ジェネレティブAIを使う上で、「AIと共に考える」ではなく、「AIに作らせる」と大半の人たちは考えているようだ。
だからだろう、プロンプトで指令し、ほぼ丸投げ状態で出来てきた作品は表現者の作品ではないと決めつけている。
つまり、AIによって「創造の過程においての考える力」が衰えていくと思っている。
ぼくの今いる大学を含め、研究・教育機関の大半がそういったことからAIは禁止にしているところが多いのだが、それはあまりにAIをわかっていないとぼくには見えている。
インターネットがすべてのモノとつながり、IoTは今では当たり前にだれもがつかっているのだが、そのIoTにAIもつながり、AIoTの時代に今はなっている。
つまり、AIが今やインフラとなっている時代に入っている。
IoTがすべての「モノ」がインターネットと繋がっているのなら、AIoTはすべての「コト」にAIはつながっていく。
そのAIをどう使っていくかを考えていかなければならない時代に、AI禁止というのは、
ぼくから言わせてもらえば、逆にAI禁止は今の時代においての、あらゆる生き方からの考え方を衰退させることになると思っている。
自分が目的とする「コト」に対して、〝共に考え、創り出す存在〟がAIだということを、まずAI禁止を口にする大半の人たちは認識し、アップデートしてもらいたい。
ぼくはもう50年以上、作品を創造することで生きてきている。
作品というのは、昔も今も、作るのではなく、「生み出す」ものだとぼくは思っている。
たとえば、ぼくの「写真」の創作を例に挙げてみる。
ぼくにはスポーツを題材にした創作がいくつもある。
どの作品も自分が夢中になった選手を徹底的に取材した中から産まれている。
その選手のことが知りたく、追いかけ、いつもそのスポーツ選手の夢に、いつしか自分もいっしょになって追いかけ創造していった。
マンガもノンフィクションも、イラストも写真も、自分のそういった思いの中で生み出してきた。
写真の場合、その思いを、その瞬間を逃すまいとシャッターを切る。
ぼくの場合、自分の頭に描いた瞬間を形にしたいと、たとえばスローシャッターで動きを表現してきた。
フラッシュの1000分の1秒で人物を捉え、背景は30分の1以下のシャッタースピードで捉えることで、激しい動きの一瞬を表現することができる。
もちろん、プロとしてそのためのデータを積み重ねて自分の写真を創り上げてきた。
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カラーの場合、これがもっと難しくなる。
たとえば空の青さだ。
きっとだれにでも、デジタルで撮った写真においても経験あると思うが、自分の見えていた空の青と、撮った写真の空の青が何か違うと感じたことがあると思う。
ぼくはフイルム時代、自分の感じる色を求めて、いろいろなフイルムを試し、露出、シャッタースピードのデータをとり続け、コダックのEPPというフイルムにたどり着く。
試行錯誤の末、妥協できる範囲の自分の感じたイメージに近い写真が撮れるようになっていった。
1990年代後半になると、デジタルの波が押し寄せてくる。
そこで出会ったのがPhotoshopだった。
撮った写真を、Photoshopによって、自分の見えていた、感じていた写真に近づいていく。
ぼくが見ていた空の青を創ることができるようになったのだ。
それが、ぼくがデジタルにのめり込んでいくきっかけになった。
実はデジタルをやりはじめ、目に見え感じたものだけでなく、自分の心で感じていたその感情も含め表現できないかと今までにいろいろ作品の中で試行錯誤をためしてきている。
だが、しっくりくる自分の感じた表現が形にできない。
そこにジェネレティブAIが登場した。
自分の感情がで見えてる表現を形にできないか、今年に入り、すさまじい勢いで進化していくいくつかのAIを使い実験を繰り返した。
AIに写真を読み込み、プロンプトでその写真を撮ったときの、自分の心で感じた世界感をAIに投げかける。
もちろんAIがすぐに求める表現など示してはくれない。
違う!違う!とプロンプトを書き換えながら試していく。
それに対してAIはあらゆる方向から、いろいろと示してくる。
その繰り返しの中で、「こう来たか!」と、自分の見えてなかった視野も広がっていく。
その繰り返しで、AIがいくつか示した中に、「このイメージ」という表現が見えてくる。
そこから、AIも方向性が見えたことから、どんどん自分のイメージに近づき、自分の中でも明確にあのときの感じた表現がやりとりの中で形になっていく。
やりとりのイメージは何十、ときには百を超えていく。
ひとつひとつが数分で形にできるAIでなければたどり着けない繰り返しの場所である。
自分がなっとくする形ができたところで、今度は仕上げのカスタマイズをPhotoshopで行う。
ぼくがあのとき見えていた感情も表現できた写真がここに生まれる。
ぼくは今、AIを道具だとは思っていない。
〝相棒〟だと思っている。
〝共に考え、創り出す存在〟
AIは自分ひとりではたどり着けなかった〝自分の中の表現〟を引き出してくれている。
AIを知ることで、人間を知ることができる。
ここに載せている表現は、ぼくが夢中になり、のめり込み、夢を追いかけた「経験」がなければこの表現は、作品は生まれてこない。
AIを畏れ禁止するのではなく、AIを知ることで人間を知る。
今からのAI時代の研究・教育において、そのスタンスが生きていく上で、一番重要なことではないだろうか。
今回も「旅の空」の動画を創った。
80年代、90年代に追い続けたボクサーの思い出の1分間。
【旅の空XXIV 浜田剛史の日々 episode 02】
天才とは、一撃で相手を倒す鉛のような、剃刀のようなパンチがあるからというのではない。
人の何倍も鍛え、1年365日間そのためだけに生きることのできる力。
その先に鉛のような、剃刀のようなパンチは生まれる。
それが天才だと浜田剛史は教えてくれた。









