しあわせとは

2019-11-29

前回のというか、一月前のブログで「目の回るような忙しさが日々つづいている」と書いたのだが、間違いなく忙しさが加速している。

日本と中国の行ったり来たりの日々には慣れてきたのだが、両方の大学で新たなカリキュラムの形を、また学部、コースなどなど立ち上げようとしているもので、通常の仕事、講義、授業に加えて、会議、会議がとにかく機関銃のように連射で跳んできている。

会議の途中で、「次の会議があるもので」と、分単位のスケジュールで大学の中、大学の外ととにかく飛び回っている。
研究室に戻っても、日本の大学にいない間の講義、授業は休講にしないと決めてるもので、学生たちにやるべきこと、参考レポートと制作しなければならない。
やるべきこと、考えるべきこと、自分の考えなどを書き、画像を添えて作っているのだが、「もうこれは、教師なしでの講義教材」だと、自分でも感心しながら学生に渡すデータをひとつひとつを仕上げていっている。
何か最近は哲学的なことばかり書いているような気もするのだが…

まぁ、来年は研究と学部立ち上げで、中国南京の南広学院大学での時間がが半分以上になるもので、さすがに身体がもたないと、引き継ぎとともに、もう何年もやってきたイベント、地域とのコンテンツ制作を、「すみませんが」と断っていっている。
それでも「どうにか少しでもいいからつづけてほしい」と頼まれれば、最後には「できる範囲で」と答えてしまっている自分がいる。

いや、頼まれるということは、本当に「しあわせ」なことなのだ。
いつだったか読んだ本の中に、たしか三つの「しあわせ」というのが書いてあった。
記憶でしかないので正確ではないと思うのだが、その三つとは「してもらうしあわせ」「できるしあわせ」「してあげるしあわせ」だったと思う。

そう、生まれたときは、親やたくさんの人たちから「してもらうしあわせ」を受け取ってきた。
ものごころがつくと、自転車に乗れた。ギターが弾けるようになった。曲が作れた。マンガが作れたなどなど、「できるしあわせ」が自分の中に湧き出てきた。
そして、「できるしあわせ」によって、そのことで喜んでもらえることができたとき、「してあげるしあわせ」というものを少しずつ感じ始めていた。

歳を取るごとに、その「してあげるしあわせ」が、人が求めてくれるしあわせが、頼ってくれるしあわせが、自分のしていることで、成長していくしあわせが、いつしか生きがいになっていると感じている。

たしかに忙しい。
たしかに身体には限界がある。
たしかに「きつい」と感じる日々がある。
たしかに「苦しい」と立ち止まりたいと思うこともある。

でも、それが「生きているしあわせ」だと本当に思っている。

さぁ、もうひと踏ん張り雑用を済ませたら、宇都宮の大学から東京へ帰るか。

明後日には中国の大学のキャンパスの中にいる。

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