「哲学」は「生きる」を考える軸

2019-6-28

 

「時間がない」
最近、自分でよく口にする言葉だ。
やりたいことが山ほどある。
やらなければならないことが山ほどある。
日々、それがどんどん増えてきている。

「時間がない」とは、命の時間がないということだ。
生きているものは必ず死ぬ。
死があるから、生は存在する。
有限の時間として存在する。
だから「時間は命」だということだ。
60歳を過ぎた自分にはもう「時間がない」。

見極めなくてはならない。
会議ひとつにとっても、議論しあい意味のある会議と、テンプレートの上で「会議をやった」ことを目的とするくだらない会議がある。
もう、くだらないことに命の時間を使うわけにはいかない。

今、世の中はかって人間が経験したことのない大産業革命が始まっている。
テクノロジーという道具が、とくにAIという道具が人間社会を根底から変えてしまうことになる。

弁護士、銀行員、不動産ブローカー、会計士…
今までエリートと呼ばれた職業が消えていく。

おもしろいもので、テクノロジーが人間の労働をこなせるようになることで、人間は、「人間として生きる」とはどういうことなのか、そう、考え始めている。

かって日本の高度経済成長期には、「エコノミックアニマル」と揶揄され、「24時間戦えますか」のCMが流行、機械のように働きつづけていた。

その機械のように働きつづけた動力が、今は本物の機械が24時間働き続けてくれる。
その機械を作ったのはもちろん人間である。

人間は、「こういったものを生み出せば便利になる」と想像し、その想像を形にしたいと考え、そして研究し形にしてきた。
つまりは人間とは、想像し、それを形にすることで発展し、今の世の中を築き、そしてさらに進化を遂げようとしている。

進化の過程を考えると、ぼくは人間が人間として生きるとは、「想像」だと思っている。
想像はAIを含めたテクノロジー自体ではまず生み出すことはできない。

では「想像」が「人間として生きる」ことなのだろうか。
人は便利になれば「しあわせ」になれるのだろうか。

「しあわせ」とはいったい何なのだろうか。
今の時代、本当に「しあわせ」に向かって人間は歩んでいるのだろうか。

もちろん答えはないし、人は「個」であり、「個」の数だけ「しあわせ」の定義は違う。

 

残された命の時間、やりたいこと、やらなければならないことが日々増えていく毎日。
それが果たして「しあわせ」なのかはもちろんわからない。
だが、「生きがい」は間違いなくある。
考えることは哲学につながり、今、ここで生きている意味を説き明かす。
「哲学」を持って自分は今、生きているのかを自分に問う。

大丈夫だ。

今、こうやって仕事の合間に書くブログも「哲学」を持って書けている。
そう、「哲学」は「生きる」を考える大事な自分の軸となっている。

※今月も中国へ行き、北京では久しぶりに天安門を歩いてみた。
そのときの写真も少しアップしておく。

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