sixty

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2017年2月27日

60歳になった。
不思議な感覚なのだ。
60歳の還暦といえば、定年と言われた年齢であり、つまりは老後の生活の歳なはずである。
だがまだまだやらなければならなっことはあるし、やりたいことだって山ほどある。
今は間違いなく20代のころより忙しいし、やりたいことなど、年齢とともに倍々で増えていくばかりでここまで来ている。

40代のときに、「これから書きたいこと」を書き出してみたことがある。
当時、ボクサーを追いかけ、格闘家を追いかけ、琉球武術を追いかけ、中国武術を追いかけ、野球、サッカーなどなど、当時飛び回っていた取材の中から書きたいことを書き出し、まだまだ「書くために」「知るために」やらなければならない取材についても書き出してみたというわけだ。
これを取材して書くには何年かかるだろかと、大まかな年数とともに書き出していくと、40代のそのときで、すべて書くまでに100歳を遙かに超えていた。

考えてみれば、たとえば武術の菩提達摩を調べて書くには3年かかるなどと40代のときに言っていたが、達摩の出生の地、インドのケーララにさえまだ取材に行けていないし、時間だってそのときからもう20年近くも経っている。
それでも頭のかたすみにはそのことがあり、8年前には嵩山少林寺にある、達摩が面壁九年、壁に向かって九年座禅をし続け修行した洞窟にも行ってきている。
そのとき、達摩を調べている中で気になっていた、玄奘三蔵の生家にも行ってきたこともあり、達摩とともに、玄奘のことも書いてみたくなり、現在、調べていることがある。
つまり取材をすればするほど、書きたいものは必ず増えていく法則というものがあるわけだ。
年齢を重ねるということは、やりたいこと、やらなければならないことが無限に膨張しつづける、まぁ、人間の生きる中で「知りたい」「書きたい」という欲求は宇宙のようなものかもしれない。

すると「定年」とは何なのだろうか。
ぼくは、ずっとフリーという立場でやってきたことから、「定年」という観念は持っていない。
そこで考えてみた。
たとえば「稼ぐ」と「貰う」で考えてみる。
「貰う」人は、時給で仕事をしている人だと思っている。
たとえ形になっていなくても、その時間を働ければちゃんと給料でお金が貰える人である。
「稼ぐ」人は、たとえ100時間時間を費やしても、形に出来ていなければ、そこにお金が発生することがない。

つまり極端に言えば、「貰う」人は時給で生きる人であり、「稼ぐ」人は結果でお金を稼いで生きる人だということだ。

そう考えると、定年は「貰う」人の定義であり、「稼ぐ」人にはまったく関係のないことだとも言える。

ともあれ、日本人の寿命は、2007年生まれの、現在10歳のこどもたちにおいては、ついに人口の半数までが100歳まで生きると言われている。
そうなれば、60歳などまだまだ人生の半ばでしかない。

人は死ぬまで「知りたい」と、「成長したい」と生きることが幸せだと思っている。
100歳まで生きるとなれば、経験を元にして、時代のスキルを何度も学びながらの生き方になってくるはずだ。
そのとき大学という場所が、「知りたい」と、「成長したい」の大きな意味を持ってくるはずだ。
40代、50代、60代、70代…100歳で大学で学ぶ時代。

そうなると、大学でもまだまだやらなければならないことがいろいろあるというわけだ。

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