AI research

心を創る
~AI時代の心を描く新たな表現~

1981年から、イラストレーター・マンガ家・マンガ原作者・フォトグラファー・作家として、集英社・小学館・講談社・秋田書店・文藝春秋・ベースボールマガジン社などいくつもの雑誌を中心としたメディアで連載、グラビア、著作の単行本、テレビの構成などをスポーツを中心に書いてきている。

特にスポーツノンフォクションの作品が多く、グラビアなどでは、写真・文・イラストの肩書きで掲載してきた。

つねに意識してきたことは、「自分の心で、感じ見えているものの表現」である。

「自分にしか表現できない、自分の心の目」を意識し、文章を書き、イラストを描き、写真を撮ってきた。
文章、イラストは自分の内から出てきた心の表現を形にできてきたと思っている。
だが写真は、撮る意識や、被写体との関係性などから「心の繋がった」表現はできるものの、「心で見えている情景」までは当たり前だが表現はできていない。
言葉、絵のように、感情を情景にまではできないということだ。

ノンフィクションを書くとき、自分の文章には自分で撮った写真を載せてきた。
つまり、自分のこの文章は、この写真の場面から生まれた言葉だと、読者に「リアル」を伝えるためだ。
だが、写真はたしかに「リアル」は伝えられるものの、撮ったときのファインダーから見えていた本当の心の情景ではない。

●写真で見えているものを撮る
1980年代、ミノルタカメラ(現SONY)がプロフェッショナルサポートをしてくれてから、ミノルタのレンズなど機材が自由に使えるようになり、雑誌のグラビア中心にプロのフォトグラファーとしても積極的に自分の写真を雑誌中心に掲載してきた。

もちろんその時代はフイルムの時代である。
プロとして重視してきたことのひとつ。
これはだれにでも経験あると思うのだが、たとえば風景を撮り、出来上がった写真の色と、自分が撮ったとき見えていた色が違うと感じたことがあると思う。
「あれっ?空の青さ、もっと深い青だったはずなのになぁ」
そういった感じである。

フイルム時代は、まずは自分の見えていた色を求めて、フイルム探しから始まった。
使っていたカメラがミノルタということもあり、同じフイルムでもCanonやニコンのレンズよりも深い色合いになる。
まずフイルムメーカーとしてはコダックと相性がいい。
シャッタースピード、露出などでもデータを取り、自分の見えている色合いを探していく。
そして見つけたフイルムが、コダックのEPPというスライドフイルムである。

色合いを探すとともに、当時、撮り方もいろいろ工夫した。
マンガやイラストも描いていたこともあると思うのだが、スポーツ選手を撮る場合、自分のファインダーからの情景は、当たり前だが激しく動きがあり、その動きを絵を描くときのように、どう表現するかつねに考えていた。
その「動」の情景を伝えるために「スローシンクロ」という撮影法をぼくはよく使っていた。

当時、ぼくがよくその撮り方をしていたこともあるのか、ぼくが雑誌に掲載し始めてから、当時のグラビアのスポーツ写真でスローシンクロで撮った写真をよく見かけるようになったと感じている。
モノクロは、当時ほとんどのプロのカメラマンが使っていたコダックのTX(トライエックス)を使っていた。

1995年、これからの時代はパソコンが必要になると、Power Macintosh 8100/80AVを買った。
もちろん、Photoshopもそのときから使い始めた。

フイルム時代、ファインダーからの情景を形にするためにあれほど苦労してきたことが、Photoshopによって、撮った写真の見えていた色合いなど、簡単に再現でき、それも細かいところまで自分に見えているイメージに修正することができた。

自分の中の表現の可能性が一気に膨らんでいった、デジタル時代の始まりである。

●大学での研究のはじまり

2004年には、今では当たり前になったスマートフォン(当時はケータイ電話)で見るための世界初のマンガを研究し、制作した。
クリックしながら見せることで、「クリックコミック」と命名して、2006年よりau、SoftBankから配信。
当時のケータイの機能、光、音楽、バイブ、スクロール、パラパラマンガ的に見せるアニメーションなど、冊子では表現できない作品の表現を研究し取り入れていった。
またクリックという自分の意志でコマを進めることで、ゲーム的な没入感を心に抱かせることができるなど、心を動かす表現法をいくつも試しての研究創作だった。

文化庁のメディア芸術祭で賞を獲得するも、あまりに時代の中で早すぎたことで、まだケータイでマンガを読む土壌がなく半年で配信終了。(その15年後、世界で90%以上がスマートフォンでマンガを読む時代となる)

ケータイでの配信が終了してすぐに、デジタルによるディバイスで新しい表現法をいくつも研究したこともあり、京都精華大学の牧野圭一先生、文星芸術大学のちばてつや先生から、「大学でデジタルのマンガを研究しないか」と誘われ、2007年より大学でのマンガ研究が始まった。

大学では100以上のデジタルコンテンツを、地域の行政、出版社、テレビ局などでで制作してきている。
2011年からは動画を中心としたDX研究で、帝京大学・宇都宮大学・筑波大学などとも共同研究もはじめる。
動画研究は、スマートフォンの通信システムが4Gとなり、動画をストレスなく見られるようになったからだ。
そのことによって、求められるコンテンツが、静止画から動画が中心に間違いなく動き出すと提言。根拠として、学術的な研究も行った。
たとえばメラビアンの法則。
◎アメリカの心理学者、アルバート・メラビアンの法則である。
「人がコミュニケーションをとる時に、どんな情報に基づいて印象が決定されるのか」
視覚情報 55%
聴覚情報 38%
言語情報 7%
◎そこから考える、動画と静止データーとの比較。
・テキスト+写真の5000倍
・動画情報を文字情報に換算すると約180万単語
Forrester ResearchのJames McQuivey博士によると、
1分間の動画は一般的なWEBページの
3600ページ分の情報量となる。

2013年よりの大学でのDX研究が大きく動き出す。
○動画、モーション研究。
○XR(AR/VR/MR)によるマンガ・キャラクターコンテンツ研究。
○メタバースコンテンツ研究。
○イマーシブ研究。
○AI研究
こういった研究によって、マンガ・キャラクターは、あらゆる情報表現の中で可能性があると考え、いろいろなコンテンツを自分のゼミの学生と制作していった。

●AI研究

AI研究は2016年からディープラーニングによって、そのときすでにコンテンツ化に向けて進めていた、ARを使って、キャラクターに観光案内させるシステムに取り入れないか考えていた。

※2018年よりスタートさせた、ARシステムを使った、那須の観光案内システム「プロジェクト9b」と、さくら市の「嶋子とさくらの姫プロジェクト」である。

AIが一気に動き出したのは、ChatGPTが2022年11月30日 に一般公開されてからだった。
ゼミ生の中にも、AI研究を取り入れる学生も生まれ、2023年の時点で苦労したのが、同じキャラクターを統一して生成することだった。
だが、ゼミで研究していく以上に、世の中のAI技術の発展は恐ろしく速く、ゼミで研究していることが次々と簡単に実用化できるアプリとして生まれてくる。

イラストもアニメーションもジェネレーティブAIが一般公開されるまでなら、十分プロで通用する作品を、プロンプトに書くだけで産みだしてくる。

つまり、絵がうまいだけではアーチストになれない時代がやってきたということだ。
だがよく考えてみれば、アーチストというものは、その作家にしか表現できない作品を創れるから、作家であり、ただ絵がうまいだけや、データだけで作品を作るものは、本来、作家ではないはずだ。
カットやゆるキャラといったデータで制作できるコンテンツは、AIに頼んだ方がいろいろなパターンをいくつも出してくれるわけだから、人間に頼むより遙かに使えるものを出してくれる。

●自分にしか表現できないもの

ジェネレーティブAIの登場によって、それまでほとんどの人が考えてこなかった「人間とは何か」を、いろいろな分野で多くの人が考え始めた。
たとえばぼくたちは生きている。
だが生きているのは「死」があるから生きていると思えるのである。
「死」がなければ、当たり前だが「死」の概念は生まれてこない。

それと同じで、それまで人間がやっていたことを、AIが代替することによって「人間とは何か」「自分とは何か」を考えはじめている。

AI研究を始めてから、「マンガ」がAI時代の教育において必要ではないかと考えている。
「人間とは何か」を考え、紐解く教育ができると思っている。
マンガを創る上で一番重要なのが「キャラクター」である。

大学でマンガ家を目指す学生を見ていると、ストーリーを考え、そのストーリーの上にキャラクターを置いているだけの作品が実に多い。
これではキャラクターはストーリー通りに動かされている人形にすぎない。

本来は、生きたキャラクターを産みだし、そのキャラクターがどう動くかでストーリーになっていくというのが、マンガを創るにおいての一番の重要過程である。

ぼくの場合は作品の創作準備において、とにかく生きたキャラクターを生み出すために、平均で2年以上は時間を費やしている。
ノンフィクションを多く書いてきたということもあるのだが、取材の中からキャラクターを創り上げていく。
どこで生まれ、どういった親に育てられたか、どういった兄弟がいて、友だちがいたのか。
そしてスポーツならば、どういったことがきっかけでそのスポーツと出会い、恩師になる人はいたのか…何度も現場に足を運び取材する。
モデルとなる人物を設定し、その人物の生きてきた道をとことん歩き取材する。
選手といっしょに走ったり、ときにはスパーリングだって経験する。
キャラクターの生きてきた道を追って、現場には必ず行き、海外にも何度も足を運んで取材をしている。
その上で、ぼくの場合はそのキャラクターの生きてきた年表を作っていた。

こうやってキャラクターを創り上げていくと、本当に生きた人間としてのキャラクターが自分の中に生まれてくる。
そして生きたキャラクターが目の前で動き出し、それを追いかけていくと、そこに物語が生まれていく。

マンガは「生きた人間を生み出す」創作だとぼくは思っている。
生きた人間の物語は、データではなく、生きてきた道をリアルに歩み、紡いだ人生のオンリーワンの物語。
マンガのキャラクターを生み出すとはそういうことで、「人間」を考えることである。

●AIで生きたキャラは創れるか

2025年、AIを使って生きたキャラクターを生み出せるか研究と実験をいくつかやってみた。
ひとりの少女の年表をつくり、マンガのキャラクターを生み出すと同じように育った環境もプロンプトに加え、AI生成で少女の成長をキャラクター化してみた。

また、モデルのキャラクターがいる場合、取材で撮ってきた写真からキャラクターを生成し、生きてきた年表を作って、同じように育った環境もプロンプトに加え、モデルの成長をAIでキャラクター化してみた。

キャラクターの成長などは十分使えるレベルで生成できている。
同じプロンプトでもAIによってキャラクターのイメージが大きく変わっていく。
AIの代表的な「firefly」「ChatGPT」「Gemini」で同じプロンプト・写真で生成してみた。
AIの種類によっての違いがわかると思う。

こういったキャラクターを生成することで、マンガを創ることもできるし、「firefly」「ChatGPT」「Gemini」で創ったキャラクターを、「sora」「Flow」「Hailuo」などのAI動画制作ツールを使い、アニメーション化も実験してみた。

凄いスピードで進化するAIを使い、新しい創作、表現の実験をいろいろやってきたが、
このやり方では、ぼくの場合は作家として実は「おもしろくない」が結論となった。

●マンガから考える

なぜ「おもしろくない」のか、考えたとき、まずマンガのようにキャラクターを生み出せば、AIを使って、生きたキャラクターも生み出せるのではないかと考えていた。
だがそれは少しちがった。
マンガのキャラクターは、間違いなく「人間を考える」上で、生きた人間を生み出すようにキャラクターを考え、そのキャラクターの生きた経験をリアルに取材などで紡ぐことで、物語を持ったキャラクターを産み出すことができる。
…だが何か違う。
このとき感じたのが、ノンフィクションで撮っていた自分の写真である。
「写真はたしかに〝リアル〟は伝えられるものの、この写真を撮ったときのファインダーから見えていた本当の心の情景とは違う」
同じ感覚だった。

作者の「情景」ではなく、写真と同じで、このやり方ではリアルな「形」に収まってしまっている。
写真を撮っていたとき、「マンガのような心の情景を写せないか…」と考えていたことを思い出した。

マンガの中でぼくは作者の情景の世界にいつも引き込まされていたことを思い出した。

マンガというのは、生きているキャラクターを産み出す創作である。
キャラクターは生きた人間なわけだから、そこには物語がある。
その物語はキャラクターだけの物語である。
データでは創れない。

そしてその物語は、作家の物語でもある。
自分の生きてきた経験から自分だけの物語があって、そこから創作が生まれるわけだから、それは作家の生きてきた物語でもある。

ある意味、キャラクターと一体になり、マンガの中のキャラクターの情景は描かれている。
作家としてとてつもなく「うらやましい」表現である。

この「孤高の人」を描いた坂本眞一は仕事もいっしょにやってきた友人だが、当時ヤングジャンプが発売され、「孤高の人」のページをめくるごとに感動し、うらやましく、また悔しかった。

ちばてつや先生に見せると、「命を削って描いてるね」と感嘆の言葉だ。
まさに「命を賭けて」描いているからこそ、そこには「生命」を感じる作品が生まれてきている。

これはマンガだけではなく、音楽にしても、映画にしても、すべての創作は、自分の内側にある吐き出したいが、それが漠然としていて形で見えていない感情がある。
それを表現したくて苦しみ、悶え、発狂すらしそうになる。
なかなか表現できない、自分の内から沸いてきた感情と情景。

この表現は、まさに人間にしかできない、データにはできない「生命」の表現ではないだろうか。

●自分の沸き上がる情景をAIで探す

自分の中の沸き上がる、形の見えない強烈な情景。
それをどう表現したらいいのか。

自分にとって今も強烈に、そして鮮明に残っている感情がある。

1983年からの3年間、ひとりのボクサーを追いかけ、そのボクサーが世界チャンピオンとなっていく日々。
元WBC世界jウエルター級チャンピオン浜田剛史との日々である。

浜田剛史が世界チャンピオンになった当時、雑誌、グラビア、著作としての単行本も出し、自分の感情をぶつけるようにいろいろな場所で書かせてもらった。
今、読み返してもそのときの感情が蘇ってくる、それほどまでに自分の人生においてもこれ以上の激越な昂揚感はない。、

写真も7万枚以上撮ってきている。
40年前、「心で見えている情景」を写真では表現できなかった思い。
そのことを思い出した。

「今ならできるかもしれない」

自分の中でずっと強烈に残っている感情を、自分の撮ってきたファインダーから見えていた情景の感覚をAIを使って心の中から引きずり出すことができないか。
そう考え、2025年の12月より「心で見えている情景」の創作に入った。

●AIに自分の心を可視化できるのか

まず、原稿を書くことからはじめた。
浜田剛史のことを書いたすべての文章、記事、グラビア、マンガを読み返し、撮ってきた写真も見返していった。

当時、こんなに熱い文章を書いていたのかと、過去の自分に感心させられる。

浜田剛史がタイトルを取ったとき、小学館のGOROという人気の雑誌で、タイトルを取ったら掲載すると担当のM編集と約束していたこともあり、すぐに創作に入り、原稿に興奮のまま感情の言葉を叩きつけた。

FAXで原稿を送ってすぐ、M編集が電話をかけてきた。
「凄いよ!」
感動からの泣きながらの電話だった。

自分のそのときの言葉から感情の情景がストレートに伝わった喜び。
今、読み返しても「情景」が見えてくる文章だ。

よし、まずあのときと同じ、自分の中で今もある「感情の情景」をぶつけるように、まず文章で書いてみる。
そこから始めた。

文章を3ヶ月ほどで書き終えると、作家になってずっと拘りながらも形にできなかった、「ファインダーから見えていた情景」探しの旅が始まった。

写真がある。
その写真があのとき自分にはどう見えていたのか。
「情景」というやつは、腹の底から吐き出したくてたまらない沸々とした感情なのに、情報ではあっても、具体的に「こう見えていた」という情景ではない。
まずは、それがどう見えていたのかの解像度を上げていくための旅に、今回AIが使えるのではないかと考えたのである。

●自分の原稿をプロンプトとして使う
感情を持って書いた原稿の言葉を、その場面で撮った写真とともにAIに読み込ませる。
プロンプトは、自分の書いた原稿の言葉である。

プロンプト1
【/pro世界チャンピオンになると決めたこと。決めたことが、浜田にとって夢だということだ。なりたいではなく、“必ずなる”という夢。
その気持ちだけで生きてきた男である。「命がけの気持ちでした。この日のためにボクシングをやってきたわけですから、これが最後、この試合で身体が終わりになっても、今、闘えればそれでいい」
「15年間、この日のためだけにやってきたわけですから」
リングの最後の階段を上り終え、浜田剛史はそこに立っていた。
この思いを伝える】

元の写真

AIがこの場面で最初に生成してきた写真だが…これではない。
自分に見えている情景として下のプロンプトを加えてみる。

プロンプト2
【もっと決意が体中から燃え上がるように発散している情景】

いやいや、「こういった燃え上がるとはぜんぜん違う」とAIにと告げ、漠然とした中で自分の思いを次々とAIにとにかく伝えていく。

何度も何度も繰り返してAIに伝える。
この場面の場合、50以上は、漠然とした自分の情景をプロンプトで伝えている。
こうやっていくつものイメージを出していくと、「おっ!」と、漠然としていたイメージが、自分のイメージに近いものが出てきたときに、その情景の形が見え初めてくる。
この場面の場合、最後の画像のイメージから、具体的に情景が見え始めてきた。

ここから細かい修正を指示し、最後は自分でPhotoshopで細かくカスタマイズして、自分の心の中にあった、ファインダーから見えていた情景を絞り出すことができた。

今回の試みの最初のあたりの情景を形にするのには、実は100以上の生成を繰り返している。
自分の心の中の情景とは、感情で見えているものの、その見えている形が、色が見えきっていない。
雲を掴むような感覚の中で、とにかく自分の感情で書いた言葉から、あのファインダーから見えていた情景を求めて、違う!違う!違う!と、情景との出会いを探りつづけた。

それを繰り返して行くうちに、AIも学習しはじめ、自分が探していた情景が自分でも感じ始めると、AIも同じように求めているのを捉えはじめ、速い段階で自分の情景の方向が定まるようになっていく。

今まで写真というリアルの中で、シャッターを切ったときの心で見えていた情景を可視化しようとしても、「ぼんやり」とした情景からなかなか抜け出せなかった。
だが、今回、AIによって、まず今までならば不可能だった莫大な数の可視化した表現の選択肢をAIによって示すことができた。

こうして創作したのが「【あしたのジョー】たちへの逐日 天才を教えてくれた男  WBC世界Jウエルター級チャンピオン浜田剛史」である。

「AI時代」は「経験の時代」と言われている。
AIロボットによって、AIに経験させ学習させるという意味もあるが、人間ひとりひとりの経験はAIにはない、自分だけの「生きてきた」唯一無二の物語となっていく。

アインシュタインの言葉がある。
「経験こそがすべて、学びは経験である。それ以外は情報でしかない」
つまり、いくら情報を詰め込んでも、実際の経験(体験)が伴わなければそれは単なるデータに過ぎないということだ。

その経験の中で人間は「心を生み出す」。
作品というものは、その生み出した「心を創る」表現だと思っている。
その「心を創る」において、AIという相棒によって、創作の可能性が広がったと思っている。

                      田中誠一.