月9ドラマ「ミステリと言う勿れ」久能整の哲学的言葉が面白い

月9ドラマ「ミステリと言う勿れ」が面白い。
菅田将暉演じる主人公、久能整が持論を語る言葉に引き込まれる。

久能整の周り、そして視聴者は、つまりは常識人で、久能整は言ってみれば、常識にとらわれないで自分の考えを語っている。
それは答えではないのだが、常識を鵜呑みにするのではなく、「なぜ?」かは始まる考えた言葉がそこにある。

ぼくの周りもほとんどがそうなのだが、常識というやつは、みんなそれが答えだと思っている。
そもそも常識というものは、時代や、社会、国や宗教、政治などなどそれぞれの形の中で存在するわけだから、立場の違いで、「正」と「誤」はまったく違うものになってしまうもののはずである。

だから常識を疑う。
久能整の言葉はそこから生まれた言葉だから面白い。

そうやって考えると久能整の言葉はつまりは「哲学」である。

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では哲学とは何ぞや?
ソクラテスは哲学とは「人生をよくいきるために知を愛す」と言っている。
その言葉について古代ギリシャ語で「フィロソフィア」といい、日本では明治時代に西周によって「哲学」と日本語に訳されたものだ。
つまりは、哲学とは「人生においての知」を考えることである。

たとえば日本のことわざで、「出る杭は打たれる」というのがある。
何か、いかにも日本人的で嫌なことわざだが、このことわざを聞くたびに、モヤモヤしたものがある。
きっとこれを答えだと思っている常識人は、「まさにそうだな」で終わるのかもしれないが、ぼくにはすごく中途半端な言葉だと感じてしまう。

「じゃぁ、出ない杭はどうなるんだ?」と、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と問い詰めたくなる。
そして考えたとき、自分の中での答えが生まれてくる。

「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」

常識だからではなく、自分が納得する答えにモヤモヤが消える。

そう考えていくと、身のまわりに常識と言われるものでモヤモヤした言葉がたくさんあることに気づく。

学校で「君はここが不特異だから、ここを勉強しなさい」と言うが、不特異なことは、つまり自分が好きではなく夢中になれないことである。
特異なことは、いつまででもやっていられる大好きなことだから自然と特異となっている。
なのに、才能を伸ばすために特異なことを「もっとがんばれ!」ではなく、不特異なことををやらせて、抜きんでた才能を育てるではなく、平均的な人間をつくっていく。
まさに、「出る杭は打たれる。出ない杭は腐る」といった平均的な人間をつくることを「よし」とするわけだ。

「寝る間を惜しんでがんばれ!」も同じでモヤモヤである。
好きなことをやれば、「寝る間を惜しんで」ではなく、「寝る間を忘れて」でなければおかしい。
まわりの人とは違う抜きんでた才能は、まず夢中になれるほど好きでなければできるものではない。
「寝る間を惜しんで」は、好き、嫌い関係なく、やらなければならないからがんばるということだ。
才能は使命感ではなく、好きだからがんばるものだと思っている。

「寝る間を忘れて夢中になる」
だからだれよりもその才能が伸びていく。

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こうやって周りを見渡し考えれば、モヤモヤすることだらけだ。
だから考える。
森羅万象答えなど存在しないのだから、「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と考えて、自分が納得できる答えを探す。

常識人から見ると、「ミステリと言う勿れ」の久能整のような人間は、「めんどくさい」と映るのだろうが、久能整のように「哲学」を持った生き方は間違いなくおもしろい。

 

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