無情自爆(むじょうじばく)

「無情自爆(むじょうじばく)」という禅語がある。
自分を縛っているものなど存在しない。自分を縛っているのは、ただ自らの思い込みに過ぎないという言葉だ。

大学で学生の悩みを聞いていると、「あぁ、自分も同じ年齢のころは自分の思い込みで自分を縛ってもがいていたな」と苦笑いをしてしまう。

よく悩みの相談を受けるのが、「○○さんはあんなに凄い作品が作れるのに、自分はダメだ」とか、「○○くんのようになるにはどうしたらいいのですか?」など、必ずだれかと比較しての悩みだ。
そんなときぼくは、「ここは大学なのだから、物差しを捨てようよ」と答えている。

大学は研究機関である。
答えがないから、答えを求めるのが「研究」のはずである。
高校までは「答え」があり、その「正解」を出したものが、先生に褒められる。
物差しので測られ、目盛りが高いか低いかで、出来る子、出来ない子と分けられる。

だが大学に入れば、本来は「研究」という、自分で答えを探し、見つける場所なはずである。
大学で20年近くいるが、ほとんどの学生は、いや、大学の先生にしても「物差し」を持って生きている。

たしかに教える側にとっては「物差し」を持てば楽である。
物差しの目盛りに沿って、答えを示し、出来る子、出来ない子に分ければいいからだ。

だが、何かを生み出すというのは、その物差しを疑い、そこから始まるのが、つまり研究である。
たとえばマンガにしても、手塚先生はそれまでのマンガになかった表現を次々と生み出し、紙の上でキャラクターたちが動き回る、マンガの形を生み出してきた。
物差しに囚われない、新しいマンガが生まれ、あの時代のマンガ家の先生たちは、あらゆる新しい表現を研究し、マンガの面白さを次々に生み出してきた。
それが世界に誇る日本のマンガとなったはずだ。

だが新たに生み出されたものは、「答え」となり、その「答え」が「物差し」になっていく。
物差しを「常識」という言葉に置き換えてもいい。
「常識」はまさに物差しと同じで、水戸黄門の印籠のようなものだ。

「マンガはこうしなければならない」
「イラストはこういうものだ」
「表現とはこうあるべきだ」
と、常識を掲げて、その答えの中に押し込めていく。
そうなると実につまらない。

研究機関である大学も、今はそんな「常識」の中で答えを求める場所になってきている。

「これで楽しいのだろうか」
「これが自由なのだろうか」
大学に来てずっとモヤモヤしている。
だから、大学では、教えるのではなく、物差しを持たないでマンガの可能性を学生と研究し、コンテンツを創ってきている。
【研究 Research】

こうやってここで好きに書いているが、実は書くことでまた、答えを探している。
ぼくはつねに「自由になりたい」と行動している。
それは「しあわせ」を探していることでもある。
でも、「しあわせ」は「心」が生み出すものだと思う。
ならば、「心」を自由にするにはどうしたらいいかと考える。

「心」を縛る大きな要因のひとつが、人と比べていることだ。
自分の年収は平均か、平均以下か。
自分の家は大きいか、小さいか、車を持っているか、持っていないか、あいつは自分より美人の恋人がいるとか…
それで「しあわせ」を測るなど、思い込みでしかないではないか。

まずは物差しを捨てよう。
それがぼくのひとつの答えである。

今回も「旅の空 XIII」の動画を創った。
20代に撮りつづけたボクサーの思い出の中の1分間

【旅の空 XIII Iizumi Kenzie】

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