フィルムを整理している。
一万本近いポジフイルム、白黒フイルム、ネガフイルムが倉庫部屋に眠っている。
フイルムで撮っていたのは、2004年までだ。
デジタルカメラがフイルムカメラの出荷台数を抜いたのが2002年だから、当時はフイルムカメラに拘って写真を撮っていたということだ。
いや、長くフイルムカメラで撮ってきた、そのデータと経験が無駄になりそうで、デジタルでなく、フイルムにしがみついていたのかもしれない。
だがわかっていた。
2004年にはもう、Power Macを持っていて、Photoshopを使い始めていた。
写真というものは、撮ったあと、現像されて見てみると、もっと空は青かったはずとか、この赤はざらつきがあったなど、自分の心に残っている色とのズレがある。
だから自分に合ったフイルムを探し、シャッタースピード、露出など細かくデータを取り、自分の写真というもの、何年もかけて創り上げていた。
だが、デジタルで撮った写真は、Photoshopで、自分が心で感じた色、雰囲気、空気感まで調整することができた。
考えてみれば、デジタルにのめり込んだのはこのことがきっかけだと思う。
2006年には、機材など自由に使わせてもらっていた、当時契約していたミノルタカメラがカメラ業界から撤退し、TXやEPPなど、自分が使い続け、データを創り上げてきたフイルムのメーカー世界最大手のコダックが2012年に倒産してしまった。
写真界がデジタル化になってから、あっという間にフイルムは過去のものとなってしまったのだ。
話をフイルム整理に戻そう。
フイルムというのは年々間違いなく痛んでいく。
だから、時間のあるときに、全部はさすがに無理なので選び、フイルムスキャンでデータ化していっている。
とくにボクサーたちのフイルムは、ボクシングが大好きで、80年代、90年代は毎日がジム、後楽園ホールを中心に写真を撮り、取材し、マンガ、イラスト、ノンフィクションを雑誌、書籍と数多く書いていた。
そのころの写真を整理しながら何度も手が止まる。
いい写真がとにかく多い。
たとえば試合の写真にしても、フイルムカメラはフイルム1本が36枚。
ぼくはボクシングの試合は、だいたい2台のカメラで、各カメラ、1R1本のフイルムで撮っていた。
1分のインターバルでフイルムを巻き戻し、新しいフイルムを入れる。
だが、ただ1分を36回に分けてシャッターを切るのではない。
試合を読まなければならないのだ。
浜田剛史は3分9秒KO勝ちを3度行っている。
KOしたのが2分59秒だから、試合を読んでいないと、KOシーンのフイルムが1~2枚しか残ってない状態でシャッターを切ることになる。
KOシーンは最低12枚以上なければ、そのシーンを伝えることができない。
だから試合を読む。
今までの試合、ジムでの練習を見ることでボクサーのデータを身につけ、頭の中でシユミレーションを繰り返し、試合にはボクサーのように臨む。
世界戦など、国歌が流れる中、リングのボクサーと同じように目を閉じ集中力を高める。
そうやって撮ってきている。
永遠に近く、連写が続けられるデジタルカメラなのに、最大たった36回しかシャッターが切れないフイルムカメラの方が、その一瞬が捉え切れている。
集中力。
余裕のある集中力と、余裕のない集中力がこれほどまでに違うことが見えてくる。
このことは、AI時代に入り、「人間とは何か」を考える上で、自分の経験を基にAIを研究するにおいて大きなヒントにひとつになるのではと思っている。
人間の持つ思考力とともに、データでは表現できない、集中力から生まれる「感情」では収まらない何か…
研究の価値がありそうだ。
今回の動画「旅の空Ⅵ」は、1985年始めてアメリカへ行き、ロスのメインストリートジムから始まり、ラスベガスで伝説となった試合、シーザースパレスでのハグラーVSハーンズを練習から見つめた日々。
また、当時一番好きだったボクサー、ロベルト・デュランがシュガーレイと闘ったときの写真と、アメリカの拳の旅を形にしてみた。
倉庫の中のフイルムにはまだまだぼくの旅が眠っている。
【旅の空Ⅵ アメリカの拳、そしてフイルムに残された旅の彷徨】