パンデミックとなったコロナウイルス(COVID-19)

2020-3-27

一ヶ月前の日記で、コロナウイルス(COVID-19)はもうパンデミックになっているかも知れないと書いたのだが、あれから一ヶ月で世界中の各国で危機的なオーバーシュートが起ころうとしている。
関東に外出自粛宣言が出たあとも、渋谷や原宿の映像をニュースで見ていると、世界中で行われているロックダウンの風景とあまりの違いにため息しかでない。
このままでは日本もexponentialに感染者は増えオーバーシュートに間違いなくなってしまう。
前回、人は「想像」できなくなっている。そしてすべてが“人ごと”となっていると書いたのだが、今回のコロナウイルス(COVID-19)という“リアル”を前にしても、しょせん人ごとと考えている国なのかと思ってしまう。

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今、ぼくは大学の研究室に閉じこもっている。
スケジュール表を見ると、本来なら中国の南広学院のアニメ学科3年の制作授業と、9月の新学期からの学科設立の準備、そしてメディア関係との研究メンバーとの相談など、ビッシリスケジュール表には書かれているのだが、今回の件ですべてがキャンセルとなっている。

だが、中国と日本の大学の授業をやっていくにあたって、苦肉の策として、昨年から遠隔授業、eラーニングなどの、オンライン授業の準備を進めてきた。
今もその授業用の資料作りで研究室に閉じこもって作業をしているわけなのだが、4月からそれがそうとう大事なシステムとなりそうだ。

日本は本当に、オンライン授業に関しては遅れているし、eラーニングなどの話をしても、大学側には相手にされず、日本の大学では自分のゼミ中心に専攻だけで使える形にしかできなかったが、皮肉なもので、ここに来てその重要性が大学側にわかってもらえつつある。
つまり、それが何なのかすらわからないで、ただお金の面だけで反対されていたということだ。
そういった意味では今回がきっかけで、オンラインに関しては日本も少しは前に進むかもしれない。

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コロナウイルス(COVID-19)の脅威の前では、ホント人間は小さな存在だと認識させられる。
人類は紀元前からウイルスの脅威と闘ってきた。
19世紀後半までは、その対処法すらわからなく、それをひもといたサイエンスが、テクノロジーが闘いの鍵となって生き延びてきた。

話は元にもどるが、やはり人は「考え」「想像」し、「創造」することでこの地球に存在できてきたわけだ。
だから「考え」「想像」しなければならない。
「人ごと」ではなく「考え」「想像」しなければならない。

「考え」「想像」すれば、自分が、ひとりひとりが今、何をすべきかがわかるはずである。

大げさではなく、パンデミックとなった今回のコロナウイルス(COVID-19)は、人類すべてが試されているように感じている。

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コロナウイルス(COVID-19)で見えてきている

2020-2-28

日本中が、いや世界中がコロナウイルス(COVID-19)で大変なことになっている。
もうパンデミックといっていいかもしれない。

4月から本格的に中国に渡り、中国の大学を中心にスマートシティに向けてのマンガとテクノロジーの研究に入る予定だったが、その予定がまったくたたなくなっている。

自分の身にもリアルに起こってきていることなのだが、これからの、とくに日本の経済は3月以降どうなっていくのか、考えると恐ろしくなってくる。

今、時代はどうなっているのか、また世界はどううごいているのか、今回の件で今まで見えなかった、またごまかし見えないようにしてきたことが、政治に無関心だった人たちにも見えてきている。

日本政治のあまりの危機意識の低さと“人ごと”な場当たり感。
人の命がかかった中での、原発と同じで利権争い。
医療システムの危機への、やはり利権とからむ対応の遅さ。
経済における中国への依存度の大きさなどなど…

それとともに、人が「想像」できなくなってきている危機感を感じている。

たとえばマスクだ。
今回のマスク騒動を、1973年の中東戦争を背景に原油価格の高騰による、トイレットペーパー騒動を思い浮かべる人が多いのだが、まったく違う。
トイレットペーパーは自分の手では作れないが、マスクなど1分もあれば作れてしまう。
だいたいネットを開けば作り方などすぐにわかるはずだ。
100円ショップにいくと、マスクはまったくないが、マスクを簡単に作ることのできるガーゼや三角巾、ゴムやペーパータオルは、以前と変わらない状態で売られている。
それでもマスクは不足し、ネット上で値段は何倍にも高騰している。
なぜ、なぜ、なぜ…ほとんどの人は、マスクはマスクを買わなければと思っていることに驚く。
なければ作る。
その想像すらないのだろうか…

大学でぼくのやっている制作授業で、どんな表現を使ってもかまわないので「伝える」をテーマに「自由に創れ」といったら、ほとんどの学生が「何をつくっていいのかわからない」と不満を漏らしてきた。

つまり彼らにとっての自由とは、テンプレートを示さなければ、自由がわからない。テンプレートに従うことが、つまりそこで自由を放棄しているという想像すらできないようだ。

ぼくが18歳のときに出会った、河島英五さんが“てんびんばかり”という曲の中で、こう詩っている。

うちの子犬はとても臆病で
ひとりでは街を歩けない
首輪をつけると
とても自由だ
ぼくを神様だと思ってるんだろう

まさに時代とともに人を骨抜きにしていった自由のゆがみを英五さんは70年代に詩っていた。
首輪を付けた自由には、想像のかけらもない。
自由とは想像だということすら考えない時代に今はなってしまっている…

ぼくは学生に、「ぜったいはこの世にはない」。
だがたったひとつだけ「ぜったい」はある。
その「ぜったい」とは、生きているものは「必ず死ぬ」。
そう言ってきている。

だが生きるということは、「死」があるから存在する。
「死」がなければ、「生」は存在しないことになってしまう。

それと同じで「自由」は、本来ならば「縛り」つまり、首輪を付けられる束縛があるから、そこから解放されたいと自由を求める。
だが、今は解放されたいではなく、首輪を付けてもらいたいと、首輪を付けられなければ不安でしょうがないと、自ら首輪を求めている。
そう考えたとき、今の時代、特に日本には「自由」が存在しないのかもしれない。

話は少しそれてしまったが、言いたいのは、つまりは今の時代に一番必要な「想像力」が消えていく世の中になってしまっているということである。

今からの時代。
AIの時代は、AIに使われる人間と、AIを使う人間に分かれると思っている。
AIを使う人間とは、「想像」する人間のことである。

「想像」する人間は考える。
「想像」とは「知識」があって始めて「想像」できる。
だから「考える」。

今回のコロナウイルスを考えたとき、中国が金融、流通覇権で、アメリカとの覇権争いで武器としているブロックチェーンで、今回のような危機が再び起ころうとしたとき、ブロックチェーンがこのまま進めば、ウイルスにしても初動で簡単に封じ込めると想像できる。
そう考えると、中国の進めている「一帯一路」は、5Gなどのテクノロジーとともに、ブロックチェーンは単なる金融覇権だけでなく、世界を大きく変える凄さと怖さを感じてしまう。

それに対して日本は、あまりにも想像力のない国になっているのではないだろうか…

コロナウイルス(COVID-19)の今回の件を見ていると、あまりに場当たり的で、後付けの対策、まさに今の想像力のない政治そのままの流れで日本の危機を招いてきている。

今まで「人ごと」だった国民も、やっと日本の現状に気づきはじめるのではないだろうか。

想像が時代を変える

2020-1-31

2020年に入ってもう、1ヶ月が経とうとしている。
日々とにかく忙しいというか、まさに時代の流れと同じでエクスポネンシャル的にやることが増えていっている。

3月いっぱいで文星芸術大学の専任を辞めさせてもらい、特任教授としては残るが、9月から中国南京の南広学院でマンガとテクノロジーを研究し、コンテンツ化、そしてビジネスに結びつける学科を立ち上げる。
そういったことから4月からは月の3分の2は中国ということで現在準備をしているのだが、今、中国は新型コロナウイルスで、春節後で進めていた中国での打ち合わせ、契約など遅れることになりそうだ。

文星芸大の方も、大学で受け持っていた授業、講義に加え、昨年よりアニマルアート、今年からマンガアニメーションなど新しい授業を増やしてきたこともあり、昨年より今まで受け持っていた授業などサポートしてもらえる先生を探して、東京へ戻ったときには飛び回っている。

大学で学び研究するマンガは、雑誌に掲載されるマンガだけではない。
今からは、すでに大学のある栃木の那須、さくら市でスタートしている「プロジェクト9b」や「嶋子とさくらの姫プロジェクト」といったARを使って、キャラクターがスマートフォン上で観光案内やスタンプラリーをしてくれるシステム。
昨年、ゼミ生が創った3Dモデリングで描いたマンガの中に、VRで入ることのできるシステム。
とくにこれからは、Wi-Fi6や5Gによって、すべてがIoTとつながる、街全体がスマートシティとなるシステムにもマンガのキャラクターを使ってのコンテンツがどんどん生まれてくることになる。

http://www.project9b.com/
プロジェクト9b

https://www.tochigiji.or.jp/spot/19035/
嶋子とさくらの姫プロジェクト

今年、中国の研究所で研究を進めて行きたいのが、ハプティクス(触覚技術)だ。
キャラクターと握手やハグができるとともに、衝撃や振動などの体感もコンテンツの表現として創れると考えている。
すでにいろいろな研究者が進めている五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)すべてがバーチャルリアリティとしてマンガ、キャラクターと組み合わせることで、まったく新しいコンテンツを生み出すことができるそういったアイデアもある。

ちなみにそういったものは論文で書いて、シークレットで発表している。
(でなければ海外の大学で設備の整った研究室など与えられるわけないのだが)
ここに書いている日記を論文と解釈して「論文としておかしい」と言ってきたものがいるが、インターネット上にこんな形でシークレットな論文は発表するわけはないので、ここで書いていることは、あくまで自分の日記としての考えである。

この日記で何度も今、時代がいかに変わってきているか、大学はその時代の中で何をすべきか書いてきたが、テクノロジーの観点ではなく、「資本主義」の観点から見た方がわかりやすいかもしれない。

マルクスは「資本論」の中で、「お金がお金を生むシステムがつづく以上、資本家階級と労働者階級はいつまでも立場が逆転しない」と書いているが、インターネットの登場で、そのシステムは完全に変わってしまったことに気づかなくてはならない。
資本者階級はは「資本」を持っていて、つまりは大きなお金を資本として持たなければ
資本家にはなれず、資本を持たない労働者は労働者から抜け出せないという、「持つ者」「持たざる者」で、資本家階級と労働者階級は80年代あたりまでは分けられていた。
たとえば労働者(マンガ家)は、資本家(出版社)の下で働くことでお金がお金を生むシステムの常識という形である。

だが、インターネットは資本がなくても、いや、資本などそもそも必要なくても成功できる世界を創ってしまったのである。

では何が必要なのか。
たどり着く答えは、人間の考える力だと思っている。

イノベーションを起こせるのは、考える力によって、常識(ビッグデータ)の外を想像し、それをコンテンツ化できる人間しかいない。

その想像が時代を変える。
そう、想像とは研究だということだ。

日本の大学で学生を見ていると、「起業」を考える学生がいかに少ないことか。
今、世の中が変わってきているにも関わらず、「安定」を求め、それこそ過去の遺跡とかした資本家の元に行けばまだ安定だと勘違いしている。

今年、自分の周りは大きく変化する。
もちろん不安だし、楽しみでもある。
中心に立てば立つほど、「結果」を求められることもわかっている。
プレッシャーをいかに楽しめるか、プレッシャーがあるということは、それだけ大きな挑戦なわけなのだから、やりがいのある時間を生きるということでもある。

考える。考える。考える。
想像する。想像する。想像する。

そしてぼくはこの一年、創造する。

喜迎新春

あけましておめでとうございます!

今年の年賀状は、追い求めている 菩提達摩の言葉を書きました。

すべての人が、道を知っている。
わずかな人だけ、道を歩いている。

2020年は、ブログで書いてきた通り、そのわずかな人だけの道を歩きます。

 

生命力の強さ

2019-12-31

2019年が終わろうとしている。
とにかく忙しい一年だった。
今年を振り返れば、忙しさの根底に、新しい、とてつもなくパワーを必要とする次ぎの段階への準備の1年だったように思う。

段階というのは、ぼくはテンションとよんでいるのだが、「今、生きていると感じる」べく意識の高さの場所である。

それは20代のころ、スポーツを取材しているとき感じたことだ。

取材をしていて、たとえばボクシングの世界チャンピオン、マラソンを2時間10分以内で走る選手、100㍍を10秒を切る選手、無酸素でチョモランマに登頂した登山家、世界を7度制した空手家、150キロを超えるボールを投げる投手…

そういった人間が到達できる限界の場所で闘い、限界を超えた高い意識で生きてきたスポーツ選手は、会った瞬間から「尊敬」しかない。
そして問答無用で憧れる。
だから話を聞きたいと思う。
だから書きたいと思う。

その感情、いや、もっと人間のもつ、だれもが持っているグツグツと身体の細胞がざわつく生命が根底で求めている感覚。
それは何なのか…
ぼくはそれを「生命力の強さ」という言葉で20代のころエッセイなどで書いた。

そう、人は生命力の強さを持つものと対峙すると、ただそれだけで尊敬と憧れを持って細胞がざわつきはじめるのだ。
同じ生命として、その強い生命を手に入れたものには憧れる。

それはスポーツ選手に限ったことではない。
作家だって同じだし、ミュージシャン、役者、組織の中で働く、サラリーマンだって、“その場所”に到達したものからは「生命力の強さ」を感じる。

その「生命力の強さ」というのは、高い意識を持ち上りつづけていく中で、「生きている」存在を、生きている意味を感じ始めたとき、生み出てくる「生きている感触」だと思っている。

「16フィートの真夏」という本を書いたとき、その主人公であるジャッカル丸山選手を現役から引退まで何年にわたって取材した。
目が見えなくなっても、拳が使えなくなっても、ボクシング協会から引退勧告されても、リングで闘うことだけを望み、引退させられたあとも、リングで闘いたいとずっとずっとこだわり続けていた。
「ここしか生きている感覚を持てない」

彼はリングに上がれなくなったときから、リング以外では生きている感覚を持てないことにもがいていた。
ボクシングは生死のやりとりである。
リングに上がるときは、ボクサーは「死」をつねに覚悟する。

そこで闘ってきたボクサーは、その「死」を覚悟した高いテンションの中でしか、「生きている感覚」を感じなくなってしまう。
死のない日常には生がない。
死があるから、生が輝くのだ。

そう、命を賭けて闘うものは、死がリアルでなければ生を感じなくなってしまう階段を上ってしまったのだ。

本当は人は本来そのことには気づいている。
人は必ず死ぬ。
いや、生命は必ず死を迎えることがわかっている。
だが、ほとんどの人はそれを見ないふりをして生きている。
本気で生きたら、テンションの階段を上らなければならなくなるからだ。
このままでいい…

だが、生命は必ず死を迎えるのだ。
ならば「生」を感じるためには、とことん生きると決めたならば、テンションの階段を上っていくしかないはずなのだ。
その階段を一段上れば、もう、今まで生きた場所では「生きている感覚」を得られなくなるのはわかっている。

もちろん、上り続けるのは「苦」が無限に続いていく。
「このままでいい」と階段を上るのを辞めるもの、あきらめるものもがきっとこの世の大半だと思う。

だが人は「生」を求めて、とことん「自分の限界の生」を求めて生きる生き物だと思っている。
人は「苦」を乗り越えて手にする「生」は、乗り越えた「苦」の大きさだけ、「生」の喜びを感じることを知っている。
だから階段を上りつづける。
だから「人生」なのだ。

2019年は、次ぎの段階の階段を上るために生きてきた1年だった。
その階段の舞台となるであろう、この1年の走ってきた中国でのことは、このブログでも書いてきた。

ちばてつや先生の元でやってきた大学は、2020年は専任という立場を離れることにした。
もちろん今からも、特任教授の立場で、ちば先生の元でもやっていく。
自由に動き、ある意味フリーの研究家として、作家としてやっていくために、年末も、大学での引き継ぐ人材、eラーニングなど、世界中どこからでも遠隔で講義できるシステムを駆使して、ちば先生には迷惑をかけないよう、来年度抜けても大丈夫なようにしておかなければならなく動いている。

さぁ、どこまで階段を翔けあがっていけるか。
自分の「生命力の強さ」はどれだけのものなのか。

覚悟はできている。

しあわせとは

2019-11-29

前回のというか、一月前のブログで「目の回るような忙しさが日々つづいている」と書いたのだが、間違いなく忙しさが加速している。

日本と中国の行ったり来たりの日々には慣れてきたのだが、両方の大学で新たなカリキュラムの形を、また学部、コースなどなど立ち上げようとしているもので、通常の仕事、講義、授業に加えて、会議、会議がとにかく機関銃のように連射で跳んできている。

会議の途中で、「次の会議があるもので」と、分単位のスケジュールで大学の中、大学の外ととにかく飛び回っている。
研究室に戻っても、日本の大学にいない間の講義、授業は休講にしないと決めてるもので、学生たちにやるべきこと、参考レポートと制作しなければならない。
やるべきこと、考えるべきこと、自分の考えなどを書き、画像を添えて作っているのだが、「もうこれは、教師なしでの講義教材」だと、自分でも感心しながら学生に渡すデータをひとつひとつを仕上げていっている。
何か最近は哲学的なことばかり書いているような気もするのだが…

まぁ、来年は研究と学部立ち上げで、中国南京の南広学院大学での時間がが半分以上になるもので、さすがに身体がもたないと、引き継ぎとともに、もう何年もやってきたイベント、地域とのコンテンツ制作を、「すみませんが」と断っていっている。
それでも「どうにか少しでもいいからつづけてほしい」と頼まれれば、最後には「できる範囲で」と答えてしまっている自分がいる。

いや、頼まれるということは、本当に「しあわせ」なことなのだ。
いつだったか読んだ本の中に、たしか三つの「しあわせ」というのが書いてあった。
記憶でしかないので正確ではないと思うのだが、その三つとは「してもらうしあわせ」「できるしあわせ」「してあげるしあわせ」だったと思う。

そう、生まれたときは、親やたくさんの人たちから「してもらうしあわせ」を受け取ってきた。
ものごころがつくと、自転車に乗れた。ギターが弾けるようになった。曲が作れた。マンガが作れたなどなど、「できるしあわせ」が自分の中に湧き出てきた。
そして、「できるしあわせ」によって、そのことで喜んでもらえることができたとき、「してあげるしあわせ」というものを少しずつ感じ始めていた。

歳を取るごとに、その「してあげるしあわせ」が、人が求めてくれるしあわせが、頼ってくれるしあわせが、自分のしていることで、成長していくしあわせが、いつしか生きがいになっていると感じている。

たしかに忙しい。
たしかに身体には限界がある。
たしかに「きつい」と感じる日々がある。
たしかに「苦しい」と立ち止まりたいと思うこともある。

でも、それが「生きているしあわせ」だと本当に思っている。

さぁ、もうひと踏ん張り雑用を済ませたら、宇都宮の大学から東京へ帰るか。

明後日には中国の大学のキャンパスの中にいる。

自由から生まれてくる使命

2019-10-30

目の回るような忙しさが日々つづいている。

今の時代、エクスポネンシャルに時代が変わっているとともに、自分がやろうとしている仕事量もエクスポネンシャルに増えていっている。
仕事量が増えるということは、経験と知識も増えていくということだ。
経験と知識が増えれば、いくつもの想像、創造が増えていく。
やりたいこととともに、やらなければならないことだと、そんな思いが沸き上がってくる。
ちばてつや先生はそういった思いを「使命」だと言ってくれている。

その「やりたいことと、やらなければならないこと」の中心となるべくプラットホームを中国に開設した。
10月9日にちばてつや先生に中国、南京の南広学院に来ていただき、「MANGAイノベーション研究所中国」の開設とともに、所長として田中誠一.の就任が決まった。

大学の一番見晴らしのいい場所にガラス張りの3部屋+テラスもある研究室1も作ってもらい、(1と書いたのは、他にも研究室を作ってもらっている)設備もデスクトップのPC8台、ノート3台、タブレットなど、必要機材として先日に伝えたものがすでに用意されている。

 

まだまだ今からチームとしての人材、とくにプログラマーとエンジニアが必要なもので、日本チーム、中国チームと、とにかくいい人材を探していかなければならない。
まず最初にやっていく研究、コンテンツ制作に関してはかなり具体的に決めているだけに、いかにスペシャリストたちをこの半年で集められるか…そう考えるとやりがいとともに、60歳を過ぎた体力がどこまで持つか…その勝負かもしれない。

ちなみにチーム名は「Let’s think」と決めている。
「さぁ、考えよう!」だ。
知識・経験だけではイノベーションは起こせない。
知識があり、経験があり、そこから考え、考え、考えて想像が、そして創造が生まれる。

10代のころからずっと大事にしている言葉がある。
『心を開いて「Yes」って言ってごらん。すべてを肯定してみると答えがみつかるもんだよ。』
あこがれのミュージシャンのひとりであるジョン・レノンの言葉だ。

Yesは可能性を無限大に広げてくれる言葉だ。
NOと言えば、未来の扉を自分で閉じてしまい、可能性をそこで断ち切ってしまう。

劇作家の倉田百三が、哲学者の西田幾多郎の本を読み、こういった文章を残している。
「個人あって経験あるにあらず。経験あって個人あるのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから、独我論を脱することができた」

ぼくらは自分が変わるために経験しなさいと子供のころ言われてきている。
成長するために経験が必要だと教え込まれてきた。
だが、Let’s thinkしてみる。
赤ちゃんは「経験」があり、「成長」がある。
ひとつひとつの経験が、生きるための成長としてインプットされていく。
その「経験」はやらされて「成長」ではなく、自分の自然の経験から「成長」してきたはずだ。
そう、「経験」あって「成長」が生まれてくる。
だがいつのころか、「しつけ」という「やらされる経験」が大人たちによって投げかけられてくる。
その経験はYesの成長ではなく、まさにNOを教え込まれる、大人や権力者によって便利な教育という経験だ。

だからLet’s thinkだ。
Noと言わずに、Yesと言ってLet’s think。
Noはいつだって言える。

人は自由なはずだ。
人はその自由の中で成長したいといくつになっても考え、経験を得て自分の答えを探し続けている。
ぼくはこの歳になっても、やはり成長し続けたい。
働くというより、成長を求めてYesと言い続けて走り続けているだけなのかもしれない。
走り続けることこそが、最大の経験だ。
そのYesの経験から人は無限大に成長していける。
それこそが自分の中の生きる意味であり、生きる自由かもしれない。

そしてそれが、自由から生まれてくる、まさに使命なのかもしれない。

研究にはつねに哲学を

2019-9-30

来月の10月9日に「ちばてつやMANGAイノベーション研究所」の中国支部を立ち上げる。
ちばてつや先生にも、中国、南京にある伝媒南広学院大学に来ていただき、メディア発表をすることになっている。

今やシリコンバレーよりもイノベーションを起こしている、世界一のITの町、深センの研究者たちともチームを組む話しも出てきている。

先月のブログでも書いたのだが、今、世界を動かしているのはアメリカのGAFA(グーグル(Google)、アップル(Apple)、フェースブック(Facebook)、アマゾン(Amazon))。
中国のBATH(B〈百度(バイドゥ)A〈阿里巴巴集団(アリババ)T〈騰訊(テンセント)H〈華為技術(ファーウェイ)) である。
そのGAFA、BATHで共通するのは、すべて「情報」のプラットフォーマーである。

そう、2000年以降、「製造」ではなく、「情報」が世界を動かし、日本はその「情報」に乗り遅れてしまっている。

ただマンガというコンテンツは、間違いなく日本のブランドとして世界が認めている。
そのマンガは「情報」だとみんなはわかっているのだろうか。

笑ったり、感動したり、マンガ作品としての情報ももちろんあるのだが、キャラクターという情報となれば、IoTすべての情報の中で活かすことができる。

今、ぼくが中国で取り組む「情報」としてのマンガは、もう待ったなしの超高齢化問題である。
2025年、日本は団塊の世代がすべて75歳を超え、人口の18%以上が75歳を超えてしまい超高齢化社会となる。
中国も2025年には60歳以上の高齢者が3億人を超えると言われている。

それをテクノロジーを使ったマンガで解決できないかと、中国の大学に向けて論文を先月に書かせてもらい、一気にちばてつやMANGAイノベーション研究所の話が中国で進んでいったというわけだ。

大学の方も来年4月からは、中国の大学での研究に集中すると決め、ちばてつや先生も応援してくれている。

ただ、現在の文星芸術大学でアニマルアート、アニメーション、地域連携などいくつも立ち上げた張本人なもので、引き継ぎの先生を育てるまでは、特任教授という形で、月の3分の1ほどは文星芸術大学の方にも行かなければならなくなりそうだ。

もうひとつ、今から取り組むことで一番大事なことがある。
それは「幸福」ということだ。
研究をし、便利になったコンテンツを創り上げたとして、それが「幸福」だとは限らない。
人間は前に進み始めたら後戻りはできない。
医療なら、人はゲノム編集によってガンなどの死から逃れることができ、普通に100歳以上生きられることになっていく。
移動も通信も消費も仕事も、すべて間違いなく「便利」になっていく。
だがそれが「幸福」とは限らない。

研究し、コンテンツを生み出し、それをビジネス化していくには、「幸福」とは何かという哲学がなければならないと思っている。
自分があと何年生きるかはわからないが、「研究」にはつねに「哲学」を持って考えていきたい。

そういうことだ。

美人投票とイノベーション

2019-8-26

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今年の夏は、まったく休みのないままに終わろうとしている。

昨日まで帝京大学理工学部と文星芸術大学の単位互換の共同授業で、CLIPSTUDIO、Unity、Photoshopを使ってモーション動画の基礎演習の制作授業をやっていた。
今年で4年目だが、夏休みに行っていることもあり、参加する学生はあいかわらず少ない。

これからの時代、マンガはIoTとつながり、AI、VR、ARというテクノロジーの道具によって、無限の可能性を秘めているというのに、既存のマンガという枠から出て、新しい表現を生み出そうとする学生はほとんどいない。
そもそも、既存のマンガを教えてもらうのであれば、YouTubeやセミナーで十分まなべるし、最新のテクニック的なことも大学より間違いなく覚えることができる。
お金だってさしてかからない。

では、大学で何を学ぶのかと言えば、大学は研究機関であり、マンガならマンガのイノベーションを起こすべく作品、コンテンツを生み出す場所だと思っている。
だから「研究」のための学びを求める場所のはずなのだが、いつも言っているように、日本の大学のほとんどは、研究機関ではなく「学校」という、高校の延長で学ぶ機関となっている。
大学で本来の研究し、コンテンツ化しているものとしては、ただため息だ。

 

 

ともあれ、今年から毎月向かっている、中国南京の南広学院での新学期が来週から始まる。
そのあと杭州からもインターネット教育関係で呼ばれているので、中国から日本に帰国するのは、9月16日からの文星芸術大学の後期の授業開始の前日になっている。

まぁ、夏に限らず一年中、「遊びが仕事で、仕事が遊び」。
つまりは毎日がそういうことだ。

 

 

 

そんな日々の中、歳をとるごとに「勉強」がどんどんと面白くなってくる。
最近は「経済」が面白く、本を読みあさっている。

今、世界の経済の中心にいるのは、GAFA(グーグル(Google)、アップル(Apple)、フェースブック(Facebook)、アマゾン(Amazon))。
中国のBATH(B〈百度(バイドゥ)A〈阿里巴巴集団(アリババ)T〈騰訊(テンセント)H〈華為技術(ファーウェイ)) である。
GAFA、BATHで共通するのは、すべて「情報」のプラットフォーマーである。

 

 

 

世界の経済は「モノ」ではなく「情報」で動いている。
2000年代からは情報が世界の経済を動かしているということだ。

マンガは「情報」だということをみんなわかっているのだろうか。
ただ読みものとしてだけではなく、「伝える」、それも「わかりやすく伝える」ことのできる優れた情報のコンテンツであることを、マンガを描いているものを含め、みんなはちゃんと認識しているのだろうか。
経済から情報としてのマンガというものを考えると、いろいろなものが見えてくる。
それを今、ITは日本より遙かに進んでいる中国でテクノロジーと組み合わせて研究してコンテンツ化を進めている。

最近、ちばてつや先生と経済の話をしているとき、今の経済学最大の影響を与えた、経済学者のケインズの「美人投票」の話になった。
ケインズが金融市場における投資家の行動パターンを表す例え話として有名な話だ。

【ケインズの美人投票】
昔、ロンドンで、一風変わった美人投票が行われた。
それは、投票者が100枚の写真の中から、もっとも容貌の美しい6人を選ぶ。だが、ひとつこういった項目をくわえる。「最も投票が多かった人に投票した人達に賞品を与える」というものだ。
つまり、この美人投票は、ただ『自分が美人と思う人』に投票したのでは、賞金をもらうことができない。
『他の人が美人だと思って投票する人』を予想して、投票する必要がある、投票者参加型の美人投票なのだ。
この参加型の美人投票をした場合、自分が美人と思う美人ではなく、『他の参加者が誰を選ぶのかを考えて投票する』こととなる。
各投票者が賞品を獲得するためには、自分が最も美しいと思う写真を選ぶのではなく、他の投票者が美しいと思うであろう写真を選ぶことになるというわけだ。
するとだれも一番と思わなかった3番手、4番手の美人が、一位になるという人間の行動パターンを示したたとえ話である。

ちば先生は「マンガ賞も同じだね」とこの話を笑いながら美人投票の話を聞いていた。
マンガ賞は編集者がまず、候補を選んでくるのだが、まさに『他の参加者が誰を選ぶのかを考えて投票する』と同じような選びとなる。
「自分がいいと思う作品」ではなく、「まわりがいいと思う作品」。つまりは、今までの既存の枠の中での選択になってしまう。

本当に時代を変えるほどの作品は、間違いなく「今までなかった作品」である。
今までなかったということは、「予測ができない」。
マーケティングができない作品だということだ。

だがそれは『他の参加者が誰を選ぶのかを考えて投票する』の考えでは、まず選ばれることはない。

 

 

情報が世界の経済を動かしているとのが今の時代だ。
だが、ぼくたちが手に入れた情報はすでに「過去」だということだ。
そういう意味で、『他の参加者が誰を選ぶのかを考えて投票する』というのは、過去の情報に縛られている生き方になってしまう。

「自分が新しい情報(マンガ)を生み出す」。
大学という場所は、そういった考えを持って研究し、それがコンテンツ化することでイノベーションが生み出されていく。

大学とは本来そういう場所のはずだ。

 

「目的」と「手段」

2019-7-31

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学生につねに言っている言葉がある。
「目的」と「手段」だ。

人は「生きる」において、「目的」を持つことによって、自分が「今」「生きている」意味が見えてくる。
「目的」を持てば、「目的」のために「今」「何」をやるべきか、「手段」が生まれてくる。
それは「今」「何」のために生きているのか、つまり「意思」を持って生きる道を歩くことができるのだ。
ここで何度も使っている言葉だが、「人は必ず死ぬ」「死ぬから、生がある」。
「生」とは、「生きている実感」がなければ、「なんとなく」の、ただ呼吸をするだけの生命を感じることのない死への時間がただ流れていくことになる。

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人間というのは「欲望」の塊だ。
その欲望は「生きている証しとして手に入れたい、人に存在をしめしたい」と、美男美女と恋愛したい、車がほしい、マンガ家になりたい…
「人のやくに立ちたい」これも生きているから生まれる「欲」だ。

そう、あらゆるものが、人の持つ「欲望」が心を動かしていく。

その欲望の「目的」のためには、今、何をすべきか。
それが「手段」となる。
大学生なら、「課題」はあくまで手段で、「目的」のために研究し、勉強するもののはずだ。
だが、大学で学生を見ていると、目の前のことが「目的」となっている。
単位をもらうための「課題」を挙げることが目的。
進級することが「目的」、卒業することが「目的」。
就職することが目的…
「目的」があれば、就職だって「手段」として考えればいい。

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学生だけじゃないな。
わかりやすい例を挙げると、たとえばお金だ。
お金は、モノを交換するために、モノを交換する「手段」として生まれてきたものだ。
あくまで目的はモノで、お金をそれを繋ぐための手段だったということにすぎない。
だが、お金を「目的」とする人間がどんどんと生まれてくる。
これは困ったことなのだ。
人間は「欲望」があり、たとえば車などモノを手に入れるために、それを「目的」とするために、手段としてお金を貯めていたはずである。
モノは手に入れれば、その目的は達成する。
だが、お金を貯めることを目的としたらどうだろうか。
人間には「欲望」がある。
「お金がほしい」を目的とした場合、百万貯めれば、一千万、一千万ためれば一億、一兆と、目的の終わりがなくなってしまう。
モノとして形のないお金は、無限大に膨張していく欲望となっていく。

お金を貯めるが目的となれば、お金が市場で回らなくなり、お金を持つ者、持たない者の格差がどんどんと広がって行く。

そもそも人は死ぬのだ。
「手段」が「目的」となったとき、生きる意味の矛盾が必ず生じてくる。
「しあわせ」とは何なのか…
無限につづく「欲望」を「目的」としたとき、そこに本当のしあわせはあるのだろうか。

そう、今の世の中、手段のはずのものが、目的になっていることで資本主義自体が限界にきているのかもしれない。
いや、そのことすら考えていない、目の前のものが「とりあえず目的」と「なんとなく生きている」だけの人たちがどんどんと増えているというのが実感だ。

「目的」というのは、ただマンガ家になりたいといった、過去においての時代の価値観で見てしまうと、その価値観は時代とともに劣化した価値観にほとんどがなってしまう。
「目的」というのは、今の時代、どういった流れの中にいるかということがわかっていなければならない。

テクノロジーの発達というのももちろんだが、経済の流れというのもちゃんとわかっていなければならない。

今、ぼくが取り組んでいる一番の「目的」は、2025年問題である。
2025年には団塊の世代と言われる、ベビーブームと言われた世代が75歳を過ぎることで、日本の人口の5分の1は75歳以上、65歳以上にいたっては人口の3分の1が超えることになる。
年金、保健制度は破綻しかねない状態とともに、「孤独」が大きなテーマになってくる。
そこを、マンガとテクノロジーで、コミュニティを含めた、生きがいと繋がりを生み出していきたいと考えている。

ここで団塊の世代と書いたので、もうひとつ、「今の時代、どういった流れの中にいるか」
を考えるひとつのテーマとして書いておく。

経済的な観点から、年齢を考えると、人が一番お金を使う年齢が、40代、50代である。
車、家、子供の学費を含む、こどもたちにかけるお金などなど、経済は年齢と人口と比例している。
80年代、90年代の日本でのバブルは、まさにこの団塊の世代が40代、50代のときに起こっている。
ではこの先どうなのか。
少子化によって、日本の中での消費はどんどん小さくなっていくばかりで、またバブルがやってくることなどありえない。
だから、グローバルに考えなくてはならない。
日本のマーケットでは、いかに厳しいか少し考えればだれにだって見えてくる。
(なのになぜみんなはそのことを考えないのか不思議だ)
だからこそ経済の流れを含めて、時代の価値観を見極め、その上で「目的」を持たなければならない。
想像しなければならない。
今から自分が目指す方向で、イノベーションを起こすには「今」何をすべきか。
学生も、そう、先生たちも想像してほしい。

「現実は、かってすべて想像の中にあった」
アインシュタインの言葉である。

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