三世に生きる

最近、AIの授業や講演、研究会に呼ばれることが多くなったのだが、AIの使い方などの話をしているわけではない。
AI時代においての「人間」のあり方といった、時代の流れの中での「人間とは何か?」の話をさせてもらっている。

今の自分にとってAIは日常、研究、自分の作品制作と、無くてはならないものだ。
自分自身が時代の中でどんどん変化していることでもあるのだが、AIによって「人間とは何か?」がどんどん膨張し考えるようになった。

先月のこの場所で「武術」と「禅」から見えるAIについて書いたが、AIを使うことで自分自身や、大學での学生を見ることによってまさに「人間とは何か?」が見えてくる。

仏教には「三世に生きる」という言葉がある。
三世というのは「過去」「現在」「未来」のことである。
今を生きているとき過去はすでに死に、その今もたちまち過去となってしまう。
そして未来はすぐに今となる。
当たり前のことであるが、生まれては死に、死んでは生まれるというその繰り返しが「生きる」ということになる。

死んだ過去ではなく、まだ来ない未来のことではなく、「今」をどう生きるか。

過去にいつまでもこだわり、そのまま、今の生き方に対する自信を失っている。
そしてまだ来ていない未来に不安ばかり抱く。

人間は、過去と未来に縛られている生き方をしている。
「今をどう生きるか」という、一番重要なことを置き去りにして日々を送っている人の何と多いことか。

AIにこんな質問をしてみた。
「人間は生きてきた過去から「今」を感じ、さらにその先の未来を想像して、期待したり不安になったり、計画したりするのだけど、AIはそれをどう捉える?」
AIの答え
「私はね、過去の情報から今の応答を計算しているだけで、未来を実際に体験したり、望んだりはしない。人間は過去を記憶して今を感じて、さらにその先の未来を想像して、期待したり不安になったり、計画したりする」
「私は生きる重みを実感はできないけど、人間は未来を「予測」するだけじゃなくて、今の選択で未来を「変えていける」存在とも言えるんじゃないかな」

「私はね、過去の情報から今の応答を計算しているだけ」というこの答えは実にわかりやすい。
AIの言う過去の情報とはデータであり、AIの「知識」は経験からではなく、すべて「データ」からの発言ということを、ちゃんと答えてくれている。
そして、「私は生きる重みを実感はできないけど…」と、AIと人間の隔心をAIが示してきた。

そう、この「重み」とは、自分がどう生きてきたかから生まれてくるものである。
その「重み」を持って自分のやるべきことに挑む。

たとえば、ボクサーや格闘家が試合に挑むとき、「死」を覚悟して取り組み、試合に挑む姿をいくつも取材させてもらってきた。
登山家が無酸素で8000メートル級の山に挑むとき、作家がものを書くための取材で「死」を覚悟する場所に出向くこともある。
実際、ぼくも2度、海外の取材で銃口を真正面から向けられたことがある。
「死」を覚悟してもやり遂げたい生き方。

この重みは自分だけのものであり、人間の自分しか表現できない「生を感じる」生命力の重みではないだろうか。

まだまだこの気持ちをうまく表現できないが、「AIから見えてきている人間の心」が、自分にとって「今」を生きるための、研究であり、創作となっている。
そしてそれは、AI時代だからこそ見えて来たものであり、AI時代だからこそ新しい表現が生まれてくる「今」だと感じている。

今回の「旅の空」は武術への旅の始まった琉球唐手の旅2

旅の空XXVII オキナワの風 琉球唐手の旅2

沖縄で琉球武術がなぜ生まれたのか。
1609年、薩摩藩が琉球に侵攻(実質には侵略)。
琉球に反乱を起こさせないためにすべての武器を取り上げる「禁武令」をひき
琉球を支配。
やりたい放題の薩摩藩に対して、家族を守るために農機具を武器に、そして拳を凶器にすべく琉球武術は生まれている。

 

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