テレビから「枯れた技術の水平思考」という言葉が流れてきた。
落合陽一が自分の番組でその言葉を言っている。
「枯れた技術の水平思考」というのは、任天堂で『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』等の開発に携わった、「携帯ゲームの父」と言われる横井軍平氏の言葉である。
その「枯れた技術」というのは、最前線ではなく、すでに広く使用されてメリット・デメリットが明らかになることで、何度も試行錯誤を繰り返すことによって熟した技術ということだ。
「水平思考」というのは、既存の技術を既存の商品とは異なる使い方をするということで、「枯れた技術の水平思考」とは、熟した技術を持ってまったく新しい発想でコンテンツを生み出していくということになる。
ぼくが30代のころの名言なわけだから、四半世紀前のその言葉が耳に入ってきたとき、「あっ!」と、気づきを感じた。
よく言う、「下りてくる」という感覚だ。
この数年、自分がやろうとしていることをうまく伝えられないモヤモヤ。
そのモヤモヤが、「枯れた技術の水平思考」という言葉で「そうか!」と見えてきた。
今、DXにおいて、マンガという発想を持って、XRやメタバースなどと組み合わせることで、観光、福祉、教育などあらゆる分野でコミュニケーションツールを生み出すことができると、つまり「水平思考」の考えを持って取り組んでいる。
マンガとテクノロジーの話をすると、まず最新のテクノロジーにだれもが目を向ける。
マンガはあくまで新しいテクノロジーを生かすためのコミュニケーションツールでしかない。
だがそれは違う。
日本人にとってマンガは特別のものなのだ。
つまり日本人にとってマンガはまさに「枯れた技術」なのだ。
戦後、ディズニーのようなアニメを創りたかった手塚治虫先生だが、貧乏だった日本にはそんな制作予算を出してくれるところなどない。
そこで、わら半紙のような安い紙に、黒の墨汁で、紙の上でキャラクターが動き回る、日本独自のマンガが手塚先生によって生まれていく。
そしてちばてつや先生、石ノ森章太郎先生、さいとうたかを先生…今のマンガに至るあらゆるマンガ家の先生が、紙の上で躍動する表現を研究し、実験し、日本マンガ独自の表現を生み出していった。
マンガは戦後の日本から生まれた中で、世界に誇る最大のコンテンツであることは間違いない。
そのマンガとともに、日本人は子供のころから、当たり前のように育ってきているのだ。
勉強したわけではなく、日本人は熟したマンガ環境の中で、だれもが生きたキャラクターと出会い、生き様の中で影響を受けたマンガのキャラクターを感じている。
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ぼくたちの生きてきた環境…マンガは日本人のだれもが持っている「枯れた技術」として心に持っている。
紙に描いたキャラクターに生命を宿らすことのできる「枯れた技術」だ。
そう考えていくと、「枯れた技術」とは、人間が生きていく中でトライ&エラーを繰り返し、特別のものではなく、自然に存在するモノとなっていくことではないだろうか?
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あぁ、こうやって今年最後の日記を書いているうちに、来年に向けてのテーマがまたひとつ見えてきている。
特別な存在としての人間ではなく、自然の一部としての人間として「水平思考」を持って考える。
そう、2022年はより哲学に生きていく。