「才能」とは何かを考える

AIによって「才能」という概念が変わってきている。
いや、人間にとって「才能」という一番大事な能力をAIが思い出させてくれているのかも知れない。

「いい絵を描く」「いい音楽を作る」「いい物語を作る」などの「いい」とは、今までは「才能がある」と称されてきた。
だが、ジェネレティブAIは、いい絵も描くし、いい音楽も作るし、いい物語だって作ってしまう。

ジェネレティブAIは、ディープラーニングという、人間の脳を再現する研究からできている。
ジェネレティブAIは、何億という莫大なデータを学習に使用し、写真や絵、人が書いた文章を人間が普段脳内にインプットしているものと本質的に同じということだ。

つまり、形にはまった「いいもの」はAIの方が優れているということになる。
「形」を「答え」にかえてみればもっとわかりやすい。

人間には「想像力」というものがある。
人間が新しいものを生み出すとき、「こういったものがあれば便利だ、面白い」と、想像し、それを形にしたいと「答え」を探して研究する。
そう、人間は「答え」のない場所から、新しい「何か」を生み出す力がある。

AIも人間の想像から生まれてきている。

そして便利になったAIで絵を生成すると、数分で見事な絵を生み出してくる。
これを今、「才能」とはほとんどの人が思っていないと思う。
プロンプトによって絵を描くということにまだ思考が追いついていないからだ。
数分で、それもテキストで絵が生まれてくる、その便利さはだれにでもできると思っているからだ。

「写真」を例に挙げてみよう。
目の前のものを一瞬にして、シャッターを押せば即座に完成が生まれる。
だれでもシャッターを押せば、形にできる便利な道具である。

では、その「形」は、だれもが同じかと言えば、そんなわけがない。
そのシャッターを押した人間は、まず、その風景の中で、その空気感の中で、自分しか取れない一瞬を形にしている。
もちろんテクニックもある。
「いい写真」を見たら、まずだれもが「才能」を感じると思う。

「才能」とは、「形」や「答え」ではない。
その人が、その人間だけが生み出せる「一瞬」ではないだろうか。
その「一瞬」には、その人間の生きてきた「道」がある。
経験がある。
人生がある。
だから、写真にしろ、絵にしろ、文章にしろ、自分の生きた、その中から生まれてくる。

教本で習ったような、「答え」のような絵ではなく、自分の生きてきた中から生み出す、自分しか描くことのできない絵が「いい絵」ということになり、それが「才能」だとぼくは今、感じている。

ではジェネレティブAIから生み出す絵は、いい絵を生み出せないかというとそれは違う。
ジェネレティブAIをペンのように道具としてどう使うかだ。

ジェネレティブAIは「道具」として、自分の才能を生み出す最高の道具となり、今から、いろいろなアーチストがAIを道具として使った「いい絵」が生み出されてくるはずだ。

音楽でシンセサイザーが生まれたとき、それを「音楽」と認めない人もたくさんいたが、今は、どんな楽曲においてもシンセサイザーは使われるし、「テクノミュージック」という新しい分野も生み出している。
今で言えば、「ボカロ」によって、日本の音楽は新しい「才能」として世界中から注目を集めている。

音を生成したり、言葉を生成したり、絵を生成するテクノロジーは、つまりは「道具」でしかなく、「才能」とは、、その人間しか生み出せない表現を形にできる、生きてきた経験の中から「想像」する力を持ったもの。

人間本来の「才能」を、「今」AIが思い出させてくれている。

 

今回も「旅の空 XIV」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間。

【旅の空 XIV kenngo fukuda】

彼とは、彼が愛媛から東京に出てきた日に出会った。
三迫ジムで、会長に輪島功一選手の話を聞いていたときだった。

初めてジムワークを見たとき、このボクサーは「強い」のひと言しかなかった。
彼はボクが彼のことを書いた書籍で使った一説
「強いものが勝つのではない。勝ったものが強いんだ」
その言葉が気に入り、インタビューでよく使っていた。
だが強い彼は、勝ち続けることができなかった。

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