概念と常識で、その形に留めようとする人たちだ。(自分にとってその方が都合がいい人たち)
つまり、形の外のものは認めたくない人たちである。

それでは成長はない。
それどころか、時代は成長し変わっていくわけだから、「留まる」は現状維持ではなく「後退」だとわかっていない人たちかもしれない。

マンガを創るということは、表現することに他ならない。
その表現がテクノロジーによって、新しい表現ができるのならば、新しい、だれも見たことのない、感じたことのない新しい表現を生める「今」にぼくたちは生きている。

そう、作家としてこんなワクワクすることはないではないか。

大学が大学として変わるために

2018年6月29日

【ちばてつやMANGイノベーション研究所】を大学で、ちばてつや教授と立ち上げたのが、2016年6月。
ちょうど2年が過ぎて行こうとしている。

この2年間、あらゆる世界が大きく変わっていっている。
たった2年前のことなのだが、たとえば取材を受けたとき、「ioT」と言っても記者たちは「?」だったし、シンギュラリティと言われている、カーツワイルの、「テクノロジーの進化のスピードが∞になる」といった話しなど、説明しても「そんな時代が30年後に来るわけがない」と、まず信じてももらえなかった。

それがたった2年で、だれもがioTは利用しているし、シンギュラリティについても普通に議論できるようになっている。

そう、この2年間でだれもがエクスポネンシャルを実感としてリアルに感じているのだ。

だが、大学に目を向けると、本来、研究機関として時代の最前線であるべき大学が、旧時代のシステムの中で存在している。

学生の手の中にはスマートフォンという、「知る」ことのできるテクノロジーがあるというのに、検索で出る程度の講義を大学で行っている。
技術だってYouTubeで一流の技術を見て知ることができるというのに、それでいいのだろうか。

だいたいここは大学である。
小学校・中学校・高校までのように、答えを出す場所ではない。
大学とは、答えを求めて考える場所のはずだ。

だから先生は教授と呼ばれ、学生は生徒ではなく、学生と呼ばれている。
そもそも、「研究」という意識を持って大学へ来ている教授、学生はどれだけいるのだろうか。美大の場合だと、技術を教えてもらうだけなら、先生も学生も専門学校で教え、学べばいい。

この数年、大学を変えるためにそうとう動いてきている。
この場所(ブログ)で伝えているだけでも、言ったことはひとつひとつ研究の先で「形」にしてきている。
当たり前だが、「形」にしなければ、やっているとは言えないからだ。
この6月もゼミの学生と帝京大学の学生と組んで、読者がマンガの中に入り込めるVRマンガを制作し、宇都宮市民芸術祭で新たに始まる、メディア芸術プレ事業として出展した。
このVRマンガは新しいコンテンツとしての大きな可能性があると感じている。

来年度から大学で二つの新しい授業を立ち上げることが決まった。
もう、新聞で発表されたので、ここに書いておこうと思う。

ひとつは「アニマルアート」という授業を立ち上げる。
なぜアニマルアートを大学で立ち上げるか、そのコンセプトを少し書いておく。

“ここ数年、世界でアニマルに関する、マンガ、キャラクター、アートと世界的にブームになっている。
日本でもマンガ・アニメの「けものフレンズ」が大ヒットし、猫や犬に関するあらゆる書籍がヒットするなど、「どうぶつ」の時代といっていいほど、どうぶつが求められている。

たとえばキャラクターとして、どうぶつの歴史を振り返っても、ディズニー、ワーナーブラザーズの顔となっている数々のキャラクター、スヌーピー、ラスカル、トムとジェリーなどなど、どうぶつは世界中のだれもが知っているキャラクターとしてブームに終わらず、根強く生きてきている。

日本最古の漫画と言われている「鳥獣戯画」も、どうぶつたちがたくさん描かれている。

そういったどうぶつに興味を持ち、どうぶつをアート、マンガ、イラストで本格的に描いてみたい、勉強してみたいと思っている人たちは世界中にたくさんいるはずだ。

●調べたところ、「アニマルアート」として大学の中で特化したコースを立ち上げている大学はない。
これほどまでに求められているにもかかわらず、アートにおいて特化してどうぶつ学べる場所がないということだ。

●大学で「アニマルアート」を立ち上げるにあたって、やはりそこには「研究」がなければ大学で教える意味はない。
また、大学で、なぜ「アニマルアート」をはじめるか、なぜ栃木の大学でアニマルアートなのか。
そのコンセプトが見えてなければ、大学でアニマルアート設立の軸がぶれてしまう。

●まず、「アニマルアート」を大学ではじめるにあたって、大きな「軸」がふたつある。
それは学生を集めるための二つのブランド力としての「軸」でもある。

その一つは、世界的に有名なアーチストである姫川明輝先生が客員教授として来ていただけるということだ。
その姫川先生の、今月の4月1日より、那須の観光協会や国の観光庁と進めている「9bプロジェクト」のARで、姫川先生の生み出した九尾の狐たちのキャラクターが、まずは9つの那須の観光地を案内するシステムがスタートしている。
このプロジェクトを進めるにあたって、昨年より九尾狐のキャラクターたちは、この栃木に来て、この地で制作している。
依頼されて創るではなく、この地で「生み出していく」という制作の仕方を、このプロジェクトをスタートしてから姫川先生ははじめている。
それとともに、姫川先生のアート作家としての活動を、那須にアトリエを創り、アニマルアートを中心に、この地で進めて行くと決め現在進めてる。

自然があり、そしてどうぶつ王国の存在も、この地で制作アトリエをかまえる大きな要因にもなっている。

ここ数年、姫川先生はアニマルアートに関して、アメリカへシャーマニズムのシャーマンに会いに行くなど準備を進めていたこともあり、一昨年から自然の中にアトリエを持つ計画が那須に絞られてきたこともあり、本格的にマンガとは別に、アニマルアートを栃木の地で進めると言ってくれている。
そういった流れから、大学でも研究してみないかと姫川先生に提案し、月1回という形でお願いし、了解を得たというわけだ。

●二つ目の軸は、自然。
この栃木の地で、自然が溢れるその中でアニマルアートを研究、制作していける環境だ。またその栃木にある那須どうぶつ王国にも話しを持ちかけていることから、協力はおねがいしている。

そのどうぶつ王国に拘るもうひとつが、この地に合った生態のどうぶつたちを、檻にいれずに、自然の中で見せていることと、大半のどうぶつに触れることができる環境だ。

これは、触れることによって、どうぶつの皮膚感、骨格など本物を体験できる環境があります。
どうぶつ王国のコンセプトである「人間と動物の自然な関係」がここにはあり、その中からアートが生まれるといった、これから進めて行く「アニマルアート」のコンセプトとしても一致する環境がここにはあるということだ。

◎こういった中で、ただどうぶつの絵を描く、どうぶつの絵の上達などだけではなく、大学として、アニマルアートをやっていく中で大事なのが研究である。
その点においては、動物学の授業も必要とされる。
動物学は、古代ギリシアの時代に生まれ、発生学、生理学、生態学、動物行動学、形態学などの視点から研究が行われています。

動物がどのような課程を得て、今の体型、骨格になっていったか。
それは「生命」と「生存」という研究にも繋がっていく。

そういったこともわかった上で、動物を知り、それをアートとして技術を磨いていく、大学としての研究と実践を持ってのアニマルアートにしていかなければならないと考えている。
そういった動物学の先生に関しては、宇都宮大学、農学部動物生産学の青山准教授に講義をお願いしている。

実技に関しても、動物デッサン、クロッキー、骨格を徹底的に、どうぶつ王国とともに、大学の近くにある宇都宮動物園とも協力しあいやっていくつもりだ。
動物を立体に創ることで、動物を知ってもらうために、動物フィギュアも、立体造形の教授にお願いしている。

◎出口に関しては、キャラクターが求められる時代ということもあり、マンガ専攻で進めているAR、AI、VRのシステムを使った、アニマルキャラ制作や、グッズ製作。
帝京大学との連携で、3Dプリンターを使っての立体のフィギュア製作など、これからの時代に向けて、就職活動も含め対応していく方向で進めている。

また動物が描けるようになれば、生命が描けることにもつながり、アーチストとしても高いレベルで活動できる人材育成ができると考えている”

長々と書いてしまったが、こういった考えを持って、現在、新しいコースを創り上げで動いている。

もうひとつは、大学での語学の授業を、「マンガ語学」という形で立ち上げる。
語学を学ぶということも、まったく変わってしまった。
スマートフォンのアプリで、語学は同時通訳のできる時代である。

大学で専門的でなく、海外旅行で話せる程度の英語や他の語学なら、スマートフォンで十分だということだ。
ならば大学の授業を受ける必要が果たしてあるのか?

2年前、出版関係者から相談を受けたことがある。
日本のマンガは世界中で読まれている。
すべての書籍の中で一番売れているのが、日本のマンガという国がいくつも存在する。

そこで相談を受けたのが、翻訳者がいないということである。
マンガの場合、キャラクターは言葉によっても表現されている。
ただ、言葉を翻訳するわけにはいかない。
そのキャラクターがわかって翻訳しなければ、マンガの中のキャラクターが死んでしまうということだ。

たとえば、キャラクターが「ボク」「わたし」「あたい」「オイラ」「オレ」…自分を指す言葉だけでも、まったく違うキャラクターになってしまう。
それをどう訳すか。
翻訳者がいないというのは、語学ができるのではなく、キャラクターがわかったオタクで語学ができる人間がいないということなのだ。

そう考えたとき、直訳ではない、キャラクターならこの言葉をどう話すかを考え、学ぶ語学というのは、大学でやれば面白いのではないかと考えたわけである。
もちろん、翻訳者を育てるというのではない。
マンガのキャラクターを使って、語学を習うことによって、語学を深く理解できるのではないかと考えたわけである。

それはスマートフォンでは訳せない語学でもある。

まずは、何はともあれ、このふたつの新しい授業をどうにか立ち上げることが決まった。

実はまだまだアイデアはあるが、身体がもたないので、まずはこの二つを育てていく。

世の中はAIに職を奪われるとビクビクしているし、大学もAIによってなくなる学部も出てくるとビクビクしている。

いやいや、今の時代の流れは、ビクビクではなく、ワクワクではないか。
AIはまだ1%も開発されていない「便利な道具」で、あらゆる方面で無限の可能性を秘めている。
iPhoneが発売されて、この10年でいかに便利になり時代が変わったか。
それ以上の可能性がAIを中心に始まろうとしているのだ。
そのAIを育てるまさに中心が研究機関である大学だと思っている。
つまり「研究」である。

今、日本中の大学は生き残りに必死なのだが、大学は「研究」を軸に考えれば、それぞれの大学の存在の意味が見えてくるはずだ。
「研究」のできない大学は、大学として必要ないし、学生も「研究」の意識がなければ、大学に無駄なお金を使うだけになる。
そして何より、「研究」の意識のない教員は、すぐさま大学を辞めるべきである。

今、大学が大学として、変わろうとしている日々が間違いなく始まっている。

自然の生み出す創造とテクノロジー

AIを研究すればするほど、人間の凄さが見えてくる。
そしてテクノロジーを使って作品を創れば創るほど、自然の生み出す創造の凄さが見えてくる。

5月27日に那須で行われた、九尾の狐伝説の殺生石の前で行われる、御神火祭に行ってきた。
殺生石のこの一角は、硫黄の臭いの立ちこめる、この世とは思えない不思議で異様な空間がそこにある。

殺生石の前には、ここで何度か紹介した“プロジェクト9b”の姫川明輝先生の生み出した殺生石のキャラクターが、GPSによってこの場だけでしか見られないARで、殺生石の由来を説明してくれるシステムを4月1日からスタートしている。(あとあとはGPSではなくBeaconを考えている)

その場所に置かれてあるキャラクターの絵を、スマートフォンで写真を撮るようにARでキャラクターを呼び出し、本物の殺生石をバックに、キャラクターが動き出し殺生石の説明を始める。
この場に来てそれをやってみると、制作時に研究室で感じたものとはまったく違う世界観が見えてくる。

そう、研究室とは違い、本当の殺生石の前でキャラクターが動き始めると、そこには間違いなく「リアル」がある。
今、AR、VR、AIといったテクノロジーを使って、マンガの可能性を研究し形にしていっている。
大学のある栃木で研究、開発していることもあり、自然の中でのテクノロジーを考えつづけている。
テクノロジーを使えば、道路を作ったり、木を切ったりといった開発で自然をつぶすことはない。
「テクノロジーとマンガの融合で、この大自然の中で宇宙を創れないものか」
それをテーマに、ここ何年か取り組んでいる。

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自然の中でこうやって取り組んでいると、最初に書いた自然の生み出す創造の凄さが見えてくるとともに、「マンガとは何か」ということも考え始めた。

ぼくはずっとマンガを創るとき、いつも自分の「心」で感じたものを読者に、その「心」をどう伝えるか考えて創ってきた。
だが、テクノロジーでマンガを創っていく中で、その考えはまったく逆のものになっていったのだ。
自分が「心」を伝えるのではない。
自分が創ったものを見て、見た人が「心」を生み出すものだと、そう考えはじめた。

たとえば、ボットを使って話せるマンガのキャラクターにプログラミングで「こんにちわ」と言うと「こんにとわ」と答えるようにすると、読者はキャラクターが自分の挨拶にちゃんと挨拶をキャラクターが返してくれたと喜んでくれる。
読者はキャラクターに「心」を感じてくれるということだ。
それはキャラクターが「心」を持っているのではなく、読者が「心」を感じてくれているというわけだ。

前回にも書いたが、これは仏師の彫った仏像と似ているのかもしれない。
もちろん仏師は「心」を込めて、「魂」を込めて制作する。
だが、それを見て手を合わせ、願いを込めて生み出す「心」は、制作側の「心」ではなく、それを見て手を合わす側が生み出す「心」だ。

今回、殺生石の前で行われた御神火祭を見ながら感じたことがいくつもある。
御神火祭に集まっただれもが、狐のペイントをしたり、お面をかぶり、この空間の中で、非日常を自分自身で演出している。
それは、殺生石という空間があってからこそ、非日常の宇宙が生まれたからこそ、ごく自然にだれもが「心」を開いているのだ。

匂いや空気感がなければ、単なるバーチャルで「存在」ではない。
もっと深い、生命の「心」というものは「リアル」がなければ生み出すことはできない。

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御神火祭は陽が沈みかけたころから、語りべと笛の音で「九尾の狐伝説」が語られることから祭りは始まる。
この空間だからこそ、リアルに語りべの言葉が心を動かしていく。
そして白装束に身を固た100人を超える松明を持った人たちが、那須温泉神社から殺生石せっしょうせきまで行列し、大松明(御神火)へ火を放つ。

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天に伸びるように、御神火が燃え上がり、その前で九尾太鼓が炎の舞いとともに鳴り響き、存在の宇宙がそこに生まれてくる。
バーチャルではなく、本物の火だから火の熱が見ている側にも伝わってくる。
飛び散る火の粉は肌に触れると熱い。
そう、そのリアルによって心の宇宙が舞い始めるのだ。

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あぁ、と思う。
こういった自然のリアルはテクノロジーで創ることはできない。
積み重なった歴史の上に成り立つものには、実は「心」も歴史とともに積み重なっている。

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そのリアルの生み出した「心」の上に、その「心」を壊さず、より生かすにはどうすればいいかを考えるのがテクノロジーではないだろうか。

マンガを創るとき心がけてきたことがある。
「わかりやすく伝える」だ。

この空間を利用してわかりやすく伝えるはどうしたらいいか。
たとえば、九尾の狐の語りべの背景で、殺生石の空間にプロジェクションマッピングで、語りべの物語をわかりやすく迫力を持って「伝える」を、重厚な絵で見せたとする。

リアルの中で、バーチャルな演出を加えることで、そのリアルをもっと、もっと大きなリアルとして伝えることができるはずだ。
リアルから生まれる宇宙は、そこにリアルに立つ人たちすべてに、まちがいなくそれぞれの「心」の感動が生まれるはずだ。

そう考えていくと、大自然のリアルの溢れるこの地で創っていく…いや、創りたいものがどんどん増えていくではないか。

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とちてれ☆アニメフェスタ!

2018年4月30日

ゴールデンウイーク真っ只中なのだが、大学の研究室でひとりPCに向き合っている。
20以上のプロジェクトと〆切を抱えているもので、とにかく目の前のひとつひとつを形にしていくしかない状況の中なのだが、大学はこのゴールデンウイークの間は休講なので、静かな環境の中、集中して形にできていっている。

今日は午前中はCRT栃木放送のラジオ番組、「まついじんの部屋」にゲストで遊びに行かせてもらい、午後からはずっと研究室。

珈琲タイムの合間にこのブログを書いている。

今日、なぜラジオに遊びにいってきたかというと、5月5日、6日と行われる「とちてれ☆アニメフェスタ!」の毎年、イベントの司会をやっていただいている、だいまじんのじんのすけさんの番組ということもあり、イベントのコーナーのお知らせを兼ねて顔を出してきたということだ。

考えてみれば、このイベント、最初は「デジタルマンガ甲子園」として、ちばてつや先生と大学近くのスーパー銭湯につかりながら「やってみます!」「応援するよ!」と2011年に立ち上げたのだが、その最初の年にあの3.11があったのだ。

あの3.11のときの思い…「ぼくたちに何ができるのだろうか」と、心が締め付けられる恐怖と不安の中、もちろんイベントで人を集めるのは危険とか、自粛とか、中止を促す声が大半だったのだが、「何か、なにか、何をやれば…何かやらなければ」と、マンガ家の仲間たちが集まってくれて、みんなのその思いからチャリティイベントとして始まったイベントなのだ。
小さなぼくの研究室に送られてきた仲間のマンガ家たちの色紙やグッズ、生原稿までもチャリティにかけさせてもらい、1236万円を被災地に寄付させてもらった。
それからもう8年目を迎えている。

今回のステージは、ちばてつや先生、姫川明輝先生、一癸さやか先生、声優の古川登志夫さん、安部敦さんと行うことにしている。
今年からコーナーの名前を、「デジタルイノベーション・マンガステージ」に変え、まさにマンガのイノベーションをステージで見せられると思っている。

つまりは、とちてれ☆アニメフェスタ!という2万人の観客の前で、エンターテインメントとして大学でのテクノロジーによってのマンガの表現の可能性による研究発表をさせてもらっているようなものなのだ。

今年は、姫川明輝先生とここ数年、那須で取り組み、この4月からスタートした、「9bプロジェクト」をみんなに見てもらうことにしている。

9bプロジェクトとしての今回の第一歩は、姫川先生がアートディレクターとして生み出してきた、九尾狐たちのキャラクターが、AR(拡張現実)で、その地に行けばスマートフォンの中でキャラクターが動き出し、那須の観光案内をしてくれるという新しい観光案内のシステムである。
インバウンドも考え、中国語、英語でも対応している。
そう、そう9bとは九尾から生まれたプロジェクト名なのだ。

イベントでは、今年も、声優の古川登志夫さんに、そして安部敦さんにも、姫川先生のキャラクターたちにむちゃぶりで公開アフレコでキャラクターを演じてもらうことになっている。

むちゃぶり公開アフレコは、4年前の緑川光さんにお願いしたときから始めたのだが、これが実に面白かった。
これがプロという姿を、公開アフレコならではのライブ感の中で見せてくれる。
プロの声優の凄さというものを、目の前で、生でぜひ見て、聞いてほしい。

他にも、ちばてつや先生の「あしたのジョー」50周年の話しや、姫川明輝先生、栃木の地元から世界に向けてマンガを発信しつづけている一癸さやか先生と、この栃木から生み出していくマンガの話しなど盛りだくさんで盛り上げて行こうと思っています。

コーナーは5月6日(日)の14時から宇都宮オリオンスクエアで行うので、ぜひ!

書きながら、今回のブログは、「とちてれ☆アニメフェスタ!」のお知らせのようなブログになってしまったが、こういったイベントも含め、今、この地、栃木でいろいろなことが生み出せていることに、いつもワクワクさせられている。

週のほとんどを、仕事場のある東京ではなく、この栃木で大学も含め、最初に抱えている仕事のことを書いたとおり、いくつものプロジェクトが動いている。
東京はグローバルで、栃木はローカルだと言われてきた。
だが、ローカルからグローバルに発信していく時代がやってきたことは間違いない。

こうやって、生きて居る「地」で生み出していくプロジェクトの中で、少し見えて来たものがある。
創るということの方向が、自分の生きる答えとして見えて来たものがある。

仏師の彫った仏に、人は自分の心で向き合い、そしてその仏は、向き合った人の数だけ「心」が生まれる。
作り手の「心」ではなく、人がその仏を見て、感じる「心」を生んでいく。
その「心」に人は手を合わせ、自分の「心」と向き合うことができる。

自然も同じだと思う。
この栃木の地のおかげで、自然とも向き合うことが出来ている。

自然を壊すことなく、人が向き合える「心」を、大自然の中でテクノロジーとマンガで生み出すことができるのではないか…

今、取り組んでいるプロジェクト、すべての軸を、その視点から考え始めている。

作るのではなく、「生み出す」という創作。

大学を変える

2018年3月28日

大学は春休みなのだが、毎日研究室で仕事に追われる日々がつづいている。

そうそう、まもなく(4月)、那須の自然の中で「PROJECT 9b」がスタートする。

http://www.project9b.com/

いにしえより、那須に伝わる「九尾狐」の伝説をモチーフに、アーチストの姫川明輝先生がアートディレクターとして、キャラクターたちを生み出し、そのキャラクターたちが那須の自然の中で様々なものを生み出していくという壮大なプロジェクトである。

まずは那須の刊行スポット9ヵ所で、その地に住むキャラクターたちがスマートフォンを通して、AR「拡張現実」のシステムで表れ、その地の云われを語り伝えてくれる。
(英語・中国語にも対応)
下のスポットで、姫川先生の生み出したキャラクターたちの出会えることになっている。

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① 殺生石
② 那須温泉
③ 駒止の滝
④ 那須平成の森
⑤ 茶臼岳
⑥ 八幡つつじ
⑦ 遊行柳
⑧ 黒田原
⑨ 東山道
この地に訪ねていかなければ出会えないキャラクターたちなので、ぜひ訪ねてきてもらいたい。
(まだスタート前(シークレット)なので、9ヵ所のキャラクターの絵を見せることができないが、とにかくワクワクしてくるキャラクターたちなのだ)

こういったコンテンツ制作の他に、もうひとつ、ここ何度かこの場所で書いてきているのだが、「大学」というものを本気で変えたいと動いている。

世界は今、AGFA(Amazon Google Facebook Apple)+M(Microsoft)の5つのIT企業が世界を動かしている。
では、AGFA+Mがどういった企業かと言えば、その中心を成すのは間違いなく「研究」だということだ。
M&Aによって、世界の「研究」はAGFA+Mに集中し、その「研究」がコンテンツを生み出している。

そう考えたとき、大学とは本来「研究機関」として存在している場所である。
実際、AI、VR、AR、3Dプリンターなどなど、大学で研究している教授たちはたくさんいる。
そういった大学の研究者とともに、マンガを使うことで「研究」からコンテンツを生み出していきたいと考えている。
つまり大学の中で、「研究」を「コンテンツ」化できるということを形にして示していきたいというわけだ。

今、その体制作りをしているところなのだが、来年度から生徒募集をはじめる、今まで大学では存在しなかったコースを新設することにしている。(絵を描くためにはデッサン、骨格を知るだけではなく、生物学や歴史も学び、そしてそれをどうコンテンツ化するか、経済学も学ぶとともにリアルに体験もできるコースにしたいと思っている)
それとともに、いくつかの大学と共同授業もしていこうと考えている。

昨年、帝京大学理工学部とは、ゼミとしてではあるのだが、相互単位の授業を始めている。
それをもっといくつもの大学と行なうべく、この春もいろいろな他大学の関係者に会っている。

ぼくのいる文星芸術大学というのが美術大学なのだが、今の時代、教育もioTのように、ありとあらゆるものが繋がる時代になっていて、そこで生きることによって、無限に可能性を広げることができると考えている。
工学部、農学部、経済学部、理学部、教養学部、医学部…あらゆる学部で知識を得ることで、コンテンツは生まれてくるはずである。

こう書くと、あらゆるものと繋がることと、コンテンツを生み出すのはまったく別のことではないかと言われてしまうのだが、いやいや、すべては繋がるのである。

ぼくたちが何かを生み出すとき、まず何をするだろうか。
そう、まず「想像」するところから始まるはずだ。
では、いきなり、AIを使ってマンガを創れと言われたとき、AIのシステムを知らなければ、まず「想像」できないと思う。
つまり、「想像」とは「知識」とい「実践」の上に成り立っているということだ。

工学部で講義を受け、「知識」を得たとき、その工学部で得た知識を元に「想像」が生まれ、その想像を元に「研究」がはじまり、そこからコンテンツが生まれてくるということだ。

では人間にとって「便利」なものを生み出すのが「研究」かと言えば、それはぼくの中ではまた違ってくる。

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文星芸術大学のある栃木に来て、本当によかったと思うのは自然の中で生きられるということである。
では自然とは何かと問われると、ぼくは生きて行くのに一番大事なものと答えている。
自然がなければ人は死ぬと思っている。
そして自然は、人には生み出せないものだとも思っている。

今、ぼくはテクノロジーを使ったコンテンツを生み出していることから、デジタルに生きていると思われているのだが、ぼくの中のテクノロジーは「便利」を求めるものではない。

自然と一体化した「こころ」を伝えることができないかと考えている。

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たとえば仏像であり、道ばたに置かれている石仏のような存在をテクノロジーで生み出せないかと考えているわけだ。

いや、このあたりになると、まだ頭の中で整理できていない考えなので、うまく伝えることができないが、テクノロジーは便利を追い求めている流れの中で、マンガを軸に置くことで自然とともに生きる「こころ」を創造していきたいというのが、つまりは追い求めている「研究」だと言いたいのだが、それは言葉で書いてもたしかに伝わらないかもしれない。

とにかく創って見て、感じてもらうしかないということだ。

大学とは、研究とは、答えのないものを自分で考え、自分で答えを求め、そして自分の出した答えを形にする場所。
そして何度も失敗し、失敗が見えることで少しずつ成長していく。
その繰り返しの中から、新しいイノベーションが生まれてくると思っている。

そう、大学を本来の研究機関としてのそういう場所に変えたいと本気で動いている日々でもあるというわけだ。

唯一生き残るのは、変化できる者である

 

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2018年2月28日

最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である

進化論のダーウィンのもっとも有名な言葉だ。

前回、「シンギュラリティに向けて、大学はどう変わり、学ぶべきか」といったことをここで書いたのだが、エクスポネンシャルに進化している現在、AIに仕事が奪われるとか、シンギュラリティがやってくるとか、そういったことが言いたかったわけではない。

そこに向かってテクノロジーが進化し、時代が変わっているということを、まず知らなければならないと書いたつもりである。
知らなければ、まず変化できないからだ。

だが、どうもうまく伝わらない。
大学の教授たちからも、大学を変えるにしても「まずはベーシック」といった言葉が返ってくる。
学生にしても、時代は今のまま続くと考えているのか、マンガを描くということに対して、印刷物の冊子で描くのがマンガであり、その表現でこれからも生きていけると思っている。

暴論と言われるかもしれないが、どう考えても今の形では、出版社は今後10年、とても存続できるとは思えない。
今の形のマンガはなくならないとは思うが、まず、今の形では食ってはいけない世界になることは間違いない。(今でもすでに30年前より原稿料は下がっているなど、生きてはいけない世界ではあるが)
マンガは表現であり、マンガを創るものは作家のはずだ。
作家というのは、表現者であるわけで、表現者というのは、新しいテクノロジーが生まれれば、媒体の中で、そこでできる表現法の中で、新しい表現を生み出したいと考えるのではないだろうか。
もちろん、冊子という媒体の中で、だれも表現したことのない表現を生み出すことも作家である。
だが、今のマーケティングされた雑誌の世界では、本当に新しい表現などなかなか生み出すことのできない世界になっている。
変化できなければ、新しい変化によって淘汰されていくのが時代である。

たとえば写真がそうだ。
ぼくもプロとしてプレイボーイやNumberなどでスポーツのグラビアも撮っていた。
使うフイルムはコダックである。
当時、プロ契約していたミノルタのレンズとコダックの相性が実によかったこともある。
そして何より世界一の写真フイルムメーカーである。
その世界一が、計算機メーカーのカシオがQV-10という、一般で使われ初めたデジタルカメラを発表して、たった17年でコダックは倒産してしまう。

デジタルカメラを世界で最初に開発したのは、実はコダックだったのだが、カメラはフイルムという既成概念んい縛られ時代の変化の中で消えていくことになる。

考えてみれば、そのデジタルカメラは今、スマートフォンの中に取り込まれてしまっている。
電話機、ICレコーダー、ゲーム機、テレビ、CD・DVDプレーヤー…
10年前、それぞれが個別で持っていたはずのものが、アプリとなって、それもだれでも買える値段、もしくは無料で高性能の万能機械としてスマートフォンの中でだれもが使っている。

与えられるものに対して、意識もなくだれもが変化しているのかもしれない。
だが、自分のやっていることが変化することに対しては、なぜかみんな既成概念に縛られ変化を拒もうとする。
自分がこれまで積み上げてきた実績が、変化によって変わってしまうことを認めようとしないのかもしれない。

だが時代はエクスポネンシャルに動いている。

「唯一生き残るのは、変化できる者である」なのだ。

3年ほど前、ちばてつや先生に、「なぜ学生たちは、時代が変わっていることに直視して勉強しないのですかね」「こんなチャンスな時代に生きているのに」と話したことがある。
するとちば先生はニコニコしながら、「みんなが田中先生みたいに勉強して行動したら、田中先生の商売、あがったりになっちゃうね」と言ってくれた。

「あぁ、そうだ」と、たしかにそうなのだ。
それ以来、既成概念に縛られ、変化を拒もうとする人たちに出会うと、「この人たちのおかげで、商売になってます」と、そう思うことにしている(笑)

ちばてつやMANGAイノベーション研究所として取り組んでいるプロジェクトのひとつ、「9bプロジェクト」の、4月スタートに向けての、予告ホームページがスタートしています。

http://www.project9b.com/
アートディレクターの姫川明輝先生が、続々とすごいキャラクターを生み出してくれています。楽しみに!

シンギュラリティに向けて、大学はどう変わり、どう学ぶか

 

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2018年1月31日

シンギュラリティという言葉は2016年後半あたりからよく耳にしてきたと思います。
日本での注目されはじめたきっかけは、SoftBankの孫正義氏が「シンギュラリティがやってくる中で、もう少しやり残したことがあるという欲が出てきた」と、シンギュラリティがSoftBankの社長続投の理由として述べたことからはじまったと思います。

もともとこの「シンギュラリティ」という言葉が出てきたのは、現代のエジソンといわれる発明家であり未来学者、AI(人工知能)の世界的権威であるレイ・カーツワイルが2005年に発表した著作からです。
その著書の中でカーツワイル氏は、技術的特異点(シンギュラリティ)によって、テクノロジーが地球全人類の知能を超える、人類の進化速度が無限大の到達点に達するといっています。
それが今よくいわれている、カーツワイルが予言した「2045年問題」です。

ですが、「AIが人類の頭脳を追い越すのがシンギュラリティ」と一般では思われていますが、ジェネティックス革命(遺伝学)、ナノテクノロジー革命(ナノとは10億分の1を表す単位。つまり原子、分子レベルで物質を扱う)、ロボティックス革命(人間よりすぐれたロボットが生まれてくる)の3つ、「G・N・R」革命を中心に、あらゆるものが進化していく先にあるのがシンギュラリティだということです。
もちろん、その中心となるのは「AI」であることもたしかです。

つまりそういった「G・N・R」などあらゆるテクノロジーというものが、人類の進化速度が無限大の到達点に達し、今、想像もできない世界がやってくる、それがシンギュラリティの2045年問題だと思っています。

そうなればどうなるのか。
カーツワイルもわからないと言っています。
そう、シンギュラリティとは、宇宙物理学の分野で言えば、ブラックホールの中に、理論的な計算では重力の大きさが無限大になる「特異点」という、だれも想像できない世界に到達するということなのです。

もちろんこれはあくまで予言ですが、実際にカーツワイルが言った「特異点」に向かってのスピードで世の中は動いています。
たとえば「ヒトゲノム計画」(人間の遺伝子情報配列の解析)です。
15年で完了すると進められた解析プロジェクトは、7年間で1%しか解析できていなかったことにもかかわらず、カーツワイルは「もう半分以上終わっている」と指摘しています。
そしてその指摘のとおり、15年で解析は完了しています。
1%でも分かれば、その先はあっという間に到達していくスピードこそがシンギュラリティの流れです。

もっと身近な例を挙げると、スマートフォンがあります。
スマートフォンが広まるきっかけはiPhoneですが、iPhoneはまだ生まれてから10年しかたっていません。
ですが、世の中の大半は、スマートフォンなしでは生きてゆけないと言うぐらい、スマートフォンに依存した世界に変わってしまいました。

つまり、10年前とはまったく違う世界に今はなっているという現実が、スマートフォンひとつで起こっているということです。

その成長は、いままでのような進歩率、1,2,3,4,5…という成長ではなくなっています。
インテル社の創業者のひとりであるゴードン・ムーアが1965年に自らの論文で「ムーアの法則」という、「トランジスタの集積度は18ヶ月ごとに倍になる」という説を唱えたのですが、今、まさに時代は「指数関数的」に成長しているというのが、だれもが実感していると思います。
指数関数の成長、つまりエクスポネンシャルの成長と言われていますが、1,2,4,8,16,32…と成長しているのが今の時代です。

これがシンギュラリティの「2045年問題」の核心だと思っています。

これを情報で置き換えたとき、わかりやすい研究結果があります。
2000年にUCバークレー校のピーター・ライマンが、1999年末までに、人類が30万年かけて蓄積した全情報を計算したところ、12EB(エクサバイト)。
次の2001年から2003年までの3年間に貯蓄される情報量が、人類が30万年かけて貯蓄してきたすべての情報量12EBを超えたと発表しています。
そして2007年には10年前と比べて情報量が410倍になっていると発表されています。
2018年の今は統計はないのですが、1年単位でのエクスポネンシャルで計算してみると、1999年までに人間が30万年かけて蓄積してきた情報量の17000倍になっているのが、今だということです。

ここまで書けばわかってくると思いますが、インターネットというものが、エクスポネンシャルによって世界を変えているとともに、大学の教える側も、学ぶ側も変わらなければならない、そこを考えなければ大学などまったく意味がないのが現状です。

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ここで「大学で学ぶとは何か」。
少し考えてください。
まず今の時代で考えれば、“調べる”、“知る”はGoogleで検索したら何でも出てきます。
レクチャーなど、ほとんどGoogleで検索で教えることなどありません。
では、技術を「見せる」。「見て覚える」はどうなのか。
世界で一流の人たちの創作が画像、ムービーでYouTubeなどでいくらでも学ぶことができます。
では講義はどうなのか。
MOOC(大規模オープンオンライン講座)で、ハーバード大学だろうと、東京大学だろうと、教授たちの講義は無料で聞くことができます。

ではお金を払ってまで、(自分に投資する)大学へ来る意味は何なのか。
大学はまず、学校ではないはずです。
研究機関だからこそ、専門学校ではなく、大学と呼ばれているはずです。
きっとインターネットによってエクスポネンシャルがはじまる前は、大学は「学校」の延長として、「教えてもらえている」ということで、かろうじて、「お金がとれた」かもしれません。(学校の延長と捉えた時点で無駄金ですが)
まぁ、簡単に情報が手に入らなかったので、情報がお金になったというだけのことです。
ですが、今は学生たちの手の中にはスマートフォンがあるのです。

そんな時代に大学で学ぶとはどういうことか。
そう考えると、答えはまず専門学校のような大学では、そこに「投資」(今から生きるために学費と時間を費やす)する意味などなということです。

人間は必ず死にます。
だから時間は「命」です。
その命の時間を無駄にするだけです。
経済学では、時間は「資源」ととらえていますが、たしかに時間は大きな可能性を秘めた資源とも捉えることができます。

では今、大学で学ぶとはどういうことなのか?
自分の命の時間に、お金を投資して大学に行く意味は何なのか。

もちろんそれはすべての人によって答えは違ってきます。
だからまず考えてください。
そこを考えなければ、命の時間とお金を捨ててしまうだけの無駄なことになってしまいます。(なんとなくの人間は、なんとなく生まれて、なんとなく生きて、なんとなく死んでいく一生をおくるだけです)

ぼくはこう考えています。
まずは、今の時代に大学で学ぶ第一の意味は、本来の研究機関としての大学に戻るべく「研究」です。
そして「実践としての教育」です。

研究とは、この世にないものを生み出す、つまりGoogle、YouTubeで検索では出てこないイノベーションです。
また「実践としての教育」とは、「今」「ここ」の教育です。
文星芸術大学ならば、宇都宮という「ここ」で、「今」生きていることでできる教育になると思います。

当たり前ですが、「今」「ここ」で生きている教育は、「今」「ここ」で生きる以外、学ぶことのできない教育のはずです。

教える側でも同じです。
ぼくは文星芸術大学へ来たとき考えました。
最初はマンガは東京が中心ということもあり、東京を見てマンガを創っていました。
ですが、「この大学に自分がいる意味」は、東京を見ているのなら、宇都宮にいる意味などないということです。
東京を見ているなら、東京にいればいいだけのことです。
それで宇都宮へ来ているのなら、自分がここで生きてる存在、意味は「何」なのか。

そう考えたとき答えは簡単に出ました。
「プラットホームを栃木(ここ)に自分で創ればいい」
そう、今の時代、だれにでも、どこにでもプラットホームが「個人」で世界に向けて発信できる環境が備わっている時代なんです。

考えてください。
今、時代はどう動いているのか、「今、自分はどんな時代に生きているのか」考えることが必要です。

世界はGoogle、Apple、Facebook、Amazonが大きな意味を持って「今」を動かしています。
一昔のように、車の企業は車を作り、電化製品の企業は電気製品をつくり、印刷の企業は印刷をするという時代ではなくなりました。

世界を変えるべくイノベーションを起こしているGoogle、Apple、Facebook、Amazonは何なのかと一言で言えば、「研究機関」です。
コンテンツを生み出すことのできる研究機関です。

大学も同じだとぼくは考えています。
大学という研究機関で、マンガという研究をコンテンツ化できる武器を持って、新たな表現を開拓していける場所です。
マンガでイノベーションを起こすのが、大学でマンガを研究するということだと思います。

ここ数年、帝京大学の理工学部とはいっしょに制作してきています。
宇都宮大学とも、新しい研究にはいっています。

今年から新たに、文星芸術大学、宇都宮共和大学、作新学院大学、帝京大学宇都宮キャンパス、宇都宮大学の5大学の連携を進めています。
産官学の連携を考えるということは、まさに「今」「ここ」で学ぶことに繋がるはずです。
そして大学が繋がることで、「研究」をそこからどう始めるかが重要になってきます。

きっと今回の連携に対して、ぜんぜん違う分野の大学が連携して何が(研究)できるとみんなは思うかもしれません。
ですが、シンギュラリティに向かってエクスポネンシャルに成長していくことを考えたとき、違う分野の研究機関が集まり「研究」するというのはとてつもなく必要な時代になっているということです。

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わかりやすい例として、昨年、2017年に興味深いことがありました。

そのひとつ、将棋の佐藤名人が電王戦においてAIのボナンザに第一局、第二局と完璧に負けてしまいます。
ちなみにボナンザは、囲碁の世界チャンピオンを破ったGoogleの「アルファー碁」のディープラーニング(深層学習)のAIではなく、機械学習のAIに名人は負けたのです。

この対局の二戦目に面白い場面がありました。
佐藤名人が優位にススメ、佐藤名人はここで、将棋の世界では常識の鉄壁の守備の陣形、「穴熊」という囲いを用いました。
その対決を見ていたすべてのプロの棋士たちが「完璧」と頷いたとき、ボナンザはこの穴熊囲いを易々と破ってしまったのです。
つまりAIが将棋の常識を破ったことになります。

佐藤名人は敗者の弁で「自分の将棋のどこが悪かったのかわからない」と感想を述べていますが、このあとの佐藤名人の打ち方が変わったと言われています。
今までの将棋の常識にとらわれない打ち方。
ここに、大学が今やるべきヒントが隠れているのではないでしょうか。

それは想像でしかないのですが、佐藤名人は、将棋が将棋に縛られていた「常識」という呪文から、AIに負けたことで解き放たれたのではないのかと、将棋をまったく知らないぼくですがそう感じました。

つまり、将棋界の常識が、AIという、今までなかった常識に縛られない学習をしてきた機械によって、将棋の可能性を新たに無限に広げてくれたのだということです。

それともうひとつは、昨年メジャーリーグで世界一に輝いた、ヒューストン・アストロズの革命です。
球団創設以来、一度も優勝のないアストロズが2011年にヒューストンの実業家のジム・クレインによって買収されます。
ヤンキースの総額年俸の3分の1にも満たない、金も力もない球団をどうやって強いチームにしていくか。
クレインはGMに大手コンサルティング会社「マッキンゼー・アンド・カンパニー」のエリートであったジェフ・ルーノウを抜擢します。
そのルーノウは球団にあらゆる分野の専門家を招き入れました。
エンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家などです。
それまでの野球界は、コーチやスタッフといったら、まず野球経験者で固めるのが常識でした。
ですが、まったく野球とは関係ないエンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家などをスタッフとして入れていったのです。

そのことによってアストロズだけではなく、メジャーリーグのベースボール自体が変わっていったのです。
それまでベースボールのバッティングはダウンスイング、もしくはレベルスイングでまず転がせ。フライは打ち上げるなというのが、これはメジャーだけでなくベースボールの常識でした。
ぼくも高校まで野球部だったのですが、ずっと「ボールを打ち上げるな、ボールを叩きつけろ!」と教わりました。
これは世界中のベースボールが何十年も言い続けてきていた「常識」です。

ですがアストロズは「フライボール革命」というものをメジャーリーグに起こします。
ゴロを打つのではなく、フライを打った方が打つことすべての確率が上がると、エンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家データによってはじき出されたのです。
バットのスイングする角度までも選手に支持し、そのことで結果が出、結果が出ることで、選手たちは、野球界の外の人間であったエンジニア、コンサルタント、データ科学者、物理学者、統計学者、コンピュータの専門家のデータに本気で取り組みはじめたのです。
すると、年間で400本以上もメジャーのホームラン記録が伸びるなど、数々のメジャー記録が生まれ、すべてのメジャーリーガーたちに対して革命が起きたということです。
もちろんバッティングだけではなく、投手もデータを分析し、デビュー以来1勝もできずに戦力外になった、コリン・マークヒュー投手をアストロズは、3年連続2桁勝利の投手へと育てあげます。
マークヒュー投手のカーブの回転数が、通常2000/分回転なのに対して、2500/分回転のカーブが投げられることを分析し、メジャーで勝てる投手に変えたのです。

フライボール革命も、マークヒュー投手も、きっと今までの常識にとらわれた野球界では生まれなかったイノベーションだと思います。

こうやって将棋やスポーツに目を向けただけでも、イノベーションを起こすには、その世界で凝り固まった場所では起きないということです。

マンガならマンガに縛られない、サイエンスや経済、医学、スポーツ学と取り組むことでの化学変化が、新しいイノベーションを起こすきっかけとなるはずです。

もちろんただ組むだけでは何も生まれてきません。

シンギュラリティに向けて、サイエンスと組むなら何がしたいか。AIと組めば何ができる。VRと組めば何ができる。ホログラムなら、プロジェクションマッピングならといくらでも発想が湧いてきます。

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田中研究室ではすでにいくつか始めているプロジェクトもあり、特に那須観光協会と進めているプロジェクトは4月には実際に形としてスタートすることもあり、連日、急ピッチで制作している段階です。

また昨日、宇都宮大学の先端光工学で世界から注目を集めている、長谷川智士准教授たちと新しい研究をしていきたいと話しています。
長谷川研究室は、フェムト秒レーザーを用いて,金属や半導体,誘電体の3次元サブミクロン構造を高精度に加工して,屈折率・反射率・摩擦・撥水性等を制御することで,材料に新規な機能性を付加する研究を行っているチームです。

フェムト秒レーザーを使い、水の中に、泡をpixel化することで、新しい表現が生まれてくるはずだと、田中は考えています。

つまり大学にとって、ここに書いてきたように、シンギュラリティに向けて、今からの大学はとてつもなく重要な場所となっていくはずです。

そこで「何」をすべきか。
「シンギュラリティに向けて大学はどう変わるり、どう学ぶか」

そういうことです。

体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない

2018年1月1日

あけましておめでとうございます。

正月早々PCの前に座って仕事を始めている。

「禅」の考えとは「ひとり悟る教え」である。
「なるほど、わかった」と会得するのは、他人ではなく自分。
そのためには、自分自らが行動しなければならないと「禅」は教えてくれる。

昨年はよく動いた。
「禅」のその考えを根底によく動いた。
そして見えてきたものがある。
「なるほど、わかった」と見えてきたものがある。

今、未来サイエンス研究で脳の持つデータもダウンロードでき、脳とインターネット、AIを結びつけ、老いても身体はサイボーグとして生かすことで、人間が無限に生きられる時代が来ると言われている。
そのことに対して「凄い」と思った。
人間はとんでもない領域に入ってきたと、これがシンギュラリティということなのかと思ったのだが…
だが、「それは本当に生きていることになるのだろうか?」という疑問。

生きているというのは、身体と脳、両方が生きていることで、「生命」と言えるのではないだろうか。

アインシュタインもこう言っている。
「体と心は別のものではない。同じものを二つの違った方法で見ているにすぎない」

そう考えたとき、「生命」とは自然の上に成り立っているということだ。

今、自然の中で、その自然を感じることのできる、デジタル表現を、自然を壊すことなく大自然の中でできないかと考えている。

いや、もう何年も前から考えていたことが、形として動き出したということだ。

それが2018年。
がんばらなければならない一年だ。