人は経験によって物語を紡ぐ

2024年がまもなく終わる。
あっという間の一年だった。
歳を重ねると。「ジャネーの法則」によって、一年が年齢とともにどんどん早くなっていくと感じてしまう。
それは「経験」を重ねることで、ひとつひとつが新しい発見ではなくなり、記憶に残る時間の刻みが年齢とともに少なくなっていき、過ぎ去るように時間を感じてしまうということだ。

そんな年齢とともに刻まれる経験が少なくなった2024年を振り返ったとき、自分にとっての新しい経験は何だったのかと考えると、この場所でも何度も取り上げてきた「AI」を考える一年だったように思う。

AIがエクスポネンシャルに次々と新しいものを生み出すことに驚き、自分の研究にAIをどう利用するか、さまざまなAI研究家と議論してきた一年でもあった。

それと同時に、AIを研究すればするほど、「人間とは何か?」という疑問に直面する。

これは研究家も含めてだが、「AI」が生み出すものを「目的」と捉えて、「すべてを与えてもらえる」「これがあれば人生バラ色」や、逆に「忌避」や「畏怖」を感じてしまっている人たちが実に多いと感じている。

だが、人間が生み出したAIはあくまで「道具」である。
「人間とは何か?」と考えたとき、人間が生み出す形あるものは、人間にとって「目的」を達成するための道具としての「手段」でしかないのではないか。

突き詰めた「目的」とは、つまりは「しあわせ」になることである。
その「しあわせ」は、当たり前だが、人によってまったく違う。
そのしあわせになるための「手段」としての道具のひとつが「AI」という道具。

たとえば「AI」を「お金」にたとえてみれば、少しは言っていることを理解してもらえるかもしれない。
「お金」は、人間が「しあわせ」になるための便利なやりとりするために生まれた「手段」としての、道具のはずである。
だが、「お金」が目的となってしまった人間が、お金が存在した瞬間から湧き出てくるのも人間なのかもしれない。
「手段」が「目的」となったとき、それは「しあわせ」ではなく「欲望」となってしまう。
つまり「目的」が「欲望」ということになってしまう。

AIにも同じだと感じている。
AIはあくまで、人間がしあわせになるための「道具」としての「手段」のはずなのだが…その道具をどう使えばいいか、何に使うのがしあわせか想像力がないことで、それがお金と同じで、それを持てばしあわせになれると思い込んでいるのかもしれない。

話を元に戻すが、個ではなく、総のデータによるAIと対比して、「人間とは何か?」と考えたとき、人間はひとりひとりはデータではなく生きてきた経験による「物語」を持っている。
つまり、生まれて、いくつもの「経験」を積んで「今」があるということだ。

今年の夏、母が亡くなったとき、母の生きてきた「物語」を考えた。
そのとき感じたのは、自分にとっての母の物語は、自分が経験してきた母との物語だということだ。

つまり、「物語」とは、人間が生きているということは、「経験」の積み重ねが生きているということではないか。

そう考えたとき、自分の経験を掘り起こしてみようと考えた2024年でもあった。

幸運なことに、作家として、マンガ家として、フォトグラファーとして、ミュージシャンとしてなど生きてきたことで、自分の「経験」を表現する形あるものが自分の物語の中に残っている。

中でも自分にとって、ボクサーたちとの出会いは、自分が生きてきた、「経験」してきた、自分にしか表現することのできない大事な生きてきた「命の時間」が間違いなくある。

そんなことを新しい発見として考えてきた、2024年は、時間のあるときに何千、いや、何万枚の倉庫の奥に保管していたフイルムを取りだし、一枚一枚を見返しながら、フイルムスキャンでデータ化していっている。

今、日本至上、いや、世界の歴代ボクサーとして間違いなく伝説となる井上尚弥のジムの会長でもある大橋秀行。
150年にひとりと言われた天才ボクサーとして、ボクシング界に現れた大橋が世界チャンピオンになるまでを追いかけた日々。
天才を演じるため、努力を見せない努力家だった大橋。
大きな挫折が、あの世界を手にしたときの叫びとなった大橋。

そんなボクサーを見てきた経験による「命の時間」を2024年の最後の日記で紡ぐんでみた。

【旅の空Ⅸ Ohhashi】

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